♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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あの日は偶然だった。故に、まさか自分が魔法薬を被るとは思ってもみなかった。
だが"この世の終わり"とでもいうような彼女の表情はなかなか愉快なもので。たまの気まぐれも悪くなかった、と考えたのを覚えている。
明くる日から彼女は、僕を視界に入れるたび猫が毛を逆立てるように警戒した。やはりずっと一緒に居ると似てくるものなのだろう。その姿は彼女の相棒とそっくりであった。
ーー魔法薬のおかげで面白いことになっているのでは? 人知らずそう予感した。だからこそ第三者に介入されたのは何となく不愉快で、ついつい彼女に近づき過ぎてしまった時もあった。故意と言えば、まぁそうなのかもしれない。
その後も、常にトラブルと隣り合わせでいる彼女の周りには必ず誰かがいた。彼女の友人たちはもちろん、フロイドとアズールまで。
決まって彼らは、容易に彼女に触れる。それに反して自分だけは指一本触れることも、近くに立つことさえも許されない。特別だったはずのその違いに、頭の片隅で暗い感情を持ち始めたのは確かこの時だ。
ーー体の良い理由を取り付けて、僕は彼女と山に登る計画を立てた。決行する前日は、さぞかし嫌そうな顔をする彼女を思い浮かべながら準備をしたものだ。逸る気持ちが表面に滲み出ていたのか、同室のフロイドが「こっわ……」と僕を見て顔を引きつらせていたのを思い出す。
当日は案の定、彼女は面白いぐらいに怯えていた。自身を見るその表情は、苦虫を噛み潰したような、という形容詞がぴったり。期待通り、いやそれ以上のものを返してくれて胸が空くような思いをした。
ーーただ一つ予想外だったのは、彼女とのそのひと時を純粋に楽しんでしまっている自分がいたことだ。
彼女は僕を"怖くない"と言った。かわいい、なんてこんな大らかな体格には不釣り合いな言葉まで頂戴する程に。柄にもなく驚き、そして何だか可笑しく、笑いが堪えられなかった。
星空を見上げる彼女の瞳は、遠目であっても星に負けず劣らず輝いて見えて。宝石のよう、と単純に形容するのも勿体なく感じるぐらいに美しい。
この時初めて「彼女に触れてみたい」「降りかかった魔法薬が恨めしい」と思っている自身を自覚した。こんなことを考えてしまうのは恐らく、行き過ぎた好奇心がもたらした"知識欲"だろう。
昨日の言葉通り、彼女から向けられる視線は変わった。警戒心や恐怖心といった類のものが目に見えて減っている。代わりに増えたのは、軟体動物のようなふにゃふにゃとした笑顔だ。その顔は、彼女が友人たちと話す時によくするものだとこの数日の観察で学んでいた。
同じ表情を自分にも当てがわれるのは嬉しく、何となくむず痒く、それらを優に上回るほどにとても……憎らしかった。
ーー気づいてしまったのだ。彼女が僕に対して抱いていたマイナスの感情が、昨日をきっかけにフラットになってしまったのだと。
彼女にとっての"その他大勢"の枠に、僕という存在までもを押し込めているのだと。
考えれば考えるほどに、全身を巡る血がふつふつと煮えたぎるような感覚に侵される。
僕にはそれが、ひどく不快だった。
*
「ジェイド先輩!」
放課後。モストロ・ラウンジでの勤務が待っていたジェイドは、廊下を歩いていた。背後から呼び止める声に、動かしていた両足を止める。振り返るまでもなく、声の主はわかり切っていたが。答え合わせに顔を向ければ、予想通りの人物ーーユウが居た。
「これからお仕事ですか」と問うその声はやはり、彼女のいつも通りだ。ジェイドが「ええ」と短く返せば、「頑張って下さいね」と上手に笑う。
