♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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透けるような青から柔らかい橙色へと表情を変える空。鮮やかなグラデーションは地へと降り注ぎ、緑豊かな中庭を同じ色へ塗り替えようとしている――。
心の余裕があれば、そんな景色の一つでも楽しめただろうに。
生憎、今の私は何かに追い立てられるかのような忙しない足取りで廊下を歩いていた。
(寮に帰ったらまず今日の分の復習と明日の予習をして、グリムはマジフト部の助っ人に駆り出されてるから帰ってくる前にご飯を作って、それから……)
ぶつぶつと呪文のように呟くのは、帰寮後の己に課されたミッションだ。一日の授業を終えても、やらねばならぬことはまだまだ残されている。世知辛い世の中、いや、世知辛いツイステッドワンダーランドである。監督生はつらいよ、とでも題して日常を映画化すれば観ている人の涙でも誘えそうだ。
(映画は公開初日から話題が話題を呼び興行収入億越え、そして晴れて億万長者になった私は悠々自適な豪邸暮らし……なーんてね)
現実から逃げるように有り得ない想像を膨らませていると、明日の天気予報が雨だったことを思い出した。
これはまた、寮の天井が雨漏りする前に対策しておかないと大惨事になってしまう。豪邸どころか、現実はあまりにも残酷である。
自分一人じゃとても手が回らないからグリムにも手伝いを頼むとしよう。ツナ缶が一番の燃料源である彼は、今回は二個ぐらいで手を打ってくれるだろうかと思案しつつ、ふと足元に向けていた顔を前に戻す。
視線の先に一つの影が佇んでいるのに気がつけたのは、廊下の人気が疎らだったせいか。いやそれよりも、遠目からでも分かる存在感アンド威圧感をその長躯に纏わせていたからかもしれない。
身の危険を察知した私は、自動車よろしく自動ブレーキを作動させると、即座にUターンをした……つもりだったのだが。
「なぁに逃げようとしてんの?」
残念ながら、一歩遅かったようだ。
背後から首に回されたしなやかで逞しい腕に、鼓膜に纏わり付くような甘ったるい声が耳元で囁く。その持ち主の名を呼び掛けようとした喉は圧迫され、口からは「ぐえっ」と蛙の潰れたような声が出た。
「先輩の顔見て逃げるとか失礼だと思わねえ? あーあ。薄情な後輩でオレかなし〜」
「別に逃げたわけじゃ……わ、忘れ物を思い出しただけですって。やだなー、フロイド先輩ってば。ははは」
「へぇ?」
鼻先がくっ付きそうなほど寄せられた瞳には、明らかに疑いの色が滲んでいる。無理もない、咄嗟に口をついて出たベッタベタな嘘だもの。
背中に滝のような冷や汗を流しつつ、言ってしまったからには貫かねばと必死に見つめ返した。
「……ま、そういうことにしといてやるけど〜」
だらり、と首を絞めていた腕が肩にぶら下がる。間延びした声からも、目尻が垂れ下がった瞳からも、疑いどころかすっかり興味が消え失せたことが確認できた。
今回ばかりは彼が気分屋で助かった。解放された安心感にほっと胸を撫で下ろす。
「では、そういうことなので私は失礼しますね」
「えぇ〜? 忘れ物なんて後でいいじゃん。せっかく会ったんだからさぁ、暇つぶしに付き合ってよ」
尋問の次は駄々っ子だ。目まぐるしい七変化に苦笑しながら返事を渋っていると、ねーねーと口を尖らせたフロイド先輩は肩に回した腕で振り子のように私の体を揺する。
フロイド先輩と違って私は暇じゃないんです……と突っぱねたら流石に角が立つだろうか。本当は言ってやりたいぐらいだが、より面倒な方向に転ぶのは避けたい。となれば、先輩の有り難い誘いに感謝の意を添えつつ丁重にお断りするのが無難だろう。よし、これで行くぞ。
早速私はさも申し訳なさそうな顔を拵えて「あ」の一文字を発したが、その先が紡がれることはなかった。
「付き合ってくれる、よなァ?」
「はい勿論です喜んで!」
最初から断る選択肢など無かったのだ。瞳孔ガン開きの先輩に凄まれれば、脊髄反射の勢いで頷いてしまうのだから。
*
ひと睨み利かせただけでノコノコついて来てしまうような健気な後輩に、柄の悪い先輩が無理難題を吹っかける。なんてことはある種の定番である。
一芸披露しろ、三回回ってワン!と鳴け、焼きそばパン買ってこい、喧嘩の相手をしろ――様々なパターンを思い描いては憂鬱な気持ちに苛まれた私だったが、そんな心配は無用だったみたいだ。
近場にあったベンチに並んで腰掛けたフロイド先輩は、またアカイカせんせぇに怒られた、錬金術の授業で錬成した石をアズールにあげたら喜ばれた、モストロ・ラウンジの出勤日だけど気分じゃない(これはなかなか問題では?)など、朱色に染まった雲を仰ぎながら取り留めのない話をしている。
無茶振りをされないのは何よりだが、一秒毎に機嫌をアップデートしているフロイド先輩だ。悪い方に更新される前に帰してくれないかなー、なんて。到底口には出せないことを思いながら、私はロボットの如く相槌を打つ作業をこなしていた。
いい加減に頷きすぎて首がもげるのではないか、と懸念し始めた頃。突如として爆弾は投下されたのだった。
「小エビちゃんはもうジェイドと交尾したの?」
「は…………ん?」
流れで思わず頷きそうになったが、寸でのところで我に返った。聞き間違いでなければ、その単語の意味は一つしか思い浮かばなかったからだ。
咄嗟に首を捻ると、彼は「まだなんだ?」とにやり顔をする。どうやら聞き間違いで無ければ、私の考えた意味で間違ってもいなかったらしい。
「……それが何か」
プライバシーもへったくれもない話題に、自ずと声色が無愛想になる。とはいえ言っていることに関しては実際その通りだった故、反論は出来なかった。
――私がジェイド先輩とお付き合いを始めて、彼此二ヶ月が経とうとしている。その間、私たちは恋人らしくデートを重ね、着実に気持ちを確かめ合ってきた。世間一般のカップルであればフロイド先輩の言う交尾……もとい、エッチをしていても何処も不自然では無いだろう。
私としては、告白をした当日にキスまで済ませたのだから大人の階段を駆け上がっていくのは早いのかもしれない、と頭の片隅で覚悟はしていたのだが。
存外、ジェイド先輩はこちらの意志を尊重してくれているようだった。
過去にそういう雰囲気になりかけたこともあったが、もだもだする私の様子を察してか「いつでも期待に応えられるようにしていますから」と、紳士に待ちの姿勢をみせられていたのだ。能天気な自分はその言葉に寄りかかり、なあなあになったまま今に至る。
それが良いのか悪いのかはよく分からない。何せ私には彼が初めての彼氏だ。
「ねぇ、知ってる?」
結果的に黙んまりを決め込んでいると、口元に半円を描いたフロイド先輩が横からフェードインしてきた。
言葉にする前に表情が物語っている。人を試すような、愉快な反応を期待した目。
確かに私は知っていた。こういう時のフロイド先輩から良い話をされた覚えがない……ということを。
