♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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「こっ……こ、こんばんは」
傍から見ても、可哀想なぐらいぎこちない挨拶だったと思う。
投げかけた先に立っているのは、アウトドアウェアに身を包んだジェイド先輩。月明かりに照らされる姿は、彼の持つ迫力を一層引き立てている。
私を視界に入れたその人は、緩やかに口角を上げた。
「こんばんは。ちゃんと時間通りですね。来て下さって嬉しいです」
すっぽかされたらどうしようかと思いました、とジェイド先輩は続ける。
そんな恐ろしいこと、できるわけないじゃないか。
*
今から遡ること数時間前。
休み時間を過ごす一年生の教室に、突如として彼は現れた。見慣れない上に、物騒な噂しか聞かない人物の登場に談笑していた教室内が密かにどよめく。
私はというと。ジェイド先輩の姿を捉えた瞬間、反射的に腰を浮かしたはいいものの、そのまま動くタイミングを逃して固まっていた。隣では格好のネタだと言わんばかりにエースが笑っている。
人の気も知らないで……と恨めし気に睨んでいると、ジェイド先輩はまさかの笑っている彼のほうを指名したようだ。途端にエースは露骨に嫌な表情を浮かべながら、のろのろと席を立った。はっはっは、少しは私の気持ちがお分かりいただけただろう。
二人は教室の出入口で一言二言交わし、ジェイド先輩は直ぐに立ち去った。そしてエースは怪訝な面持で、何かを手に持って私の隣に戻ってくる。
「ユウに渡してくれってよ」そう差し出されたのは、そこそこ大きく重さもある紙袋。中を見ると、とても丈夫そう且つ値が張りそうなアウトドアウェアが一式と、メッセージカードが一枚入っていた。
カードには『今日の二十時、魔法薬学室の前でお待ちしています。ジェイド・リーチ』と美麗な文字で綴られている。
こ、これはまさか……! と、カードを覗き込んでいたエースと顔を見合わせる。
「犯行予告……?」
「お前、それ本人には言うなよ」
*
用意されたからには着て来るように、とのことだろう。試しに着用したウェアは、帽子から靴までぴったりすぎて恐ろしかった。
何でサイズが分かったんだろう。先輩に問うと「見れば大体分かりますよ」と、さも当然のように言われる。もしかして『かじりとる歯』ってスカウター的な機能とかもあるんですか?
曲がりなりにも女子をやっている身としては、男子に身体のサイズを把握されるのはかなり複雑だ。微妙な表情をする私に構わず、ジェイド先輩が口を開く。
「食を通して山の魅力を知って頂くために、モストロ・ラウンジで山の幸フェアを催すことになったんです。そこで僭越ながら、僕が食材の一部を調達させていただくことに」
海と山の奇跡のコラボレーションか。よくあのアズール先輩が首を縦に振ったものである。 疑問をぶつければ「快く許可を下さいましたよ」と、それはもうにっこり話すジェイド先輩。これは強引に押し切ったパティーンだ。そう思ったが、命は惜しいので口に出さない。
「目的の山菜は山頂に群生しています。そこで、ユウさんには山菜採りのお手伝いをお願いしたいんです」
「私、そういった知識とか無いんですけど大丈夫でしょうか?」
「僕がお教えしますので心配ありませんよ」
山に詳しいらしい彼なら、山菜の種類など網羅しているのだろう。
それにしても、何でよりによって私なのだろうか。フロイド先輩とアズール先輩……は、無理だとして。その辺の生徒を適当に捕まえて従えることなど、彼にとっては造作もないはず。
そんな私の考えを読み取ったのか、ジェイド先輩はふう、と憂いを帯びた表情を浮かべる。
「先日の授業で、僕としたことが"たまたま"箒から落ちてしまい、未だに体の節々が痛むんです。そんな折、"たまたま"優しいユウさんの顔が思い浮かび、お願いした次第です」
「その節は誠にすみませんでした」
あの時の悪夢が脳裏に蘇り、即座に腰を九十度に折って謝った。鋭い歯を覗かせて笑う様は、悪魔の尻尾が見え隠れしているようだ。
──そもそも身体が痛いなら山登りできないはずでは? 気づいているのに声に出せない自分の何と情けないことか。
