♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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ーー辺鄙を極める賢者の島にも、四季はあるらしい。
オンボロ寮の古めかしい扉を開けて外に出ると、微風が身体を撫でる。肌寒さの中に微かな温もりが混じっていることに気づいてしまえば、春の予感を感じずにはいられなかった。
それに幸い、今日は月がよく見えるほどに天気が良い。私の恋人に言わせれば、絶好の山登り日和である、とでも答えるに違いない。
出掛ける旨は同じ寮に住う相棒にも伝え、「行ってきます」の挨拶も済ませた。肝心のグリムはゴーストと神経衰弱に勤しんでいて返事するどころではなかったらしく、手の代わりに尻尾を振られてしまった。カードを記憶するのに忙しくとも見送るぐらいの余裕はあるだろうに。ごちりながら扉の鍵を施錠し、振り返る。
「こんばんは、ユウさん」
一瞬にして目の前にそびえた壁。怪奇現象もかくやという状況に肩を揺らし、弾かれたように上を向くと壁ーー改め彼、ジェイド先輩はいた。
皺一つ無くぴっちりと着こなされた登山ウェアと、広い背中に背負われたリュックは、まさに準備万端といった装いだ。まだ待ち合わせの時間には早かったはずだが。そう告げれば、先輩の瞳は綺麗な弧を描いた。
「ええ、存じていますよ。ですがユウさんと山に登れると思うと待ちきれず、気づけばここまで来ていました」
ポワポワと周りに花でも浮かんで見えるような笑顔だ。本心を見せたがらない彼にしては、珍しく素直な気持ちなのだろう。大好きな想い人にそんなことを言われて嬉しくないはずがない。思わず表情筋が緩んでしまったが、
「そういう貴女こそ、時計を読み間違えましたか?」
問い掛けはどうもわざとらしく、口を尖らせる。
「……そうかもしれません」
「ふふっ、ユウさんはそそっかしいんですね」
やや高めに鼻を抜ける笑い声は、先輩が上機嫌な証拠。機嫌が良いのは結構だが、からかいモードに入られては厄介である。
私は彼の胸に当てている手とは反対の手を奪い、ぐい、と引っ張った。「おやおや」と微塵も困ってなさそうな声を聞き流して、やや強引に歩き始める。
オンボロ寮から学園の敷地内にある山まではまあまあ距離がある。ちょうど植物園の前に差し掛かった時だ。歩きながらこちらを見下げる彼が、腹に一物抱えているような、それでいて据わりの悪そうな表情を浮かべていることに私は気がついた。先ほどの上機嫌は何処へやら、といった様子だ。
どうかしましたか、と首を傾げてみると、ジェイド先輩はふう、と小さく息を吐いた。
「捨ててなかったんですね」
顔よりやや下の方にずれた視線。そこにはいつか彼に貰ったアウトドアウェアを纏った身体しかない。その二点と言葉とを結びつけ、言わんとしていることを察する。
「もちろんです! ちゃんと大事にしてますよ」
一歩前に進み出て、くるりと一周して見せる。貰った時から変わらない、ほつれも何もない新品状態だ。もともと捨てるつもりなんて無かったが、今となってはより手放せるわけがなかった。恋人との大事な思い出の一部なのだから、当然である。
「捨てていたら新しいものを用意して差し上げたのに。残念でしたね」
「私はこれがお気に入りだから良いんです。それに……」
言い淀んでいると、ジェイド先輩が目でその先を促す。
「今度買うなら、一緒に選びに行きたいです」
私なりの遠回しなデートのおねだりだった。言ってから気恥ずかしさが襲い、えへへ、と頰を掻いて誤魔化す。いつになっても返ってこない反応に居た堪れず、先輩を盗み見る。怖いぐらいの真顔は、上がった口角が凍ってしまうほどの迫力だ。