「そうだ。これをお返ししようと思いまして」
そう言ってユウは徐に紙袋を前に差し出す。ジェイドはそれには見覚えがあった。というより、自身が彼女に渡したものだったから考えるまでもない。
ーーそのまま貰えばいいものを、なんと律儀なことだろうか。彼は気づかれないほどに小さく嘆息した。
「わざわざ翌日にお返ししなくてもいいのに」
「いいえ。このまま持ってて、忘れた頃に対価を求められたら困りますし」
たかだか服ぐらいで大袈裟な、とジェイドは思ったが、普段の自分たちの行いを省みて口には出さなかった。ユウの危惧することは当たらずも遠からじといったところか。どうやら監督生はこの学園での立ち振る舞いを分かってきたようだった。ジェイドの口からふ、と笑みが溢れる。
黙りこくってしまった彼を怪訝に見ていたユウは、おずおずと「もちろん、しっかり洗わせていただきましたよ?」と言葉を続ける。
「ただどうにも乾きが悪くて……エースとデュースに相談したんです」
ぴくり、とジェイドの瞼が震えた。
「そしたら二人が魔法を使って一瞬で乾かしてくれたんです。いつも思いますけど、やっぱり魔法って凄いですよね」
彼女は心の底から感心しているようで、笑みを溢しながら話す。聞かされた彼は、底冷えしていく気持ちを感じながら目を伏せた。
ーー自身が彼女に渡したものを他の男に触らせた、ジェイドはその事実がひどく気に入らなかった。今やその服には魔力の残渣が染み付いているに違いないことを想像し、嫌悪感に眉を潜める。
無論、魔力を持たない彼女には残渣なんて感じ得ないとは理解していたが。こんなにも自分は潔癖だっただろうかと驚きながらも、ジェイドはやはり受け取る気にはなれずにいた。
「……そちらは差し上げますよ」
「え、でも……」
「貴方に合わせて用意したものですから、返されても扱いに困ります」
まるで突き放すような口調に、ユウは驚きと戸惑いの混じった声を漏らす。どうすればいいものかと袋とジェイドに交互に視線を彷徨わせた。
覆い包む袋すら視界に入れるのを拒みたかったらしいジェイドは、前に組んだ手を強く握り込んで彼女の瞳を見据える。
「要らなければ、捨てて下さって結構ですよ」
たった一言で、ジェイドは彼女の迷いを強引に断ち切らせた。
言葉を突きつけられたユウは、目をこれでもかと言うほど見張って彼を見る。ユウから見る彼は、今までに見たことがないくらいの冷たいオーラを纏っているように感じられた。ナイフのような視線はそれこそ心臓を切り刻まれそうな錯覚をさせる。
そんな彼女を無視して、ジェイドは「まだ何か?」となおも追い詰めた。
「い、いえ。……すみません」
「何故謝るんです?」
ユウは謝ったものの、理由を問われ声が詰まった。彼女にしてみればジェイドがこのようなオーラを出す原因に心当たりなんてなく、見当すらもつかない。五日前から積み重ねたものなら多分にあった。しかしそれらが原因なのであれば今更な話だ。彼女は手のひらに滲む汗を袋と一緒に握り締めた。
「怒ってます、よね?」
恐る恐る、相手の様子を窺うように口にする。それに対しジェイドは一瞬だけ目を見開くが、直ぐにまた鋭利なものに戻した。
「……的外れな憶測は、それこそ相手を不愉快にさせかねないものですよ」
そう告げるジェイドは、もはや彼女と目すら合わせていなかった。
ユウもまた"的外れ"と本人に否定されては何も言えず、ぐっと唇を噛む。結局、頑なな態度を取る彼の本心を知り得ることは出来なかった。
気まずさを漂わせることすら許さないとばかりに、ジェイドは「では」と背を向ける。
「あの! 捨てたりなんて絶対にしません。……大事に、しますから」
届けられた声は、弱々しい反面、強い意志を持っていた。ジェイドは思わず足を止めそうになる。一体どんな表情をしているのか、気になったのが彼の正直な心境であった。
