♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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「失礼します」
コンコン、と彼は眼前にそびえる豪奢な扉を軽快にノックした。その向こうから返事が聞こえると、躊躇いなく扉を開け身体を滑り込ませる。
部屋の奥には、この学園の長であるクロウリーが鎮座していた。その隣には、教師の一人であるクルーウェルが厳格な雰囲気を醸しながら立っている。
学園でも指折りの地位を持つ二人を目にしても、彼は凪いだ姿勢を乱さずに歩み寄る。むしろ立場が幾分も上であるはずの学園長が、焦った様子で彼を見た。
「ええと、君は……ジェイド・リーチくん、ですよね?」
「はい。ジェイドです」
名前を呼ばれ、ジェイドはにっこりと笑ってみせる。
ーーきっちりと着こなされた制服、丁寧な口調、凛々しい切れ長の瞳。紛れもない彼であることが分かると、学園長は目を泳がせた。
と、いうのも。昨晩グリムの話を聞いた学園長は、目の前の彼ではなく彼の片割れのほうーーフロイドを呼んだつもりだったのだ。それが、何がどうなってこちらのリーチになったのか。クエスチョンマークを頭上に並べていると、側に控えていたクルーウェルが口を開いた。
「彼は私が呼びました。……とある仔犬から報せがありまして」
「報せ?」
学園長のほうを見て頷くと、クルーウェルは報せの内容を説明する。
ーー木の上で"遊んでいた"監督生が、ジェイドのせいで落ちてしまったこと。しかし、それは監督生が被らせた魔法薬が作用してのこと。
ジェイドは真顔で二人の遣り取りに耳を傾ける。その内容は事実でありながら、一番重要な部分が抜け落ち、改竄されているであろうことに彼は気付いていた。何なら話を聞く前から予想などついていたのだが。
「ーーというわけです」
「なるほど。魔法薬が……」
話を一通り聞き終えた学園長は、まるで初耳だとでもいう様子で驚く。クルーウェルは「話を聞いていたのでは?」と訝しげに目を細めた。学園長はギクリと肩を揺らし「いやですねえ。もちろん知っていましたとも」とぎこちなく笑う。
"監督生が木から落ちたこと"や"それにフロイドが関わっていること"は確かに学園長も把握するところだった。その証拠に、監督生のほうは今朝方クルーウェルに様子を見に行かせて無事を確認した。ちなみに命じた学園長はというと、真っ先に木の無事を確認していた。
一教師としてどうなのか? という至極真っ当な疑問は、厄介事とあらば生徒に押しつけがちなこの学園長に求めてはいけない。
クルーウェルの話を含め、学園長は一連の出来事を頭の中で整理する。程なくして、事なかれ主義且つ利己主義の筆頭である彼は『紆余曲折あれ、誰も大きな害を被ることは無かった』という結論に至った。
学園長は机に頬杖をつくと、口角を上げて目の前に立つジェイドを見る。
「この件は、不運な"事故"ということになりますねえ」
告げられた言葉に、ジェイドは鋭い眦を吊り上げた。
事故として処理されるーー不思議なことに、いつかジェイドが突っぱねた依頼通りに事が運んでいるではないか。彼は瞼を伏せ、冷ややかに微笑む。
ジェイド・リーチという男は、予定調和というものが一等嫌いであった。さらに、近頃彼の心中を乱して止まないユウが関わっているとなれば、偶然の事象として流すことはまかり通るはずもなく。
「ではお咎めは無しということで! 私、やさしーー」
「いいえ」
さぁ円満解決だ、と合わせようとした学園長の両手は開いたまま固まった。
「これは僕の"過失"です。どうか、罰を」
胸に手を当て、頭を下げるジェイド。
掴み所のない男の殊勝な様に、クルーウェルは「ほう」と面白いものを見る目を向ける。学園長は"正気ですか?"とでも言いたげに、仮面の向こうで光る目を丸くした。
「それならちょうどいい。植物園の手入れに人手が欲しかったところだ」
クルーウェルは含み笑いを堪えながら、お望み通りの罰を提示する。ジェイドは嫌がるどころか、異論はないとばかりに笑顔で頷いた。
「どうしますか? 学園長」
「まぁ……リーチくんたっての希望ですし? 別にいいんじゃないでしょうか。まさか罰が欲しいだなんて私にはちょっと、いやかなり理解出来ませんけど」
嘲りまじりにぶつぶつと言い続ける学園長を尻目に、彼は「ありがとうございます」と腰を折る。
すると、話の終わるタイミングを見計ったかのように始業の鐘が鳴り響いた。ジェイドは挨拶もそこそこにし、学生の本分である教室に向かうべく二人に背を向ける。
「リーチ。じゃれ合いも程々にしておけよ」
嗜めるような声が、背中に投げ掛けられた。受け止めた彼は視線だけで声のした方へ振り返る。その瞳は、餌に飢えた捕食者のように底光りしていた。
「ご心配には及びませんよ。身の振り方を教えて差し上げるだけですから」
ーーオクタヴィネル寮は、慈悲の精神を重じていますので。
ジェイドは優等生らしい笑顔を作って見せた。相変わらずの食えない彼の態度に、クルーウェルはため息を吐いて手で払う。
「ちょっと、一体何の話ですか」
戸惑う学園長を無視して扉は閉じられた。
*
始業前ともあり、人通りの少なくなっている廊下。ジェイドは落ち着いた歩調で歩いていると、偶然か必然か、彼が渇望していた人物と鉢合う。その人物ーー二日前にモストロ・ラウンジで相談をしていた男子生徒は、壁に背を預けて中庭を眺めていたようだった。
歩いてきた彼に気づくと、男はニタリと卑しい笑みを浮かべた。ジェイドは不自然なまでに人の良い笑顔で返す。
「ちょうど貴方に会いたいと思っていたところです」
「それは光栄だな。……ああ、そういえば監督生が木から落ちたんだって?」
白々しく吐かれた言葉に、ジェイドは貼り付けた笑顔を引っ込める。それに気を良くした男は「まったく災難なことだな」と大袈裟に被りを振って憐んだ。
彼はさも興味なさげに中庭の方へ視線を投げると、「時間も無いので単刀直入に伺います」と前置く。
「貴方、昨夜監督生さんに何をしました?」
再びジェイドが視線を戻せば、男は緩んだ表情を一瞬だけ固くした。
「おいおい、いきなりなんだ? 俺が、監督生に? 冗談がきついな」
鼻で笑い、「証拠はあるんだろうな?」と勝気な口ぶりで言う。
「……何故か、魔法を使えない監督生さんの衣服から魔力の残渣が感じられたんです」
ジェイドはあの時手にしたネクタイを思い出すかのように右手を握りしめ、見詰める。そうして作られた拳を自身の額に押しつけた。その姿は悲しんで悔いているようにも、己の感情を押さえつけているようにも見える。
自分の都合のいいように解釈したらしい男は、顎を上げ「それだけのことで疑いを掛けるのか」と語気を強めて問い質した。
ジェイドは額から外した手を、ゆっくり胸に移動させる。そこにはいつもの笑顔を貼り付けた彼がいた。
「はい。稚魚のような弱々しい魔力の持ち主は、僕には貴方ぐらいしか思い当たりませんでした」
余裕綽々としていた男の表情が固まる。暫し呆気にとられた後、自身が"稚魚"と揶揄されたことに気づいたのか、目尻が吊り上がった。男は急き込むように口を大きく開けるが、そのまま音を発することなく噤む。ややあってそれが再び開かれる頃には、平静さを取り戻したようだった。
「仮に俺が魔法を使ったとして……実際に監督生を落としたのはアンタなんだろ?」
しおらしい態度を見せてみろと言わんばかりの調子で、変えようのない事実を突きつける。
対してジェイドは、「ええ、そうですね」と涼しい顔でさらりと肯定した。それどころか、「何処かの貧弱な魔力の持ち主は、魔法も使えない人間に傷ひとつつけられなかったみたいですけど」と煽ってみせる。
「……なに?」
「おや、誰も貴方のこととは言ってませんよ。それとも"貧弱な魔力"に心当たりでもあるのでしょうか」
彼は口元に手を当て、クスクスと嘲笑った。
男は眉間に皺を寄せ、憎々しげに睨みつける。それがまたジェイドの笑みを深める原因となることを分かっていても、せずにはいられなかったのだろう。
相手の様子を一頻り楽しんだジェイドは、跡形も無く笑みを引っ込める。心ゆくままに味わった後は、彼にとってその存在は紅茶の出涸らしも同然。
