♪ 好奇に躍る一週間(完結済)
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禁じられた決りほど、侵したくなる。
秘められたことほど、暴きたくなる。
触れられぬものほど、触れたくなる。
知性を持った生き物は不思議だ。制限されれば制限されるほどに、それを破ったらどうなるのかを想像してしまう。
そんな"好奇心"は時に理性で抑えたり、時に意図して破ってみたり。
たまには無闇に躍らされてみるのも悪くはないかもしれないーーそう思わせるのは単にそういう気分だからか、それとも。
*
放課後の魔法薬学室。
部屋には薬剤を混ぜ合わせる為の鍋と魔導式のコンロがいくつか設置されている。放課後ともあり空になっているはずのそれらの中で一つ、私の目の前にある鍋の中だけは目に悪い蛍光色を発しながらグラグラと煮えたぎっていた。
「ふなぁ〜……もう飽きたんだゾ」
「こら、サボらないで手を動かす」
隣の作業台から気の抜けた声が聞こえ、横目に叱咤した。そこには猫のような小さいモンスターが仰向けに転がっている。
本当なら摘んで持ち上げたいところだが、鍋をかき混ぜる手を休めるわけにはいかなかった。まったく、誰のおかげでわざわざ放課後にまで魔法薬の生成をすることになったんだか。
ーー今日の魔法薬学の授業で、課題に出された魔法薬を私たちは珍しく完璧な仕上がりで完成させた。
成功より失敗の割合が存分に多い私とグリムにしてみたら、奇跡みたいなものだ。それはそれは喜んで提出しようとしたら、あろうことかグリムが手を滑らせて魔法薬が詰まった瓶を落としてしまったのだ。しかもクルーウェル先生の目の前で。あの時の先生の顔は忘れたくても忘れられない。クワバラクワバラ……。
ペアを組んでいたエースには「あーあ。俺しーらね」と早々に一抜けされてしまった。まあ、そうなりますよね。だがしかし、グリムの監督生である私はもちろん二抜けするわけにもいかず。本日中に作り直して提出せよ、とクルーウェル先生〜怒りの緊急ミッション〜を頂戴してしまったのだ。
「それとも、クルーウェル先生にキッツーイお仕置きされたいの?」
わざとおどろおどろしく言ってやると、尚も寝転がり続けるグリムは小さな体を跳ねさせた。
「それだけは嫌なんだゾ!」
「ならちゃんとやって。私も御免被るんだから。ほら、次は鉱石の粉」
わかったんだゾ、としぶしぶ身体を起こして指示されたものを鍋に投げ込む。鍋の中は混ぜる度に色が変わっていき、ここまでは順調だな、とゴーグルの奥で目を細めた。
「失礼します。……おや、どなたかと思えば」
「あ……こんにちは」
「げっ、オマエはそっくり兄弟の」
コンコン、と軽快なノック音が響いたかと思えば、姿を現したのは規格外の大きな身体をした男。その人は言葉に詰まったグリムの後に「ジェイドです」と付け足した。
「一体何しに来たんだゾ」
「課題で使用する薬材を取りに来たんですよ。まさか先客がいらっしゃるとは思いませんでした」
訝しむグリムに、心底驚きましたといった顔でジェイド先輩は言う。
「ユウさんとグリムさんは勉強熱心でいらっしゃるんですね」
「ははは……そうだったら良かったんですけど」
「それもこれもクルーウェルのせ、いだだだ! なにふんらゾ!」
「正真正銘あなたのせいです」
流れるように責任転嫁をする口を引っ張ってやる。ちっとも反省の色を見せない相棒にはまったく先が思いやられる。ため息をついていると、クスクスとおかしげな笑い声が降ってきた。
「お二人は仲良しですね」
「い、いえ、そんなことは……騒がしくしてすみません」
笑われたことで気恥ずかしくなり、頬を摘んでいた手を離す。グリムは皮が伸びてないか確かめながら、肉球で頬っぺたを労っている。
「賑やかでいいじゃないですか」と本当に思ってるんだか思ってないんだか分からない言葉を吐き、ジェイド先輩は涼しい顔で薬材が並ぶ棚と向き合った。その後ろ姿をなるべく意識しないように私は鍋をかき混ぜ続ける。
ーーどうも私はこのジェイド先輩を苦手としていた。
一見すると感情表現は豊かで、物腰は柔らかい優等生然とした青年。だがその節々には彼の持つ過激な面が見え隠れしているのが、機微に聡くない私でも感じられた。
他者を欺くが如く貼り付けられた表情、穏やかな声色で包まれた言葉には鋭い棘が仕込まれている。
とにかく私の人生の中で初めてお目にかかるタイプの、未知の人種だった。そもそもこの学園にはそういった人物が多すぎるのだが……。その中でもこのジェイド・リーチという男は極力近づきたくない人物ランキングナンバーワン(私調べ)に君臨していた。ちなみに同率で彼の寮長と兄弟もいる。オクタヴィネル寮の圧勝です、おめでとうございます。
「これは対象を誘き寄せる魔法薬ですね。懐かしいです」
思いの外近くで聞こえた声に肩が大袈裟に跳ねた。私の考えを見抜いているかのようなタイミングに、さすがナンバーワンは侮れないと唾を飲む。薬材を手にしたジェイド先輩は、作業机の上に置いてあるノートを覗いていた。
「オマエも作ったことあるのか?」
「ええ、一年の時に。作り方も簡単で、気軽に普段遣いできますしオススメですよ」
そんな服屋の店員みたいに勧められる代物なのか? というか普段に使う場面ないよね?