調子に乗りすぎただろうか、と心配が脳裏を掠めるのと同時だった。腰に巻き付いた腕に抵抗する間も無く引き寄せられ、整った顔が眼前まで近づいてくる。訪れる行為を予期した私は、寸でのところで彼の頬を両手で挟んだ。捉えられたジェイド先輩は目を丸くし、ゆっくりと瞬きをする。
「はんへひゃまふるんえすは?」
「や、山登りどころじゃなくなってしまいます」
思いを通わせあった日もそうだが、先輩はキスが大層お上手で。あれから幾度と交わし精度を高めていった結果、今では骨抜きどころかスライムのようにでろでろに溶かされてしまうほどになった。これから全身を酷使するというのに、そんな風にされてしまったら堪らない。私は遠足前の小学生よろしく寝不足に苛まれるぐらいには、山登りデートをする今日この日を楽しみにしていたのだから。
だが先輩としては不服だったらしい。獣人属でもない彼の頭に、犬の耳がしおらしく垂れ下がる幻が見えてしまい、思わず狼狽る。
「そんな顔をしてもダメなものはダメです」
回された腕を解き、仁王立ちする。今日ばかりは流されるわけにはいけないのだ。
「僕はただ可愛らしいことをおっしゃる恋人に口付けたかっただけなのに……冷たくあしらわれてしまって悲しいです。しくしく」
袖を摘んでおよよ、と泣き真似をするジェイド先輩。このまま彼のペースに呑まれていたら夜が明けてしまう。
「もう、置いて行っちゃいますよ!」
背を向けてお構い無しにずんずん前へと歩く。が、ジェイド先輩は一瞬にして真横に並ぶと、私の手を取って指を絡めた。
「山を降りたら好きなだけしてもいい、と解釈しても?」
与えられたシンキングタイムはおよそ一秒も無かった。無言は肯定と取られ、先輩は「ありがとうございます」と満足げに声を踊らせる。
恋人といえど、まだまだ彼には勝てない。悲しいことに勝てる気すらしないのだが。私は己の詰めの甘さを悔いるのだった。
*
慣れない登山も、同じ山で二度目ともなれば、そこまで苦ではない。
それに最初とは決定的に違うこと。ジェイド先輩がすぐ隣に居て、手を繋いでくれている。その事実だけで山の頂上どころか天まで昇れそうなほどの気力がみなぎる。
だから繋いだ手をブラブラと揺らしてしまうのも、気持ちが高揚している今は致し方ない。
「今、初めてペットを散歩される方の気持ちが分かった気がします」
「待って下さい。よりによって恋人をペット扱いですか?」
「お気に召しませんでしたか? 僕は愛らしいペットさんとお散歩できて実に光栄ですよ。何でしたら〝ご主人様〟と呼んで下さっても構いませんが?」
「似合いすぎて洒落にならないので遠慮します」
「ふふふ、貴女に褒められると照れてしまいますね」
「一応訂正しときますけど、褒めてないですからね」
軽口を叩きながらの登山はあっという間で。辿り着いた頂上は、緑が増えてきていることを除けば依然と変わりない様子だった。あとは、空に輝く星の明るさが増しているぐらいだろうか。仰いだ私の目には、あの日の何倍も、何十倍も綺麗に映って見える。何故、と考えるまでもない。右手に繋いだ温もりがそう思わせるのだ。
「山に登るのは、昼間でも良かったんです」
ぽつり、と水面に水滴が落ちるような呟きだった。私は空から隣りの彼に視線を映す。
「でも僕は、貴女とまたこの夜空が見たかった」
向けられた眼差しは、涙がこみ上げてきそうなぐらいに温かくて。「私もですよ」と返事をする声は少し震えていたかもしれない。同じ気持ちでいてくれたことが何よりも嬉しい。心の底からふつふつと込み上げてくる幸せを噛み締めていると、ジェイド先輩は「つかぬことをお聞きしますが」と表情を少し引き締めた。