「貴方がわざわざアズールーーいえ。僕に依頼されたのも、大方、イソギンチャクの時にこき使われた腹いせでしょう」
ジェイドの言葉にひくり、と震えた口角。それが何より図星だと語っていた。構わず彼は平坦な声色で捲し立てる。
「アズールの虎の巻を使っても満点すら取れなかった上に、お粗末この上ない魔力で監督生さんのことをどうこう出来る立場なのでしょうか? そんな暇がおありでしたら、僕や監督生さんではなく、机に齧り付くことをお勧め致しますよ」
ほとんど一息で言い切ると、いよいよ男は己の劣勢を自覚したのか顔を紅潮させる。
一切の反論を無くしては、言葉でねじ伏せる手段を失ってしまったようなもの。残されたのはーー。
「〜っ黙れ!」
ジェイドは顔面に飛んできた右ストレートを最小限の動きで避ける。
今までに追い込まれた人間を散々目にしてきた彼は、そんな人間が最終的に起こす手段など分かりきっていた。副産物としてその楽しみ方も覚えてしまっているのだが。
また、ジェイドにしてみれば都合の良い展開でもあった。ーー彼女の受けた痛みをお返しするにはうってつけだ、と。
「やはり、教えて差し上げないといけませんね」
鋸のような三日月を口元に象り、うっとりとした眼で獲物を睨む。
男は「ひぃっ!?」と情けない声を上げたのを最後に、その口から呼吸音以外の音が発せられることは無くなった。
「……ふう。暇潰しにもなりませんね」
力なく床に伏せている男の背中を、凍えるような冷たい瞳で見下す。
ーー縛り上げて木の上に吊ってみようか? 山に埋めるのも捨てがたい。ああ、海に沈めるのもまた一興だ。
ジェイドは顎に手を当て、悩ましげに首を傾げる。しかし先ほどクルーウェルに釘を刺されたことを思い出し、実行に移すのは断念した。愉しいアイデアも簡単に足がついては面白くなかったのだ。これが故郷であれば迷いはなかったろうが、と口惜しがる。
ジェイドは男の頭上で腰を折ると、その耳に吹き込むように囁いた。
「この間のカードをお持ちいただければ、支配人が慈悲の心を持ってとっておきの治療薬を用意して下さいますよ」
ーーただし、味の保証は致しませんが。
息をするのも精一杯な男に届いているのかは分からなかった。だがジェイドにとってはとるに足らないことで、遅刻の言い訳をどうしようかと考えながら教室に向かうのだった。
*
肩口辺りに感じる重み、すぴーすぴーと規則的な呼吸音、何よりふよふよと鼻の下あたりを擽る毛のような感触。考える間も無く、生理現象は誘発された。
「へっくしょい!」
「ふなぁ!?」
盛大なクシャミをかましたと同時に、ユウはパチリと目を覚ます。視界には見慣れたボロい天井が映っていた。
ボーッと眺めていると、横からひょこっと相棒であるグリムが顔を覗かせる。寝ぼけ眼で「おはよう」と挨拶をすれば、「最悪の目覚ましなんだゾ」とグリムがジト目で返す。ユウはあはは、と下手な笑顔で濁しながらふと時計に目を遣った。
二本の針は既に二限目が始まろうかという時間を指している。それはつまり、大遅刻である。
「やばっーーほあ!?」
勢いよく起き上がって直ぐベッドの上の光景に目玉が飛び出そうになる。
ーー何でフロイド先輩がここに!?
ちょうど膝の上辺りで、ベッドを横切るように寝転がっている男。その体格故、足はほとんどベッドの外にはみ出ているが。ユウは身体を動かすことも出来ず呆然と見ていると、閉じていた双眸がゆっくりと瞬いた。
「小エビちゃん!」
「ひぃっ!?」
ガバッと勢いよく身体を起こしたフロイド。彼は怯えるユウを視界に捉えると、色の異なる瞳をキラキラさせながら両腕を広げた。
また締められる、と反射的に身構えたものの、締めるどころか優しく上半身を包み込まれてしまう。その上「良かったぁ」と頭を撫でつけられては、ただただ混乱するしかなかった。
ーーナンデ? ナデナデ? ナンデ?
これはこれで恐怖感を覚え、ユウは身体を固まらせる。グリムも同じ心境だったらしく、巻き込まれないように大人しくその様を眺めていた。
しばらくは身を任せていたユウだったが、やはり他寮に属する彼が何故ここにいるのかは気になるもので。
「フロイド先輩。私、木から落ちたのは覚えているんですけど、その後の記憶がまったく無くて……」
今に至るまでの経緯が、気を失っていた彼女には全く見当がつかなかった。フロイドは身体を離すと「ジェイドがオレのこと呼んだんだよ」と笑みを浮かべる。彼の口から告げられた名前に、ユウは目を見張った。
ーーやっぱり故意じゃなかったんだ。
不確定だった予想は当たっていた。その事実だけで落ち込んでいた気持ちが少しだけ浮上し、単純で現金な自身に自嘲気味に笑う。
「そんでオレが伸びてる小エビちゃんに治癒魔法かけてー、ここまで運んできたんだよ。ね、オレ超えらーいでしょ?」
フロイドは胡座をかいて、ユラユラと左右に揺れながら話す。
ユウは愛想笑いを浮かべて聞いていると、彼は下を向いてしまい代わりに鮮やかな色をした旋毛と対面する。意図がわからず見つめていれば、「ん」と催促するように旋毛が目の前まで迫ってきた。恐る恐る手を上げ、寝癖を直すように撫でつけてみる。どうやらそれは正解だったそうで、フロイドはふにゃりと表情を柔らかくした。
二人の様子を見ていたグリムも「オレ様は学園長に報告しに行ったんだゾ!」と両手を上げて主張する。保育士にでもなった気分だな、と考えながらユウはふかふかの毛並みを撫でた。
「グリム、ありがとうね。フロイド先輩も……ありがとうございます。何とお礼をすればいいのか」
「いいよー。気分いいから対価は無しにしてあげる」
おもしれーもんいっぱい見れたからいいんだ、そう言ってフロイドはニコニコしている。
ーーあのフロイド先輩が、こんな面倒ごとの後に対価を求めないとはどれだけ面白いものだったのだろう。気になるところではあったが、彼の独特な感性を考えて聞くのを止めた。
「ようやくお目覚めか」
突然聞こえた声に、ユウとグリムはビクッと肩を揺らして入り口の方を見る。そこには二人の担任であるクルーウェルが立っていた。あわあわとする二人に反し、フロイドは動じるどころか「あ、イシダイせんせぇだ。おはよー」と緩い笑顔と口調で挨拶をする。立派な体格に見合った、さすがの大物である。クルーウェルはもう慣れてしまったのか、さして気にも留めずベッドの横に立つ。
「どうやら身体は大丈夫みたいだな。全く仔犬は手がかかる」
「う……すみませんでした」
ため息混じりに言われれば、ユウは申し訳なさにその身を縮こませた。
ーーつくづく私は人に迷惑をかけてばかりだな。シュン、と項垂れていると「まだ痛むのか?」と頭に大きな手を乗せられる。労わるような優しい手にくすぐったさを感じていると、小さな身体が間を割って入ってきた。「学園長は?」と問うグリムに、クルーウェルは首を横に振る。
「ったく、アイツ"忙しいので明日行きます"とか言ってまともに話も聞かなかったくせに。結局来もしねーじゃねえか」
そう言ってグリムは腕を組んで呆れ果てる。「なるほどな」と呟いたクルーウェルは額に手を当てて嘆息した。
「今朝、リーチ兄と三人で話はしたんだがな」
「兄じゃねーし」
面倒くさそうにしながらもそこは見逃せないらしく、フロイドはきっちり突っ込む。
ユウは兄弟云々よりも、ジェイドが何故学園長とクルーウェルと話す必要があったのかが何より気になった。身体を前のめりにし、「先生」と焦りの混じった声を掛ける。
「ジェイド先輩はどうしたんですか?」
「ああ、リーチなら……」
クルーウェルの口から、監督生が落ちたのは自分のせいだと、その罰を受けると、ジェイドが自己申告したことを知った。
フロイドは「ジェイドの考えることってたまにわかんねー」と顔を顰める。ユウもまた動揺を隠せないようで、目蓋を震わせた。
今直ぐにでも本人に問い質したい思いだったが、「三限目からは授業に出るように」とクルーウェルに言われては抑えるしかなかった。
*
登校して早々、ユウはエースとデュースから心配と言う名の質問責めに遭っていた。勢いに気圧された彼女は「心配かけてごめん」と頭を掻きながら居心地悪そうに笑う。
「噂で聞いたけど、ジェイド先輩のせいで落ちたんだって?」
ーーえ、と口の端が固まった。