心なしかキリキリ痛んできた胃を押さえていると「それを背負って下さい」と指示を投げられる。近くにはリュックが置いてあり、言われた通りに腕を通した。
準備ができたのを確認すると、ジェイド先輩はマジカルペンを取り出し、一振りする。すると、水色の球体が光を放ちながらふわふわと頭上高くに浮かぶ。辺りを明るく照らしてくれるその様は、ファンタジーな懐中電灯だ。
「ユウさんが前を歩いて下さい。道は後ろから教えます」
「普通逆では……?」
「参りましたね。さすがに人一人を頂上まで転がして行くのは骨が折れそうです」
「謹んで歩かせていただきます」
*
ある程度踏み慣らされているといえど、山は山だ。観光地でもないし、足場はそれなりに悪い。加えて私は体力自慢でも無いから、十五分も歩けば段々とペースが落ちてくる。
だが足を休めようものなら後ろのジェイド先輩にグッと距離を縮められ、弾かれた体が前につんのめる。抗議の視線を送ってみても、早く行けと言わんばかりの笑みで返されるだけ。
いっそ引き離してやろう、と大股で歩いてみるが、無駄に体力を消耗するだけに終わった。コンパスの差はどうあがいても埋められない。
ーー山の中腹を過ぎた頃。苦しい時期を何とか乗り越え、段々と周囲を気にする余裕が出来てきた。
山中では、学園の植物園には無い草花が目につく。あれはこれはと指していくと、遠くから見ているジェイド先輩が間髪入れず答えてくれた。さすが、山を愛する会の名は伊達じゃない。
「わ、これも綺麗な花ですね」
ふと目についたのは、足元で健気に咲いているアネモネに似た白い花。美しく成長できた姿を見てほしいと訴えかけてくるようで、私は目線を合わせる。
「摘んでいきますか?」
「うーん……やめておきます。自然のままにしておきたいので」
こうして懸命に命を咲かせている花を"綺麗だから"という自分のエゴだけで手折ってしまうのは気が引けた。
蹲み込んでいた腰を上げると、後ろの先輩が「良かった」と意味ありげに笑う。
「その花は素手で触ると痺れてしまうんですよ」
「じゃあ訊かないでくださいよ……」
げんなりした顔を隠さずにいると、なおも面白いとばかりに笑っていた。全く、どこまでも油断ならない男だ。
*
スタートしてから一時間も経たずして、私たちは無事に山の頂上に着いた。
慣れない登山に疲労困憊な私に対し、ジェイド先輩は息ひとつ乱さずにいた。休む間も無く「こっちです」と茂みの中を指される。行かなければ転がされるだけだ、拒否権はない。
示されたほうに行くと、彼は一つの草を地面から摘み取った。
「こちらを集めてもらえますか?」
「わかりました」
することが決まればわざわざ言葉を交わすことは無い。地面に蹲み込み、黙々と指定された山菜を採っていく。
──暫くは無心でいたが、摘み取った山菜が山を作るように、今の状況の不自然さを心に募らせずにはいられなかった。
当初は彼に近づくことなんてないだろう、と踏んでいた筈だった。
それが今はどうだ? こうして一緒に山に登り、山菜を採っている。なんて計算外もいいところである。
彼なりの嫌がらせにしても、やり方がとても回りくどい。今日に至ってはこんな大層な服まで用意して、かえって手間がかかっている風に思えてならない。効率を考えれば最初から無視するなり何なり──あまり考えたくないが、私を排除する方法は幾らでもあったはずだ。
相も変わらず、何食わぬ表情で地面と向き合う横顔。私は少し迷った後、なるべく自然を装いながら口に出してみることにした。
「ジェイド先輩は、何でわざわざ私に構うんですか?」
「おや? 先日のを忘れて……」
「あー、その件はもちろん悪かったと思ってますけど! というか、それを言ったら私だって食堂でのこと忘れてませんよ」
「あれは……ついうっかり、です。故意ではありません」
うっかりなんてよく言う。ちゃんとこっちを認識していた上での行動だったじゃないか。
いけしゃあしゃあと嘘をつく様に据わった目を向けるが、ジェイド先輩は意にも介さず山菜を採っていく。
「……強いて言えば、好奇心でしょうか」
「え?」
唐突な言葉に、我ながら間抜けな声が出た。ややあって、それは先ほどの私の問いに対する答えだと理解した。
「貴方のような魔法も使えない癖に無鉄砲で、身を滅ぼしかねないぐらいに鈍臭く、山の天気のように表情の忙しない方は、そうそうお目にかかれませんからね」
「ここぞとばかりにボロクソですね」