「ジェイドは小エビちゃんが初めてじゃないんだよ」
――ほーら、予想通りだ。
心構えをしていたとはいえ、告げられた台詞に顔面が強張る。主語を省いたものでも、彼の表情から補うことは簡単だ。
要するに『ジェイド先輩は非童貞である』とでも言いたいのだろう。
あの灰汁の強いジェイド先輩も上辺だけ丁寧に濾して掬い取れば、物腰の柔らかい好青年である。そこにモデル顔負けのビジュアルが加われば、言いよる方は過去にも、もちろん今にも沢山いるだろう。
一方で、世が思い描く平々凡々を具現化したような存在。それが私だ。ジェイド先輩の彼女でありながら、彼の持つモテ要因なんて見事に一つも持ち合わせちゃいない。
だからこそフロイド先輩の言葉を聞いて〝初めてじゃない〟彼に対して嫌な気持ちを抱くより先に、私の胸には漠然とした不安がインクのように滲んだ。
果たして、こんな自分にジェイド先輩は欲情するのだろうか? 〝待ち〟だなんてこっちの都合のいいように考えてしまっているだけで、実は避けられているだけなのではないか? 一度考え始めたら気持ちは暗く、深い海の底に沈んでいくばかりだ。
「きっと、私に魅力が足りないせいで……」
「ぶはっ! 何言ってんの小エビちゃん」
ずーんと暗いオーラを背負いぼやく私を、フロイド先輩は大口を開けて笑い飛ばす。
(どうせ私はセクシーさもキュートさも欠ける、生物学上でカテゴライズされているだけの女ですしおすし)
卑屈になりながらも、切実な思いをこれ以上ないくらいに馬鹿にされれば、さすがにむくれもしてしまうというもの。
「ちっとも笑えないですよ」
「ええ〜? 面白ぇじゃん」
半ばムキになってしまった私は「可笑しい」「可笑しくない」と顔を突き合わせて応酬していると、フロイド先輩は自信ありげに鼻を鳴らす。
「だってジェイドはねぇ。小エビちゃん使って毎晩オ――んがっ!?」
「わっ!?」
それは一瞬の出来事だった。先輩の背後から白い物体がぬっ、と飛び出てきたかと思えば、まるで食らうように彼の顔面に張り付いたのだ。
「ふふふ、お二人で楽しそうに何のお話をしているんです?」
「ジェイド先輩……!?」
いつの間にかフロイド先輩の背後には、華麗なアイアンクローをキメるジェイド先輩が立っていた。
驚きに目を丸くする私を視界に入れたジェイド先輩は、物騒な手元に似合わぬ爽やかな笑顔で「ご機嫌よう、ユウさん」と軽く会釈をする。
「き、今日はラウンジのお仕事じゃないんですか?」
「ええ。そのつもりで出勤していたのですが……どこぞのウツボがサボって厨房が回らない、と主に支配人から苦情をいただきまして。身内を代表してこうしてお迎えに上がった次第です」
「あぁ……なるほどです」
やはり問題はあったのだ。先ほどまで暇と言っていた先輩の姿を思い出し、渇いた笑いが漏れる。
当のフロイド先輩に視線を戻せば――彼が小顔すぎる故だろう――綺麗なご尊顔どころか、頭までもを大きな手のひらに締め付けられているようだった。
「い゛だだだだ!」
ギリギリと音が聞こえてきそうな力加減に、地団駄を踏んでもがくフロイド先輩。
これは痛いフリ……などではなくマジのやつだ、と見ているだけの私まで血の気が引いていく。
「ジ、ジェイド先輩っ。お、おお音……フロイド先輩の頭蓋骨が……!」
「人魚は自己再生できるので心配には及びませんよ。ユウさんは本当にお優しいですね」
茶目っ気たっぷりの笑顔は、有無どころか有しか言わせない圧力を感じさせた。「ヘェー人魚ってスゴイナー」と言葉では感心の意を述べながらも、隠しきれない動揺に口の端はピクピクと引き攣る。
「う゛そ゛つ゛く゛な゛し゛っ!」
「おやおや」
何とか渾身の力で引き剥がしたフロイド先輩は、痛そうに涙目で頭を押さえている。
一方的な暴力にたじたじになっているフロイド・リーチは滅多に見られるものではない。〝バケモンにはバケモンをぶつければいいんだよ〟という何処かで聞いた無茶苦茶な理屈を思い浮かべた私は、心配すべきか、はたまた日頃の鬱憤をぶつけるチャンスなのかしばし逡巡する。
「ねぇねぇ小エビちゃん、頭蓋骨ヘコんでね? 脳味噌飛び出てねぇ?」
頭をこちらに差し出しながら不安げに聞いてくる先輩は、バケモンどころか親に叱られた子どものようだ。ちょっとした同情の気持ちが湧いてしまうぐらいには、自分も人の心を持っていたらしい。
「大丈夫です。無事です。綺麗なまんまるです」
労りを込めて告げれば、うるうると瞳を潤ませた先輩は縋るように私を腕の中へ閉じ込めた。
「ジェイドがオレのこといじめんだけど〜! 助けて小エビちゃんっ」
「え、ええー……?」
甘えるように身を寄せてくるフロイド先輩の後ろには、微笑みながらバキバキと指の関節を鳴らしているジェイド先輩が立っている。
待て待て、なんだこの一触即発の雰囲気は。このままではフロイド先輩はまだしも、二人のいざこざに巻き込まれる我が身のほうが危ういのでは? 生命の危機に気づいた私は、この場を切り抜ける方法を必死で考える。
「あっ、そういえばさっきの! ジェイド先輩は毎晩何をしているんですか!?」
――これは、我ながらファインプレーだったらしい。話題を変える為放った私の言葉に、きょとんと気の抜けたお顔が並ぶ。
おお、こうして見ると本当にソックリ兄弟だ。そんなちょっとした感動を覚えたのも束の間。心なしか妙な空気が辺りに漂い始める。
馬鹿な私はその〝妙〟が解明できないまま「気になるなぁ〜!」と調子に乗ってダメ押しをしてしまったのが運の尽きだった。
「そんなに知りたいですか?」
「……え?」
私の真前に移動したジェイド先輩は、ゆっくりと腰を折ると前髪が触れ合うほど顔を近づける。綺麗に整ったパーツは満面の笑みを象っていた。
こういう時の先輩は、単純に機嫌が良い時と面白い悪巧みをしている時の2パターンある、というのは付き合ってから学んだことだ。
今回はどちらか計りかねた私は、解説席のフロイド・リーチさんに視線を移して見解(ついでにヘルプ)を求める。しかしそんな役回りは御免だとばかりに「ごしゅーしょーさま」とだけ簡潔に言い残したフロイド先輩は、暢気に身体を揺らしてこの場を立ち去ってしまったではないか。おのれ薄情者め。
「その様に可愛らしくおねだりをされては、応えないわけにはいきませんね」
「え、おねだり? えっ」
はて。気になるとは言ったものの、そんなことをした覚えはない。首を傾げる私の手を取った先輩は、半ば強制的に立たせるとスタスタと歩き始める。軽快なその足取りはスキップでもしだすのではないか、と思ってしまうほどだ。
どちらかではない、これは恐らく……両方のパターンだ。未だかつてない上機嫌さに、こめかみに一筋冷や汗が伝った。
*
手を繋いで路を歩く様は、外から見れば仲睦まじい恋人同士。だが私の心境としては、捕縛された容疑者そのものだった。
頭の中で鳴り響くサイレンをBGMに連れてこられたのは刑務所――ではなく、オンボロ寮。さっきまで帰りたいと願っていた我が家だ。今はどうかと聞かれれば……物理的にも精神的にも、手放しで喜べそうにはない。