三人は「気に入らないからってそこまでする必要なくね?」「まったくだ。男なら拳で語り合わねえと」「ユウは女だゾ」と当人そっちのけに、ああでもないこうでもないと言い合う。
「や……やだなあ、そんなんデマだよ。木に登って遊んでたら落っこっちゃっただけ! 私ってば馬鹿でやんなっちゃうよねー……ほんと」
気丈な口調とは裏腹に、表情を翳らせる。エースとデュース、そしてグリムは不思議そうに顔を見合わせる。
少しの間の後、気まずい雰囲気を破るように「あー!」とエースが声を上げた。
「ジェイド先輩で思い出したけど。さっきアズール先輩から伝言預かったんだよ」
「アズール先輩が?」
「ああ。解除薬が出来たから放課後モストロ・ラウンジに来いって言ってたぞ」
良かったな、とデュースが微笑む。ユウは一瞬考えた後、笑顔で頷いて返した。
ーー解除薬はきっと、失敗した魔法薬と同じように自分とジェイドが一緒に使わなければ意味がない。つまり、彼に会って直接話す機会は必然的に訪れるということ。彼女はそう確信し、グッと両手を握り締めた。
*
一日の授業が終わると、ユウは慌ただしく小走りでモストロ・ラウンジへと向かった。
「すみません! 遅くなりました……」
肩で息をしながら前を見れば、店内の階段の前にはアズールと……その凛とした後ろ姿を見た瞬間、ユウの心臓が震えた。つい昨日会ったばかりだというのに、何日も、何週間も会っていないかのような錯覚をしたからだ。
しかし、当のジェイドはユウの方を一瞥すると、直ぐにアズールへと視線を戻してしまう。一連の様子を見届けた彼女は、ほんのり色づきかけた頬を白に上書きした。
「開店の準備もありますから、さっさと済ませますよ」
言うが早いか、アズールは解除薬が入っているであろう小瓶を懐から二つ取り出す。
蛸をあしらったステッキを一振りするとそれらは宙に浮き、もう一振りすれば二つの瓶はそれぞれユウとジェイドの頭上に移動した。
トン、とステッキが床を叩く音と同時に、瓶が傾く。口からは液状の中身が溢れ、二人の頭に降り注ぐと跡形も無く消えた。
ユウは徐に手を持ち上げ、握って開いてみる。解除されたとはいえ目に見えた変化が無く、いまいち実感がわかなかったのだ。だが今回の場合は、相手が居なければ感じようのないこと。離れたところに並び立つジェイドを見れば、彼は素知らぬ顔でいた。
「呆気なかったですね。……では、僕はこれで失礼します」
矢継ぎ早に紡がれた彼の声は無色透明で、一切の感情を遮断していた。
クルーウェルから聞いたことは本当なのか、魔法薬の効果は解除されたのか。問いたいことは沢山あれど、確かめる間も無くジェイドは立ち去ってしまう。
「なんで……」
残された彼女は、閉じられた扉を力なく見つめる。
ーーやっぱり私は嫌われているのかな。でも、嫌いなら何でわざわざ助けてくれたんだろう。
相変わらずジェイドの心情がユウには掴み取ることが出来ず、暗闇の中を手探りで歩いているかのようだった。
「気になりますか?」
背後から聞こえた囁きに、ユウは思い切り振り返る。すぐ側にはアズールがニヤリと口を歪めて立っていた。
「慈悲深い僕が、可哀想なユウさんに教えて差し上げましょう。もちろん相応の対価はいただきますが」
その表情はいつか見た悪徳商人のよう。
隙あらば付け込まんとする雰囲気を感じながらも、ユウは迷いに揺れる瞳を晒して彼を見る。
何もかもが立ち行かない今、対価を気にしている場合ではない。腹を括った彼女は藁にもすがる思いで頷いた。
「お願いします」
「いいでしょう。ならば契約書にサインをーーと、言いたいところですが。どうせあなたは直ぐにでも履行して下さるでしょうから省きます」
アズールは上げかけたステッキの先端を床に着けた。三度の飯より契約を重視している彼の思ってもみない発言に、ユウは目を丸くする。
アズールは態とらしく笑顔を拵えると「少し長くなりますよ」と、語るように話し始めた。
ーージェイドは先日、あるお客様から相談を持ちかけられたんです。ああ、申し訳ありませんがコンプライアンスの都合でお客様の名前は伏せさせてもらいますよ。……と言っても、あなたには大方想像はついてしまうでしょうね。
ーーこれは傷つかないで聞いていただきたいのですが。そのお客様の相談というのは、あなたを事故に見せかけて痛い目に遭わせてほしい、とのことでした。……ほう? 驚きもしないとはさすがの図太さです。恐れ入りました。ああ、もちろん褒め言葉ですよ。
そんなことより、ジェイドがどうしたか気になりませんか? ふふ、断ったんですよ。ちなみに僕は何も言ってませんよ。正真正銘、彼の独断です。
ーーあとはあなたのほうがご存知かもしれませんね。これはフロイドから聞いた話ですが、昨日のジェイドはとても取り乱した様子でフロイドに助けを求めたそうです。古い付き合いである僕たちが見たことないぐらいに……ね? 惜しいことをしましたよ。僕もあいつの見苦しい姿を拝みたかったのに。
ーーこの件を知った学園長は、穏便に事故として流すつもりでいたそうですが、ジェイドが自身の落ち度だと言ったんです。そして然るべき罰が欲しい、と。それで、放課後に植物園の手入れなんて面倒事を任されたそうですよ。ラウンジの勤務もあるというのに、あいつは何を考えているんだか……。僕が「頭が沸いてるんじゃないか」と言ったら「そうみたいです」ですって。まったく開き直りもいいところですよ。おまけにボロ雑巾の後処理まで僕に押しつけ……失礼しました。これはこっちの話ですのでユウさんはお気になさらず。
「と、長々とお話ししましたが……どうです? 少なくとも、ここ数日のジェイドの様子がおかしいということはご理解いただけましたか?」
眼鏡をクイ、と指で押し上げてアズールは問うた。ユウはゆっくりと噛み締めるように頷いて答える。色々衝撃的な部分はあったが、話を聞いたことで本人にまつわる疑問はほとんど解くことができた。
彼女の反応を見て、晴れて契約を果たしたことを認めたアズールは得意げに笑む。
「では、対価についてお話ししましょう」
相応の施しを受ければ、今度はこちらが約束を果たす番。ユウはごくりと喉を鳴らし、契約を交わした彼の言葉を待つ。
「ジェイドの機嫌を直すこと。それがあなたが差し出す対価です」
「……え?」
予想外の内容に、ユウは素っ頓狂な声を出した。
アズールはやれやれと首を振りながら「副寮長の調子が悪くては、ラウンジの運営に支障が出てしょうがない」とにわかに芝居がかった口調で話す。
人の機嫌を直すーー対価にしては易いもの。だが相手が相手、まして先ほどの彼の様子を見たユウは、契約を果たせる自信をすっかり無くしていた。
「私に出来るかどうか……」
「何を腑抜けたことを言っているんです? あなたにしか、出来ないんですよ」
言葉により説得力を持たせるかのように、アズールはポン、と迷いに怯む背中を叩いた。驚いたユウは顔を上げると「あなたといえど、さっき僕が話した内容くらいは覚えてますよね?」と悪戯に笑われてしまう。彼女は黙って頷くと、真っ直ぐ店の出口へと足を進めた。
「まったく……世話の焼けることで」
*
広い植物園の中から、もはや見慣れてしまった髪色を見つけたユウは彼の名前を呼ぶ。
「ジェイド先輩!」
実験着に身を包んだジェイドは、花壇の植物たちに水を与えていた。彼女はもはや癖となってしまった距離を保ちながら反応を待つ。
ジェイドはちらりと呼ばれた方を見た後、話しかけてくれるなとでも言いたげに視線を地面に戻した。素っ気無い態度をお見舞いされてユウは怯むが、ギュッと口を引き結んで堪える。
「アズール先輩から、全部聞きました」
声が震えないように気をつけながら、彼女は口にした。頼りない声量だったが彼の気を引くには十分だったらしい。満遍なく水を浴びせていた手がピタリと止まり、ジェイドはホースから流れ出るそれを止めた。
「そうですか」と呟くと、やっとユウと目を合わせる。感情の読めない瞳を向けられ、彼女はたじろぐ。だが今のユウはアズールに教えてもらったことを含め、数々の事実をその胸に詰め込んでいる。何とか笑顔を作って見せれば、ジェイドは諦めたように息を一つ吐いた。
「お身体のほうは大丈夫なんですか?」