上品な口元からつらつらと奏でられる嘲りの言葉。不本意だけど言っていることは概ね合っているだけに言い返せない。それがまた悔しくて、やや強めに山菜をむしる。念の為言っておくが、山菜に罪は無い。
「褒めているんですよ? 観察対象としては飽きなくてちょうど良い」
まるで心外だとでもいう顔で彼は言う。
「どうせ褒めるなら、もっと分かりやすい褒め言葉は無いんですか」
「分かりやすい……ああ、食べてしまいたいぐらい可愛らしいですよ」
「私が悪かったです。すみませんでした」
うん、言葉だけの問題じゃなかったみたいだ。
悪戯に見せられた凶暴な歯は、文字通り食い尽くされてしまいそうで身震いした。
*
三十分もやっていれば、ジェイド先輩が持ってきた籠の中はどっさり山菜で埋め尽くされる。
ふう、と息を吐きながら立ち上がると、ずっとしゃがんでいたせいで下半身が痛んだ。労わるように腰を叩いていたら「休憩してから下りましょうか」と提案される。その案に関しては、諸手を挙げて賛成できた。
ジェイド先輩に案内されるまま、見晴らしの良いところに移動し草の絨毯の上に座る。きっかり半径五メートルほど空けた隣に、先輩も腰を下ろした。
山を登って、山菜を採ってとなると、さすがに喉も渇いてくるというもので。それを見計らったかのように、ジェイド先輩が私の背負っているリュックを指差す。チャックを開け中を覗いてみると、液体の入ったボトルが出てきた。
中身はアイスティーだろうか? 綺麗な飴色が透き通っている。一緒に入っていた紙コップに注ぎ、渇いていた喉を潤した。
「これ……すごくおいしいです。もしかしてジェイド先輩が淹れたんですか?」
「ええ、そうですよ。お口に合ったようで何よりです。
……ああ、ところでユウさん」
「はい」
「お身体は大丈夫ですか?」
「? 大丈夫ですけ、ど……」
どこか含みのある物言いに、ハッと目を見開き口を押さえる。喉がカラカラだったせいもあり、あのジェイド先輩が用意したということをろくに考えもせず飲んでしまった。
顔を青ざめさせていると、「慣れない山登りで疲れたでしょう」と彼は満面の笑顔で言う。これは確信犯です。間違いない。
「まっ、紛らわしい聞き方をしないで下さい」
「おやおや。僕はただ労りの言葉をかけたつもりだったのですが……まさか警戒されてしまうとは思いませんでした」
よくもまあ、そんなに白々しさを醸し出せるものだ。やれやれと悩ましげに目を伏せる彼を横目に、私は紅茶をすする。
「一体、僕はユウさんの目にどう見えているのでしょうね?」
危うく口に含んでいた紅茶が気道に入りかけた。
だって、マイペースの権化であるジェイド先輩からそんなことを訊かれるなんて夢にも思わないじゃないか。
今度は何の冗談かと隣を見るが、彼はそれなりに本心で訊いているらしい。私のほうをしっかり見て、傾聴する姿勢を作っていた。そうなってはこちらも適当に流すわけにはいかなくなる。
「そうですね……まず、怖いです」
「ほう」
「そして……怖いです」
「酷い言われようですね。傷つきました」
シクシク、と先輩はいっそ清々しいぐらいの嘘泣きをする。
散々たる回答だが、これでも私なりに頑張って考えた結果だ。しかしいかんせん彼に対する恐怖心が強すぎて、どんなに言葉を偽ろうとしてもなかなか適切な台詞が出てこなかった。
「ですがユウさんは、フロイドやアズールとは仲良くしていらっしゃいますよね。二人よりも僕は怖いのですか?」
何やら、とんでもない誤解をされているようだ。その二人とは決して仲良くはないはずだし、関わる時はほとんど不可抗力みたいなものである。そう伝えようとするが、向けられた真剣な目つきに言葉が詰まる。
私の抱いているジェイド先輩のイメージにそぐわないが……意外と人の目を気にしていたりするのだろうか? 先輩は無言を肯定ととったらしく、大袈裟にため息をついた。
「悲しいですね。自慢ではありませんが、僕は人の懐に入るのが得意な方なんですよ」
「そっちの方が場合によっては一番怖い気がします」
後ろを振り返ったら、隣を見たら、はたまた知らぬ間に自分の周りにその人は溶け込んでいた。なんて言うのは、ホラーやサスペンス映画などでよく見るパターンだ。彼はそれが似合いすぎる。アカデミー賞受賞もきっと夢じゃない。
「では、怖く思われない為にはどうしたらいいですか?」
