♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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今の私は、なんとなく一人になりたかった。
もう時刻は十九時を回ったというのに、日課の自主勉も手につかず、夕飯も食べる気分になれず。そわそわした気持ちだけを持て余しながら外を散歩をしていたら、気づけば学園の中庭に行き着いた。目についたベンチに吸い込まれるように腰掛け、ぼーっと虚空を眺める。
ーー今日という一日は我ながら酷い有様だった。
座学の授業は全く頭に入らないわ、実験ではダークマターを創造してしまうわ、そのせいでクルーウェル先生に創造主ごと怒りの炎で焼き払われそうになるわでもう散々。その上お昼にグリムの尻尾でパスタを巻き取ろうとしようものなら、エーデュースに真顔で心配されてしまった。
今日のユウはいつにも増して変だ、何か悩みでもあるのかと大真面目に聞かれては、私は苦笑いをして「徹夜で勉強してるせいかな」と濁した。二人には「嘘つけ」と声を揃えて一蹴されてしまったが。おまけにグリムが「嘘なんだゾ」と証言までしてくれたが。自慢の尻尾をフォーク代わりにされたのが余程気に食わなかったんだろう。それにしたって失礼な話である。億が一にも、本当かもしれないでしょう。
あの時は何となく話を逸らしてしまったが、二人のご心配通り悩みなら大いにある。しかしマブたちには悪いが、砕けた関係だからこそ彼らに相談するのは何となく恥ずかしく、気が引けた。あとは自分で考えたかったというのもある。
ーー昨日のジェイド先輩は何だったんだろう。前みたいな怖さとは違い、昨日は心の底から拒絶されている感じがした。事実を裏付けるように、今日一日彼の姿を見ることはただの一度も無かった。
そして何より、それに傷ついている自分がいることに動揺を隠せない。良く思われていないことなんて初めから分かっていたことだし、何ならそれを望んでいたはずじゃないか。
『捨てて下さって構いません』
その一言で私はガン、と後頭部を石で殴られるような衝撃を受けた。今まで彼から嘲られたり馬鹿にされたことなんて幾らでもあったのに、それらを優に凌ぐ威力だった。
何故なら彼の言葉はあの日の出来事ごと全て"捨てても良い"と言われているようで、私は勝手に悲しくなってしまったのだ。
少しだけ歩み寄れたと綻ぶ気持ちは、所詮自分の思い上がりでしかなかったと思い知らされる。本当に、なんて恥ずかしい奴。穴があったら入りたいほどの無様さに、情けない顔を両腕で覆い隠して宙を仰いだ。
「ちょっといいかな?」
突然視界の外から声をかけられ、肩が跳ねる。弾かれたように前を見れば、「驚かせてごめん」と両手を合わせる男子がいた。顔は初めて見るが、身に纏った制服でここの生徒だということは明らかだ。不審者の類では無いことが分かり、私はとりあえず胸を撫で下ろした。
人のことを言えた義理ではないが、こんな時間にどうしたんだろう。そう問い掛ければ、肩を竦めた男子が指で木の上を指す。
「申し訳ないんだけど、あれを取ってくれないかな?」
指差したほうに目を向けると、木の枝の先に帽子らしきものが引っかかっているのが見えた。
「上の階を歩いてたら風で飛ばされちゃってね」
「風で……?」
はて、風なんて吹いていただろうか? しばらくここに座っていたが、帽子が飛ばされるほどのものは感じなかった。彼の言う上の階だとまた違うのだろうか。
些末な疑問はさておき。取るにしても、あの高さでは男子も私も手が届きそうに無い。方法としては木に登るか、あるいはーー私の視線は自然と彼の胸ポケットにいった。気づいた男子が「ああ」と呟く。
「今はブロットが溜まりやすくなってるらしくて……医者に魔法は使うなって止められているんだ」
魔法石を指先で撫でながら、悲しそうに言う。そんな姿を見てはもはや断ることなどできなかった。
魔法も使えない私だけど、出来ることなら全力でやるまで。ドン、と任せなさい。頼りない胸を叩くと、男子は嬉しそうに笑った。
無鉄砲で鈍臭いヤツでも、やる時はやるんだ。意気込んでいると、自分をそう称した人物の顔まで浮かんでしまい、慌てて被りを振ってかき消した。
ーー易々と引き受けたはいいが、梯子などは何処にあるか分からない。魔法なんて持っての他。となればここにある肉体を駆使するしか無い。
男子は「手伝うよ」と声を掛けてくれたが、断った。私だって伊達にオバブロを目撃してきたわけじゃない。ブロットが溜まりやすいということは、精神的か肉体的かは知らないがそれだけ消耗しているということだ。そんな人に手伝わせるわけにはいかなかった。