「はい、おかげさまでもうすっかり。それに元々丈夫さには自信がありますので」
言いながら、ムキッとささやかな力こぶを見せつけた。全く説得力の無い主張に気が抜けたのか、ジェイドはふ、と笑みを溢す。柔らかくなった彼の雰囲気にユウは肩の力が幾分か抜けたようだ。
改めて彼女が口を開きかけると、「すみませんでした」と先手を打たれてしまった。台詞通りの申し訳なさそうな表情でジェイドは目を伏せている。
「なんで、ジェイド先輩が謝るんです……?」
恭しく下げられた頭を、謝られた側であるユウのほうが泣きそうな表情で見る。
ーー元はと言えば、今日に至るまでの原因は私にある。木から落ちたのだって、回り回ってバチが当たったようなものだ。だから本当に謝るべきなのも、罰を受けるべきなのも私の方なのに。
「謝るのは、私のほうです。すみませんでした。ジェイド先輩に迷惑ばかりかけて……本当に、ごめんなさい」
深々と腰を折ると、今の今まで堪えられていた涙が地面に染みを作る。ユウは合わせる顔も無く自身の爪先と向き合っていると、視界の端に綺麗に磨かれた革靴が入り込んできた。
「大袈裟ですね。僕は迷惑だなんて言った覚えは一度たりともありませんよ」
思いの外近くから聞こえた声に顔を上げると、いつの間にかジェイドは手を伸ばせば届く距離まで近づいていた。それどころか、身に纏う衣服までもが白を基調としたそれではなく、黒い制服に変わっている。全てが一変した状況に、ユウは驚きを隠せずにいた。
惚けた面を惜しみ無く晒す彼女に、ジェイドは眉尻を下げて苦笑する。
「それに何故、ユウさんが謝る必要があるのでしょう。貴女が落ちたのだって僕が近づいたせいなんですよ?」
「……違います。ジェイド先輩は、私を助けようとして下さっただけじゃないですか」
アズールと契約を交わして真実を知った今、ユウはしっかりと彼の目を見て言い切る。
驚きに目を見張るジェイドに「あの時の先輩の顔を見れば、さすがに私でも分かります」と根拠を添えれば、彼は慈しむように眦を甘くした。
「それでも……薬のことを失念していた僕の方が悪いです」
「いいえ。その薬を被らせた私の方が悪いです」
食い気味にユウは反論した。しかしジェイドも譲る気はなかったようで。
「いえ。僕です」
「違います。私です」
「僕です」
「私です」
言葉だけに飽き足らず、むむ、と視線で悪さ比べをする二人。
暫し膠着状態が続き、先に折れたのは意外にもジェイドのほうだった。
「…… ユウさんは強情ですね」
「それはこっちの台詞ですよ」
困りましたとばかりに腕を組む彼を、ユウは目を据わらせて見る。やがて不毛な言い合いをしていたことに気づくと、どちらからともなく、ふふ、と笑いが溢れた。先ほどまでのよそよそしい雰囲気はなりを潜め、代わりにこそばゆいほどの温かい空気が満たす。
ユウは胸に手を当てて呼吸を整えると、弾かれたように顔を上げた。
「あの、こんなこと言える立場じゃないことは分かってます。でも私ーー」
ーー実っても実らなくても、きちんと自分の気持ちは伝えたい。真っ直ぐな想いを吐き出そうとした唇は、押しつけられた人差し指に制されてしまう。
予期せぬ出来事にユウは目を丸くしていると、指の主は首を傾けて笑った。ジェイドは大人しくなった唇を確認すると、その手で頬をすっぽりと包み込んだ。グローブ越しでも分かる低い体温が、人魚である彼に触れられていることを実感させられる。
ユウにとってはジェイドに優しく触れられるのも、むしろ触られること自体が初めての経験だった。故に、もはや想いを伝えるどころの頭ではなくなってしまうのは致し方ないだろう。
「今思えばなかなか有意義な一週間でした」
「有意義、ですか?」
柔い感触を楽しむように、すりすりと親指を滑らせながらジェイドは言う。ユウはくすぐったさを感じながらも、今日までのアレコレとはえらくかけ離れて形容された言葉に小首を傾げた。
「ええ。おかげであなたという存在に興味が湧きましたからね」
「……究極のプラス思考ですね」
何とも言えない表情で見れば、ジェイドは軽く吹き出した。「迷惑ですか?」と彼から問いを投げられ、「むしろ逆です」と彼女は口を尖らせる。
「なら安心しました」
ジェイドは満足げに口元を緩ませると、しゃんと伸びた背中を緩やかに折り曲げた。恐ろしいほど整った顔が近づいてきて、ユウは条件反射で後ずさろうと試みる。だが頬に添えた手で固定され、もう一方の腕で囲われては敢えなく断念した。
互いの鼻の先がくっつきそうなほどの距離に、彼女は息を詰まらせ狼狽える。
「初めは好奇心だと思っていたのですが、どうやらもっと相応しい感情があったみたいです」
勿体ぶった言い方をしていながらも、"何ですか?"と訊く間は用意していないらしい。射抜くような眼差しに刺されたユウは察した。
「好き、ですよ」
ーー私も。その先に続くはずだった言葉は、空気に触れることなく彼の口に吸い込まれてしまった。
おわり
ーーーーーーーーーー
【注意】
おまけの雰囲気ぶち壊しEND。
読まなくても全く差し支えはございません。書きたかったから書いた、ただそれだけ。
いつか上げるかもしれない(予定は未定)二人の初夜話の為の助走なので、マジで蛇足でしかないです。
以上を踏まえた上でお楽しみ下さい。
*
一つ落とされたのをきっかけに、唇が重なっては離れるのを幾度となく繰り返す。どのくらいの時間が経ったかは定かで無いが、真上を向かされたユウの首が痛くなる頃合いというのは確かだ。彼女は合間を縫って喋りかけようとすれば、しめたとばかりに生温い異物が口の中に滑り込んでくる。
「ん!? ふっ、」
唐突なことに目を見開けば、その異物は彼の舌だと気づく。ジェイドは陶酔した視線を送りながら、ザラついた表面を擦り合わせたり、裏を舌先でなぞったり、長いそれで彼女のものに絡みついた。活発な舌の動きに唾液の分泌が促され、ちゅ、ちゅく、と混ざり合う水音が二人の鼓膜をくすぐる。
数秒前に甘酸っぱく気持ちを通わせあったばかりとは到底思えないほどの、濃厚なキス。しかもジェイドはなかなかの手練れであった。抗議のため硬い胸板を叩いていたユウの手は、今は一方的に与えられる甘い刺激に耐えるように握り込んでいた。
ジェイドは酸欠気味に顔を真っ赤にするユウを見てやっと唇を離す。
「い、いきなりこんな……きっ、きき、キスって、あ、あります……!?」
息を切らしながら盛大に吃るユウとは逆に、ジェイドは「すみません。ついはしゃいでしまいました」とお茶目に舌を覗かせる。悪びれている様子は当然ない。
「……初めてだったのに」
圧倒的な差を見せつけられ、拗ねた風にぼそりと呟く。
ジェイドは彼女のいじましい姿と言葉に、キュンと胸を締め付けられるような感覚を覚えた。心の赴くまま再び唇を寄せようとしたが、「心臓に悪いので」と小さな掌で口を塞がれてしまう。
「私と違って、ジェイド先輩は手慣れているみたいですけど」
「おや。気になりますか?」
「……いいえ」
さっぱり気にならないと言えば嘘になる。けれど全てが彼の思惑通りに展開するのが、ユウはなんとなくシャクだった。
「それは残念です」
言葉とは逆に、表情はむしろ愉快そうだ。上機嫌を極めている今の彼には、何を言おうがしようがその緩む口元を締めることは叶わないことをユウは悟る。
「僕とユウさんは恋人同士、ということで良いんですよね?」
ーー違うんですか? と困ったように問いかけ、顔を覗き込まれる。ユウはヴッ、とまんまと射抜かれた胸を押さえた。実にちょろいものである。
ジェイドは「一週間触れられなかった分の埋め合わせをしなくてはいけませんね」としたり顔で話した。
「さっきは"有意義だった"って言ってませんでしたっけ……?」
「それはそれ、これはこれ、ですよ」
都合の良い理屈をさらりと言ってのける彼に、ユウは口を噤む。
「ふふ。これから楽しみですね……それはもう、色々と」
「ヒッ」
熱っぽい視線で、目の前の彼女を捕捉する。逞しい両腕で閉じ込められてしまえば、逃げるなんてことは不可能だ。
ーー私はど偉い人の恋人になってしまったのではないか?
なんて、今さら気づいてももう手遅れ。
彼の楽しそうな顔を見ただけでユウは文句を言う気を失くしてしまうのだから、それが何よりの証明だ。
つづく……かな?