今日のジェイド先輩は"らしくない"のオンパレードだ。道中に何か悪いキノコでも拾い食いしていたのかな。
いつもの貼りつけられた表情でなく、真顔なのが余計に私を困惑させる。動揺が伝わってしまったのか、彼は「参考までに」と付け足した。
怖くない人。ひいてはジェイド先輩と正反対の人物。当てはまりそうな人を片っ端から思い浮かべてみる。
マブに、グリムに、ジャックに、……こうして考えると同級生以外は大概関わり難い人ばかりだと分かる。この学園の上級生は軒並み癖が強すぎるのだ。
数少ない対象者に共通するものと言えば──。
「その人の"隙"のようなものをみると安心する気がします……けど、ジェイド先輩には不要でしょうし参考には……」
「隙とはどういったものでしょうか?」
「え? えっと……弱み、ですかね」
弱み、と呟くと先輩は顎に指を添えて考え込む素振りをみせる。そんなもの彼にあるとは到底思えないが。
的外れな答えだったかな、とコップに口をつけお茶を濁す。ジェイド先輩は数秒考えた後、思い当たるものがあったらしく、眉尻を下げてこちらに向き直った。
「アナゴを食すのはどうも苦手です」
「アナッ……何ですか、そのかわいい弱みは」
何が飛び出してくるかと思いきや、ウツボ様はアナゴがお嫌いときた。弱みといえば弱みだが、そっちの方向は予想外だった。
率直な感想もといツッコミを述べると、ジェイド先輩はぱちぱちと目を瞬く。その様相は彼にしては珍しく、年相応にみえた。
「かわいい、です? 貴方から初めていただいた言葉ですね。ふふ」
あ、かわいい。
……っておい! 私は咄嗟にグシャッと紙コップを握り潰してしまった。中身は既に飲み干していたおかげで、ぶち撒ける失態は免れたが。
作り笑いでもなく、悪巧みをしているでもなく。ただただ純粋に感情を露わにして笑う彼の姿は初めて見た。
普段がハバネロたっぷり激辛料理だとしたら、今の笑顔は甘く柔らかいシフォンケーキのよう。トレイ先輩の『薔薇を塗ろう』もびっくりの味変だ。
──ジェイド先輩はこんな笑い方も出来るんだ。畏怖の対象としてしか認識していなかった彼の新たな一面を知ってしまい、調子が狂う。
俯いて唸っていると、当然ながら隣からどうかしたのかと問われる。
「何か、今日のジェイド先輩はへ……不思議ですね」
「怖いですか?」
「怖くないのが怖いです」
「難しいことをおっしゃいますね」
ちら、と彼を盗み見るとその瞳は空を映していた。同じように見上げてみれば、そこには満点の星空が広がっている。山菜採りやら何やらで、地面ばかり見ていたせいでさっぱり気がつかなかった。
鮮明で幻想的な光景に、私は無意識に「きれい」と呟いていた。相槌は期待していなかったが、ちゃんと聞き取ってくれる人がいた。「そうですね」との声がした方を見れば、眦を柔らかくした彼と目が合う。
──キラキラしたフィルターがかかって見えるのはきっと、星空の残像が残っているせいだと思う。
胸に手を当て、宝物を閉じ込めるように瞼を閉じれば、いくらか気持ちが落ち着いてきた。
「成り行きでしたが、こうしてジェイド先輩とお話できて良かったとも思います」
今日でだいぶ印象が変わりました、と素直な所感を口にする。
「それは大変興味深いですね。どういう風に変わったのか伺っても?」
「想像していたよりも話しやすくて、山にとても詳しくて、それから……思い掛けない、かわいらしい一面もありました」
きっと今みたいな機会がなければ、彼に対してただ"怖い"という印象だけを持ち続けたままだった。それはそれで差し支えはないとしても、一方的に決めつけて切り捨てているみたいでもったいない。人は多面性を持っていて当たり前なのだから、ちゃんと話してみるって大事。
人間関係の基本を忘れていた自分が恥ずかしくなり、へへ、と鼻の下を指で擦る。
「それはそれは……嬉しいですね」
おっと、これは胡散臭い笑顔だな。
私はガードするように顔の前に両腕を掲げる。物理的には全く意味を為さないが、気持ちの問題だ。警戒心を剥き出しにして相手の出方を窺っていると、ジェイド先輩はスッと鋭利な目を細めた。
「人の懐に入るのは得意、と言ったでしょう」
「え゛……もしかして初めからそういう魂胆だったりします?」
「さあ、どうでしょう?」
私が首を傾げると、鏡写しのように彼も首を傾ける。