「ユウさんはこの山を登る前にも、登山経験はあるんですか?」
「ありますよ。といってもピクニック程度の気軽なものですけどね」
「なるほど。やはり〝ここ〟とは違うものなんです?」
「……そうですね」
彼の言うここ、とは単に他の山を指すものではない。世界すら超えた場所を指していることは、興味深げな先輩の顔を見て何となく分かった。
この山で目にする木も草花も、以前いた世界と同じであろうものはある。だが、魔法薬に用いる薬草や魔力でしか育たない花など、魔法の無い世界では存在し得ないもののほうが圧倒的に多い。日々の授業でも感じていたことだったが、山に詳しいジェイド先輩の説明を聞いて、より違いを思い知らされていた。
「似てますけど、やっぱり違うみたいです」
はは、と声ばかりの笑いが溢れた。上手く笑えていないのが自分でも分かり、俯く。せっかくの彼との楽しい時間を壊したくは無いのに。
「ユウさんは……元の世界に、帰りたいですか?」
ジェイド先輩から投げ掛けられた問いは、いつかは決めなければいけないことだった。無意識にグッと拳を握り締める。
「帰りたくない、と言えば嘘になりますね」
煮え切らない言葉しか吐けない自分に嫌気が差す。
言い訳がましいが、いかんせんこの世界に来るのは突然過ぎた。かと言って事前に「異世界に行きますよ」と提案されて、「はいそうですか」とはならないだろうが。
元の世界には十六年の人生で築いてきた自分の世界があって、そこには親が、友人がいる。″何処にでもいるような高校生〟の私も在る。それらは軽々しく手放せるものではない。
しかし、幸か不幸かこの世界にも手放し難いものが出来てしまった。一年にも満たない期間だが、此処でしか味わえない楽しいこと、辛いこと。学園で出来たかけがえのない友人と、何よりーー彼が在る。
どちらの世界を選べと言われても、簡単に結論は出せない。時間の長さこそ異なれど、どれもこれも今の自分を構成する一部ということには違いないのだから。
「答えを出すのにもう少しだけ、時間が欲しい……です」
情けないことに、堂々と先輩の方を見て言うことは出来なかった。口先だけで「帰る気はない」と断言することも出来ただろうが、私には無理だったようだ。心を傾けてしまったからこそ、彼に不誠実なことは言えなかった。そもそも洞察力がずば抜けているジェイド先輩の前では、その場凌ぎの言葉など何の意味も成さないだろう。
飄々とした彼のことだ。真面目に答えたところで冗談めかして誤魔化されてしまうかも。それはそれで気は楽だが、寂しい気もする。
「待ちますよ、いつまでも」
冗談にしては鋭く、重たい響きだ。ゆっくり視線を上げると、色彩の異なる双眸に捕われる。
「その代わり……ユウさんが決めかねている間に、僕は貴女に沢山のものを差し上げます。病みつきになってしまうほどの美味しい料理も、此処で生きていく為の知識も立ち回り方も、貴女が望む以上の甘い言葉も。僕の全てを使って、ユウさんの身も心も満たしてみせますよ。
帰れるようになった頃には、雁字搦めになって身動きが取れなくなってしまうかもしれませんね」
緩く結んだ手を、口元に当てて笑む。お得意の悪巧みをしている時のそれだ。
「怖い……ですか?」
ふるふると首を横に振る。彼から与えられる全てに期待をしてしまっている自分の中には、もう既に迷う心なんて無いのかもしれない。
それに、怖いか? と訊く彼の瞳こそ揺れていて。ずるいなぁ。そんなのを見てしまったら、どうしたって愛おしくなってしまう。私は真正面からギュッと抱き着くと、みぞおちに額を押し付ける。