「そっ……そういえば、ラウンジのお仕事は大丈夫なんですか?」
「問題ありませんよ。フロイドは優秀ですから、僕一人の欠員を補うぐらいの働きはしてくれるでしょう」
〝でしょう〟と推し量る彼の言葉が〝せざるを得なくしてやった〟と聞こえてしまったのは、たぶん気のせいじゃないだろう。
最後の砦は呆気なく崩れ去ってしまい、全てを諦めた私はギィ、と立て付けの悪い扉を開く。するといつものように玄関まで駆けつけた先住ゴーストたちが、「おかえり〜」と家族さながら暖かく迎えてくれた。
しかし、癒しのひと時は私の背後からジェイド先輩が顔を覗かせたことで数秒で終了となる。
「こんにちは」
挨拶を受けたゴーストたちは何故か揃って目を丸くすると、互いの考えを確認するかのように白い顔を見合わせた。先輩が遊びに来るのは初めてではないはずだが、その様子はいつもと違って何処となくよそよそしい。
「ちょいと散歩にでも行ってくるか〜」
「グリ坊にも声をかけておかないとな〜」
私が疑問を投げかける前に、訳知り顔をしたゴーストたちは次々と横を通り過ぎていく。呆気にとられて見送っていれば、三人目のゴーストに「無事を祈ってるよ」と心なしか憐みが篭った手を肩に乗せられた(ように見えた)。
何十年以上もこの世に居座る方々にしてみれば、年端もいかぬ青年の考えはお見通しらしい。一体何をお察したのか、ぜひ私にもご教授願いたかった。
遠くなる後ろ姿をいつまでも眺めていると、彼の手によって扉が閉じられてしまう。
「気の利くゴーストさんたちで助かります」
「? はい……?」
「ふふ、こちらの話ですよ」
参りましょうか、と他寮生であるはずのジェイド先輩に先導され、私は見慣れた談話室へと案内された。
「どうぞお掛けになって下さい」
「あ、ご丁寧にどうも」
いやいや此処は私の家(寮)ですよ。つい口をついて出てしまった礼に、心の声でつっこむ。
品のあるジェイド先輩に、この粗末な空間は実にミスマッチだ。ソファーに腰掛ける先輩の背景がハリボテに見えるような気さえしてくる。
毎日掃除しているとはいえ埃臭くないかな、また空のツナ缶がテーブルの上に置きっぱなしになっている、服は出しっぱなしになっていないか、などなど。忙しなく目を泳がせる私とは対照的に、ジェイド先輩は腰を下ろしてからというものこちらから視線を逸らしてくれない。ビームでも出ているのではないかと疑うほど熱いそれに耐え兼ねた私は、縦横無尽に動かしていた瞳の照準を彼に合わせた。
「先ほどはフロイドと何の話をされていたんです?」
「……言わないとダメですか」
「いいえ、強制ではありませんよ。僕の左目を見ていただくだけで構いません」
「拒否権は無いわけですね」
窓から差し込む西陽を背に、鈍く光る左目。軽く握られた右手の後ろには、隠しきれない物騒な歯が弓形に象られている。それを強制と言わずして何と言おうか。
膝の上に握り締めた拳を緩めたり、力を込めたりすること数回。意を決した私はゆっくりと口を開いた。
「ジェイド先輩の、その……過去の女性関係について、聞いてました」
こうしていざ口に出してみると、自分がひどく狭量な人間に思えてしまう。過去なんて今更変えようの無いことに拘って、何を求めようとしているのか。不必要な面倒ごとを嫌う彼の性格を考えれば、幻滅されても不思議ではないというのに。ああ、やっぱり正直に言うんじゃなかったと今更後悔に圧し潰されそうになる。恐々とジェイド先輩を伺えば、彼は猫だましを食ったかのような様子で瞬きをしていた。
「女性は恋人のそういった話は好まない、と小耳に挟んだことがありますが…… ユウさんは気にされるんですね?」
ジェイド先輩はいよいよ堪えきれないとばかりに小さく吹き出した。小刻みに震える肩を眺める私の目は、さぞかし据わっていることだろう。小馬鹿にされて非難したい気持ちもあるが、ここは一先ず呆れられていないだけマシ、ということにしておこう。
「面倒くさい女ですみません」
「面倒? 何故ですか。他でもないユウさんに興味を持っていただけて、悪い気なんてしませんよ」
嫌味混じりに放った台詞だったが、ジェイド先輩は気分を害するどころか小首を傾げた。
果たして彼から見た私は、そんなに無関心に見えていたのだろうか。めちゃくちゃに愛情表現をしているわけではないものの、伝わらないほど淡白でもないつもりだった。うーんと唸っていると、隣からいやに大きな溜め息が溢れる。
「むしろ僕はユウさんに愛されているのか不安で不安で……近頃はろくに食事も喉を通りません。しくしく」
「今日も食堂で山盛り食べてたのは何処の人魚さんですかね?」
「おや。見ていらっしゃったんですか。照れてしまいますね」
そう言いながらも、顔は赤く染まるどころかさらりと涼しい顔をしている。どこまでも食えない人だ、と付き合ってそこそこ経つ今でも思う。そんなところも魅力的に感じてしまうあたり、もう色々と手遅れなんだろうが。
「話すのは構いませんが、ユウさんにとってはあまり面白い話ではないかもしれません。それでも聞きますか?」
言いながらジェイド先輩は長い脚を組み直した。
――いっそ、ここまで来たら最後まで彼のことを知りたい。それに本音を言えば、この一癖どころか百癖もありそうなジェイド先輩の恋愛事情が気にならないわけがなかった。
深く頷く私を見届けると、ジェイド先輩は「あれは陸に上がって一年目のある日のことです」とまるで御伽噺を語り聞かせるような口調で話し始めた。
「街へ買出しに出掛けた僕とフロイドは、帰りに女性の方二人に声を掛けられまして」
俗に言う逆ナンというやつだろう。恋の馴れ初めとしては珍しく無いし、彼らなら引く手数多なのは想像にた易い。SSSクラスのビジュアルを目にすれば、声のひとつも掛けたくなってしまう方も少なくないだろう。私は顔も知らぬ女性に同調するように、うんうんと頷いた。
「初めはフロイドも僕も〝面倒なものに絡まれた〟という認識でしかなかったんです」
「あはは……らしいですね」
ドスの効いた顔と声で睨むフロイド先輩が自然と頭に浮かび、乾いた笑いが漏れる。
「ですが、話の流れで僕たちが陸で言うお付き合いの経験が無いと言うと、二人揃ってホテルにお誘いを受けたんです」
「……ん? ほ、ほて……え?」
恋の始まりにしては突飛すぎる展開だ。それなりに歳を重ねていればありがちな話かもしれないが、話の中の彼らはまだ青春真っ盛りの十六歳。
まさか……行ってしまったのか。問えばジェイド先輩は「興味がありましたので」と何ともまあ良い笑顔で頷いた。この人魚さんはどこまでも好奇心が旺盛でいらっしゃるらしい。
「しかし生殖器を勃たせるのも一苦労でしたし、やっと交接できたと思いましたら女性のほうが早々にへばってしまわれまして」
顎に指を添え、ふう、と困った風に息を吐くジェイド先輩。「今日の夕飯はどうしようかな?」ぐらいのノリだ。話はそんな可愛らしいものではない。乱交である。