……分からない。知れば知るほど分からない人だ。
頭を抱えて混乱する様を、優しい眼差しが見ていたことなんて私は知る由もない。
傍から見ても、可哀想なぐらいぎこちない挨拶だったと思う。
投げかけた先に立っているのは、アウトドアウェアに身を包んだジェイド先輩。月明かりに照らされる姿は、彼の持つ迫力を一層引き立てている。
私を視界に入れたその人は、緩やかに口角を上げた。
「こんばんは。ちゃんと時間通りですね。来て下さって嬉しいです」
すっぽかされたらどうしようかと思いました、とジェイド先輩は続ける。
そんな恐ろしいこと、できるわけないじゃないか。
*
今から遡ること数時間前。
休み時間を過ごす一年生の教室に、突如として彼は現れた。見慣れない上に、物騒な噂しか聞かない人物の登場に談笑していた教室内が密かにどよめく。
私はというと。ジェイド先輩の姿を捉えた瞬間、反射的に腰を浮かしたはいいものの、そのまま動くタイミングを逃して固まっていた。隣では格好のネタだと言わんばかりにエースが笑っている。
人の気も知らないで……と恨めし気に睨んでいると、ジェイド先輩はまさかの笑っている彼のほうを指名したようだ。途端にエースは露骨に嫌な表情を浮かべながら、のろのろと席を立った。はっはっは、少しは私の気持ちがお分かりいただけただろう。
二人は教室の出入口で一言二言交わし、ジェイド先輩は直ぐに立ち去った。そしてエースは怪訝な面持で、何かを手に持って私の隣に戻ってくる。
「ユウに渡してくれってよ」そう差し出されたのは、そこそこ大きく重さもある紙袋。中を見ると、とても丈夫そう且つ値が張りそうなアウトドアウェアが一式と、メッセージカードが一枚入っていた。
カードには『今日の二十時、魔法薬学室の前でお待ちしています。ジェイド・リーチ』と美麗な文字で綴られている。
こ、これはまさか……! と、カードを覗き込んでいたエースと顔を見合わせる。
「犯行予告……?」
「お前、それ本人には言うなよ」
*
用意されたからには着て来るように、とのことだろう。試しに着用したウェアは、帽子から靴までぴったりすぎて恐ろしかった。
何でサイズが分かったんだろう。先輩に問うと「見れば大体分かりますよ」と、さも当然のように言われる。もしかして『かじりとる歯』ってスカウター的な機能とかもあるんですか?
曲がりなりにも女子をやっている身としては、男子に身体のサイズを把握されるのはかなり複雑だ。微妙な表情をする私に構わず、ジェイド先輩が口を開く。
「食を通して山の魅力を知って頂くために、モストロ・ラウンジで山の幸フェアを催すことになったんです。そこで僭越ながら、僕が食材の一部を調達させていただくことに」
海と山の奇跡のコラボレーションか。よくあのアズール先輩が首を縦に振ったものである。 疑問をぶつければ「快く許可を下さいましたよ」と、それはもうにっこり話すジェイド先輩。これは強引に押し切ったパティーンだ。そう思ったが、命は惜しいので口に出さない。
「目的の山菜は山頂に群生しています。そこで、ユウさんには山菜採りのお手伝いをお願いしたいんです」
「私、そういった知識とか無いんですけど大丈夫でしょうか?」
「僕がお教えしますので心配ありませんよ」
山に詳しいらしい彼なら、山菜の種類など網羅しているのだろう。
それにしても、何でよりによって私なのだろうか。フロイド先輩とアズール先輩……は、無理だとして。その辺の生徒を適当に捕まえて従えることなど、彼にとっては造作もないはず。
そんな私の考えを読み取ったのか、ジェイド先輩はふう、と憂いを帯びた表情を浮かべる。
「先日の授業で、僕としたことが"たまたま"箒から落ちてしまい、未だに体の節々が痛むんです。そんな折、"たまたま"優しいユウさんの顔が思い浮かび、お願いした次第です」
「その節は誠にすみませんでした」
あの時の悪夢が脳裏に蘇り、即座に腰を九十度に折って謝った。鋭い歯を覗かせて笑う様は、悪魔の尻尾が見え隠れしているようだ。
──そもそも身体が痛いなら山登りできないはずでは? 気づいているのに声に出せない自分の何と情けないことか。
心なしかキリキリ痛んできた胃を押さえていると「それを背負って下さい」と指示を投げられる。近くにはリュックが置いてあり、言われた通りに腕を通した。