しかし、止まったところでジェイドは彼女に何も言うことは無い。……否、"言えない"といったほうが正しい。
散々自分から突き放しておきながら何が言えるというのか? 今の彼には正解がわからなかった。
じわり、じわりと滲む後悔には気付かない振りをして、ジェイドは歩く速度を速めた。
*
「いらっしゃいませ」
カラン、と来店を告げる合図が鳴る。寮服に身を包んだジェイドはもはや作業と化している挨拶をし、腰を折った。
伏せていた顔を上げると目の前にピッと何かを突きつけられた。ほぼ毎日目にしているそれは、まじまじと見ずとも分かった。敢えて多くと異なる点を述べるならば、カードの空白が埋められている。それが意味するものも、彼には明白だった。
「当店のご利用ありがとうございます。VIPルームにご案内致します」
ーー重厚な扉をノックをすれば、間も無く部屋の主から「どうぞ」と返ってくる。ジェイドが「失礼します」と声をかけ部屋に入ると、書斎に座って帳簿を睨むアズールが顔を上げた。
「お客様がいらっしゃいました」
「……分かりました。通して下さい」
どうぞ、と道を開ければそのお客様ーーとある寮の男子生徒は、大雑把に足を動かし皮張りのソファに無作法に腰掛けた。対するアズールはテーブルを挟んだ向かい側に、物音一つ立たず座り、足を組む。
ジェイドは二人の様子を眺めると、お茶を用意するため退室しようとした。
「出て行く必要はねえよ」
男子生徒と視線がかち合い、扉の方に向けた爪先は進むことなく止まる。ニタリと笑みを浮かべる相手に、ジェイドはいつもの笑顔を貼り付け「ではこのまま」とアズールの斜め後ろに立つ。男は一瞥すると、ポイントカードをテーブルの上に弾いた。
ーー埋められた空白は、自らが運営する店に貢献してくれた確固たる証拠。歪む口元を隠しもせず、アズールは生徒に向かって右手を差し出してみせる。
「早速ですが、ご相談をお聞かせいただきましょう」
その様は、何でもござれと言わんばかり。ふん、と鼻を鳴らした男はアズールではなく、後ろに立っている男の方を睨んだ。
「ジェイド・リーチ。お前に、あの監督生に痛い目をみせてやってほしい」
貼り付けられた笑みの口角が、他者には悟らせないほど僅かに下がった。ジェイドは何を言うでもなく、目の前の男の真意を探ろうとただただ見据える。
眼鏡越しに後ろを見上げたアズールは「ほう」と興味深げに呟いた。
「魔法も使えない癖に、のうのうとこの学園に居座っているのが前から目障りでしょうがなくてね。何でも、噂ではアンタ共々厄介な魔法薬にかかっているらしいじゃないか? 事故に見せかけて痛めつけるにはうってつけだ。丁度このカードも持て余していたからな」
ーー俺はわざわざ自分の手を汚す気はない。そう言ってニヤニヤと笑う男。
「それはそれは。いい趣味をお持ちでいらっしゃる」
眼鏡のブリッジに指を押し当て、アズールはなんて事はない顔で言う。
「何でも相談を聞いてくれるんだろ?」
「もちろん。"僕は"そうですね。ただ、その依頼を実行するのは、この"少々我の強い"ジェイドということになります。今回ばかりは彼の意志を尊重することとしましょう。よろしいですか?」
「……ああ。構わない」
お客様の了承を得ると、どうします? と視線で訊かれる。先程から仮面をつけたかのような表情をしていたジェイドは、アズールのほうを一瞥して目を伏せた。
ーー彼女がこの場にいようといまいと、忘れることは許されないらしい。先程のユウとの遣り取りを思い出し、ふう、とため息が出た。答えなど、彼の心には当に決まっていた。
ジェイドは胸に手を置き、恭しさを取り繕いながら仕上げに笑顔を作る。
「お断り致します」