コンコン、と彼は眼前にそびえる豪奢な扉を軽快にノックした。その向こうから返事が聞こえると、躊躇いなく扉を開け身体を滑り込ませる。
部屋の奥には、この学園の長であるクロウリーが鎮座していた。その隣には、教師の一人であるクルーウェルが厳格な雰囲気を醸しながら立っている。
学園でも指折りの地位を持つ二人を目にしても、彼は凪いだ姿勢を乱さずに歩み寄る。むしろ立場が幾分も上であるはずの学園長が、焦った様子で彼を見た。
「ええと、君は……ジェイド・リーチくん、ですよね?」
「はい。ジェイドです」
名前を呼ばれ、ジェイドはにっこりと笑ってみせる。
ーーきっちりと着こなされた制服、丁寧な口調、凛々しい切れ長の瞳。紛れもない彼であることが分かると、学園長は目を泳がせた。
と、いうのも。昨晩グリムの話を聞いた学園長は、目の前の彼ではなく彼の片割れのほうーーフロイドを呼んだつもりだったのだ。それが、何がどうなってこちらのリーチになったのか。クエスチョンマークを頭上に並べていると、側に控えていたクルーウェルが口を開いた。
「彼は私が呼びました。……とある仔犬から報せがありまして」
「報せ?」
学園長のほうを見て頷くと、クルーウェルは報せの内容を説明する。
ーー木の上で"遊んでいた"監督生が、ジェイドのせいで落ちてしまったこと。しかし、それは監督生が被らせた魔法薬が作用してのこと。
ジェイドは真顔で二人の遣り取りに耳を傾ける。その内容は事実でありながら、一番重要な部分が抜け落ち、改竄されているであろうことに彼は気付いていた。何なら話を聞く前から予想などついていたのだが。
「ーーというわけです」
「なるほど。魔法薬が……」
話を一通り聞き終えた学園長は、まるで初耳だとでもいう様子で驚く。クルーウェルは「話を聞いていたのでは?」と訝しげに目を細めた。学園長はギクリと肩を揺らし「いやですねえ。もちろん知っていましたとも」とぎこちなく笑う。
"監督生が木から落ちたこと"や"それにフロイドが関わっていること"は確かに学園長も把握するところだった。その証拠に、監督生のほうは今朝方クルーウェルに様子を見に行かせて無事を確認した。ちなみに命じた学園長はというと、真っ先に木の無事を確認していた。
一教師としてどうなのか? という至極真っ当な疑問は、厄介事とあらば生徒に押しつけがちなこの学園長に求めてはいけない。
クルーウェルの話を含め、学園長は一連の出来事を頭の中で整理する。程なくして、事なかれ主義且つ利己主義の筆頭である彼は『紆余曲折あれ、誰も大きな害を被ることは無かった』という結論に至った。
学園長は机に頬杖をつくと、口角を上げて目の前に立つジェイドを見る。
「この件は、不運な"事故"ということになりますねえ」
告げられた言葉に、ジェイドは鋭い眦を吊り上げた。
事故として処理されるーー不思議なことに、いつかジェイドが突っぱねた依頼通りに事が運んでいるではないか。彼は瞼を伏せ、冷ややかに微笑む。
ジェイド・リーチという男は、予定調和というものが一等嫌いであった。さらに、近頃彼の心中を乱して止まないユウが関わっているとなれば、偶然の事象として流すことはまかり通るはずもなく。
「ではお咎めは無しということで! 私、やさしーー」
「いいえ」
さぁ円満解決だ、と合わせようとした学園長の両手は開いたまま固まった。
「これは僕の"過失"です。どうか、罰を」
胸に手を当て、頭を下げるジェイド。
掴み所のない男の殊勝な様に、クルーウェルは「ほう」と面白いものを見る目を向ける。学園長は"正気ですか?"とでも言いたげに、仮面の向こうで光る目を丸くした。
「それならちょうどいい。植物園の手入れに人手が欲しかったところだ」
クルーウェルは含み笑いを堪えながら、お望み通りの罰を提示する。ジェイドは嫌がるどころか、異論はないとばかりに笑顔で頷いた。
「どうしますか? 学園長」
「まぁ……リーチくんたっての希望ですし? 別にいいんじゃないでしょうか。まさか罰が欲しいだなんて私にはちょっと、いやかなり理解出来ませんけど」
嘲りまじりにぶつぶつと言い続ける学園長を尻目に、彼は「ありがとうございます」と腰を折る。
すると、話の終わるタイミングを見計ったかのように始業の鐘が鳴り響いた。ジェイドは挨拶もそこそこにし、学生の本分である教室に向かうべく二人に背を向ける。
「リーチ。じゃれ合いも程々にしておけよ」
嗜めるような声が、背中に投げ掛けられた。受け止めた彼は視線だけで声のした方へ振り返る。その瞳は、餌に飢えた捕食者のように底光りしていた。
「ご心配には及びませんよ。身の振り方を教えて差し上げるだけですから」
ーーオクタヴィネル寮は、慈悲の精神を重じていますので。
ジェイドは優等生らしい笑顔を作って見せた。相変わらずの食えない彼の態度に、クルーウェルはため息を吐いて手で払う。
「ちょっと、一体何の話ですか」
戸惑う学園長を無視して扉は閉じられた。
*
始業前ともあり、人通りの少なくなっている廊下。ジェイドは落ち着いた歩調で歩いていると、偶然か必然か、彼が渇望していた人物と鉢合う。その人物ーー二日前にモストロ・ラウンジで相談をしていた男子生徒は、壁に背を預けて中庭を眺めていたようだった。
歩いてきた彼に気づくと、男はニタリと卑しい笑みを浮かべた。ジェイドは不自然なまでに人の良い笑顔で返す。
「ちょうど貴方に会いたいと思っていたところです」
「それは光栄だな。……ああ、そういえば監督生が木から落ちたんだって?」
白々しく吐かれた言葉に、ジェイドは貼り付けた笑顔を引っ込める。それに気を良くした男は「まったく災難なことだな」と大袈裟に被りを振って憐んだ。
彼はさも興味なさげに中庭の方へ視線を投げると、「時間も無いので単刀直入に伺います」と前置く。
「貴方、昨夜監督生さんに何をしました?」
再びジェイドが視線を戻せば、男は緩んだ表情を一瞬だけ固くした。
「おいおい、いきなりなんだ? 俺が、監督生に? 冗談がきついな」
鼻で笑い、「証拠はあるんだろうな?」と勝気な口ぶりで言う。
「……何故か、魔法を使えない監督生さんの衣服から魔力の残渣が感じられたんです」
ジェイドはあの時手にしたネクタイを思い出すかのように右手を握りしめ、見詰める。そうして作られた拳を自身の額に押しつけた。その姿は悲しんで悔いているようにも、己の感情を押さえつけているようにも見える。
自分の都合のいいように解釈したらしい男は、顎を上げ「それだけのことで疑いを掛けるのか」と語気を強めて問い質した。
ジェイドは額から外した手を、ゆっくり胸に移動させる。そこにはいつもの笑顔を貼り付けた彼がいた。
「はい。稚魚のような弱々しい魔力の持ち主は、僕には貴方ぐらいしか思い当たりませんでした」
余裕綽々としていた男の表情が固まる。暫し呆気にとられた後、自身が"稚魚"と揶揄されたことに気づいたのか、目尻が吊り上がった。男は急き込むように口を大きく開けるが、そのまま音を発することなく噤む。ややあってそれが再び開かれる頃には、平静さを取り戻したようだった。
「仮に俺が魔法を使ったとして……実際に監督生を落としたのはアンタなんだろ?」
しおらしい態度を見せてみろと言わんばかりの調子で、変えようのない事実を突きつける。
対してジェイドは、「ええ、そうですね」と涼しい顔でさらりと肯定した。それどころか、「何処かの貧弱な魔力の持ち主は、魔法も使えない人間に傷ひとつつけられなかったみたいですけど」と煽ってみせる。
「……なに?」
「おや、誰も貴方のこととは言ってませんよ。それとも"貧弱な魔力"に心当たりでもあるのでしょうか」
彼は口元に手を当て、クスクスと嘲笑った。
男は眉間に皺を寄せ、憎々しげに睨みつける。それがまたジェイドの笑みを深める原因となることを分かっていても、せずにはいられなかったのだろう。
相手の様子を一頻り楽しんだジェイドは、跡形も無く笑みを引っ込める。心ゆくままに味わった後は、彼にとってその存在は紅茶の出涸らしも同然。
「貴方がわざわざアズールーーいえ。僕に依頼されたのも、大方、イソギンチャクの時にこき使われた腹いせでしょう」
ジェイドの言葉にひくり、と震えた口角。それが何より図星だと語っていた。構わず彼は平坦な声色で捲し立てる。