靴下ごと靴を脱ぎ去り、ブレザーも脱ぎ捨てて足と腕の裾を巻くる。少々寒さが堪えるが、それもまた気合に変えるしかない。
「ありがとう。……君は優しいね」
言葉とは裏腹に、何となく引っかかる笑顔だった。なんて、失礼にも程があるか。
ぎこちない笑顔で返すのもそこそこに、木の幹に手を掛ける。見た感じ、枝もしっかりしてるから折れる心配は無いだろう。
学園長に見つかったら、確実に怒られるだろうな。罰としてどんな厄介事を押し付けられるやらと考えると苦い顔をしてしまう。そうならない為にも、誰かに見つかる前にちゃちゃっと済まさねば。
「落ちないように、気をつけて」
「平気ですよ。高いところは得意だから、ご心配なく……っと!」
私は今だけ猿になったつもりで、太い枝が分かれている場所までよじ登る。帽子の引っかかっている枝に手を掛けると、ミシッ、と僅かにしなって心臓が跳ねた。
大丈夫。つい先日体重計に乗ったら二キロも痩せていた。自分を信じろ。アイキャンドゥーイットだ。深呼吸をひとつして、懸垂の要領で身体を持ち上げて枝に跨った。一先ず第一関門は突破といったところか。
達成感に浸るのも程々に、私は次のステップに移る。身体の前に手をつきながら、枝の先の方へとお尻を滑らせていった。
ーーよし、もう直ぐで届きそうだ。
はやる気持ちのまま下で待っている男子を見ると、彼はにっこりと笑って口をパクパクと動かした。
「"ハ"……?」
何て言っていたんだろう? 考え込んでいると、男子はちょいちょいと私の手の先を指差す。いかん、今は課された任務に集中せねば。
私は目一杯手を伸ばし、とうとう帽子を掴んだーーと思いきや、それは手に収まることなく、霞のように消えてしまったではないか。
思わず「えっ」と戸惑いの声が漏れる。
見間違いだったのか目を擦ってみても、落ちてしまったのか下を見ても、やはり帽子はどこにも無い。不思議に思い男子のほうを見たら、……そこには誰もいなかった。
「え……え? 夢?」
ぽかん、と固まる私はさぞかし間抜け面を晒していたに違いない。まるで狐にでも化かされた気分だった。もしかして、と頬を抓ってみるがもちろん痛い。これは紛れもない現実だ。
混乱する頭で思い出したのは、いやにしっくりこなかった男子の言葉と表情、そしてさっきの口元。再現するように口を動かせば、決定的な答えは呆気なく導き出せた。
『バーカ』
あれ? もしかしなくても私……揶揄われた?
普段であればなんて事はない悪戯だが、あまりにもタイミングが悪い。今の私にはダメージ抜群だ。
はは、と乾いた笑いが漏れる口とは逆に、目にはじわりと涙が滲む。
ーーやっぱり私は無鉄砲で鈍臭くて、男子の言う通り、どうしようもない馬鹿だ。こんな自分などジェイド先輩にも嫌われて当然でしかない。悔しくて、情けなくて、グッと下唇を噛む。
でも、自分の気持ちに素直になるなら。本音を言うことが許されるのなら。私はジェイド先輩に……嫌われたくはなかった。もっと、彼のことを知りたかった。拒絶された今となっては、もう遅いけれど。
「はーもう! やめやめ! いい加減切り替えなきゃ」
溜まった涙がこぼれる前に、腕でゴシゴシと乱暴に拭う。今は感傷に浸っている場合ではない。兎にも角にも、早く降りてあげなくては木が可哀想だ。
早速さっきとは逆方向にお尻を後退させ始めると、一陣の風が辺りを吹きつける。
「うわっ!?」
強風まではいかなくとも、枝に跨った人間の安定感を奪うには十分な風圧。さっきまで無風だったのに、今日はとことん運が悪いらしい。私はおっとっと、とヤジロベエのように両手を振りながらバランスを取る。
何とか持ち直せるーーと、枝に手を付こうとした刹那。左からトン、と身体を押されるような感覚がした。無情にも手は枝から離れ、視界がみるみる傾いていく。
「うそ……」
傾く方とは逆方向に手を伸ばすと、その先には誰かが立っていた。ここ数日で何度も経験した感覚と、特徴的すぎるその姿は間違えようがない。
ーージェイド先輩だ。
これもわざとだろうか? いいや、違う。
それには確信があった。今までだったら故意だと疑ってかかっていただろう。けれど私は見てしまったのだ。その人が驚きと焦りで余裕のない表情を浮かべていたのを。
もしそれも込みで故意でやったのだとしたら、また彼に対する認識を改めなくてはいけないが。いやに冷静な頭は故意ではないと信じてやまなかった。
ーーそういう顔も、するんだなぁ。
それもまた、ジェイド先輩の初めて見る一面だ。でもそんな顔は、させたくなかった。まして自分のせいなら。
背中から全身に伝わる痛みを感じながら、ぼんやりした意識で空を仰ぐ。厚く覆われた雲のせいで星は見えなかった。
夢でもいいからあの星空をまた見たい……叶うなら、今度は彼のすぐ側で。