後ろから聞こえた声に、アズールは一瞬だけ瞠目した。男はニヤけた口元を、への字に曲げてから鼻で笑う。
「へえ? てっきりアンタも嫌っていると思ったんだがな。断るのはあの監督生とオトモダチだからか? それともーー」
下卑た視線を受けながらも、ジェイドは表情を崩さなかった。何処をとっても食えない様子に、男は舌打ちをする。相談を断られてはすっかり客としての用を無くしてしまい、緩慢な動きでソファから立ち上がった。お役を果たせなかったカードを掴んで、真っ直ぐ部屋の出口の前に向かう。
「せっかくカードをお持ち下さったのに、ご相談に応えられずすみません。これに懲りずに是非またどうぞ」
「ああ。……そうだな」
慇懃に立ち上がり、謝罪するアズール。男は二人のほうを見て、含みのある笑みを口元に漏らす。ジェイドが扉を開けようとすると「見送りはいい」と言い残し、自ら扉の向こうに消えた。
暫しの沈黙の後、アズールの大袈裟なため息が部屋に響く。
「すみませんでした」
「別に構いませんよ。尊重すると言ったのは僕ですから」
お客様の相談を独断で拒否するーー一従業員としてはそれなりの失態である。ともすれば支配人の面子を潰しかねないことを、ジェイドはよく知っていた。知っていた上での、決断だ。
そんな彼のことをアズールは熟知しているが故に、責めようとはしない。むしろ、滅多に見られないジェイドの様子に、知的興味の方が唆られた。
「しかし、意外ですね。こんな簡単な頼み事をお前が断るなんて」
「……そういう気分ではなかった。それだけです」
「ほう? うちの寮に気分屋は一人で十分ですよ」
奔放な片割れのことを思い浮かべ、ジェイドは笑みを溢した。対するアズールは「笑いごとじゃありません」とぴしゃり。一人でも手を焼いているというのにそれが倍になった時の心労を考えると、寮を纏め上げる長としてはぞっとしない話だった。
ーー"意外"と思うのは何もアズールだけでなく、彼自身も同じである。らしくなく感情に振り回されてばかりいる自分に、ジェイドは戸惑いと苛立ちを抱かずにはいられなかった。
だが"この世の終わり"とでもいうような彼女の表情はなかなか愉快なもので。たまの気まぐれも悪くなかった、と考えたのを覚えている。
明くる日から彼女は、僕を視界に入れるたび猫が毛を逆立てるように警戒した。やはりずっと一緒に居ると似てくるものなのだろう。その姿は彼女の相棒とそっくりであった。
ーー魔法薬のおかげで面白いことになっているのでは? 人知らずそう予感した。だからこそ第三者に介入されたのは何となく不愉快で、ついつい彼女に近づき過ぎてしまった時もあった。故意と言えば、まぁそうなのかもしれない。
その後も、常にトラブルと隣り合わせでいる彼女の周りには必ず誰かがいた。彼女の友人たちはもちろん、フロイドとアズールまで。
決まって彼らは、容易に彼女に触れる。それに反して自分だけは指一本触れることも、近くに立つことさえも許されない。特別だったはずのその違いに、頭の片隅で暗い感情を持ち始めたのは確かこの時だ。
ーー体の良い理由を取り付けて、僕は彼女と山に登る計画を立てた。決行する前日は、さぞかし嫌そうな顔をする彼女を思い浮かべながら準備をしたものだ。逸る気持ちが表面に滲み出ていたのか、同室のフロイドが「こっわ……」と僕を見て顔を引きつらせていたのを思い出す。
当日は案の定、彼女は面白いぐらいに怯えていた。自身を見るその表情は、苦虫を噛み潰したような、という形容詞がぴったり。期待通り、いやそれ以上のものを返してくれて胸が空くような思いをした。
ーーただ一つ予想外だったのは、彼女とのそのひと時を純粋に楽しんでしまっている自分がいたことだ。
彼女は僕を"怖くない"と言った。かわいい、なんてこんな大らかな体格には不釣り合いな言葉まで頂戴する程に。柄にもなく驚き、そして何だか可笑しく、笑いが堪えられなかった。