「アズールの虎の巻を使っても満点すら取れなかった上に、お粗末この上ない魔力で監督生さんのことをどうこう出来る立場なのでしょうか? そんな暇がおありでしたら、僕や監督生さんではなく、机に齧り付くことをお勧め致しますよ」
ほとんど一息で言い切ると、いよいよ男は己の劣勢を自覚したのか顔を紅潮させる。
一切の反論を無くしては、言葉でねじ伏せる手段を失ってしまったようなもの。残されたのはーー。
「〜っ黙れ!」
ジェイドは顔面に飛んできた右ストレートを最小限の動きで避ける。
今までに追い込まれた人間を散々目にしてきた彼は、そんな人間が最終的に起こす手段など分かりきっていた。副産物としてその楽しみ方も覚えてしまっているのだが。
また、ジェイドにしてみれば都合の良い展開でもあった。ーー彼女の受けた痛みをお返しするにはうってつけだ、と。
「やはり、教えて差し上げないといけませんね」
鋸のような三日月を口元に象り、うっとりとした眼で獲物を睨む。
男は「ひぃっ!?」と情けない声を上げたのを最後に、その口から呼吸音以外の音が発せられることは無くなった。
「……ふう。暇潰しにもなりませんね」
力なく床に伏せている男の背中を、凍えるような冷たい瞳で見下す。
ーー縛り上げて木の上に吊ってみようか? 山に埋めるのも捨てがたい。ああ、海に沈めるのもまた一興だ。
ジェイドは顎に手を当て、悩ましげに首を傾げる。しかし先ほどクルーウェルに釘を刺されたことを思い出し、実行に移すのは断念した。愉しいアイデアも簡単に足がついては面白くなかったのだ。これが故郷であれば迷いはなかったろうが、と口惜しがる。
ジェイドは男の頭上で腰を折ると、その耳に吹き込むように囁いた。
「この間のカードをお持ちいただければ、支配人が慈悲の心を持ってとっておきの治療薬を用意して下さいますよ」
ーーただし、味の保証は致しませんが。
息をするのも精一杯な男に届いているのかは分からなかった。だがジェイドにとってはとるに足らないことで、遅刻の言い訳をどうしようかと考えながら教室に向かうのだった。
*
肩口辺りに感じる重み、すぴーすぴーと規則的な呼吸音、何よりふよふよと鼻の下あたりを擽る毛のような感触。考える間も無く、生理現象は誘発された。
「へっくしょい!」
「ふなぁ!?」
盛大なクシャミをかましたと同時に、ユウはパチリと目を覚ます。視界には見慣れたボロい天井が映っていた。
ボーッと眺めていると、横からひょこっと相棒であるグリムが顔を覗かせる。寝ぼけ眼で「おはよう」と挨拶をすれば、「最悪の目覚ましなんだゾ」とグリムがジト目で返す。ユウはあはは、と下手な笑顔で濁しながらふと時計に目を遣った。
二本の針は既に二限目が始まろうかという時間を指している。それはつまり、大遅刻である。
「やばっーーほあ!?」
勢いよく起き上がって直ぐベッドの上の光景に目玉が飛び出そうになる。
ーー何でフロイド先輩がここに!?
ちょうど膝の上辺りで、ベッドを横切るように寝転がっている男。その体格故、足はほとんどベッドの外にはみ出ているが。ユウは身体を動かすことも出来ず呆然と見ていると、閉じていた双眸がゆっくりと瞬いた。
「小エビちゃん!」
「ひぃっ!?」
ガバッと勢いよく身体を起こしたフロイド。彼は怯えるユウを視界に捉えると、色の異なる瞳をキラキラさせながら両腕を広げた。
また締められる、と反射的に身構えたものの、締めるどころか優しく上半身を包み込まれてしまう。その上「良かったぁ」と頭を撫でつけられては、ただただ混乱するしかなかった。
ーーナンデ? ナデナデ? ナンデ?
これはこれで恐怖感を覚え、ユウは身体を固まらせる。グリムも同じ心境だったらしく、巻き込まれないように大人しくその様を眺めていた。
しばらくは身を任せていたユウだったが、やはり他寮に属する彼が何故ここにいるのかは気になるもので。
「フロイド先輩。私、木から落ちたのは覚えているんですけど、その後の記憶がまったく無くて……」
今に至るまでの経緯が、気を失っていた彼女には全く見当がつかなかった。フロイドは身体を離すと「ジェイドがオレのこと呼んだんだよ」と笑みを浮かべる。彼の口から告げられた名前に、ユウは目を見張った。
ーーやっぱり故意じゃなかったんだ。
不確定だった予想は当たっていた。その事実だけで落ち込んでいた気持ちが少しだけ浮上し、単純で現金な自身に自嘲気味に笑う。
「そんでオレが伸びてる小エビちゃんに治癒魔法かけてー、ここまで運んできたんだよ。ね、オレ超えらーいでしょ?」
フロイドは胡座をかいて、ユラユラと左右に揺れながら話す。
ユウは愛想笑いを浮かべて聞いていると、彼は下を向いてしまい代わりに鮮やかな色をした旋毛と対面する。意図がわからず見つめていれば、「ん」と催促するように旋毛が目の前まで迫ってきた。恐る恐る手を上げ、寝癖を直すように撫でつけてみる。どうやらそれは正解だったそうで、フロイドはふにゃりと表情を柔らかくした。
二人の様子を見ていたグリムも「オレ様は学園長に報告しに行ったんだゾ!」と両手を上げて主張する。保育士にでもなった気分だな、と考えながらユウはふかふかの毛並みを撫でた。
「グリム、ありがとうね。フロイド先輩も……ありがとうございます。何とお礼をすればいいのか」
「いいよー。気分いいから対価は無しにしてあげる」
おもしれーもんいっぱい見れたからいいんだ、そう言ってフロイドはニコニコしている。
ーーあのフロイド先輩が、こんな面倒ごとの後に対価を求めないとはどれだけ面白いものだったのだろう。気になるところではあったが、彼の独特な感性を考えて聞くのを止めた。
「ようやくお目覚めか」
突然聞こえた声に、ユウとグリムはビクッと肩を揺らして入り口の方を見る。そこには二人の担任であるクルーウェルが立っていた。あわあわとする二人に反し、フロイドは動じるどころか「あ、イシダイせんせぇだ。おはよー」と緩い笑顔と口調で挨拶をする。立派な体格に見合った、さすがの大物である。クルーウェルはもう慣れてしまったのか、さして気にも留めずベッドの横に立つ。
「どうやら身体は大丈夫みたいだな。全く仔犬は手がかかる」
「う……すみませんでした」
ため息混じりに言われれば、ユウは申し訳なさにその身を縮こませた。
ーーつくづく私は人に迷惑をかけてばかりだな。シュン、と項垂れていると「まだ痛むのか?」と頭に大きな手を乗せられる。労わるような優しい手にくすぐったさを感じていると、小さな身体が間を割って入ってきた。「学園長は?」と問うグリムに、クルーウェルは首を横に振る。
「ったく、アイツ"忙しいので明日行きます"とか言ってまともに話も聞かなかったくせに。結局来もしねーじゃねえか」
そう言ってグリムは腕を組んで呆れ果てる。「なるほどな」と呟いたクルーウェルは額に手を当てて嘆息した。
「今朝、リーチ兄と三人で話はしたんだがな」
「兄じゃねーし」
面倒くさそうにしながらもそこは見逃せないらしく、フロイドはきっちり突っ込む。
ユウは兄弟云々よりも、ジェイドが何故学園長とクルーウェルと話す必要があったのかが何より気になった。身体を前のめりにし、「先生」と焦りの混じった声を掛ける。
「ジェイド先輩はどうしたんですか?」
「ああ、リーチなら……」
クルーウェルの口から、監督生が落ちたのは自分のせいだと、その罰を受けると、ジェイドが自己申告したことを知った。
フロイドは「ジェイドの考えることってたまにわかんねー」と顔を顰める。ユウもまた動揺を隠せないようで、目蓋を震わせた。
今直ぐにでも本人に問い質したい思いだったが、「三限目からは授業に出るように」とクルーウェルに言われては抑えるしかなかった。
*
登校して早々、ユウはエースとデュースから心配と言う名の質問責めに遭っていた。勢いに気圧された彼女は「心配かけてごめん」と頭を掻きながら居心地悪そうに笑う。
「噂で聞いたけど、ジェイド先輩のせいで落ちたんだって?」
ーーえ、と口の端が固まった。
三人は「気に入らないからってそこまでする必要なくね?」「まったくだ。男なら拳で語り合わねえと」「ユウは女だゾ」と当人そっちのけに、ああでもないこうでもないと言い合う。