心の中で突っ込みながらも手は休めない。
てっきり用を済ませたらすぐに出て行くとばかり思っていた彼は、何故か隣で鍋を覗き込んでいた。ただ見ているだけだというのに、変な緊張感から手袋の中が汗で蒸れる。平常心、平常心。
「グリム、セラチュラの頭花をお願い」
「おう! これだな」
「……おや、それは」
「えいっ!」
鍋の中に放り込まれたものを見て、隣のジェイド先輩が何か呟く。それは聞き取れたが、意味するところまでは分からず横目に見て流した。
よし、これで完成だ。混ぜていくと二色の反応と甘い匂いがほのかにしてくるーーはずだったが。
「おかしいな……三色に反応してるし匂いもなんか」
「ツンとした匂いがしますね」
鍋を覗いていた先輩も同じく違和感に気づいたらしく、首を傾げている。
「よっしゃ! 早くクルーウェルにこれを叩きつけてやるんだゾ」
「ちょっと待って、グリム」
「ふなぁっ」
いつの間にやらグリムは、鍋から瓶に移した魔法薬を口に咥えていた。課題を出された上に失敗作を持って行こうものなら、いよいよ恐怖のお仕置きタイムだ。私は速やかにグリムが咥えている瓶を回収した。
改めて見ているとやはり成功した時と色が違うことが分かる。これはまた一から作り直しだな。
中身を破棄しようと蓋を緩めていると、するりと伸びてきた黒い尻尾に瓶を絡めとられてしまった。
「オレ様はとっとと帰ってツナ缶が食いてーんだ!」
「あっ、ダメだってば! 離して」
「ユウこそ離すんだゾ!」
瓶に尻尾を巻きつけたまま出ていかんとする相棒に、そうさせてなるものかと私は瓶を掴む。グリムの尻尾は意外と強く、しばし膠着状態が続く。そんな私たちをジェイド先輩は面白そうに眺めていた。眺めてるぐらいなら加勢してくれ、とは彼相手には口が裂けても言えない。
「だからこれはーーあっ」
「ふな!?」
「おや」
刹那、もう付き合ってられんとばかりに瓶が二人の間から飛び出た。それは高く宙を浮き、中身を撒き散らしながら落下していく。その光景はやけにスローモーションに見えた。
やってしまったと思う頃には時すでに遅し。撒かれた液体はシャワーのように先輩と私の頭を濡らし、淡く光って消えた。
カラン、と瓶が落ちた音と同時に静まり返る空間。心なしか体感温度が下がった気がして顎が震えた。あれ、ここ南極だったかな。
「だ、だだ、ダイジョブデスカ?」
「……ふむ」
自身の体を上から下まで一通り見るジェイド先輩。変わりないことを確認すると、「特に異変は無いようです」と安心させるかのように笑ってみせた。どうやら最悪の展開は免れられたらしい、と私はホッと息を吐く。
「巻き込んでしまってすみませんでした……ほら、グリムも」
「うう。悪かったんだゾ」
ようやく反省の色を見せたグリムは、がっくりと項垂れる。ジェイド先輩はそんな様子を見て「いえいえ」とひとつ笑みを落とし、白衣を翻した。
「では、僕はこれで失礼しますね。お二人とも頑張って下さい」
「はい。ありがとうございます」
来た時と同じく、彼は何食わぬ顔で出て行く。
その姿を見送った後、私は深く深くため息をついた。よりにもよってジェイド先輩に失敗した魔法薬を掛けてしまうなんて、命知らずにも程がある。何もなかったから良かったが、これで危害を与えてしまった日には……精神衛生上、想像するのはやめておこう。
二回目(三回目)の魔法薬は、反省し心を入れ替えたグリムのおかげもありすんなりと完成させることができた。
今度は二人で仲良くクルーウェル先生のもとに持って行く。先生には「まぁ、及第点だな。二度と同じ失敗はするなよ」と、何とか合格をいただけた。
*
翌日。
眠い眠い座学を乗り越え、次は体力育成の授業だ。私は運動着に着替えて、いつものメンバーであるエースとデュース、相棒のグリムと廊下を歩いていた。
だるい、腹減ったゾと愚痴を零す二人をデュースがだらしないぞと叱責する。これもいつもの光景。
真っ直ぐ歩いて行くと、向かい側からあらゆる意味で目を引く三人の姿が近づいてくるーーオクタヴィネル寮のスリートップだ。ただ普通に歩いているだけだというのに、只者ではないオーラが駄々漏れている。
それを感じ取ったのだろう三人は、声には出さずともその表情が「関わりたくねえ」と訴えている。特に元イソギンチャク生には苦くて辛い思い出しかない面々だ、仕方がない。
私だって普段であれば礼儀的に挨拶を交わす程度で好き好んで交流はしない。しかしいかんせんそのうちの一人に予期せぬ借りを作ってしまった。向こうから声をかけられて一方的に嫌味を浴びせられるのは、出来れば避けたい。私はエースたちに声を掛けて、小走りでその人のもとに駆け寄る。
「ジェイド先輩」
「…… ユウさん?」
離れたところから名前を呼ぶと、当然ながら三人分の視線がこちらに向く。分かってはいたがさすがに迫力がすごい。
気圧されつつも距離を縮めていこうとした矢先。
「昨日はすみませ、っ!?」
どすん、と鈍い音がいやに大きく廊下に響いた気がした。