「正直拍子抜けでしたね。結局僕たちはセックスで味わえると言う快感を微塵も知ることができませんでした」
「はあ……」
「仕方ないので持て余した熱はフロイドと処理してさっさと出て行きましたよ」
「えっ、それはどういう……あ。やっぱりいいです」
先輩の意味深な笑みを見た瞬間、私は即座に追及するのを切り上げた。何であれ兄弟仲がよろしいのはいいことだ、うん。
話し終えたジェイド先輩は「ご静聴ありがとうございました」と恭しく頭を下げる。こんな折り目正しい仕草をする方が、実はハイレベルな性行為の経験者とは誰が想像するだろうか。目眩を覚えるのも致し方ない。
「すみません。嫉妬させてしまいましたか?」
「いえ。話がぶっ飛びすぎてて嫉妬も出来なさそうです」
心配を顔に貼り付けたジェイド先輩に、片手を上げて食い気味に制する。
ノーマルな恋愛すらビギナークラスの私にしてみれば、彼の話は四も五も六も次元が違う。つまり、到底理解できる領域では無い。
「というかてっきり私は初恋の話だとばかり……」
少女漫画のよう、とまでは言わないが。甘酸っぱい恋愛の延長線上にある初体験を想像していた私にしてみれば、青年向け十八禁漫画みたいな展開を突きつけられるなど露程も思っていなかった。
現実との激しすぎるギャップに狼狽えていると、ジェイド先輩は慈しむような笑みを浮かべてこちらを覗き込む。
「恋人はユウさんが初めてですよ?」
「ヴッ……!」
人の多くは、初・新・限定という特別感には一等弱い生き物だ。私も例外ではなく、まんまとハートの矢で射抜かれてしまった心臓を止血するように両手で押さえる。
彼の興味を満たす役割が既に奪われてしまった事実を知り、悲しくないわけがない。それでもやっぱり、初めての恋人というスタート地点で共に肩を並べられただけでも、今の私には十分嬉しいことだ。
胸元で重ねていた手を、徐に伸びてきた彼のそれに捕られる。持ち上げられた右手に、先輩の頬が摺り寄せられた。
いつ触ってもお肌すべすべで羨ましいなぁ。ここぞとばかりにその感触を味わっていれば、猫が甘えるように押し付けられてしまい、可愛らしさに自然と笑みが溢れた。
「実は、ユウさんとお付き合いを始めた日からおかしいんです」
ジェイド先輩は鋭い眦を細め、憂いを帯びた瞳で弱々しく言う。一体、何がおかしいのか。私が抜け落ちた主語を問う前に、彼のほうから答えを述べられた。
「毎日勃起してしまうんです」
「はぁ…………へ!?」
アンニュイな表情から飛び出たのはいやに生々しい単語。死角から放たれた攻撃は凄まじく、意図せず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。
「白状しますと、毎夜一人で寂しく鎮めているんですよ」
目を伏せた先輩は、可愛らしく照れた様子で話す。茫然とフリーズしながらも、頭は知らぬうちに働いていてくれたらしい。広大な記憶の海から彼の兄弟が言っていたあの台詞が引っ張り上げられた。
『だってジェイドはね、小エビちゃん使って毎晩オ――』
……なるほど、そういうことだったのか。ここに来てようやく、私はフロイド先輩の言葉の真意を理解した。
オ、の後にはたぶん、ナニーが続くはずだったのだろう。そんなことも知らずに「気になる」なんて呑気に宣ってしまった己の愚かさにため息も出なかった。
ついでに〝使って〟の意味まで想像を突き詰めてしまったものだから、みるみる頰が熱を持つ。まさに思考回路はショート寸前だ。
「信じられませんか?」
「いえ、そういうわけでは――」
「仕方ないですね。百聞は一見にしかずとも言いますし、ほら。今もこんな風に」
「わっ!? ちょっと……っ」
荒れ狂う私の心情を履き違えた先輩は、握っていた手をぐい、とやや強引に下ろした。導かれた先には……何ということでしょう。彼の股ぐらが待っていたのだ。
指をピンと張って細やかな抵抗を試みるものの、大きな手に覆われて思い切り握り込んでしまう。そこには手の中に収まらないほど大きく、硬いものの存在がありありと感じられた。
嬉しいやら恥ずかしいやら、沢蟹よろしく今にも泡を吐きそうだった。まさか手元を凝視するわけにもいかず、かといって目を瞑ればより感触を鮮明に確かめてしまう。おろおろと明後日の方向を探すが、「ユウさん」と哀願する声色を耳にしたら断念せざるを得なかった。
「先程からずっと苦しいんです……どうしたらいいのでしょう?」
まるで迷子のような視線が縋ってくる。
――現在の寮内にはグリムや他の人間はおろかゴーストだっていない。正真正銘二人きりの空間だ。彼の劣情を解放する完璧な環境が整っていることに気づき、無意識の内に口腔内に溜まってしまった唾液をゴクリと飲み下す。
そりゃあジェイド先輩のことは好きだし、私だってそういうことをしたいという欲求は大なり小なりあるけれども。いざ機会を前にすると怖気づいているのが正直なところだった。それに触ってみて分かったが彼の……その、分身?は素人目にも相当な大きさだと知ってしまったのだ。
そうして悩んでいる間にも、伸び代のあるそれがむくむくと成長していることには出来れば気づきたくなかった。
「わ、私じゃジェイド先輩のご期待に添えるかどうか」
「僕はユウさんが良いんです」
私の不安を吹き飛ばすかのように言い切るジェイド先輩。返す言葉を詰まらせていると、先輩はクスリと微笑んで、下方で当てがっていた私の手を両手で包み込んだ。
「もっとも、人間の雌は生殖孔から赤子を産むそうですから。ユウさんにしてみれば僕のなんてかわいいものだと思いますが」
「かわいくはないですね」
出産経験はおろか、男性経験もない私からすれば十分凶暴すぎるぐらいだ。どうしたものかと俯いて唸る。すると嗅ぎ慣れた海の香りがふわりと鼻腔をくすぐり、私は誘われるように顔を上げた。
「ダメ、ですか?」
弱々しく下げられた眉尻。可愛らしく首を傾げる様にはこてん、という効果音がぴったりだ。
相手の弱点を悪戯に刺激するのが得意なジェイド先輩だ。私がその顔に弱いことなどとうにお見通しなのだろう。まったく、なんてあざとい方でしょう。分かっていながらまんまと乗せられてしまう私も大概なのだが。
未知への恐怖と、愛する人の期待に応えたい気持ち。二つを乗せ揺らいでいた天秤は、あっさりと一方に傾いた。
「善処、してみます……」
絞り出すような声で降参した私を、ジェイド先輩はかかったなと言わんばかりの笑みで眺める。分かってて罠に飛び込んだようなものだ。驚きなんてしない。せいぜい全身が震える程度である。なぁに、軽傷、軽傷。
「僕が言うのも何ですが、ユウさんは僕に甘いですね」
「我ながら絆されている自覚はあります」
「おや。卑屈になることではありませんよ。そんなユウさんも、食べてしまいたいぐらいかわいらしいです」
それはいつかも聞いた台詞だった。でもあの時は悪い冗談としか思えなかったし、ジェイド先輩だって特別な考えは持っていなかっただろう。
だが、今となっては違うのかもしれない。
「ふふ、そんなに緊張なさらないで。ユウさんは身を委ねて下さるだけで構いませんから。素材に適した調理方法を考えるのは僕、得意なんです」