この気持ちの名前を考える間も無く、沈んでいくように視界は黒に染められた。
*
薄暗い学園内にターコイズブルーの髪が躍る。その持ち主であるジェイドは、時々こうして夜の学園を散歩していた。その"時々"に当てはまる条件としては、アズールに頼み事をされた時か、単に雰囲気を楽しみたい時のどちらか。今日の場合は、後者だった。
中庭に面する廊下を歩いていると、視界の端にいつもと違う様子が映る。目を凝らしてみると、木の上に誰かが跨っていた。更に、その人は魚のヒレのようにバタバタと腕を振っているではないか。どこの誰かは知らずとも、彼の目には大層愉快に見えた。その木は学園長が大切にしているものだと彼は知っていたから尚のことだ。
これはいざという時に強請る材料になるかもしれないーーそう打算的に考えたジェイドは、木の方へと近づくが人物を特定したところでピタッと足が止まる。
なぜ、ユウさんがあんなところに居るのか。
強請るどころか、かえって動揺したのは自身のほうだった。呆気にとられていると、木の上の彼女の身体が傾く。それを見たジェイドの身体は、脳を介さず勝手に動いていた。
「ユウ、……っ!」
ーー近づけないこと、反発してしまうこと、そんなことは知っていたはずだったのに。あの一瞬だけそれを忘れて、近づいてはいけない領域まで足を踏み入れてしまった。
案の定、反発する力をその身に受けたユウは、なす術もなく落下する。ジェイドはその様を、瞬きもせずに見送ることしか出来なかった。
木の下で倒れている彼女の身体は動かない。だが今のジェイドでは助けることはおろか、駆け寄ることもできなかった。ましてやこれ以上、彼女に刺激を与えることは許されない。
「……くっ、」
ジェイドは忌々しく奥歯を噛み締めると、迷いなく道を引き返した。
ーー海中であれば数倍も早く移動できるというのに。もどかしい思いを抱えながら、ジェイドは鏡舎までの道を無我夢中で走る。寮に着いてもその速度は落ちることはなかった。
全力疾走をする副寮長の姿に、道行く寮生たちは皆瞠目する。もっとも、今の彼にはそんなことを気にする余裕など無いが。
ジェイドは自室の前に着くと、ノックすら省いて部屋の扉を乱暴に開く。ベッドが二つ並んでいる部屋の奥では、フロイドが雑誌を読みながら寝転んでいた。彼はぽかんとした顔で、不躾に押し入ってきた自分の兄弟を見る。
「びっくりしたぁ。なんで怖い顔してんの?」
「今すぐ手を貸して下さい」
「なぁに? 面白いこーー」
「早く!」
語気を荒げる片割れに、フロイドは目を見張ってから訝しげに細めた。
ーーなんで怒ってんの? めんどくせー。
相手がジェイドでなければテコでも動かなかっただろう。フロイドははぁ、とため息を吐きながらノロノロと身体を起こす。行きますよ行けばいいんでしょ、と所作が語っていた。
フロイドがベッドから足を下ろすと、真上から陰が差す。見上げて間も無く、彼の身体は宙に浮いた。
「はっ!? 何してんの!?」
一九一センチの巨体をものともせず、ジェイドはフロイドを自身の肩に担いだ。そのまま無言で元来た道をひた走る。
担ぐ側は数あれど担がれる側になることは早々無いだけに、フロイドは動揺を隠せない。足掻こうとすれば、抱えている手に脇腹を鷲掴まれ「いってぇ!」と声を上げた。
今度は何だ、と野次馬根性で廊下に出てくる寮生たち。巨体と巨体、ギャングとギャングが組み合わさった迫力を目にした彼らは「ひっ!」と怯えた声を上げる。触らぬウツボに祟りなし、と本能で理解したのだろう。寮生たちは皆、フジツボの如く壁際に避難した。
担ぎ担がれ数分後。中庭に着くと、フロイドはようやく不安定な環境から解放された。
「手当をして下さい。早く」
「ハァ? 命令すんなし。つーか何……」
無理やり連れてこられた上に一方的に言われれば、不機嫌を極めていたフロイドはキッとジェイドを睨んだ。しかし彼は怯むことも睨み返すこともせず、淡々とした顔である方向を指差す。
フロイドは指された先に目を遣り、見張った。引き寄せられるように近づけば、芝生の上に倒れているのがユウーーフロイドで言うところの"小エビちゃん"だということが分かった。
「そこの木から、落ちたんです」
ジェイドの言葉に、フロイドは上を見上げる。兄弟の体格を持ってすれば軽くジャンプした程度で簡単に手が届くが、彼女からするとそれなりの高さだ。
「おーい、小エビちゃん! 生きてる?」
ユウの隣にしゃがみ込み、ぺちぺちと頬を叩く。「う、」と呻くが彼女の目は開かない。
状況からして、頭を打っている可能性をフロイドは真っ先に考えた。見たところ血は出ていないが中身は分からない。呼吸は安定していながらも、時折魘されるように顔を顰めていた。さすがに身体は痛むのだろう。