私は今置かれている状況を飲み込めず、しばし天井を仰いだ。徐々にお尻に鈍い痛みを覚え始め、そこでようやく自分が盛大に尻餅をついたのだと理解する。
ーー今、前から跳ね返されたような? しかし上下左右を見ても何もなく、頭にクエスチョンマークが浮かぶばかり。
そんな呆然とする意識を引き戻したのはぷっ、と吹き出す声だった。
「ははは! おっまえドジにも程があるだろ」
「ユウ、大丈夫か」
差し伸べてくれたデュースの手を借りて何とか立ち上がる。
「滑ったのか?」
「ううん。何かに当たって跳ね返された感じがしたんだけど……」
「何にもねぇんだゾ?」
滑ったわけでも、躓いたわけでも、足が縺れたわけでもなく。確かに"何か"にぶつかったのだ。だが、グリムの言う通り廊下のどこにも障害物は見当たらない。
まだ少しヒリヒリするお尻を摩りながら前の方を見ると、ぱちくりと切れ長の目を瞬くジェイド先輩と目があった。彼にしては珍しい、驚きに染まった表情だった。
「お怪我はありませんか? 思ったよりお転婆でいらっしゃる……ふっ」
「小エビちゃんの間抜けな顔マジおもしれー」
側に寄ってきては、心配する言葉と裏腹に堪え切れない笑いを洩れさせるアズール先輩、これ見よがしに腹を抱えて笑うフロイド先輩。
笑うんじゃないやい。ただドジって転んだんじゃないやい。とはいえ反論したくても上手く説明がつかず、黙って赤面する顔を俯けた。
そんな中でふと、本来話しかけたかった人がこの場に足りないことに気付く。顔を上げるとジェイド先輩は先ほどから変わらずその場で何か思案していた。私の視線を辿ったアズール先輩とフロイド先輩もそれに気づいたらしい。不思議そうに顔を見合わせてから彼の元に戻る。
「ジェイド、どうかしましたか」
「……どうやら近づけないみたいです」
「ハァ?」
神妙な面持ちで話しながらもいまいち要領を得ず、焦ったくなったフロイド先輩がやや不機嫌な声色で説明を急かす。
「ユウさんに、近づけません」
「えっ?」
唐突に自分の名前が聞こえて、思わず声を漏らした。
どういうことだ、と周囲から疑問を投げかけられる前に実践したほうが早いと考えたそうで、ジェイド先輩が一歩前に足を踏み出す。そしてもう一歩踏み出すと、地面に着く前に大きな身体が後ろによろめいた。同じくして、私は前から押されるような衝撃が走って足を一歩引いて踏ん張る。それはさっき尻餅をついた時とまるっきり同じものだった。
「やはり近づけませんね」
「な、なんで……?」
当たり前だが周囲に阻害するような物体は見当たらない。反面、体に襲ってくる衝撃は確かに存在している。
さながら二人の間には透明で巨大なゴムボールがあるかのようだった。
「おい、ユウ。ジェイド先輩に何したんだよ」
「何って、私は何も……」
爆笑から一転、「まずいんじゃねーの」と不安そうに小声で耳打ちしてくるエース。私は心当たりなどない、と言い切ろうとして留まる。
ーー昨日の失敗した魔法薬。あの場では何もなかったが、原因となり得るとしたらそれしか思い当たらない。
昨日の出来事をエースたちに説明すると「げぇ。マジかよ」「……ご愁傷様」「オレ様は知らねーんだゾ」と哀れみを投げかけられる。最後の言葉を吐いた方を、三人はジト目をお揃いにして見た。どの口がいうんだ、どの口が。
そうこうしている内に、校内には予鈴が鳴り響く。授業に遅れたら無駄に熱血なバルガス先生にしごかれるに違いない。慌てて運動場に向かってダッシュしていく三人。私も先輩たちに一礼してから着いて行こうとすると、
「放課後、モストロ・ラウンジにいらして下さいますか」
離れた距離でも聞こえるよう、ハッキリとした声量でジェイド先輩に告げられる。その表情はいつもの食えないーーいや、何か含みのある笑いを僅かにたたえていた。彼相手に断る選択肢など持ち合わせていなかった私は、同じぐらいの声で返事をして二人と一匹の後を追った。
嫌な予感に胸がざわつき、その日の授業はあまり集中できなかった。
*
今の心境を表すならば、敵地に単身丸腰で乗り込む兵士(Lv.1)のような気持ちだ。
誰もいなくなった教室で、私は机に突っ伏して唸っていた。行かなくては、行きたくない、でも行かなくては……の思考のループに沈むこと数分。
脳裏にチラつくのはジェイド先輩のあのいかにも"良くないこと企んでまーす!"な顔。あれを見ていながら嬉々として敵地(モストロ・ラウンジ)に行けるわけがなかった。
応援を呼ぼうにも、グリムは授業中に延々と居眠りしていたせいでトレイン先生に絞られ中。エースとデュースは部活。ほかの同級生の面々も同じく。今の私には逃げ道も助け舟もないときた。嗚呼、無情。
そうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。時間をかけたところで状況が好転するわけではない。むしろ悪くなる可能性のほうが多分にある。
そもそもの話、こうなったのは身から出た錆というものだ。皆んなに頼るのは筋違いだろう。
私は両頬にパンッと平手で喝を入れてからいよいよ席を立った。いざ、出陣!