言葉通りの自信に満ちた表情を浮かべるジェイド先輩は、軽々と私を横抱きにすると迷いの無い足取りで談話室を後にした。
心の余裕があれば、そんな景色の一つでも楽しめただろうに。
生憎、今の私は何かに追い立てられるかのような忙しない足取りで廊下を歩いていた。
(寮に帰ったらまず今日の分の復習と明日の予習をして、グリムはマジフト部の助っ人に駆り出されてるから帰ってくる前にご飯を作って、それから……)
ぶつぶつと呪文のように呟くのは、帰寮後の己に課されたミッションだ。一日の授業を終えても、やらねばならぬことはまだまだ残されている。世知辛い世の中、いや、世知辛いツイステッドワンダーランドである。監督生はつらいよ、とでも題して日常を映画化すれば観ている人の涙でも誘えそうだ。
(映画は公開初日から話題が話題を呼び興行収入億越え、そして晴れて億万長者になった私は悠々自適な豪邸暮らし……なーんてね)
現実から逃げるように有り得ない想像を膨らませていると、明日の天気予報が雨だったことを思い出した。
これはまた、寮の天井が雨漏りする前に対策しておかないと大惨事になってしまう。豪邸どころか、現実はあまりにも残酷である。
自分一人じゃとても手が回らないからグリムにも手伝いを頼むとしよう。ツナ缶が一番の燃料源である彼は、今回は二個ぐらいで手を打ってくれるだろうかと思案しつつ、ふと足元に向けていた顔を前に戻す。
視線の先に一つの影が佇んでいるのに気がつけたのは、廊下の人気が疎らだったせいか。いやそれよりも、遠目からでも分かる存在感アンド威圧感をその長躯に纏わせていたからかもしれない。
身の危険を察知した私は、自動車よろしく自動ブレーキを作動させると、即座にUターンをした……つもりだったのだが。
「なぁに逃げようとしてんの?」
残念ながら、一歩遅かったようだ。
背後から首に回されたしなやかで逞しい腕に、鼓膜に纏わり付くような甘ったるい声が耳元で囁く。その持ち主の名を呼び掛けようとした喉は圧迫され、口からは「ぐえっ」と蛙の潰れたような声が出た。
「先輩の顔見て逃げるとか失礼だと思わねえ? あーあ。薄情な後輩でオレかなし〜」
「別に逃げたわけじゃ……わ、忘れ物を思い出しただけですって。やだなー、フロイド先輩ってば。ははは」
「へぇ?」
鼻先がくっ付きそうなほど寄せられた瞳には、明らかに疑いの色が滲んでいる。無理もない、咄嗟に口をついて出たベッタベタな嘘だもの。
背中に滝のような冷や汗を流しつつ、言ってしまったからには貫かねばと必死に見つめ返した。
「……ま、そういうことにしといてやるけど〜」
だらり、と首を絞めていた腕が肩にぶら下がる。間延びした声からも、目尻が垂れ下がった瞳からも、疑いどころかすっかり興味が消え失せたことが確認できた。
今回ばかりは彼が気分屋で助かった。解放された安心感にほっと胸を撫で下ろす。
「では、そういうことなので私は失礼しますね」
「えぇ〜? 忘れ物なんて後でいいじゃん。せっかく会ったんだからさぁ、暇つぶしに付き合ってよ」
尋問の次は駄々っ子だ。目まぐるしい七変化に苦笑しながら返事を渋っていると、ねーねーと口を尖らせたフロイド先輩は肩に回した腕で振り子のように私の体を揺する。
フロイド先輩と違って私は暇じゃないんです……と突っぱねたら流石に角が立つだろうか。本当は言ってやりたいぐらいだが、より面倒な方向に転ぶのは避けたい。となれば、先輩の有り難い誘いに感謝の意を添えつつ丁重にお断りするのが無難だろう。よし、これで行くぞ。
早速私はさも申し訳なさそうな顔を拵えて「あ」の一文字を発したが、その先が紡がれることはなかった。
「付き合ってくれる、よなァ?」
「はい勿論です喜んで!」
最初から断る選択肢など無かったのだ。瞳孔ガン開きの先輩に凄まれれば、脊髄反射の勢いで頷いてしまうのだから。
*
ひと睨み利かせただけでノコノコついて来てしまうような健気な後輩に、柄の悪い先輩が無理難題を吹っかける。なんてことはある種の定番である。
一芸披露しろ、三回回ってワン!と鳴け、焼きそばパン買ってこい、喧嘩の相手をしろ――様々なパターンを思い描いては憂鬱な気持ちに苛まれた私だったが、そんな心配は無用だったみたいだ。
近場にあったベンチに並んで腰掛けたフロイド先輩は、またアカイカせんせぇに怒られた、錬金術の授業で錬成した石をアズールにあげたら喜ばれた、モストロ・ラウンジの出勤日だけど気分じゃない(これはなかなか問題では?)など、朱色に染まった雲を仰ぎながら取り留めのない話をしている。
無茶振りをされないのは何よりだが、一秒毎に機嫌をアップデートしているフロイド先輩だ。悪い方に更新される前に帰してくれないかなー、なんて。到底口には出せないことを思いながら、私はロボットの如く相槌を打つ作業をこなしていた。
いい加減に頷きすぎて首がもげるのではないか、と懸念し始めた頃。突如として爆弾は投下されたのだった。
「小エビちゃんはもうジェイドと交尾したの?」
「は…………ん?」
流れで思わず頷きそうになったが、寸でのところで我に返った。聞き間違いでなければ、その単語の意味は一つしか思い浮かばなかったからだ。
咄嗟に首を捻ると、彼は「まだなんだ?」とにやり顔をする。どうやら聞き間違いで無ければ、私の考えた意味で間違ってもいなかったらしい。
「……それが何か」
プライバシーもへったくれもない話題に、自ずと声色が無愛想になる。とはいえ言っていることに関しては実際その通りだった故、反論は出来なかった。
――私がジェイド先輩とお付き合いを始めて、彼此二ヶ月が経とうとしている。その間、私たちは恋人らしくデートを重ね、着実に気持ちを確かめ合ってきた。世間一般のカップルであればフロイド先輩の言う交尾……もとい、エッチをしていても何処も不自然では無いだろう。
私としては、告白をした当日にキスまで済ませたのだから大人の階段を駆け上がっていくのは早いのかもしれない、と頭の片隅で覚悟はしていたのだが。
存外、ジェイド先輩はこちらの意志を尊重してくれているようだった。
過去にそういう雰囲気になりかけたこともあったが、もだもだする私の様子を察してか「いつでも期待に応えられるようにしていますから」と、紳士に待ちの姿勢をみせられていたのだ。能天気な自分はその言葉に寄りかかり、なあなあになったまま今に至る。
それが良いのか悪いのかはよく分からない。何せ私には彼が初めての彼氏だ。
「ねぇ、知ってる?」
結果的に黙んまりを決め込んでいると、口元に半円を描いたフロイド先輩が横からフェードインしてきた。
言葉にする前に表情が物語っている。人を試すような、愉快な反応を期待した目。
確かに私は知っていた。こういう時のフロイド先輩から良い話をされた覚えがない……ということを。
「ジェイドは小エビちゃんが初めてじゃないんだよ」
――ほーら、予想通りだ。
心構えをしていたとはいえ、告げられた台詞に顔面が強張る。主語を省いたものでも、彼の表情から補うことは簡単だ。