フロイドは生物を壊す方法はよく知っていた。救う方法も一応知ってはいるが、彼の性格的に知識程度であまり他者に実践したことはない。本来であれば、このような時はあらゆる範囲の魔法に精通したアズールのほうが適役だった。こういう時に限って不在にしている寮長にフロイドはチッ、と舌打ちする。魔法薬学を得意とする兄弟もいるが、諸々の事情で残念ながら戦力外だ。
とはいえこの緊急事態では何もしないわけにもいかず、フロイドは慣れない治癒魔法をかける。彼女の表情が和らいでいくのを確認すると、ふう、と息を吐いた。
ーーやるじゃん、オレ。フロイドは思わぬところでまた一つ自分の強みを見つけてしまった。自賛もそこそこに、頭を揺らさないようユウの身体を抱き起こして、自身の背中におぶる。
「オンボロ寮まで連れてけばいいわけ?」
「……ええ。お願いします」
一方ジェイドは、そんなフロイドの様子をただ遠巻きに眺めていた。
ーー彼女を傷つけておきながら、自分にできることは何もない。それをむざむざと見せつけられ、思い知る。
彼は黙り込んだまま、離れた距離を保ちフロイドの後ろをついて行く。脱ぎ捨てられていたユウのブレザーと靴を腕に抱えて、そもそも彼女は何故木の上にいたのか改めて考えを巡らせていた。
フロイドはわざわざ振り返ることもせず、「ねージェイド」と声を投げ掛ける。
「小エビちゃんって誰かと居たの?」
「いいえ、一人でしたが。……何です?」
「別に。なーんか、匂っただけ」
すん、と鼻を鳴らしながら言うフロイドに、ジェイドは闇に溶かしていた瞳孔を鈍く光らせる。
「…… ユウさんのネクタイを貸して下さい」
フロイドは言われた通り首から器用に抜き去ると、丸めて背後に放る。ジェイドはそれを受け取って、"ある違和感"に気づき確信に至るまでに時間は要さなかった。ユウのものであることすら考慮せず、彼はギリ、と手の中のネクタイを握り締める。
フロイドは首を捻って後ろを見ると、吹き出すように笑った。
「っは、ちょーおっかない顔してやんの」
*
彼女が身を置くオンボロ寮に着くと、ここに住うもう一人の寮生が玄関まで出迎えに来た。
ーーどこほっつき歩いてたんだゾ、腹減ったんだゾ、と文句を思い浮かべていたグリムは、入ってきた人物を見てひっくり返りそうになる。寸でのところで堪えられたのは、フロイドの背に背負われた子分こと、ユウを目にしたから。
「なっ……さてはオメーら……!」
「あーハイハイ。いーから部屋通してくれる?」
毛を逆立てるグリムを尻目に、フロイドは寮の中に足を踏み入れた。以前に差し押さえしたこともあり、間取りは完全に把握している。迷うことなくユウの自室に着くと、慎重に彼女の体をベッドに横たえた。未だに目は覚さないものの、胸は穏やかに上下している。
フロイドは適当に椅子を引っ張ってきては、ベッドの横に置いて腰を下ろした。追いかけてきたグリムがベッドの上に乗り上げ、ユウの顔を覗き込む。
「おい、ユウ!」
「……んー」
耳元で呼びかけると、ユウは眉間に皺を寄せて寝言のように唸る。その様は毎夜目にしている彼女そのものと変わらない。グリムは安堵の息を吐いてから、座っている男を睨んだ。
フロイドは欠伸を噛み殺しながら、大雑把にこれまでの経緯を話す。それを聞いたグリムは毛に覆われた顔を青くして、「学園長に言ってくる!」と飛び出して行ってしまった。
ーーこれは大事になるかもなぁ。フロイドは背凭れに体重を預け、前後に揺れながら呑気に考える。
部屋の出入口に目を遣れば、未だにジェイドがそこに立っていた。辿るまでもなく、その目が眠る彼女に向けられているのは一目瞭然である。更に彼が禍々しいほどの感情を纏っているのが、唯一の兄弟であるフロイドには分かった。そしてその姿を見られる機会は滅多にないということも。
ニィ、とフロイドが口角を上げると、視線に気づいていたジェイドが目を伏せて笑みを落とす。
「ありがとうございました。…… ユウさんを、頼みます」
「言われなくてもそーするよ」
恭しく頭を下げるジェイドに、フロイドは適当に手を振って返す。去り際にちら、とベッドで眠る彼女を見ると、彼は踵を返した。
*
部屋に戻ったジェイドは、しばらくは眠ることが出来ずにいた。何時間か薄暗い天井を見つめ続け、ようやく眠ることが出来たのは時計の針が四半周したのを見送った頃。
現実で散々目にしておきながら、夢の中にもユウは出てきた。彼女は『大事に、しますから』と今にも泣きそうな、訴えかけるような顔でジェイドに言う。
ーーあの時、実際には見なかったというのに。こんなのはもはや己の願望でしかない。でも彼女はこういう顔をしていただろう、とジェイドは容易く想像が出来た。それ程までにユウのことを知りすぎて、想いすぎてしまったのだ。