「こ、こっ、ここここんにちはー……?」
先ほどの気合いはどこへやら。悲鳴を訴える胃を抱えながら、何とかモストロ・ラウンジの店内に足を踏み入れた。正直、ここに来るだけで息も絶え絶えな心地だ。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ」
「小エビちゃんいらっしゃぁい」
広い店内のカウンター席にはジェイド先輩とフロイド先輩が隣り合って座っていた。
出たな、オクタヴィネルの裏ボスツインズ。寮服がまた彼らの強者オーラを引き立てており、初期装備もいいとこな私は生まれたての小鹿のように足が震える。仮に装備を固めてみたところで本人のレベルが圧倒的に足りていないのだから、全く意味は為さないだろう。
入り口の前で二の足を踏んでいると、ある違和感に気づく。いつもならがやがやと賑わっている店内は不気味なぐらい静かだ。むしろ人っ子一人いなかった。
「あれ? お客さんは……?」
「本日は定休日なので、お客様はいません」
「そうだったんですか」
なるほど、定休日。お金に煩いとはいえその辺りはちゃんとホワイトなんだな、とはとてもここの支配人には言えない。
人の姿が一切無い店内はより海のモチーフが活きていた。壁一面の水槽、クラゲのような小洒落た照明、海中散歩を思わせるBGM、そして、二人の人魚。いつぞやの彼らの本当の姿を思い出してひそかに戦慄した。
そうして繁々と店内を見ていると、楽器のような高らかな靴音が響いてくる。
「ユウさん、ようこそいらっしゃいました」
「お、お邪魔しています」
満を辞していらっしゃいました、こちらはオクタヴィネルの大ボスだ。
アズール寮長もまた寮服に身を包んでおり、肩にかけたコートがより彼のボス感を際立たせる。恐らくそれも見目に気を遣う彼の計算の内なのだろう。
ジャケットを肩に掛ける男は強そうに見えるし、実際強いことが多い(ただし二次元に限る)。私も制服の上着を肩に縫い付けてみようかなと考えてから、担任であるクルーウェル先生に「バッドガール!」と真っ先に引っぺがされることまで想像して早々に諦めた。
アズール先輩は仰々しくも品のある所作でボックス席のソファに腰掛ける。「いつまで突っ立てるんですか」と訝しげに見る彼に促され、私もテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「さて、早速本題ですが」
眼鏡のブリッジを指で押し上げながら言うその姿はいやに様になっており、思わずごくりと喉が鳴る。
「あなた方が被った魔法薬というのは、対象を遠ざける薬でしょう」
「遠ざける……ですか」
アズール先輩の言葉に、道理であの時ジェイドに近づけなかったわけだと心の中で合点した。
「あなたとグリムさんは対象を誘き寄せる薬を生成されていたそうですね?」
「はい。そうです」
「ジェイドの話を聞く限り、恐らくセラチュラの頭花を入れるところを、バーダックの頭花を混入してしまったのでしょう」
セラチュラの頭花。口の中で復唱していると、グリムがそれを入れる時にジェイド先輩が何か言っていたのを思い出した。そうか、彼はあの時に違うものだと気づいていたんだ。
視線の先にいるジェイド先輩を見遣るとニコリと愛想笑いをされた。どういう顔をしていいか迷い、ぎこちない苦笑いで返す。
「二つの見た目はまぁ……似ていると言えなくもないですかね。僕は絶対間違えませんが」
やれやれと大袈裟にため息をつくアズール先輩。魔法素人の自分でも初歩中の初歩のミスだということは分かって、体を縮こませた。
あれをクルーウェル先生に見せなくて本当に良かった。否、現状と比べたらそっちのほうがマシだったかもしれないが。
「これは残念なお知らせなのですが」
言葉に反し、アズール先輩は淡々とした声で告げる。
「生憎と解除薬に必要な素材を切らしておりまして……サムさんにも伺いましたが、取り寄せに一週間ほどかかるそうです」