星空を見上げる彼女の瞳は、遠目であっても星に負けず劣らず輝いて見えて。宝石のよう、と単純に形容するのも勿体なく感じるぐらいに美しい。
この時初めて「彼女に触れてみたい」「降りかかった魔法薬が恨めしい」と思っている自身を自覚した。こんなことを考えてしまうのは恐らく、行き過ぎた好奇心がもたらした"知識欲"だろう。
昨日の言葉通り、彼女から向けられる視線は変わった。警戒心や恐怖心といった類のものが目に見えて減っている。代わりに増えたのは、軟体動物のようなふにゃふにゃとした笑顔だ。その顔は、彼女が友人たちと話す時によくするものだとこの数日の観察で学んでいた。
同じ表情を自分にも当てがわれるのは嬉しく、何となくむず痒く、それらを優に上回るほどにとても……憎らしかった。
ーー気づいてしまったのだ。彼女が僕に対して抱いていたマイナスの感情が、昨日をきっかけにフラットになってしまったのだと。
彼女にとっての"その他大勢"の枠に、僕という存在までもを押し込めているのだと。
考えれば考えるほどに、全身を巡る血がふつふつと煮えたぎるような感覚に侵される。
僕にはそれが、ひどく不快だった。
*
「ジェイド先輩!」
放課後。モストロ・ラウンジでの勤務が待っていたジェイドは、廊下を歩いていた。背後から呼び止める声に、動かしていた両足を止める。振り返るまでもなく、声の主はわかり切っていたが。答え合わせに顔を向ければ、予想通りの人物ーーユウが居た。
「これからお仕事ですか」と問うその声はやはり、彼女のいつも通りだ。ジェイドが「ええ」と短く返せば、「頑張って下さいね」と上手に笑う。
「そうだ。これをお返ししようと思いまして」
そう言ってユウは徐に紙袋を前に差し出す。ジェイドはそれには見覚えがあった。というより、自身が彼女に渡したものだったから考えるまでもない。
ーーそのまま貰えばいいものを、なんと律儀なことだろうか。彼は気づかれないほどに小さく嘆息した。
「わざわざ翌日にお返ししなくてもいいのに」
「いいえ。このまま持ってて、忘れた頃に対価を求められたら困りますし」
たかだか服ぐらいで大袈裟な、とジェイドは思ったが、普段の自分たちの行いを省みて口には出さなかった。ユウの危惧することは当たらずも遠からじといったところか。どうやら監督生はこの学園での立ち振る舞いを分かってきたようだった。ジェイドの口からふ、と笑みが溢れる。
黙りこくってしまった彼を怪訝に見ていたユウは、おずおずと「もちろん、しっかり洗わせていただきましたよ?」と言葉を続ける。
「ただどうにも乾きが悪くて……エースとデュースに相談したんです」
ぴくり、とジェイドの瞼が震えた。
「そしたら二人が魔法を使って一瞬で乾かしてくれたんです。いつも思いますけど、やっぱり魔法って凄いですよね」
彼女は心の底から感心しているようで、笑みを溢しながら話す。聞かされた彼は、底冷えしていく気持ちを感じながら目を伏せた。
ーー自身が彼女に渡したものを他の男に触らせた、ジェイドはその事実がひどく気に入らなかった。今やその服には魔力の残渣が染み付いているに違いないことを想像し、嫌悪感に眉を潜める。
無論、魔力を持たない彼女には残渣なんて感じ得ないとは理解していたが。こんなにも自分は潔癖だっただろうかと驚きながらも、ジェイドはやはり受け取る気にはなれずにいた。
「……そちらは差し上げますよ」
「え、でも……」
「貴方に合わせて用意したものですから、返されても扱いに困ります」
まるで突き放すような口調に、ユウは驚きと戸惑いの混じった声を漏らす。どうすればいいものかと袋とジェイドに交互に視線を彷徨わせた。