要するに『ジェイド先輩は非童貞である』とでも言いたいのだろう。
あの灰汁の強いジェイド先輩も上辺だけ丁寧に濾して掬い取れば、物腰の柔らかい好青年である。そこにモデル顔負けのビジュアルが加われば、言いよる方は過去にも、もちろん今にも沢山いるだろう。
一方で、世が思い描く平々凡々を具現化したような存在。それが私だ。ジェイド先輩の彼女でありながら、彼の持つモテ要因なんて見事に一つも持ち合わせちゃいない。
だからこそフロイド先輩の言葉を聞いて〝初めてじゃない〟彼に対して嫌な気持ちを抱くより先に、私の胸には漠然とした不安がインクのように滲んだ。
果たして、こんな自分にジェイド先輩は欲情するのだろうか? 〝待ち〟だなんてこっちの都合のいいように考えてしまっているだけで、実は避けられているだけなのではないか? 一度考え始めたら気持ちは暗く、深い海の底に沈んでいくばかりだ。
「きっと、私に魅力が足りないせいで……」
「ぶはっ! 何言ってんの小エビちゃん」
ずーんと暗いオーラを背負いぼやく私を、フロイド先輩は大口を開けて笑い飛ばす。
(どうせ私はセクシーさもキュートさも欠ける、生物学上でカテゴライズされているだけの女ですしおすし)
卑屈になりながらも、切実な思いをこれ以上ないくらいに馬鹿にされれば、さすがにむくれもしてしまうというもの。
「ちっとも笑えないですよ」
「ええ〜? 面白ぇじゃん」
半ばムキになってしまった私は「可笑しい」「可笑しくない」と顔を突き合わせて応酬していると、フロイド先輩は自信ありげに鼻を鳴らす。
「だってジェイドはねぇ。小エビちゃん使って毎晩オ――んがっ!?」
「わっ!?」
それは一瞬の出来事だった。先輩の背後から白い物体がぬっ、と飛び出てきたかと思えば、まるで食らうように彼の顔面に張り付いたのだ。
「ふふふ、お二人で楽しそうに何のお話をしているんです?」
「ジェイド先輩……!?」
いつの間にかフロイド先輩の背後には、華麗なアイアンクローをキメるジェイド先輩が立っていた。
驚きに目を丸くする私を視界に入れたジェイド先輩は、物騒な手元に似合わぬ爽やかな笑顔で「ご機嫌よう、ユウさん」と軽く会釈をする。
「き、今日はラウンジのお仕事じゃないんですか?」
「ええ。そのつもりで出勤していたのですが……どこぞのウツボがサボって厨房が回らない、と主に支配人から苦情をいただきまして。身内を代表してこうしてお迎えに上がった次第です」
「あぁ……なるほどです」
やはり問題はあったのだ。先ほどまで暇と言っていた先輩の姿を思い出し、渇いた笑いが漏れる。
当のフロイド先輩に視線を戻せば――彼が小顔すぎる故だろう――綺麗なご尊顔どころか、頭までもを大きな手のひらに締め付けられているようだった。
「い゛だだだだ!」
ギリギリと音が聞こえてきそうな力加減に、地団駄を踏んでもがくフロイド先輩。
これは痛いフリ……などではなくマジのやつだ、と見ているだけの私まで血の気が引いていく。
「ジ、ジェイド先輩っ。お、おお音……フロイド先輩の頭蓋骨が……!」
「人魚は自己再生できるので心配には及びませんよ。ユウさんは本当にお優しいですね」
茶目っ気たっぷりの笑顔は、有無どころか有しか言わせない圧力を感じさせた。「ヘェー人魚ってスゴイナー」と言葉では感心の意を述べながらも、隠しきれない動揺に口の端はピクピクと引き攣る。
「う゛そ゛つ゛く゛な゛し゛っ!」
「おやおや」
何とか渾身の力で引き剥がしたフロイド先輩は、痛そうに涙目で頭を押さえている。
一方的な暴力にたじたじになっているフロイド・リーチは滅多に見られるものではない。〝バケモンにはバケモンをぶつければいいんだよ〟という何処かで聞いた無茶苦茶な理屈を思い浮かべた私は、心配すべきか、はたまた日頃の鬱憤をぶつけるチャンスなのかしばし逡巡する。
「ねぇねぇ小エビちゃん、頭蓋骨ヘコんでね? 脳味噌飛び出てねぇ?」
頭をこちらに差し出しながら不安げに聞いてくる先輩は、バケモンどころか親に叱られた子どものようだ。ちょっとした同情の気持ちが湧いてしまうぐらいには、自分も人の心を持っていたらしい。
「大丈夫です。無事です。綺麗なまんまるです」
労りを込めて告げれば、うるうると瞳を潤ませた先輩は縋るように私を腕の中へ閉じ込めた。
「ジェイドがオレのこといじめんだけど〜! 助けて小エビちゃんっ」
「え、ええー……?」
甘えるように身を寄せてくるフロイド先輩の後ろには、微笑みながらバキバキと指の関節を鳴らしているジェイド先輩が立っている。
待て待て、なんだこの一触即発の雰囲気は。このままではフロイド先輩はまだしも、二人のいざこざに巻き込まれる我が身のほうが危ういのでは? 生命の危機に気づいた私は、この場を切り抜ける方法を必死で考える。
「あっ、そういえばさっきの! ジェイド先輩は毎晩何をしているんですか!?」
――これは、我ながらファインプレーだったらしい。話題を変える為放った私の言葉に、きょとんと気の抜けたお顔が並ぶ。
おお、こうして見ると本当にソックリ兄弟だ。そんなちょっとした感動を覚えたのも束の間。心なしか妙な空気が辺りに漂い始める。
馬鹿な私はその〝妙〟が解明できないまま「気になるなぁ〜!」と調子に乗ってダメ押しをしてしまったのが運の尽きだった。
「そんなに知りたいですか?」
「……え?」
私の真前に移動したジェイド先輩は、ゆっくりと腰を折ると前髪が触れ合うほど顔を近づける。綺麗に整ったパーツは満面の笑みを象っていた。
こういう時の先輩は、単純に機嫌が良い時と面白い悪巧みをしている時の2パターンある、というのは付き合ってから学んだことだ。
今回はどちらか計りかねた私は、解説席のフロイド・リーチさんに視線を移して見解(ついでにヘルプ)を求める。しかしそんな役回りは御免だとばかりに「ごしゅーしょーさま」とだけ簡潔に言い残したフロイド先輩は、暢気に身体を揺らしてこの場を立ち去ってしまったではないか。おのれ薄情者め。
「その様に可愛らしくおねだりをされては、応えないわけにはいきませんね」
「え、おねだり? えっ」
はて。気になるとは言ったものの、そんなことをした覚えはない。首を傾げる私の手を取った先輩は、半ば強制的に立たせるとスタスタと歩き始める。軽快なその足取りはスキップでもしだすのではないか、と思ってしまうほどだ。
どちらかではない、これは恐らく……両方のパターンだ。未だかつてない上機嫌さに、こめかみに一筋冷や汗が伝った。
*
手を繋いで路を歩く様は、外から見れば仲睦まじい恋人同士。だが私の心境としては、捕縛された容疑者そのものだった。
頭の中で鳴り響くサイレンをBGMに連れてこられたのは刑務所――ではなく、オンボロ寮。さっきまで帰りたいと願っていた我が家だ。今はどうかと聞かれれば……物理的にも精神的にも、手放しで喜べそうにはない。
「そっ……そういえば、ラウンジのお仕事は大丈夫なんですか?」
「問題ありませんよ。フロイドは優秀ですから、僕一人の欠員を補うぐらいの働きはしてくれるでしょう」