「や……やだなあ、そんなんデマだよ。木に登って遊んでたら落っこっちゃっただけ! 私ってば馬鹿でやんなっちゃうよねー……ほんと」
気丈な口調とは裏腹に、表情を翳らせる。エースとデュース、そしてグリムは不思議そうに顔を見合わせる。
少しの間の後、気まずい雰囲気を破るように「あー!」とエースが声を上げた。
「ジェイド先輩で思い出したけど。さっきアズール先輩から伝言預かったんだよ」
「アズール先輩が?」
「ああ。解除薬が出来たから放課後モストロ・ラウンジに来いって言ってたぞ」
良かったな、とデュースが微笑む。ユウは一瞬考えた後、笑顔で頷いて返した。
ーー解除薬はきっと、失敗した魔法薬と同じように自分とジェイドが一緒に使わなければ意味がない。つまり、彼に会って直接話す機会は必然的に訪れるということ。彼女はそう確信し、グッと両手を握り締めた。
*
一日の授業が終わると、ユウは慌ただしく小走りでモストロ・ラウンジへと向かった。
「すみません! 遅くなりました……」
肩で息をしながら前を見れば、店内の階段の前にはアズールと……その凛とした後ろ姿を見た瞬間、ユウの心臓が震えた。つい昨日会ったばかりだというのに、何日も、何週間も会っていないかのような錯覚をしたからだ。
しかし、当のジェイドはユウの方を一瞥すると、直ぐにアズールへと視線を戻してしまう。一連の様子を見届けた彼女は、ほんのり色づきかけた頬を白に上書きした。
「開店の準備もありますから、さっさと済ませますよ」
言うが早いか、アズールは解除薬が入っているであろう小瓶を懐から二つ取り出す。
蛸をあしらったステッキを一振りするとそれらは宙に浮き、もう一振りすれば二つの瓶はそれぞれユウとジェイドの頭上に移動した。
トン、とステッキが床を叩く音と同時に、瓶が傾く。口からは液状の中身が溢れ、二人の頭に降り注ぐと跡形も無く消えた。
ユウは徐に手を持ち上げ、握って開いてみる。解除されたとはいえ目に見えた変化が無く、いまいち実感がわかなかったのだ。だが今回の場合は、相手が居なければ感じようのないこと。離れたところに並び立つジェイドを見れば、彼は素知らぬ顔でいた。
「呆気なかったですね。……では、僕はこれで失礼します」
矢継ぎ早に紡がれた彼の声は無色透明で、一切の感情を遮断していた。
クルーウェルから聞いたことは本当なのか、魔法薬の効果は解除されたのか。問いたいことは沢山あれど、確かめる間も無くジェイドは立ち去ってしまう。
「なんで……」
残された彼女は、閉じられた扉を力なく見つめる。
ーーやっぱり私は嫌われているのかな。でも、嫌いなら何でわざわざ助けてくれたんだろう。
相変わらずジェイドの心情がユウには掴み取ることが出来ず、暗闇の中を手探りで歩いているかのようだった。
「気になりますか?」
背後から聞こえた囁きに、ユウは思い切り振り返る。すぐ側にはアズールがニヤリと口を歪めて立っていた。
「慈悲深い僕が、可哀想なユウさんに教えて差し上げましょう。もちろん相応の対価はいただきますが」
その表情はいつか見た悪徳商人のよう。
隙あらば付け込まんとする雰囲気を感じながらも、ユウは迷いに揺れる瞳を晒して彼を見る。
何もかもが立ち行かない今、対価を気にしている場合ではない。腹を括った彼女は藁にもすがる思いで頷いた。
「お願いします」
「いいでしょう。ならば契約書にサインをーーと、言いたいところですが。どうせあなたは直ぐにでも履行して下さるでしょうから省きます」
アズールは上げかけたステッキの先端を床に着けた。三度の飯より契約を重視している彼の思ってもみない発言に、ユウは目を丸くする。
アズールは態とらしく笑顔を拵えると「少し長くなりますよ」と、語るように話し始めた。
ーージェイドは先日、あるお客様から相談を持ちかけられたんです。ああ、申し訳ありませんがコンプライアンスの都合でお客様の名前は伏せさせてもらいますよ。……と言っても、あなたには大方想像はついてしまうでしょうね。
ーーこれは傷つかないで聞いていただきたいのですが。そのお客様の相談というのは、あなたを事故に見せかけて痛い目に遭わせてほしい、とのことでした。……ほう? 驚きもしないとはさすがの図太さです。恐れ入りました。ああ、もちろん褒め言葉ですよ。
そんなことより、ジェイドがどうしたか気になりませんか? ふふ、断ったんですよ。ちなみに僕は何も言ってませんよ。正真正銘、彼の独断です。
ーーあとはあなたのほうがご存知かもしれませんね。これはフロイドから聞いた話ですが、昨日のジェイドはとても取り乱した様子でフロイドに助けを求めたそうです。古い付き合いである僕たちが見たことないぐらいに……ね? 惜しいことをしましたよ。僕もあいつの見苦しい姿を拝みたかったのに。
ーーこの件を知った学園長は、穏便に事故として流すつもりでいたそうですが、ジェイドが自身の落ち度だと言ったんです。そして然るべき罰が欲しい、と。それで、放課後に植物園の手入れなんて面倒事を任されたそうですよ。ラウンジの勤務もあるというのに、あいつは何を考えているんだか……。僕が「頭が沸いてるんじゃないか」と言ったら「そうみたいです」ですって。まったく開き直りもいいところですよ。おまけにボロ雑巾の後処理まで僕に押しつけ……失礼しました。これはこっちの話ですのでユウさんはお気になさらず。
「と、長々とお話ししましたが……どうです? 少なくとも、ここ数日のジェイドの様子がおかしいということはご理解いただけましたか?」
眼鏡をクイ、と指で押し上げてアズールは問うた。ユウはゆっくりと噛み締めるように頷いて答える。色々衝撃的な部分はあったが、話を聞いたことで本人にまつわる疑問はほとんど解くことができた。
彼女の反応を見て、晴れて契約を果たしたことを認めたアズールは得意げに笑む。
「では、対価についてお話ししましょう」
相応の施しを受ければ、今度はこちらが約束を果たす番。ユウはごくりと喉を鳴らし、契約を交わした彼の言葉を待つ。
「ジェイドの機嫌を直すこと。それがあなたが差し出す対価です」
「……え?」
予想外の内容に、ユウは素っ頓狂な声を出した。
アズールはやれやれと首を振りながら「副寮長の調子が悪くては、ラウンジの運営に支障が出てしょうがない」とにわかに芝居がかった口調で話す。
人の機嫌を直すーー対価にしては易いもの。だが相手が相手、まして先ほどの彼の様子を見たユウは、契約を果たせる自信をすっかり無くしていた。
「私に出来るかどうか……」
「何を腑抜けたことを言っているんです? あなたにしか、出来ないんですよ」
言葉により説得力を持たせるかのように、アズールはポン、と迷いに怯む背中を叩いた。驚いたユウは顔を上げると「あなたといえど、さっき僕が話した内容くらいは覚えてますよね?」と悪戯に笑われてしまう。彼女は黙って頷くと、真っ直ぐ店の出口へと足を進めた。
「まったく……世話の焼けることで」
*
広い植物園の中から、もはや見慣れてしまった髪色を見つけたユウは彼の名前を呼ぶ。
「ジェイド先輩!」
実験着に身を包んだジェイドは、花壇の植物たちに水を与えていた。彼女はもはや癖となってしまった距離を保ちながら反応を待つ。
ジェイドはちらりと呼ばれた方を見た後、話しかけてくれるなとでも言いたげに視線を地面に戻した。素っ気無い態度をお見舞いされてユウは怯むが、ギュッと口を引き結んで堪える。
「アズール先輩から、全部聞きました」
声が震えないように気をつけながら、彼女は口にした。頼りない声量だったが彼の気を引くには十分だったらしい。満遍なく水を浴びせていた手がピタリと止まり、ジェイドはホースから流れ出るそれを止めた。
「そうですか」と呟くと、やっとユウと目を合わせる。感情の読めない瞳を向けられ、彼女はたじろぐ。だが今のユウはアズールに教えてもらったことを含め、数々の事実をその胸に詰め込んでいる。何とか笑顔を作って見せれば、ジェイドは諦めたように息を一つ吐いた。
「お身体のほうは大丈夫なんですか?」
「はい、おかげさまでもうすっかり。それに元々丈夫さには自信がありますので」