準備ができたのを確認すると、ジェイド先輩はマジカルペンを取り出し、一振りする。すると、水色の球体が光を放ちながらふわふわと頭上高くに浮かぶ。辺りを明るく照らしてくれるその様は、ファンタジーな懐中電灯だ。
「ユウさんが前を歩いて下さい。道は後ろから教えます」
「普通逆では……?」
「参りましたね。さすがに人一人を頂上まで転がして行くのは骨が折れそうです」
「謹んで歩かせていただきます」
*
ある程度踏み慣らされているといえど、山は山だ。観光地でもないし、足場はそれなりに悪い。加えて私は体力自慢でも無いから、十五分も歩けば段々とペースが落ちてくる。
だが足を休めようものなら後ろのジェイド先輩にグッと距離を縮められ、弾かれた体が前につんのめる。抗議の視線を送ってみても、早く行けと言わんばかりの笑みで返されるだけ。
いっそ引き離してやろう、と大股で歩いてみるが、無駄に体力を消耗するだけに終わった。コンパスの差はどうあがいても埋められない。
ーー山の中腹を過ぎた頃。苦しい時期を何とか乗り越え、段々と周囲を気にする余裕が出来てきた。
山中では、学園の植物園には無い草花が目につく。あれはこれはと指していくと、遠くから見ているジェイド先輩が間髪入れず答えてくれた。さすが、山を愛する会の名は伊達じゃない。
「わ、これも綺麗な花ですね」
ふと目についたのは、足元で健気に咲いているアネモネに似た白い花。美しく成長できた姿を見てほしいと訴えかけてくるようで、私は目線を合わせる。
「摘んでいきますか?」
「うーん……やめておきます。自然のままにしておきたいので」
こうして懸命に命を咲かせている花を"綺麗だから"という自分のエゴだけで手折ってしまうのは気が引けた。
蹲み込んでいた腰を上げると、後ろの先輩が「良かった」と意味ありげに笑う。
「その花は素手で触ると痺れてしまうんですよ」
「じゃあ訊かないでくださいよ……」
げんなりした顔を隠さずにいると、なおも面白いとばかりに笑っていた。全く、どこまでも油断ならない男だ。
*
スタートしてから一時間も経たずして、私たちは無事に山の頂上に着いた。
慣れない登山に疲労困憊な私に対し、ジェイド先輩は息ひとつ乱さずにいた。休む間も無く「こっちです」と茂みの中を指される。行かなければ転がされるだけだ、拒否権はない。
示されたほうに行くと、彼は一つの草を地面から摘み取った。
「こちらを集めてもらえますか?」
「わかりました」
することが決まればわざわざ言葉を交わすことは無い。地面に蹲み込み、黙々と指定された山菜を採っていく。
──暫くは無心でいたが、摘み取った山菜が山を作るように、今の状況の不自然さを心に募らせずにはいられなかった。
当初は彼に近づくことなんてないだろう、と踏んでいた筈だった。
それが今はどうだ? こうして一緒に山に登り、山菜を採っている。なんて計算外もいいところである。
彼なりの嫌がらせにしても、やり方がとても回りくどい。今日に至ってはこんな大層な服まで用意して、かえって手間がかかっている風に思えてならない。効率を考えれば最初から無視するなり何なり──あまり考えたくないが、私を排除する方法は幾らでもあったはずだ。
相も変わらず、何食わぬ表情で地面と向き合う横顔。私は少し迷った後、なるべく自然を装いながら口に出してみることにした。
「ジェイド先輩は、何でわざわざ私に構うんですか?」
「おや? 先日のを忘れて……」
「あー、その件はもちろん悪かったと思ってますけど! というか、それを言ったら私だって食堂でのこと忘れてませんよ」
「あれは……ついうっかり、です。故意ではありません」
うっかりなんてよく言う。ちゃんとこっちを認識していた上での行動だったじゃないか。
いけしゃあしゃあと嘘をつく様に据わった目を向けるが、ジェイド先輩は意にも介さず山菜を採っていく。
「……強いて言えば、好奇心でしょうか」
「え?」
唐突な言葉に、我ながら間抜けな声が出た。ややあって、それは先ほどの私の問いに対する答えだと理解した。
「貴方のような魔法も使えない癖に無鉄砲で、身を滅ぼしかねないぐらいに鈍臭く、山の天気のように表情の忙しない方は、そうそうお目にかかれませんからね」
「ここぞとばかりにボロクソですね」
上品な口元からつらつらと奏でられる嘲りの言葉。不本意だけど言っていることは概ね合っているだけに言い返せない。それがまた悔しくて、やや強めに山菜をむしる。念の為言っておくが、山菜に罪は無い。