〝でしょう〟と推し量る彼の言葉が〝せざるを得なくしてやった〟と聞こえてしまったのは、たぶん気のせいじゃないだろう。
最後の砦は呆気なく崩れ去ってしまい、全てを諦めた私はギィ、と立て付けの悪い扉を開く。するといつものように玄関まで駆けつけた先住ゴーストたちが、「おかえり〜」と家族さながら暖かく迎えてくれた。
しかし、癒しのひと時は私の背後からジェイド先輩が顔を覗かせたことで数秒で終了となる。
「こんにちは」
挨拶を受けたゴーストたちは何故か揃って目を丸くすると、互いの考えを確認するかのように白い顔を見合わせた。先輩が遊びに来るのは初めてではないはずだが、その様子はいつもと違って何処となくよそよそしい。
「ちょいと散歩にでも行ってくるか〜」
「グリ坊にも声をかけておかないとな〜」
私が疑問を投げかける前に、訳知り顔をしたゴーストたちは次々と横を通り過ぎていく。呆気にとられて見送っていれば、三人目のゴーストに「無事を祈ってるよ」と心なしか憐みが篭った手を肩に乗せられた(ように見えた)。
何十年以上もこの世に居座る方々にしてみれば、年端もいかぬ青年の考えはお見通しらしい。一体何をお察したのか、ぜひ私にもご教授願いたかった。
遠くなる後ろ姿をいつまでも眺めていると、彼の手によって扉が閉じられてしまう。
「気の利くゴーストさんたちで助かります」
「? はい……?」
「ふふ、こちらの話ですよ」
参りましょうか、と他寮生であるはずのジェイド先輩に先導され、私は見慣れた談話室へと案内された。
「どうぞお掛けになって下さい」
「あ、ご丁寧にどうも」
いやいや此処は私の家(寮)ですよ。つい口をついて出てしまった礼に、心の声でつっこむ。
品のあるジェイド先輩に、この粗末な空間は実にミスマッチだ。ソファーに腰掛ける先輩の背景がハリボテに見えるような気さえしてくる。
毎日掃除しているとはいえ埃臭くないかな、また空のツナ缶がテーブルの上に置きっぱなしになっている、服は出しっぱなしになっていないか、などなど。忙しなく目を泳がせる私とは対照的に、ジェイド先輩は腰を下ろしてからというものこちらから視線を逸らしてくれない。ビームでも出ているのではないかと疑うほど熱いそれに耐え兼ねた私は、縦横無尽に動かしていた瞳の照準を彼に合わせた。
「先ほどはフロイドと何の話をされていたんです?」
「……言わないとダメですか」
「いいえ、強制ではありませんよ。僕の左目を見ていただくだけで構いません」
「拒否権は無いわけですね」
窓から差し込む西陽を背に、鈍く光る左目。軽く握られた右手の後ろには、隠しきれない物騒な歯が弓形に象られている。それを強制と言わずして何と言おうか。
膝の上に握り締めた拳を緩めたり、力を込めたりすること数回。意を決した私はゆっくりと口を開いた。
「ジェイド先輩の、その……過去の女性関係について、聞いてました」
こうしていざ口に出してみると、自分がひどく狭量な人間に思えてしまう。過去なんて今更変えようの無いことに拘って、何を求めようとしているのか。不必要な面倒ごとを嫌う彼の性格を考えれば、幻滅されても不思議ではないというのに。ああ、やっぱり正直に言うんじゃなかったと今更後悔に圧し潰されそうになる。恐々とジェイド先輩を伺えば、彼は猫だましを食ったかのような様子で瞬きをしていた。
「女性は恋人のそういった話は好まない、と小耳に挟んだことがありますが…… ユウさんは気にされるんですね?」
ジェイド先輩はいよいよ堪えきれないとばかりに小さく吹き出した。小刻みに震える肩を眺める私の目は、さぞかし据わっていることだろう。小馬鹿にされて非難したい気持ちもあるが、ここは一先ず呆れられていないだけマシ、ということにしておこう。
「面倒くさい女ですみません」
「面倒? 何故ですか。他でもないユウさんに興味を持っていただけて、悪い気なんてしませんよ」
嫌味混じりに放った台詞だったが、ジェイド先輩は気分を害するどころか小首を傾げた。
果たして彼から見た私は、そんなに無関心に見えていたのだろうか。めちゃくちゃに愛情表現をしているわけではないものの、伝わらないほど淡白でもないつもりだった。うーんと唸っていると、隣からいやに大きな溜め息が溢れる。
「むしろ僕はユウさんに愛されているのか不安で不安で……近頃はろくに食事も喉を通りません。しくしく」
「今日も食堂で山盛り食べてたのは何処の人魚さんですかね?」
「おや。見ていらっしゃったんですか。照れてしまいますね」
そう言いながらも、顔は赤く染まるどころかさらりと涼しい顔をしている。どこまでも食えない人だ、と付き合ってそこそこ経つ今でも思う。そんなところも魅力的に感じてしまうあたり、もう色々と手遅れなんだろうが。
「話すのは構いませんが、ユウさんにとってはあまり面白い話ではないかもしれません。それでも聞きますか?」
言いながらジェイド先輩は長い脚を組み直した。
――いっそ、ここまで来たら最後まで彼のことを知りたい。それに本音を言えば、この一癖どころか百癖もありそうなジェイド先輩の恋愛事情が気にならないわけがなかった。
深く頷く私を見届けると、ジェイド先輩は「あれは陸に上がって一年目のある日のことです」とまるで御伽噺を語り聞かせるような口調で話し始めた。
「街へ買出しに出掛けた僕とフロイドは、帰りに女性の方二人に声を掛けられまして」
俗に言う逆ナンというやつだろう。恋の馴れ初めとしては珍しく無いし、彼らなら引く手数多なのは想像にた易い。SSSクラスのビジュアルを目にすれば、声のひとつも掛けたくなってしまう方も少なくないだろう。私は顔も知らぬ女性に同調するように、うんうんと頷いた。
「初めはフロイドも僕も〝面倒なものに絡まれた〟という認識でしかなかったんです」
「あはは……らしいですね」
ドスの効いた顔と声で睨むフロイド先輩が自然と頭に浮かび、乾いた笑いが漏れる。
「ですが、話の流れで僕たちが陸で言うお付き合いの経験が無いと言うと、二人揃ってホテルにお誘いを受けたんです」
「……ん? ほ、ほて……え?」
恋の始まりにしては突飛すぎる展開だ。それなりに歳を重ねていればありがちな話かもしれないが、話の中の彼らはまだ青春真っ盛りの十六歳。
まさか……行ってしまったのか。問えばジェイド先輩は「興味がありましたので」と何ともまあ良い笑顔で頷いた。この人魚さんはどこまでも好奇心が旺盛でいらっしゃるらしい。
「しかし生殖器を勃たせるのも一苦労でしたし、やっと交接できたと思いましたら女性のほうが早々にへばってしまわれまして」
顎に指を添え、ふう、と困った風に息を吐くジェイド先輩。「今日の夕飯はどうしようかな?」ぐらいのノリだ。話はそんな可愛らしいものではない。乱交である。
「正直拍子抜けでしたね。結局僕たちはセックスで味わえると言う快感を微塵も知ることができませんでした」
「はあ……」
「仕方ないので持て余した熱はフロイドと処理してさっさと出て行きましたよ」