あの無敵の品揃えのサムさんにも縋れないとは、余程運が無いとしか言いようがない。ジェイド先輩は「おやおや」と微塵も困ってなさそうな声で言う。他人事とも取れるそれに、本当に食えない人だ、と私は人知れず苦手意識を強めた。
「ですが、見たところ近づけないのは半径五メートルといったところでしょう。幸い、二人は寮も違えば学年も違いますし普通に生活する分には困らないはずです」
アズール先輩は「反発し合うという点が厄介ですがね」とため息混じりに呟く。
つまり"近づかないように気をつけてさえいれば何も問題はない"、そういうことだ。
私にしてみればそもそも自ら進んで近づきたい人物ではないし、こうして言葉にしてみるとなんて事はない気がしてきた。相手がエースやデュースであれば、多少困りはしたかもしれないが。
一週間、それぐらいなら難なくやり過ごせるだろう。
私は小さく拳を作り気合を入れているとーー突然、視界の端にソフトボールくらいの水の玉が現れた。
明らかに自分の方に向かってくるそれに反射的に身構える。何故、と疑問に思いながらも犯人の目星はつきすぎていた。そのままぶつかると思われた水の玉は、幾分か手前で見えない何かにぶつかり弾かれる。
「なるほど。魔法も届かなくなるんですね」
「へぇ。オレのユニーク魔法みたいじゃん」
「いきなりはびっくりするのでやめていただけません……!?」
弾かれた辺りを見ると、大方の予想通りジェイド先輩がいた。優雅に座っているその手にはマジカルペンが握られている。
こちらの抗議の声など華麗にスルーして、勉強になりましたとばかりに感心するその人。私は程のいい実験体か? 血も涙もない所業だ。
「ねぇねぇ、オレもやってみていい? いいよね?」
「待って下さい、これはジェイド先輩だからで……ぶっ!」
「……はぁ。ジェイド、フロイド。掃除はお前たちがするんですからね」
飛んできた水の玉は今度は逸れることなく、私の顔面にクリーンヒットした。頭の天辺から肩まで水が滴る悲惨な有り様だ。この格好で寮まで帰ることになるこちらの身も少しは案じて欲しい。
元凶たるフロイド先輩には「何で避けねえの」とキレ顔を向けられる始末。あまりにも理不尽である。一連の様子を見ていたジェイド先輩は可笑しそうに笑っていた。さぞかし楽しそうで何より……んなわけあるかい!
完全にこの人たちのオモチャと成り果てている現状に、私はわなわなと肩を震わせる(元を辿れば自業自得なのだが)。
アズール先輩は寒さから来る震えだと思ったのか、「これをどうぞ」とふわふわのタオルを手渡してくれた。端正な顔には慈悲深い笑みを浮かべており、私は天からの恵みとばかりにそれを拝借する。
さすが寮長、これぞオクタヴィネル寮生の鑑。
濡れた頭ついでに感激の涙を拭っていると、スッと目の前に右手を差し出される。
ええっ、まさかエスコートまでーー
「一枚千マドルです」
寮生の鑑? いいえ、守銭奴の鑑の間違いでした。
にっこりとしたその笑顔に慈悲など無い。
この日、私は「絶っ対にジェイド先輩(と二人)に近づいてなるものか!」と固く胸に決意したのだった。
秘められたことほど、暴きたくなる。
触れられぬものほど、触れたくなる。
知性を持った生き物は不思議だ。制限されれば制限されるほどに、それを破ったらどうなるのかを想像してしまう。
そんな"好奇心"は時に理性で抑えたり、時に意図して破ってみたり。
たまには無闇に躍らされてみるのも悪くはないかもしれないーーそう思わせるのは単にそういう気分だからか、それとも。
*
放課後の魔法薬学室。
部屋には薬剤を混ぜ合わせる為の鍋と魔導式のコンロがいくつか設置されている。放課後ともあり空になっているはずのそれらの中で一つ、私の目の前にある鍋の中だけは目に悪い蛍光色を発しながらグラグラと煮えたぎっていた。
「ふなぁ〜……もう飽きたんだゾ」
「こら、サボらないで手を動かす」
隣の作業台から気の抜けた声が聞こえ、横目に叱咤した。そこには猫のような小さいモンスターが仰向けに転がっている。
本当なら摘んで持ち上げたいところだが、鍋をかき混ぜる手を休めるわけにはいかなかった。まったく、誰のおかげでわざわざ放課後にまで魔法薬の生成をすることになったんだか。