「褒めているんですよ? 観察対象としては飽きなくてちょうど良い」
まるで心外だとでもいう顔で彼は言う。
「どうせ褒めるなら、もっと分かりやすい褒め言葉は無いんですか」
「分かりやすい……ああ、食べてしまいたいぐらい可愛らしいですよ」
「私が悪かったです。すみませんでした」
うん、言葉だけの問題じゃなかったみたいだ。
悪戯に見せられた凶暴な歯は、文字通り食い尽くされてしまいそうで身震いした。
*
三十分もやっていれば、ジェイド先輩が持ってきた籠の中はどっさり山菜で埋め尽くされる。
ふう、と息を吐きながら立ち上がると、ずっとしゃがんでいたせいで下半身が痛んだ。労わるように腰を叩いていたら「休憩してから下りましょうか」と提案される。その案に関しては、諸手を挙げて賛成できた。
ジェイド先輩に案内されるまま、見晴らしの良いところに移動し草の絨毯の上に座る。きっかり半径五メートルほど空けた隣に、先輩も腰を下ろした。
山を登って、山菜を採ってとなると、さすがに喉も渇いてくるというもので。それを見計らったかのように、ジェイド先輩が私の背負っているリュックを指差す。チャックを開け中を覗いてみると、液体の入ったボトルが出てきた。
中身はアイスティーだろうか? 綺麗な飴色が透き通っている。一緒に入っていた紙コップに注ぎ、渇いていた喉を潤した。
「これ……すごくおいしいです。もしかしてジェイド先輩が淹れたんですか?」
「ええ、そうですよ。お口に合ったようで何よりです。
……ああ、ところでユウさん」
「はい」
「お身体は大丈夫ですか?」
「? 大丈夫ですけ、ど……」
どこか含みのある物言いに、ハッと目を見開き口を押さえる。喉がカラカラだったせいもあり、あのジェイド先輩が用意したということをろくに考えもせず飲んでしまった。
顔を青ざめさせていると、「慣れない山登りで疲れたでしょう」と彼は満面の笑顔で言う。これは確信犯です。間違いない。
「まっ、紛らわしい聞き方をしないで下さい」
「おやおや。僕はただ労りの言葉をかけたつもりだったのですが……まさか警戒されてしまうとは思いませんでした」
よくもまあ、そんなに白々しさを醸し出せるものだ。やれやれと悩ましげに目を伏せる彼を横目に、私は紅茶をすする。
「一体、僕はユウさんの目にどう見えているのでしょうね?」
危うく口に含んでいた紅茶が気道に入りかけた。
だって、マイペースの権化であるジェイド先輩からそんなことを訊かれるなんて夢にも思わないじゃないか。
今度は何の冗談かと隣を見るが、彼はそれなりに本心で訊いているらしい。私のほうをしっかり見て、傾聴する姿勢を作っていた。そうなってはこちらも適当に流すわけにはいかなくなる。
「そうですね……まず、怖いです」
「ほう」
「そして……怖いです」
「酷い言われようですね。傷つきました」
シクシク、と先輩はいっそ清々しいぐらいの嘘泣きをする。
散々たる回答だが、これでも私なりに頑張って考えた結果だ。しかしいかんせん彼に対する恐怖心が強すぎて、どんなに言葉を偽ろうとしてもなかなか適切な台詞が出てこなかった。
「ですがユウさんは、フロイドやアズールとは仲良くしていらっしゃいますよね。二人よりも僕は怖いのですか?」
何やら、とんでもない誤解をされているようだ。その二人とは決して仲良くはないはずだし、関わる時はほとんど不可抗力みたいなものである。そう伝えようとするが、向けられた真剣な目つきに言葉が詰まる。
私の抱いているジェイド先輩のイメージにそぐわないが……意外と人の目を気にしていたりするのだろうか? 先輩は無言を肯定ととったらしく、大袈裟にため息をついた。
「悲しいですね。自慢ではありませんが、僕は人の懐に入るのが得意な方なんですよ」
「そっちの方が場合によっては一番怖い気がします」
後ろを振り返ったら、隣を見たら、はたまた知らぬ間に自分の周りにその人は溶け込んでいた。なんて言うのは、ホラーやサスペンス映画などでよく見るパターンだ。彼はそれが似合いすぎる。アカデミー賞受賞もきっと夢じゃない。
「では、怖く思われない為にはどうしたらいいですか?」
今日のジェイド先輩は"らしくない"のオンパレードだ。道中に何か悪いキノコでも拾い食いしていたのかな。