覆い包む袋すら視界に入れるのを拒みたかったらしいジェイドは、前に組んだ手を強く握り込んで彼女の瞳を見据える。
「要らなければ、捨てて下さって結構ですよ」
たった一言で、ジェイドは彼女の迷いを強引に断ち切らせた。
言葉を突きつけられたユウは、目をこれでもかと言うほど見張って彼を見る。ユウから見る彼は、今までに見たことがないくらいの冷たいオーラを纏っているように感じられた。ナイフのような視線はそれこそ心臓を切り刻まれそうな錯覚をさせる。
そんな彼女を無視して、ジェイドは「まだ何か?」となおも追い詰めた。
「い、いえ。……すみません」
「何故謝るんです?」
ユウは謝ったものの、理由を問われ声が詰まった。彼女にしてみればジェイドがこのようなオーラを出す原因に心当たりなんてなく、見当すらもつかない。五日前から積み重ねたものなら多分にあった。しかしそれらが原因なのであれば今更な話だ。彼女は手のひらに滲む汗を袋と一緒に握り締めた。
「怒ってます、よね?」
恐る恐る、相手の様子を窺うように口にする。それに対しジェイドは一瞬だけ目を見開くが、直ぐにまた鋭利なものに戻した。
「……的外れな憶測は、それこそ相手を不愉快にさせかねないものですよ」
そう告げるジェイドは、もはや彼女と目すら合わせていなかった。
ユウもまた"的外れ"と本人に否定されては何も言えず、ぐっと唇を噛む。結局、頑なな態度を取る彼の本心を知り得ることは出来なかった。
気まずさを漂わせることすら許さないとばかりに、ジェイドは「では」と背を向ける。
「あの! 捨てたりなんて絶対にしません。……大事に、しますから」
届けられた声は、弱々しい反面、強い意志を持っていた。ジェイドは思わず足を止めそうになる。一体どんな表情をしているのか、気になったのが彼の正直な心境であった。
しかし、止まったところでジェイドは彼女に何も言うことは無い。……否、"言えない"といったほうが正しい。
散々自分から突き放しておきながら何が言えるというのか? 今の彼には正解がわからなかった。
じわり、じわりと滲む後悔には気付かない振りをして、ジェイドは歩く速度を速めた。
*
「いらっしゃいませ」
カラン、と来店を告げる合図が鳴る。寮服に身を包んだジェイドはもはや作業と化している挨拶をし、腰を折った。
伏せていた顔を上げると目の前にピッと何かを突きつけられた。ほぼ毎日目にしているそれは、まじまじと見ずとも分かった。敢えて多くと異なる点を述べるならば、カードの空白が埋められている。それが意味するものも、彼には明白だった。
「当店のご利用ありがとうございます。VIPルームにご案内致します」
ーー重厚な扉をノックをすれば、間も無く部屋の主から「どうぞ」と返ってくる。ジェイドが「失礼します」と声をかけ部屋に入ると、書斎に座って帳簿を睨むアズールが顔を上げた。
「お客様がいらっしゃいました」
「……分かりました。通して下さい」
どうぞ、と道を開ければそのお客様ーーとある寮の男子生徒は、大雑把に足を動かし皮張りのソファに無作法に腰掛けた。対するアズールはテーブルを挟んだ向かい側に、物音一つ立たず座り、足を組む。
ジェイドは二人の様子を眺めると、お茶を用意するため退室しようとした。
「出て行く必要はねえよ」
男子生徒と視線がかち合い、扉の方に向けた爪先は進むことなく止まる。ニタリと笑みを浮かべる相手に、ジェイドはいつもの笑顔を貼り付け「ではこのまま」とアズールの斜め後ろに立つ。男は一瞥すると、ポイントカードをテーブルの上に弾いた。
ーー埋められた空白は、自らが運営する店に貢献してくれた確固たる証拠。歪む口元を隠しもせず、アズールは生徒に向かって右手を差し出してみせる。
「早速ですが、ご相談をお聞かせいただきましょう」