ーー今日の魔法薬学の授業で、課題に出された魔法薬を私たちは珍しく完璧な仕上がりで完成させた。
成功より失敗の割合が存分に多い私とグリムにしてみたら、奇跡みたいなものだ。それはそれは喜んで提出しようとしたら、あろうことかグリムが手を滑らせて魔法薬が詰まった瓶を落としてしまったのだ。しかもクルーウェル先生の目の前で。あの時の先生の顔は忘れたくても忘れられない。クワバラクワバラ……。
ペアを組んでいたエースには「あーあ。俺しーらね」と早々に一抜けされてしまった。まあ、そうなりますよね。だがしかし、グリムの監督生である私はもちろん二抜けするわけにもいかず。本日中に作り直して提出せよ、とクルーウェル先生〜怒りの緊急ミッション〜を頂戴してしまったのだ。
「それとも、クルーウェル先生にキッツーイお仕置きされたいの?」
わざとおどろおどろしく言ってやると、尚も寝転がり続けるグリムは小さな体を跳ねさせた。
「それだけは嫌なんだゾ!」
「ならちゃんとやって。私も御免被るんだから。ほら、次は鉱石の粉」
わかったんだゾ、としぶしぶ身体を起こして指示されたものを鍋に投げ込む。鍋の中は混ぜる度に色が変わっていき、ここまでは順調だな、とゴーグルの奥で目を細めた。
「失礼します。……おや、どなたかと思えば」
「あ……こんにちは」
「げっ、オマエはそっくり兄弟の」
コンコン、と軽快なノック音が響いたかと思えば、姿を現したのは規格外の大きな身体をした男。その人は言葉に詰まったグリムの後に「ジェイドです」と付け足した。
「一体何しに来たんだゾ」
「課題で使用する薬材を取りに来たんですよ。まさか先客がいらっしゃるとは思いませんでした」
訝しむグリムに、心底驚きましたといった顔でジェイド先輩は言う。
「ユウさんとグリムさんは勉強熱心でいらっしゃるんですね」
「ははは……そうだったら良かったんですけど」
「それもこれもクルーウェルのせ、いだだだ! なにふんらゾ!」
「正真正銘あなたのせいです」
流れるように責任転嫁をする口を引っ張ってやる。ちっとも反省の色を見せない相棒にはまったく先が思いやられる。ため息をついていると、クスクスとおかしげな笑い声が降ってきた。
「お二人は仲良しですね」
「い、いえ、そんなことは……騒がしくしてすみません」
笑われたことで気恥ずかしくなり、頬を摘んでいた手を離す。グリムは皮が伸びてないか確かめながら、肉球で頬っぺたを労っている。
「賑やかでいいじゃないですか」と本当に思ってるんだか思ってないんだか分からない言葉を吐き、ジェイド先輩は涼しい顔で薬材が並ぶ棚と向き合った。その後ろ姿をなるべく意識しないように私は鍋をかき混ぜ続ける。
ーーどうも私はこのジェイド先輩を苦手としていた。
一見すると感情表現は豊かで、物腰は柔らかい優等生然とした青年。だがその節々には彼の持つ過激な面が見え隠れしているのが、機微に聡くない私でも感じられた。
他者を欺くが如く貼り付けられた表情、穏やかな声色で包まれた言葉には鋭い棘が仕込まれている。
とにかく私の人生の中で初めてお目にかかるタイプの、未知の人種だった。そもそもこの学園にはそういった人物が多すぎるのだが……。その中でもこのジェイド・リーチという男は極力近づきたくない人物ランキングナンバーワン(私調べ)に君臨していた。ちなみに同率で彼の寮長と兄弟もいる。オクタヴィネル寮の圧勝です、おめでとうございます。
「これは対象を誘き寄せる魔法薬ですね。懐かしいです」
思いの外近くで聞こえた声に肩が大袈裟に跳ねた。私の考えを見抜いているかのようなタイミングに、さすがナンバーワンは侮れないと唾を飲む。薬材を手にしたジェイド先輩は、作業机の上に置いてあるノートを覗いていた。
「オマエも作ったことあるのか?」
「ええ、一年の時に。作り方も簡単で、気軽に普段遣いできますしオススメですよ」
そんな服屋の店員みたいに勧められる代物なのか? というか普段に使う場面ないよね?