もはや"好奇心"なんて言葉では収まりきらないぐらいに。
もう時刻は十九時を回ったというのに、日課の自主勉も手につかず、夕飯も食べる気分になれず。そわそわした気持ちだけを持て余しながら外を散歩をしていたら、気づけば学園の中庭に行き着いた。目についたベンチに吸い込まれるように腰掛け、ぼーっと虚空を眺める。
ーー今日という一日は我ながら酷い有様だった。
座学の授業は全く頭に入らないわ、実験ではダークマターを創造してしまうわ、そのせいでクルーウェル先生に創造主ごと怒りの炎で焼き払われそうになるわでもう散々。その上お昼にグリムの尻尾でパスタを巻き取ろうとしようものなら、エーデュースに真顔で心配されてしまった。
今日のユウはいつにも増して変だ、何か悩みでもあるのかと大真面目に聞かれては、私は苦笑いをして「徹夜で勉強してるせいかな」と濁した。二人には「嘘つけ」と声を揃えて一蹴されてしまったが。おまけにグリムが「嘘なんだゾ」と証言までしてくれたが。自慢の尻尾をフォーク代わりにされたのが余程気に食わなかったんだろう。それにしたって失礼な話である。億が一にも、本当かもしれないでしょう。
あの時は何となく話を逸らしてしまったが、二人のご心配通り悩みなら大いにある。しかしマブたちには悪いが、砕けた関係だからこそ彼らに相談するのは何となく恥ずかしく、気が引けた。あとは自分で考えたかったというのもある。
ーー昨日のジェイド先輩は何だったんだろう。前みたいな怖さとは違い、昨日は心の底から拒絶されている感じがした。事実を裏付けるように、今日一日彼の姿を見ることはただの一度も無かった。
そして何より、それに傷ついている自分がいることに動揺を隠せない。良く思われていないことなんて初めから分かっていたことだし、何ならそれを望んでいたはずじゃないか。
『捨てて下さって構いません』
その一言で私はガン、と後頭部を石で殴られるような衝撃を受けた。今まで彼から嘲られたり馬鹿にされたことなんて幾らでもあったのに、それらを優に凌ぐ威力だった。
何故なら彼の言葉はあの日の出来事ごと全て"捨てても良い"と言われているようで、私は勝手に悲しくなってしまったのだ。
少しだけ歩み寄れたと綻ぶ気持ちは、所詮自分の思い上がりでしかなかったと思い知らされる。本当に、なんて恥ずかしい奴。穴があったら入りたいほどの無様さに、情けない顔を両腕で覆い隠して宙を仰いだ。
「ちょっといいかな?」
突然視界の外から声をかけられ、肩が跳ねる。弾かれたように前を見れば、「驚かせてごめん」と両手を合わせる男子がいた。顔は初めて見るが、身に纏った制服でここの生徒だということは明らかだ。不審者の類では無いことが分かり、私はとりあえず胸を撫で下ろした。
人のことを言えた義理ではないが、こんな時間にどうしたんだろう。そう問い掛ければ、肩を竦めた男子が指で木の上を指す。
「申し訳ないんだけど、あれを取ってくれないかな?」
指差したほうに目を向けると、木の枝の先に帽子らしきものが引っかかっているのが見えた。
「上の階を歩いてたら風で飛ばされちゃってね」
「風で……?」
はて、風なんて吹いていただろうか? しばらくここに座っていたが、帽子が飛ばされるほどのものは感じなかった。彼の言う上の階だとまた違うのだろうか。
些末な疑問はさておき。取るにしても、あの高さでは男子も私も手が届きそうに無い。方法としては木に登るか、あるいはーー私の視線は自然と彼の胸ポケットにいった。気づいた男子が「ああ」と呟く。
「今はブロットが溜まりやすくなってるらしくて……医者に魔法は使うなって止められているんだ」
魔法石を指先で撫でながら、悲しそうに言う。そんな姿を見てはもはや断ることなどできなかった。
魔法も使えない私だけど、出来ることなら全力でやるまで。ドン、と任せなさい。頼りない胸を叩くと、男子は嬉しそうに笑った。
無鉄砲で鈍臭いヤツでも、やる時はやるんだ。意気込んでいると、自分をそう称した人物の顔まで浮かんでしまい、慌てて被りを振ってかき消した。
ーー易々と引き受けたはいいが、梯子などは何処にあるか分からない。魔法なんて持っての他。となればここにある肉体を駆使するしか無い。
男子は「手伝うよ」と声を掛けてくれたが、断った。私だって伊達にオバブロを目撃してきたわけじゃない。ブロットが溜まりやすいということは、精神的か肉体的かは知らないがそれだけ消耗しているということだ。そんな人に手伝わせるわけにはいかなかった。
靴下ごと靴を脱ぎ去り、ブレザーも脱ぎ捨てて足と腕の裾を巻くる。少々寒さが堪えるが、それもまた気合に変えるしかない。