「大丈夫です。離れません」
彼の身体に染み込ませるように、私が思っていることそのままを流し込むように、強く言い聞かせる。一ミリの不安も残さず、確かな愛をもって大きな身体を淘汰したかった。
結局、私はジェイド先輩に嘘をついてしまったのだ。元の世界を渇望するなら、抱いてはいけない欲をこれ程までに膨らませてしまっているのだから。
恐らく側から見たら、青春に酔い潰れた十六歳の一時的な気の迷いだ、と嘲られるのだろう。何十年後も二人が同じ気持ちでいられる保障なんて、この世の何処にも無いのだ。分かっていながら振り回される自分は、馬鹿だろうか、愚かだろうか。でも私は、どんな結末を迎えたとしても彼との出会いを、過ごした時間を後悔することは無い。絶対。だからきっと、間違ってない。
「いつの間にそのように頼もしくなられたんです?」
心地よい低音が鼓膜をくすぐる。後頭部を撫でる手はまるで慈しむようで、心地良さに瞼を閉めて感じ入った。
「誰かさんに散々、心臓を鍛えられましたから」
「おや、一体どこの何方でしょう。お礼をしないといけませんね」
皮肉を白々しく躱され、恨めしい目で見上げる。相変わらず先輩はにっこりと笑っていた。
「ユウさんは僕を焚きつけるのがお上手だ」
顔をすっぽりと隠してしまうほど大きな手が頬を覆う。火照った頬にはほんのり冷たく感じられた。彼に優しく導かれるがまま、熱を分け合うように互いのおでこをくっつける。
「今度は止めなくていいんですか?」
「……止めたらやめてくれます?」
「ええ、もちろん」
ーーやめませんよ。悪戯な囁きと同時に、細められた蜂蜜色の瞳が近づく。捕食されるのを心待ちにしてしまう浅ましさを、今だけは許してほしい。もたげられた首に両腕を回し、引き寄せる。そうすれば声を聞くまでもなく、ジェイド先輩が微笑んだのが唇から直に伝わった。
薄らと地に浮かぶ影は一つに溶け合い、降り注ぐ星々だけがそっと見守っていた。
オンボロ寮の古めかしい扉を開けて外に出ると、微風が身体を撫でる。肌寒さの中に微かな温もりが混じっていることに気づいてしまえば、春の予感を感じずにはいられなかった。
それに幸い、今日は月がよく見えるほどに天気が良い。私の恋人に言わせれば、絶好の山登り日和である、とでも答えるに違いない。
出掛ける旨は同じ寮に住う相棒にも伝え、「行ってきます」の挨拶も済ませた。肝心のグリムはゴーストと神経衰弱に勤しんでいて返事するどころではなかったらしく、手の代わりに尻尾を振られてしまった。カードを記憶するのに忙しくとも見送るぐらいの余裕はあるだろうに。ごちりながら扉の鍵を施錠し、振り返る。
「こんばんは、ユウさん」
一瞬にして目の前にそびえた壁。怪奇現象もかくやという状況に肩を揺らし、弾かれたように上を向くと壁ーー改め彼、ジェイド先輩はいた。
皺一つ無くぴっちりと着こなされた登山ウェアと、広い背中に背負われたリュックは、まさに準備万端といった装いだ。まだ待ち合わせの時間には早かったはずだが。そう告げれば、先輩の瞳は綺麗な弧を描いた。
「ええ、存じていますよ。ですがユウさんと山に登れると思うと待ちきれず、気づけばここまで来ていました」
ポワポワと周りに花でも浮かんで見えるような笑顔だ。本心を見せたがらない彼にしては、珍しく素直な気持ちなのだろう。大好きな想い人にそんなことを言われて嬉しくないはずがない。思わず表情筋が緩んでしまったが、
「そういう貴女こそ、時計を読み間違えましたか?」
問い掛けはどうもわざとらしく、口を尖らせる。
「……そうかもしれません」
「ふふっ、ユウさんはそそっかしいんですね」