心の中で突っ込みながらも手は休めない。
てっきり用を済ませたらすぐに出て行くとばかり思っていた彼は、何故か隣で鍋を覗き込んでいた。ただ見ているだけだというのに、変な緊張感から手袋の中が汗で蒸れる。平常心、平常心。
「グリム、セラチュラの頭花をお願い」
「おう! これだな」
「……おや、それは」
「えいっ!」
鍋の中に放り込まれたものを見て、隣のジェイド先輩が何か呟く。それは聞き取れたが、意味するところまでは分からず横目に見て流した。
よし、これで完成だ。混ぜていくと二色の反応と甘い匂いがほのかにしてくるーーはずだったが。
「おかしいな……三色に反応してるし匂いもなんか」
「ツンとした匂いがしますね」
鍋を覗いていた先輩も同じく違和感に気づいたらしく、首を傾げている。
「よっしゃ! 早くクルーウェルにこれを叩きつけてやるんだゾ」
「ちょっと待って、グリム」
「ふなぁっ」
いつの間にやらグリムは、鍋から瓶に移した魔法薬を口に咥えていた。課題を出された上に失敗作を持って行こうものなら、いよいよ恐怖のお仕置きタイムだ。私は速やかにグリムが咥えている瓶を回収した。
改めて見ているとやはり成功した時と色が違うことが分かる。これはまた一から作り直しだな。
中身を破棄しようと蓋を緩めていると、するりと伸びてきた黒い尻尾に瓶を絡めとられてしまった。
「オレ様はとっとと帰ってツナ缶が食いてーんだ!」
「あっ、ダメだってば! 離して」
「ユウこそ離すんだゾ!」
瓶に尻尾を巻きつけたまま出ていかんとする相棒に、そうさせてなるものかと私は瓶を掴む。グリムの尻尾は意外と強く、しばし膠着状態が続く。そんな私たちをジェイド先輩は面白そうに眺めていた。眺めてるぐらいなら加勢してくれ、とは彼相手には口が裂けても言えない。
「だからこれはーーあっ」
「ふな!?」
「おや」
刹那、もう付き合ってられんとばかりに瓶が二人の間から飛び出た。それは高く宙を浮き、中身を撒き散らしながら落下していく。その光景はやけにスローモーションに見えた。
やってしまったと思う頃には時すでに遅し。撒かれた液体はシャワーのように先輩と私の頭を濡らし、淡く光って消えた。
カラン、と瓶が落ちた音と同時に静まり返る空間。心なしか体感温度が下がった気がして顎が震えた。あれ、ここ南極だったかな。
「だ、だだ、ダイジョブデスカ?」
「……ふむ」
自身の体を上から下まで一通り見るジェイド先輩。変わりないことを確認すると、「特に異変は無いようです」と安心させるかのように笑ってみせた。どうやら最悪の展開は免れられたらしい、と私はホッと息を吐く。
「巻き込んでしまってすみませんでした……ほら、グリムも」
「うう。悪かったんだゾ」
ようやく反省の色を見せたグリムは、がっくりと項垂れる。ジェイド先輩はそんな様子を見て「いえいえ」とひとつ笑みを落とし、白衣を翻した。
「では、僕はこれで失礼しますね。お二人とも頑張って下さい」
「はい。ありがとうございます」
来た時と同じく、彼は何食わぬ顔で出て行く。
その姿を見送った後、私は深く深くため息をついた。よりにもよってジェイド先輩に失敗した魔法薬を掛けてしまうなんて、命知らずにも程がある。何もなかったから良かったが、これで危害を与えてしまった日には……精神衛生上、想像するのはやめておこう。
二回目(三回目)の魔法薬は、反省し心を入れ替えたグリムのおかげもありすんなりと完成させることができた。
今度は二人で仲良くクルーウェル先生のもとに持って行く。先生には「まぁ、及第点だな。二度と同じ失敗はするなよ」と、何とか合格をいただけた。
*
翌日。
眠い眠い座学を乗り越え、次は体力育成の授業だ。私は運動着に着替えて、いつものメンバーであるエースとデュース、相棒のグリムと廊下を歩いていた。
だるい、腹減ったゾと愚痴を零す二人をデュースがだらしないぞと叱責する。これもいつもの光景。
真っ直ぐ歩いて行くと、向かい側からあらゆる意味で目を引く三人の姿が近づいてくるーーオクタヴィネル寮のスリートップだ。ただ普通に歩いているだけだというのに、只者ではないオーラが駄々漏れている。
それを感じ取ったのだろう三人は、声には出さずともその表情が「関わりたくねえ」と訴えている。特に元イソギンチャク生には苦くて辛い思い出しかない面々だ、仕方がない。
私だって普段であれば礼儀的に挨拶を交わす程度で好き好んで交流はしない。しかしいかんせんそのうちの一人に予期せぬ借りを作ってしまった。向こうから声をかけられて一方的に嫌味を浴びせられるのは、出来れば避けたい。私はエースたちに声を掛けて、小走りでその人のもとに駆け寄る。
「ジェイド先輩」
「…… ユウさん?」
離れたところから名前を呼ぶと、当然ながら三人分の視線がこちらに向く。分かってはいたがさすがに迫力がすごい。
気圧されつつも距離を縮めていこうとした矢先。
「昨日はすみませ、っ!?」
どすん、と鈍い音がいやに大きく廊下に響いた気がした。
私は今置かれている状況を飲み込めず、しばし天井を仰いだ。徐々にお尻に鈍い痛みを覚え始め、そこでようやく自分が盛大に尻餅をついたのだと理解する。
ーー今、前から跳ね返されたような? しかし上下左右を見ても何もなく、頭にクエスチョンマークが浮かぶばかり。