言いながら、ムキッとささやかな力こぶを見せつけた。全く説得力の無い主張に気が抜けたのか、ジェイドはふ、と笑みを溢す。柔らかくなった彼の雰囲気にユウは肩の力が幾分か抜けたようだ。
改めて彼女が口を開きかけると、「すみませんでした」と先手を打たれてしまった。台詞通りの申し訳なさそうな表情でジェイドは目を伏せている。
「なんで、ジェイド先輩が謝るんです……?」
恭しく下げられた頭を、謝られた側であるユウのほうが泣きそうな表情で見る。
ーー元はと言えば、今日に至るまでの原因は私にある。木から落ちたのだって、回り回ってバチが当たったようなものだ。だから本当に謝るべきなのも、罰を受けるべきなのも私の方なのに。
「謝るのは、私のほうです。すみませんでした。ジェイド先輩に迷惑ばかりかけて……本当に、ごめんなさい」
深々と腰を折ると、今の今まで堪えられていた涙が地面に染みを作る。ユウは合わせる顔も無く自身の爪先と向き合っていると、視界の端に綺麗に磨かれた革靴が入り込んできた。
「大袈裟ですね。僕は迷惑だなんて言った覚えは一度たりともありませんよ」
思いの外近くから聞こえた声に顔を上げると、いつの間にかジェイドは手を伸ばせば届く距離まで近づいていた。それどころか、身に纏う衣服までもが白を基調としたそれではなく、黒い制服に変わっている。全てが一変した状況に、ユウは驚きを隠せずにいた。
惚けた面を惜しみ無く晒す彼女に、ジェイドは眉尻を下げて苦笑する。
「それに何故、ユウさんが謝る必要があるのでしょう。貴女が落ちたのだって僕が近づいたせいなんですよ?」
「……違います。ジェイド先輩は、私を助けようとして下さっただけじゃないですか」
アズールと契約を交わして真実を知った今、ユウはしっかりと彼の目を見て言い切る。
驚きに目を見張るジェイドに「あの時の先輩の顔を見れば、さすがに私でも分かります」と根拠を添えれば、彼は慈しむように眦を甘くした。
「それでも……薬のことを失念していた僕の方が悪いです」
「いいえ。その薬を被らせた私の方が悪いです」
食い気味にユウは反論した。しかしジェイドも譲る気はなかったようで。
「いえ。僕です」
「違います。私です」
「僕です」
「私です」
言葉だけに飽き足らず、むむ、と視線で悪さ比べをする二人。
暫し膠着状態が続き、先に折れたのは意外にもジェイドのほうだった。
「…… ユウさんは強情ですね」
「それはこっちの台詞ですよ」
困りましたとばかりに腕を組む彼を、ユウは目を据わらせて見る。やがて不毛な言い合いをしていたことに気づくと、どちらからともなく、ふふ、と笑いが溢れた。先ほどまでのよそよそしい雰囲気はなりを潜め、代わりにこそばゆいほどの温かい空気が満たす。
ユウは胸に手を当てて呼吸を整えると、弾かれたように顔を上げた。
「あの、こんなこと言える立場じゃないことは分かってます。でも私ーー」
ーー実っても実らなくても、きちんと自分の気持ちは伝えたい。真っ直ぐな想いを吐き出そうとした唇は、押しつけられた人差し指に制されてしまう。
予期せぬ出来事にユウは目を丸くしていると、指の主は首を傾けて笑った。ジェイドは大人しくなった唇を確認すると、その手で頬をすっぽりと包み込んだ。グローブ越しでも分かる低い体温が、人魚である彼に触れられていることを実感させられる。
ユウにとってはジェイドに優しく触れられるのも、むしろ触られること自体が初めての経験だった。故に、もはや想いを伝えるどころの頭ではなくなってしまうのは致し方ないだろう。
「今思えばなかなか有意義な一週間でした」
「有意義、ですか?」
柔い感触を楽しむように、すりすりと親指を滑らせながらジェイドは言う。ユウはくすぐったさを感じながらも、今日までのアレコレとはえらくかけ離れて形容された言葉に小首を傾げた。
「ええ。おかげであなたという存在に興味が湧きましたからね」
「……究極のプラス思考ですね」
何とも言えない表情で見れば、ジェイドは軽く吹き出した。「迷惑ですか?」と彼から問いを投げられ、「むしろ逆です」と彼女は口を尖らせる。
「なら安心しました」
ジェイドは満足げに口元を緩ませると、しゃんと伸びた背中を緩やかに折り曲げた。恐ろしいほど整った顔が近づいてきて、ユウは条件反射で後ずさろうと試みる。だが頬に添えた手で固定され、もう一方の腕で囲われては敢えなく断念した。
互いの鼻の先がくっつきそうなほどの距離に、彼女は息を詰まらせ狼狽える。
「初めは好奇心だと思っていたのですが、どうやらもっと相応しい感情があったみたいです」
勿体ぶった言い方をしていながらも、"何ですか?"と訊く間は用意していないらしい。射抜くような眼差しに刺されたユウは察した。
「好き、ですよ」
ーー私も。その先に続くはずだった言葉は、空気に触れることなく彼の口に吸い込まれてしまった。
おわり
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【注意】
おまけの雰囲気ぶち壊しEND。
読まなくても全く差し支えはございません。書きたかったから書いた、ただそれだけ。
いつか上げるかもしれない(予定は未定)二人の初夜話の為の助走なので、マジで蛇足でしかないです。
以上を踏まえた上でお楽しみ下さい。
*
一つ落とされたのをきっかけに、唇が重なっては離れるのを幾度となく繰り返す。どのくらいの時間が経ったかは定かで無いが、真上を向かされたユウの首が痛くなる頃合いというのは確かだ。彼女は合間を縫って喋りかけようとすれば、しめたとばかりに生温い異物が口の中に滑り込んでくる。
「ん!? ふっ、」
唐突なことに目を見開けば、その異物は彼の舌だと気づく。ジェイドは陶酔した視線を送りながら、ザラついた表面を擦り合わせたり、裏を舌先でなぞったり、長いそれで彼女のものに絡みついた。活発な舌の動きに唾液の分泌が促され、ちゅ、ちゅく、と混ざり合う水音が二人の鼓膜をくすぐる。
数秒前に甘酸っぱく気持ちを通わせあったばかりとは到底思えないほどの、濃厚なキス。しかもジェイドはなかなかの手練れであった。抗議のため硬い胸板を叩いていたユウの手は、今は一方的に与えられる甘い刺激に耐えるように握り込んでいた。
ジェイドは酸欠気味に顔を真っ赤にするユウを見てやっと唇を離す。
「い、いきなりこんな……きっ、きき、キスって、あ、あります……!?」
息を切らしながら盛大に吃るユウとは逆に、ジェイドは「すみません。ついはしゃいでしまいました」とお茶目に舌を覗かせる。悪びれている様子は当然ない。
「……初めてだったのに」
圧倒的な差を見せつけられ、拗ねた風にぼそりと呟く。
ジェイドは彼女のいじましい姿と言葉に、キュンと胸を締め付けられるような感覚を覚えた。心の赴くまま再び唇を寄せようとしたが、「心臓に悪いので」と小さな掌で口を塞がれてしまう。
「私と違って、ジェイド先輩は手慣れているみたいですけど」
「おや。気になりますか?」
「……いいえ」
さっぱり気にならないと言えば嘘になる。けれど全てが彼の思惑通りに展開するのが、ユウはなんとなくシャクだった。
「それは残念です」
言葉とは逆に、表情はむしろ愉快そうだ。上機嫌を極めている今の彼には、何を言おうがしようがその緩む口元を締めることは叶わないことをユウは悟る。
「僕とユウさんは恋人同士、ということで良いんですよね?」
ーー違うんですか? と困ったように問いかけ、顔を覗き込まれる。ユウはヴッ、とまんまと射抜かれた胸を押さえた。実にちょろいものである。
ジェイドは「一週間触れられなかった分の埋め合わせをしなくてはいけませんね」としたり顔で話した。
「さっきは"有意義だった"って言ってませんでしたっけ……?」
「それはそれ、これはこれ、ですよ」
都合の良い理屈をさらりと言ってのける彼に、ユウは口を噤む。
「ふふ。これから楽しみですね……それはもう、色々と」
「ヒッ」
熱っぽい視線で、目の前の彼女を捕捉する。逞しい両腕で閉じ込められてしまえば、逃げるなんてことは不可能だ。
ーー私はど偉い人の恋人になってしまったのではないか?
なんて、今さら気づいてももう手遅れ。
彼の楽しそうな顔を見ただけでユウは文句を言う気を失くしてしまうのだから、それが何よりの証明だ。
つづく……かな?