いつもの貼りつけられた表情でなく、真顔なのが余計に私を困惑させる。動揺が伝わってしまったのか、彼は「参考までに」と付け足した。
怖くない人。ひいてはジェイド先輩と正反対の人物。当てはまりそうな人を片っ端から思い浮かべてみる。
マブに、グリムに、ジャックに、……こうして考えると同級生以外は大概関わり難い人ばかりだと分かる。この学園の上級生は軒並み癖が強すぎるのだ。
数少ない対象者に共通するものと言えば──。
「その人の"隙"のようなものをみると安心する気がします……けど、ジェイド先輩には不要でしょうし参考には……」
「隙とはどういったものでしょうか?」
「え? えっと……弱み、ですかね」
弱み、と呟くと先輩は顎に指を添えて考え込む素振りをみせる。そんなもの彼にあるとは到底思えないが。
的外れな答えだったかな、とコップに口をつけお茶を濁す。ジェイド先輩は数秒考えた後、思い当たるものがあったらしく、眉尻を下げてこちらに向き直った。
「アナゴを食すのはどうも苦手です」
「アナッ……何ですか、そのかわいい弱みは」
何が飛び出してくるかと思いきや、ウツボ様はアナゴがお嫌いときた。弱みといえば弱みだが、そっちの方向は予想外だった。
率直な感想もといツッコミを述べると、ジェイド先輩はぱちぱちと目を瞬く。その様相は彼にしては珍しく、年相応にみえた。
「かわいい、です? 貴方から初めていただいた言葉ですね。ふふ」
あ、かわいい。
……っておい! 私は咄嗟にグシャッと紙コップを握り潰してしまった。中身は既に飲み干していたおかげで、ぶち撒ける失態は免れたが。
作り笑いでもなく、悪巧みをしているでもなく。ただただ純粋に感情を露わにして笑う彼の姿は初めて見た。
普段がハバネロたっぷり激辛料理だとしたら、今の笑顔は甘く柔らかいシフォンケーキのよう。トレイ先輩の『薔薇を塗ろう』もびっくりの味変だ。
──ジェイド先輩はこんな笑い方も出来るんだ。畏怖の対象としてしか認識していなかった彼の新たな一面を知ってしまい、調子が狂う。
俯いて唸っていると、当然ながら隣からどうかしたのかと問われる。
「何か、今日のジェイド先輩はへ……不思議ですね」
「怖いですか?」
「怖くないのが怖いです」
「難しいことをおっしゃいますね」
ちら、と彼を盗み見るとその瞳は空を映していた。同じように見上げてみれば、そこには満点の星空が広がっている。山菜採りやら何やらで、地面ばかり見ていたせいでさっぱり気がつかなかった。
鮮明で幻想的な光景に、私は無意識に「きれい」と呟いていた。相槌は期待していなかったが、ちゃんと聞き取ってくれる人がいた。「そうですね」との声がした方を見れば、眦を柔らかくした彼と目が合う。
──キラキラしたフィルターがかかって見えるのはきっと、星空の残像が残っているせいだと思う。
胸に手を当て、宝物を閉じ込めるように瞼を閉じれば、いくらか気持ちが落ち着いてきた。
「成り行きでしたが、こうしてジェイド先輩とお話できて良かったとも思います」
今日でだいぶ印象が変わりました、と素直な所感を口にする。
「それは大変興味深いですね。どういう風に変わったのか伺っても?」
「想像していたよりも話しやすくて、山にとても詳しくて、それから……思い掛けない、かわいらしい一面もありました」
きっと今みたいな機会がなければ、彼に対してただ"怖い"という印象だけを持ち続けたままだった。それはそれで差し支えはないとしても、一方的に決めつけて切り捨てているみたいでもったいない。人は多面性を持っていて当たり前なのだから、ちゃんと話してみるって大事。
人間関係の基本を忘れていた自分が恥ずかしくなり、へへ、と鼻の下を指で擦る。
「それはそれは……嬉しいですね」
おっと、これは胡散臭い笑顔だな。
私はガードするように顔の前に両腕を掲げる。物理的には全く意味を為さないが、気持ちの問題だ。警戒心を剥き出しにして相手の出方を窺っていると、ジェイド先輩はスッと鋭利な目を細めた。
「人の懐に入るのは得意、と言ったでしょう」
「え゛……もしかして初めからそういう魂胆だったりします?」
「さあ、どうでしょう?」
私が首を傾げると、鏡写しのように彼も首を傾ける。
……分からない。知れば知るほど分からない人だ。
頭を抱えて混乱する様を、優しい眼差しが見ていたことなんて私は知る由もない。