やや高めに鼻を抜ける笑い声は、先輩が上機嫌な証拠。機嫌が良いのは結構だが、からかいモードに入られては厄介である。
私は彼の胸に当てている手とは反対の手を奪い、ぐい、と引っ張った。「おやおや」と微塵も困ってなさそうな声を聞き流して、やや強引に歩き始める。
オンボロ寮から学園の敷地内にある山まではまあまあ距離がある。ちょうど植物園の前に差し掛かった時だ。歩きながらこちらを見下げる彼が、腹に一物抱えているような、それでいて据わりの悪そうな表情を浮かべていることに私は気がついた。先ほどの上機嫌は何処へやら、といった様子だ。
どうかしましたか、と首を傾げてみると、ジェイド先輩はふう、と小さく息を吐いた。
「捨ててなかったんですね」
顔よりやや下の方にずれた視線。そこにはいつか彼に貰ったアウトドアウェアを纏った身体しかない。その二点と言葉とを結びつけ、言わんとしていることを察する。
「もちろんです! ちゃんと大事にしてますよ」
一歩前に進み出て、くるりと一周して見せる。貰った時から変わらない、ほつれも何もない新品状態だ。もともと捨てるつもりなんて無かったが、今となってはより手放せるわけがなかった。恋人との大事な思い出の一部なのだから、当然である。
「捨てていたら新しいものを用意して差し上げたのに。残念でしたね」
「私はこれがお気に入りだから良いんです。それに……」
言い淀んでいると、ジェイド先輩が目でその先を促す。
「今度買うなら、一緒に選びに行きたいです」
私なりの遠回しなデートのおねだりだった。言ってから気恥ずかしさが襲い、えへへ、と頰を掻いて誤魔化す。いつになっても返ってこない反応に居た堪れず、先輩を盗み見る。怖いぐらいの真顔は、上がった口角が凍ってしまうほどの迫力だ。
調子に乗りすぎただろうか、と心配が脳裏を掠めるのと同時だった。腰に巻き付いた腕に抵抗する間も無く引き寄せられ、整った顔が眼前まで近づいてくる。訪れる行為を予期した私は、寸でのところで彼の頬を両手で挟んだ。捉えられたジェイド先輩は目を丸くし、ゆっくりと瞬きをする。
「はんへひゃまふるんえすは?」
「や、山登りどころじゃなくなってしまいます」
思いを通わせあった日もそうだが、先輩はキスが大層お上手で。あれから幾度と交わし精度を高めていった結果、今では骨抜きどころかスライムのようにでろでろに溶かされてしまうほどになった。これから全身を酷使するというのに、そんな風にされてしまったら堪らない。私は遠足前の小学生よろしく寝不足に苛まれるぐらいには、山登りデートをする今日この日を楽しみにしていたのだから。
だが先輩としては不服だったらしい。獣人属でもない彼の頭に、犬の耳がしおらしく垂れ下がる幻が見えてしまい、思わず狼狽る。
「そんな顔をしてもダメなものはダメです」
回された腕を解き、仁王立ちする。今日ばかりは流されるわけにはいけないのだ。
「僕はただ可愛らしいことをおっしゃる恋人に口付けたかっただけなのに……冷たくあしらわれてしまって悲しいです。しくしく」
袖を摘んでおよよ、と泣き真似をするジェイド先輩。このまま彼のペースに呑まれていたら夜が明けてしまう。
「もう、置いて行っちゃいますよ!」
背を向けてお構い無しにずんずん前へと歩く。が、ジェイド先輩は一瞬にして真横に並ぶと、私の手を取って指を絡めた。
「山を降りたら好きなだけしてもいい、と解釈しても?」
与えられたシンキングタイムはおよそ一秒も無かった。無言は肯定と取られ、先輩は「ありがとうございます」と満足げに声を踊らせる。
恋人といえど、まだまだ彼には勝てない。悲しいことに勝てる気すらしないのだが。私は己の詰めの甘さを悔いるのだった。