「ありがとう。……君は優しいね」
言葉とは裏腹に、何となく引っかかる笑顔だった。なんて、失礼にも程があるか。
ぎこちない笑顔で返すのもそこそこに、木の幹に手を掛ける。見た感じ、枝もしっかりしてるから折れる心配は無いだろう。
学園長に見つかったら、確実に怒られるだろうな。罰としてどんな厄介事を押し付けられるやらと考えると苦い顔をしてしまう。そうならない為にも、誰かに見つかる前にちゃちゃっと済まさねば。
「落ちないように、気をつけて」
「平気ですよ。高いところは得意だから、ご心配なく……っと!」
私は今だけ猿になったつもりで、太い枝が分かれている場所までよじ登る。帽子の引っかかっている枝に手を掛けると、ミシッ、と僅かにしなって心臓が跳ねた。
大丈夫。つい先日体重計に乗ったら二キロも痩せていた。自分を信じろ。アイキャンドゥーイットだ。深呼吸をひとつして、懸垂の要領で身体を持ち上げて枝に跨った。一先ず第一関門は突破といったところか。
達成感に浸るのも程々に、私は次のステップに移る。身体の前に手をつきながら、枝の先の方へとお尻を滑らせていった。
ーーよし、もう直ぐで届きそうだ。
はやる気持ちのまま下で待っている男子を見ると、彼はにっこりと笑って口をパクパクと動かした。
「"ハ"……?」
何て言っていたんだろう? 考え込んでいると、男子はちょいちょいと私の手の先を指差す。いかん、今は課された任務に集中せねば。
私は目一杯手を伸ばし、とうとう帽子を掴んだーーと思いきや、それは手に収まることなく、霞のように消えてしまったではないか。
思わず「えっ」と戸惑いの声が漏れる。
見間違いだったのか目を擦ってみても、落ちてしまったのか下を見ても、やはり帽子はどこにも無い。不思議に思い男子のほうを見たら、……そこには誰もいなかった。
「え……え? 夢?」
ぽかん、と固まる私はさぞかし間抜け面を晒していたに違いない。まるで狐にでも化かされた気分だった。もしかして、と頬を抓ってみるがもちろん痛い。これは紛れもない現実だ。
混乱する頭で思い出したのは、いやにしっくりこなかった男子の言葉と表情、そしてさっきの口元。再現するように口を動かせば、決定的な答えは呆気なく導き出せた。
『バーカ』
あれ? もしかしなくても私……揶揄われた?
普段であればなんて事はない悪戯だが、あまりにもタイミングが悪い。今の私にはダメージ抜群だ。
はは、と乾いた笑いが漏れる口とは逆に、目にはじわりと涙が滲む。
ーーやっぱり私は無鉄砲で鈍臭くて、男子の言う通り、どうしようもない馬鹿だ。こんな自分などジェイド先輩にも嫌われて当然でしかない。悔しくて、情けなくて、グッと下唇を噛む。
でも、自分の気持ちに素直になるなら。本音を言うことが許されるのなら。私はジェイド先輩に……嫌われたくはなかった。もっと、彼のことを知りたかった。拒絶された今となっては、もう遅いけれど。
「はーもう! やめやめ! いい加減切り替えなきゃ」
溜まった涙がこぼれる前に、腕でゴシゴシと乱暴に拭う。今は感傷に浸っている場合ではない。兎にも角にも、早く降りてあげなくては木が可哀想だ。
早速さっきとは逆方向にお尻を後退させ始めると、一陣の風が辺りを吹きつける。
「うわっ!?」
強風まではいかなくとも、枝に跨った人間の安定感を奪うには十分な風圧。さっきまで無風だったのに、今日はとことん運が悪いらしい。私はおっとっと、とヤジロベエのように両手を振りながらバランスを取る。
何とか持ち直せるーーと、枝に手を付こうとした刹那。左からトン、と身体を押されるような感覚がした。無情にも手は枝から離れ、視界がみるみる傾いていく。
「うそ……」
傾く方とは逆方向に手を伸ばすと、その先には誰かが立っていた。ここ数日で何度も経験した感覚と、特徴的すぎるその姿は間違えようがない。
ーージェイド先輩だ。
これもわざとだろうか? いいや、違う。
それには確信があった。今までだったら故意だと疑ってかかっていただろう。けれど私は見てしまったのだ。その人が驚きと焦りで余裕のない表情を浮かべていたのを。
もしそれも込みで故意でやったのだとしたら、また彼に対する認識を改めなくてはいけないが。いやに冷静な頭は故意ではないと信じてやまなかった。
ーーそういう顔も、するんだなぁ。
それもまた、ジェイド先輩の初めて見る一面だ。でもそんな顔は、させたくなかった。まして自分のせいなら。
背中から全身に伝わる痛みを感じながら、ぼんやりした意識で空を仰ぐ。厚く覆われた雲のせいで星は見えなかった。
夢でもいいからあの星空をまた見たい……叶うなら、今度は彼のすぐ側で。
この気持ちの名前を考える間も無く、沈んでいくように視界は黒に染められた。
*