その様は、何でもござれと言わんばかり。ふん、と鼻を鳴らした男はアズールではなく、後ろに立っている男の方を睨んだ。
「ジェイド・リーチ。お前に、あの監督生に痛い目をみせてやってほしい」
貼り付けられた笑みの口角が、他者には悟らせないほど僅かに下がった。ジェイドは何を言うでもなく、目の前の男の真意を探ろうとただただ見据える。
眼鏡越しに後ろを見上げたアズールは「ほう」と興味深げに呟いた。
「魔法も使えない癖に、のうのうとこの学園に居座っているのが前から目障りでしょうがなくてね。何でも、噂ではアンタ共々厄介な魔法薬にかかっているらしいじゃないか? 事故に見せかけて痛めつけるにはうってつけだ。丁度このカードも持て余していたからな」
ーー俺はわざわざ自分の手を汚す気はない。そう言ってニヤニヤと笑う男。
「それはそれは。いい趣味をお持ちでいらっしゃる」
眼鏡のブリッジに指を押し当て、アズールはなんて事はない顔で言う。
「何でも相談を聞いてくれるんだろ?」
「もちろん。"僕は"そうですね。ただ、その依頼を実行するのは、この"少々我の強い"ジェイドということになります。今回ばかりは彼の意志を尊重することとしましょう。よろしいですか?」
「……ああ。構わない」
お客様の了承を得ると、どうします? と視線で訊かれる。先程から仮面をつけたかのような表情をしていたジェイドは、アズールのほうを一瞥して目を伏せた。
ーー彼女がこの場にいようといまいと、忘れることは許されないらしい。先程のユウとの遣り取りを思い出し、ふう、とため息が出た。答えなど、彼の心には当に決まっていた。
ジェイドは胸に手を置き、恭しさを取り繕いながら仕上げに笑顔を作る。
「お断り致します」
後ろから聞こえた声に、アズールは一瞬だけ瞠目した。男はニヤけた口元を、への字に曲げてから鼻で笑う。
「へえ? てっきりアンタも嫌っていると思ったんだがな。断るのはあの監督生とオトモダチだからか? それともーー」
下卑た視線を受けながらも、ジェイドは表情を崩さなかった。何処をとっても食えない様子に、男は舌打ちをする。相談を断られてはすっかり客としての用を無くしてしまい、緩慢な動きでソファから立ち上がった。お役を果たせなかったカードを掴んで、真っ直ぐ部屋の出口の前に向かう。
「せっかくカードをお持ち下さったのに、ご相談に応えられずすみません。これに懲りずに是非またどうぞ」
「ああ。……そうだな」
慇懃に立ち上がり、謝罪するアズール。男は二人のほうを見て、含みのある笑みを口元に漏らす。ジェイドが扉を開けようとすると「見送りはいい」と言い残し、自ら扉の向こうに消えた。
暫しの沈黙の後、アズールの大袈裟なため息が部屋に響く。
「すみませんでした」
「別に構いませんよ。尊重すると言ったのは僕ですから」
お客様の相談を独断で拒否するーー一従業員としてはそれなりの失態である。ともすれば支配人の面子を潰しかねないことを、ジェイドはよく知っていた。知っていた上での、決断だ。
そんな彼のことをアズールは熟知しているが故に、責めようとはしない。むしろ、滅多に見られないジェイドの様子に、知的興味の方が唆られた。
「しかし、意外ですね。こんな簡単な頼み事をお前が断るなんて」
「……そういう気分ではなかった。それだけです」
「ほう? うちの寮に気分屋は一人で十分ですよ」
奔放な片割れのことを思い浮かべ、ジェイドは笑みを溢した。対するアズールは「笑いごとじゃありません」とぴしゃり。一人でも手を焼いているというのにそれが倍になった時の心労を考えると、寮を纏め上げる長としてはぞっとしない話だった。
ーー"意外"と思うのは何もアズールだけでなく、彼自身も同じである。らしくなく感情に振り回されてばかりいる自分に、ジェイドは戸惑いと苛立ちを抱かずにはいられなかった。