*
慣れない登山も、同じ山で二度目ともなれば、そこまで苦ではない。
それに最初とは決定的に違うこと。ジェイド先輩がすぐ隣に居て、手を繋いでくれている。その事実だけで山の頂上どころか天まで昇れそうなほどの気力がみなぎる。
だから繋いだ手をブラブラと揺らしてしまうのも、気持ちが高揚している今は致し方ない。
「今、初めてペットを散歩される方の気持ちが分かった気がします」
「待って下さい。よりによって恋人をペット扱いですか?」
「お気に召しませんでしたか? 僕は愛らしいペットさんとお散歩できて実に光栄ですよ。何でしたら〝ご主人様〟と呼んで下さっても構いませんが?」
「似合いすぎて洒落にならないので遠慮します」
「ふふふ、貴女に褒められると照れてしまいますね」
「一応訂正しときますけど、褒めてないですからね」
軽口を叩きながらの登山はあっという間で。辿り着いた頂上は、緑が増えてきていることを除けば依然と変わりない様子だった。あとは、空に輝く星の明るさが増しているぐらいだろうか。仰いだ私の目には、あの日の何倍も、何十倍も綺麗に映って見える。何故、と考えるまでもない。右手に繋いだ温もりがそう思わせるのだ。
「山に登るのは、昼間でも良かったんです」
ぽつり、と水面に水滴が落ちるような呟きだった。私は空から隣りの彼に視線を映す。
「でも僕は、貴女とまたこの夜空が見たかった」
向けられた眼差しは、涙がこみ上げてきそうなぐらいに温かくて。「私もですよ」と返事をする声は少し震えていたかもしれない。同じ気持ちでいてくれたことが何よりも嬉しい。心の底からふつふつと込み上げてくる幸せを噛み締めていると、ジェイド先輩は「つかぬことをお聞きしますが」と表情を少し引き締めた。
「ユウさんはこの山を登る前にも、登山経験はあるんですか?」
「ありますよ。といってもピクニック程度の気軽なものですけどね」
「なるほど。やはり〝ここ〟とは違うものなんです?」
「……そうですね」
彼の言うここ、とは単に他の山を指すものではない。世界すら超えた場所を指していることは、興味深げな先輩の顔を見て何となく分かった。
この山で目にする木も草花も、以前いた世界と同じであろうものはある。だが、魔法薬に用いる薬草や魔力でしか育たない花など、魔法の無い世界では存在し得ないもののほうが圧倒的に多い。日々の授業でも感じていたことだったが、山に詳しいジェイド先輩の説明を聞いて、より違いを思い知らされていた。
「似てますけど、やっぱり違うみたいです」
はは、と声ばかりの笑いが溢れた。上手く笑えていないのが自分でも分かり、俯く。せっかくの彼との楽しい時間を壊したくは無いのに。
「ユウさんは……元の世界に、帰りたいですか?」
ジェイド先輩から投げ掛けられた問いは、いつかは決めなければいけないことだった。無意識にグッと拳を握り締める。
「帰りたくない、と言えば嘘になりますね」
煮え切らない言葉しか吐けない自分に嫌気が差す。
言い訳がましいが、いかんせんこの世界に来るのは突然過ぎた。かと言って事前に「異世界に行きますよ」と提案されて、「はいそうですか」とはならないだろうが。
元の世界には十六年の人生で築いてきた自分の世界があって、そこには親が、友人がいる。″何処にでもいるような高校生〟の私も在る。それらは軽々しく手放せるものではない。
しかし、幸か不幸かこの世界にも手放し難いものが出来てしまった。一年にも満たない期間だが、此処でしか味わえない楽しいこと、辛いこと。学園で出来たかけがえのない友人と、何よりーー彼が在る。