薄暗い学園内にターコイズブルーの髪が躍る。その持ち主であるジェイドは、時々こうして夜の学園を散歩していた。その"時々"に当てはまる条件としては、アズールに頼み事をされた時か、単に雰囲気を楽しみたい時のどちらか。今日の場合は、後者だった。
中庭に面する廊下を歩いていると、視界の端にいつもと違う様子が映る。目を凝らしてみると、木の上に誰かが跨っていた。更に、その人は魚のヒレのようにバタバタと腕を振っているではないか。どこの誰かは知らずとも、彼の目には大層愉快に見えた。その木は学園長が大切にしているものだと彼は知っていたから尚のことだ。
これはいざという時に強請る材料になるかもしれないーーそう打算的に考えたジェイドは、木の方へと近づくが人物を特定したところでピタッと足が止まる。
なぜ、ユウさんがあんなところに居るのか。
強請るどころか、かえって動揺したのは自身のほうだった。呆気にとられていると、木の上の彼女の身体が傾く。それを見たジェイドの身体は、脳を介さず勝手に動いていた。
「ユウ、……っ!」
ーー近づけないこと、反発してしまうこと、そんなことは知っていたはずだったのに。あの一瞬だけそれを忘れて、近づいてはいけない領域まで足を踏み入れてしまった。
案の定、反発する力をその身に受けたユウは、なす術もなく落下する。ジェイドはその様を、瞬きもせずに見送ることしか出来なかった。
木の下で倒れている彼女の身体は動かない。だが今のジェイドでは助けることはおろか、駆け寄ることもできなかった。ましてやこれ以上、彼女に刺激を与えることは許されない。
「……くっ、」
ジェイドは忌々しく奥歯を噛み締めると、迷いなく道を引き返した。
ーー海中であれば数倍も早く移動できるというのに。もどかしい思いを抱えながら、ジェイドは鏡舎までの道を無我夢中で走る。寮に着いてもその速度は落ちることはなかった。
全力疾走をする副寮長の姿に、道行く寮生たちは皆瞠目する。もっとも、今の彼にはそんなことを気にする余裕など無いが。
ジェイドは自室の前に着くと、ノックすら省いて部屋の扉を乱暴に開く。ベッドが二つ並んでいる部屋の奥では、フロイドが雑誌を読みながら寝転んでいた。彼はぽかんとした顔で、不躾に押し入ってきた自分の兄弟を見る。
「びっくりしたぁ。なんで怖い顔してんの?」
「今すぐ手を貸して下さい」
「なぁに? 面白いこーー」
「早く!」
語気を荒げる片割れに、フロイドは目を見張ってから訝しげに細めた。
ーーなんで怒ってんの? めんどくせー。
相手がジェイドでなければテコでも動かなかっただろう。フロイドははぁ、とため息を吐きながらノロノロと身体を起こす。行きますよ行けばいいんでしょ、と所作が語っていた。
フロイドがベッドから足を下ろすと、真上から陰が差す。見上げて間も無く、彼の身体は宙に浮いた。
「はっ!? 何してんの!?」
一九一センチの巨体をものともせず、ジェイドはフロイドを自身の肩に担いだ。そのまま無言で元来た道をひた走る。
担ぐ側は数あれど担がれる側になることは早々無いだけに、フロイドは動揺を隠せない。足掻こうとすれば、抱えている手に脇腹を鷲掴まれ「いってぇ!」と声を上げた。
今度は何だ、と野次馬根性で廊下に出てくる寮生たち。巨体と巨体、ギャングとギャングが組み合わさった迫力を目にした彼らは「ひっ!」と怯えた声を上げる。触らぬウツボに祟りなし、と本能で理解したのだろう。寮生たちは皆、フジツボの如く壁際に避難した。
担ぎ担がれ数分後。中庭に着くと、フロイドはようやく不安定な環境から解放された。
「手当をして下さい。早く」
「ハァ? 命令すんなし。つーか何……」
無理やり連れてこられた上に一方的に言われれば、不機嫌を極めていたフロイドはキッとジェイドを睨んだ。しかし彼は怯むことも睨み返すこともせず、淡々とした顔である方向を指差す。
フロイドは指された先に目を遣り、見張った。引き寄せられるように近づけば、芝生の上に倒れているのがユウーーフロイドで言うところの"小エビちゃん"だということが分かった。
「そこの木から、落ちたんです」
ジェイドの言葉に、フロイドは上を見上げる。兄弟の体格を持ってすれば軽くジャンプした程度で簡単に手が届くが、彼女からするとそれなりの高さだ。
「おーい、小エビちゃん! 生きてる?」
ユウの隣にしゃがみ込み、ぺちぺちと頬を叩く。「う、」と呻くが彼女の目は開かない。
状況からして、頭を打っている可能性をフロイドは真っ先に考えた。見たところ血は出ていないが中身は分からない。呼吸は安定していながらも、時折魘されるように顔を顰めていた。さすがに身体は痛むのだろう。