「えっ、それはどういう……あ。やっぱりいいです」
先輩の意味深な笑みを見た瞬間、私は即座に追及するのを切り上げた。何であれ兄弟仲がよろしいのはいいことだ、うん。
話し終えたジェイド先輩は「ご静聴ありがとうございました」と恭しく頭を下げる。こんな折り目正しい仕草をする方が、実はハイレベルな性行為の経験者とは誰が想像するだろうか。目眩を覚えるのも致し方ない。
「すみません。嫉妬させてしまいましたか?」
「いえ。話がぶっ飛びすぎてて嫉妬も出来なさそうです」
心配を顔に貼り付けたジェイド先輩に、片手を上げて食い気味に制する。
ノーマルな恋愛すらビギナークラスの私にしてみれば、彼の話は四も五も六も次元が違う。つまり、到底理解できる領域では無い。
「というかてっきり私は初恋の話だとばかり……」
少女漫画のよう、とまでは言わないが。甘酸っぱい恋愛の延長線上にある初体験を想像していた私にしてみれば、青年向け十八禁漫画みたいな展開を突きつけられるなど露程も思っていなかった。
現実との激しすぎるギャップに狼狽えていると、ジェイド先輩は慈しむような笑みを浮かべてこちらを覗き込む。
「恋人はユウさんが初めてですよ?」
「ヴッ……!」
人の多くは、初・新・限定という特別感には一等弱い生き物だ。私も例外ではなく、まんまとハートの矢で射抜かれてしまった心臓を止血するように両手で押さえる。
彼の興味を満たす役割が既に奪われてしまった事実を知り、悲しくないわけがない。それでもやっぱり、初めての恋人というスタート地点で共に肩を並べられただけでも、今の私には十分嬉しいことだ。
胸元で重ねていた手を、徐に伸びてきた彼のそれに捕られる。持ち上げられた右手に、先輩の頬が摺り寄せられた。
いつ触ってもお肌すべすべで羨ましいなぁ。ここぞとばかりにその感触を味わっていれば、猫が甘えるように押し付けられてしまい、可愛らしさに自然と笑みが溢れた。
「実は、ユウさんとお付き合いを始めた日からおかしいんです」
ジェイド先輩は鋭い眦を細め、憂いを帯びた瞳で弱々しく言う。一体、何がおかしいのか。私が抜け落ちた主語を問う前に、彼のほうから答えを述べられた。
「毎日勃起してしまうんです」
「はぁ…………へ!?」
アンニュイな表情から飛び出たのはいやに生々しい単語。死角から放たれた攻撃は凄まじく、意図せず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。
「白状しますと、毎夜一人で寂しく鎮めているんですよ」
目を伏せた先輩は、可愛らしく照れた様子で話す。茫然とフリーズしながらも、頭は知らぬうちに働いていてくれたらしい。広大な記憶の海から彼の兄弟が言っていたあの台詞が引っ張り上げられた。
『だってジェイドはね、小エビちゃん使って毎晩オ――』
……なるほど、そういうことだったのか。ここに来てようやく、私はフロイド先輩の言葉の真意を理解した。
オ、の後にはたぶん、ナニーが続くはずだったのだろう。そんなことも知らずに「気になる」なんて呑気に宣ってしまった己の愚かさにため息も出なかった。
ついでに〝使って〟の意味まで想像を突き詰めてしまったものだから、みるみる頰が熱を持つ。まさに思考回路はショート寸前だ。
「信じられませんか?」
「いえ、そういうわけでは――」
「仕方ないですね。百聞は一見にしかずとも言いますし、ほら。今もこんな風に」
「わっ!? ちょっと……っ」
荒れ狂う私の心情を履き違えた先輩は、握っていた手をぐい、とやや強引に下ろした。導かれた先には……何ということでしょう。彼の股ぐらが待っていたのだ。
指をピンと張って細やかな抵抗を試みるものの、大きな手に覆われて思い切り握り込んでしまう。そこには手の中に収まらないほど大きく、硬いものの存在がありありと感じられた。
嬉しいやら恥ずかしいやら、沢蟹よろしく今にも泡を吐きそうだった。まさか手元を凝視するわけにもいかず、かといって目を瞑ればより感触を鮮明に確かめてしまう。おろおろと明後日の方向を探すが、「ユウさん」と哀願する声色を耳にしたら断念せざるを得なかった。
「先程からずっと苦しいんです……どうしたらいいのでしょう?」
まるで迷子のような視線が縋ってくる。
――現在の寮内にはグリムや他の人間はおろかゴーストだっていない。正真正銘二人きりの空間だ。彼の劣情を解放する完璧な環境が整っていることに気づき、無意識の内に口腔内に溜まってしまった唾液をゴクリと飲み下す。
そりゃあジェイド先輩のことは好きだし、私だってそういうことをしたいという欲求は大なり小なりあるけれども。いざ機会を前にすると怖気づいているのが正直なところだった。それに触ってみて分かったが彼の……その、分身?は素人目にも相当な大きさだと知ってしまったのだ。
そうして悩んでいる間にも、伸び代のあるそれがむくむくと成長していることには出来れば気づきたくなかった。
「わ、私じゃジェイド先輩のご期待に添えるかどうか」
「僕はユウさんが良いんです」
私の不安を吹き飛ばすかのように言い切るジェイド先輩。返す言葉を詰まらせていると、先輩はクスリと微笑んで、下方で当てがっていた私の手を両手で包み込んだ。
「もっとも、人間の雌は生殖孔から赤子を産むそうですから。ユウさんにしてみれば僕のなんてかわいいものだと思いますが」
「かわいくはないですね」
出産経験はおろか、男性経験もない私からすれば十分凶暴すぎるぐらいだ。どうしたものかと俯いて唸る。すると嗅ぎ慣れた海の香りがふわりと鼻腔をくすぐり、私は誘われるように顔を上げた。
「ダメ、ですか?」
弱々しく下げられた眉尻。可愛らしく首を傾げる様にはこてん、という効果音がぴったりだ。
相手の弱点を悪戯に刺激するのが得意なジェイド先輩だ。私がその顔に弱いことなどとうにお見通しなのだろう。まったく、なんてあざとい方でしょう。分かっていながらまんまと乗せられてしまう私も大概なのだが。
未知への恐怖と、愛する人の期待に応えたい気持ち。二つを乗せ揺らいでいた天秤は、あっさりと一方に傾いた。
「善処、してみます……」
絞り出すような声で降参した私を、ジェイド先輩はかかったなと言わんばかりの笑みで眺める。分かってて罠に飛び込んだようなものだ。驚きなんてしない。せいぜい全身が震える程度である。なぁに、軽傷、軽傷。
「僕が言うのも何ですが、ユウさんは僕に甘いですね」
「我ながら絆されている自覚はあります」
「おや。卑屈になることではありませんよ。そんなユウさんも、食べてしまいたいぐらいかわいらしいです」
それはいつかも聞いた台詞だった。でもあの時は悪い冗談としか思えなかったし、ジェイド先輩だって特別な考えは持っていなかっただろう。
だが、今となっては違うのかもしれない。
「ふふ、そんなに緊張なさらないで。ユウさんは身を委ねて下さるだけで構いませんから。素材に適した調理方法を考えるのは僕、得意なんです」
言葉通りの自信に満ちた表情を浮かべるジェイド先輩は、軽々と私を横抱きにすると迷いの無い足取りで談話室を後にした。