どちらの世界を選べと言われても、簡単に結論は出せない。時間の長さこそ異なれど、どれもこれも今の自分を構成する一部ということには違いないのだから。
「答えを出すのにもう少しだけ、時間が欲しい……です」
情けないことに、堂々と先輩の方を見て言うことは出来なかった。口先だけで「帰る気はない」と断言することも出来ただろうが、私には無理だったようだ。心を傾けてしまったからこそ、彼に不誠実なことは言えなかった。そもそも洞察力がずば抜けているジェイド先輩の前では、その場凌ぎの言葉など何の意味も成さないだろう。
飄々とした彼のことだ。真面目に答えたところで冗談めかして誤魔化されてしまうかも。それはそれで気は楽だが、寂しい気もする。
「待ちますよ、いつまでも」
冗談にしては鋭く、重たい響きだ。ゆっくり視線を上げると、色彩の異なる双眸に捕われる。
「その代わり……ユウさんが決めかねている間に、僕は貴女に沢山のものを差し上げます。病みつきになってしまうほどの美味しい料理も、此処で生きていく為の知識も立ち回り方も、貴女が望む以上の甘い言葉も。僕の全てを使って、ユウさんの身も心も満たしてみせますよ。
帰れるようになった頃には、雁字搦めになって身動きが取れなくなってしまうかもしれませんね」
緩く結んだ手を、口元に当てて笑む。お得意の悪巧みをしている時のそれだ。
「怖い……ですか?」
ふるふると首を横に振る。彼から与えられる全てに期待をしてしまっている自分の中には、もう既に迷う心なんて無いのかもしれない。
それに、怖いか? と訊く彼の瞳こそ揺れていて。ずるいなぁ。そんなのを見てしまったら、どうしたって愛おしくなってしまう。私は真正面からギュッと抱き着くと、みぞおちに額を押し付ける。
「大丈夫です。離れません」
彼の身体に染み込ませるように、私が思っていることそのままを流し込むように、強く言い聞かせる。一ミリの不安も残さず、確かな愛をもって大きな身体を淘汰したかった。
結局、私はジェイド先輩に嘘をついてしまったのだ。元の世界を渇望するなら、抱いてはいけない欲をこれ程までに膨らませてしまっているのだから。
恐らく側から見たら、青春に酔い潰れた十六歳の一時的な気の迷いだ、と嘲られるのだろう。何十年後も二人が同じ気持ちでいられる保障なんて、この世の何処にも無いのだ。分かっていながら振り回される自分は、馬鹿だろうか、愚かだろうか。でも私は、どんな結末を迎えたとしても彼との出会いを、過ごした時間を後悔することは無い。絶対。だからきっと、間違ってない。
「いつの間にそのように頼もしくなられたんです?」
心地よい低音が鼓膜をくすぐる。後頭部を撫でる手はまるで慈しむようで、心地良さに瞼を閉めて感じ入った。
「誰かさんに散々、心臓を鍛えられましたから」
「おや、一体どこの何方でしょう。お礼をしないといけませんね」
皮肉を白々しく躱され、恨めしい目で見上げる。相変わらず先輩はにっこりと笑っていた。
「ユウさんは僕を焚きつけるのがお上手だ」
顔をすっぽりと隠してしまうほど大きな手が頬を覆う。火照った頬にはほんのり冷たく感じられた。彼に優しく導かれるがまま、熱を分け合うように互いのおでこをくっつける。
「今度は止めなくていいんですか?」
「……止めたらやめてくれます?」
「ええ、もちろん」
ーーやめませんよ。悪戯な囁きと同時に、細められた蜂蜜色の瞳が近づく。捕食されるのを心待ちにしてしまう浅ましさを、今だけは許してほしい。もたげられた首に両腕を回し、引き寄せる。そうすれば声を聞くまでもなく、ジェイド先輩が微笑んだのが唇から直に伝わった。
薄らと地に浮かぶ影は一つに溶け合い、降り注ぐ星々だけがそっと見守っていた。