フロイドは生物を壊す方法はよく知っていた。救う方法も一応知ってはいるが、彼の性格的に知識程度であまり他者に実践したことはない。本来であれば、このような時はあらゆる範囲の魔法に精通したアズールのほうが適役だった。こういう時に限って不在にしている寮長にフロイドはチッ、と舌打ちする。魔法薬学を得意とする兄弟もいるが、諸々の事情で残念ながら戦力外だ。
とはいえこの緊急事態では何もしないわけにもいかず、フロイドは慣れない治癒魔法をかける。彼女の表情が和らいでいくのを確認すると、ふう、と息を吐いた。
ーーやるじゃん、オレ。フロイドは思わぬところでまた一つ自分の強みを見つけてしまった。自賛もそこそこに、頭を揺らさないようユウの身体を抱き起こして、自身の背中におぶる。
「オンボロ寮まで連れてけばいいわけ?」
「……ええ。お願いします」
一方ジェイドは、そんなフロイドの様子をただ遠巻きに眺めていた。
ーー彼女を傷つけておきながら、自分にできることは何もない。それをむざむざと見せつけられ、思い知る。
彼は黙り込んだまま、離れた距離を保ちフロイドの後ろをついて行く。脱ぎ捨てられていたユウのブレザーと靴を腕に抱えて、そもそも彼女は何故木の上にいたのか改めて考えを巡らせていた。
フロイドはわざわざ振り返ることもせず、「ねージェイド」と声を投げ掛ける。
「小エビちゃんって誰かと居たの?」
「いいえ、一人でしたが。……何です?」
「別に。なーんか、匂っただけ」
すん、と鼻を鳴らしながら言うフロイドに、ジェイドは闇に溶かしていた瞳孔を鈍く光らせる。
「…… ユウさんのネクタイを貸して下さい」
フロイドは言われた通り首から器用に抜き去ると、丸めて背後に放る。ジェイドはそれを受け取って、"ある違和感"に気づき確信に至るまでに時間は要さなかった。ユウのものであることすら考慮せず、彼はギリ、と手の中のネクタイを握り締める。
フロイドは首を捻って後ろを見ると、吹き出すように笑った。
「っは、ちょーおっかない顔してやんの」
*
彼女が身を置くオンボロ寮に着くと、ここに住うもう一人の寮生が玄関まで出迎えに来た。
ーーどこほっつき歩いてたんだゾ、腹減ったんだゾ、と文句を思い浮かべていたグリムは、入ってきた人物を見てひっくり返りそうになる。寸でのところで堪えられたのは、フロイドの背に背負われた子分こと、ユウを目にしたから。
「なっ……さてはオメーら……!」
「あーハイハイ。いーから部屋通してくれる?」
毛を逆立てるグリムを尻目に、フロイドは寮の中に足を踏み入れた。以前に差し押さえしたこともあり、間取りは完全に把握している。迷うことなくユウの自室に着くと、慎重に彼女の体をベッドに横たえた。未だに目は覚さないものの、胸は穏やかに上下している。
フロイドは適当に椅子を引っ張ってきては、ベッドの横に置いて腰を下ろした。追いかけてきたグリムがベッドの上に乗り上げ、ユウの顔を覗き込む。
「おい、ユウ!」
「……んー」
耳元で呼びかけると、ユウは眉間に皺を寄せて寝言のように唸る。その様は毎夜目にしている彼女そのものと変わらない。グリムは安堵の息を吐いてから、座っている男を睨んだ。
フロイドは欠伸を噛み殺しながら、大雑把にこれまでの経緯を話す。それを聞いたグリムは毛に覆われた顔を青くして、「学園長に言ってくる!」と飛び出して行ってしまった。
ーーこれは大事になるかもなぁ。フロイドは背凭れに体重を預け、前後に揺れながら呑気に考える。
部屋の出入口に目を遣れば、未だにジェイドがそこに立っていた。辿るまでもなく、その目が眠る彼女に向けられているのは一目瞭然である。更に彼が禍々しいほどの感情を纏っているのが、唯一の兄弟であるフロイドには分かった。そしてその姿を見られる機会は滅多にないということも。
ニィ、とフロイドが口角を上げると、視線に気づいていたジェイドが目を伏せて笑みを落とす。
「ありがとうございました。…… ユウさんを、頼みます」
「言われなくてもそーするよ」
恭しく頭を下げるジェイドに、フロイドは適当に手を振って返す。去り際にちら、とベッドで眠る彼女を見ると、彼は踵を返した。
*
部屋に戻ったジェイドは、しばらくは眠ることが出来ずにいた。何時間か薄暗い天井を見つめ続け、ようやく眠ることが出来たのは時計の針が四半周したのを見送った頃。
現実で散々目にしておきながら、夢の中にもユウは出てきた。彼女は『大事に、しますから』と今にも泣きそうな、訴えかけるような顔でジェイドに言う。
ーーあの時、実際には見なかったというのに。こんなのはもはや己の願望でしかない。でも彼女はこういう顔をしていただろう、とジェイドは容易く想像が出来た。それ程までにユウのことを知りすぎて、想いすぎてしまったのだ。
もはや"好奇心"なんて言葉では収まりきらないぐらいに。