そんな呆然とする意識を引き戻したのはぷっ、と吹き出す声だった。
「ははは! おっまえドジにも程があるだろ」
「ユウ、大丈夫か」
差し伸べてくれたデュースの手を借りて何とか立ち上がる。
「滑ったのか?」
「ううん。何かに当たって跳ね返された感じがしたんだけど……」
「何にもねぇんだゾ?」
滑ったわけでも、躓いたわけでも、足が縺れたわけでもなく。確かに"何か"にぶつかったのだ。だが、グリムの言う通り廊下のどこにも障害物は見当たらない。
まだ少しヒリヒリするお尻を摩りながら前の方を見ると、ぱちくりと切れ長の目を瞬くジェイド先輩と目があった。彼にしては珍しい、驚きに染まった表情だった。
「お怪我はありませんか? 思ったよりお転婆でいらっしゃる……ふっ」
「小エビちゃんの間抜けな顔マジおもしれー」
側に寄ってきては、心配する言葉と裏腹に堪え切れない笑いを洩れさせるアズール先輩、これ見よがしに腹を抱えて笑うフロイド先輩。
笑うんじゃないやい。ただドジって転んだんじゃないやい。とはいえ反論したくても上手く説明がつかず、黙って赤面する顔を俯けた。
そんな中でふと、本来話しかけたかった人がこの場に足りないことに気付く。顔を上げるとジェイド先輩は先ほどから変わらずその場で何か思案していた。私の視線を辿ったアズール先輩とフロイド先輩もそれに気づいたらしい。不思議そうに顔を見合わせてから彼の元に戻る。
「ジェイド、どうかしましたか」
「……どうやら近づけないみたいです」
「ハァ?」
神妙な面持ちで話しながらもいまいち要領を得ず、焦ったくなったフロイド先輩がやや不機嫌な声色で説明を急かす。
「ユウさんに、近づけません」
「えっ?」
唐突に自分の名前が聞こえて、思わず声を漏らした。
どういうことだ、と周囲から疑問を投げかけられる前に実践したほうが早いと考えたそうで、ジェイド先輩が一歩前に足を踏み出す。そしてもう一歩踏み出すと、地面に着く前に大きな身体が後ろによろめいた。同じくして、私は前から押されるような衝撃が走って足を一歩引いて踏ん張る。それはさっき尻餅をついた時とまるっきり同じものだった。
「やはり近づけませんね」
「な、なんで……?」
当たり前だが周囲に阻害するような物体は見当たらない。反面、体に襲ってくる衝撃は確かに存在している。
さながら二人の間には透明で巨大なゴムボールがあるかのようだった。
「おい、ユウ。ジェイド先輩に何したんだよ」
「何って、私は何も……」
爆笑から一転、「まずいんじゃねーの」と不安そうに小声で耳打ちしてくるエース。私は心当たりなどない、と言い切ろうとして留まる。
ーー昨日の失敗した魔法薬。あの場では何もなかったが、原因となり得るとしたらそれしか思い当たらない。
昨日の出来事をエースたちに説明すると「げぇ。マジかよ」「……ご愁傷様」「オレ様は知らねーんだゾ」と哀れみを投げかけられる。最後の言葉を吐いた方を、三人はジト目をお揃いにして見た。どの口がいうんだ、どの口が。
そうこうしている内に、校内には予鈴が鳴り響く。授業に遅れたら無駄に熱血なバルガス先生にしごかれるに違いない。慌てて運動場に向かってダッシュしていく三人。私も先輩たちに一礼してから着いて行こうとすると、
「放課後、モストロ・ラウンジにいらして下さいますか」
離れた距離でも聞こえるよう、ハッキリとした声量でジェイド先輩に告げられる。その表情はいつもの食えないーーいや、何か含みのある笑いを僅かにたたえていた。彼相手に断る選択肢など持ち合わせていなかった私は、同じぐらいの声で返事をして二人と一匹の後を追った。
嫌な予感に胸がざわつき、その日の授業はあまり集中できなかった。
*
今の心境を表すならば、敵地に単身丸腰で乗り込む兵士(Lv.1)のような気持ちだ。
誰もいなくなった教室で、私は机に突っ伏して唸っていた。行かなくては、行きたくない、でも行かなくては……の思考のループに沈むこと数分。
脳裏にチラつくのはジェイド先輩のあのいかにも"良くないこと企んでまーす!"な顔。あれを見ていながら嬉々として敵地(モストロ・ラウンジ)に行けるわけがなかった。
応援を呼ぼうにも、グリムは授業中に延々と居眠りしていたせいでトレイン先生に絞られ中。エースとデュースは部活。ほかの同級生の面々も同じく。今の私には逃げ道も助け舟もないときた。嗚呼、無情。
そうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。時間をかけたところで状況が好転するわけではない。むしろ悪くなる可能性のほうが多分にある。
そもそもの話、こうなったのは身から出た錆というものだ。皆んなに頼るのは筋違いだろう。
私は両頬にパンッと平手で喝を入れてからいよいよ席を立った。いざ、出陣!
「こ、こっ、ここここんにちはー……?」
先ほどの気合いはどこへやら。悲鳴を訴える胃を抱えながら、何とかモストロ・ラウンジの店内に足を踏み入れた。正直、ここに来るだけで息も絶え絶えな心地だ。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ」
「小エビちゃんいらっしゃぁい」
広い店内のカウンター席にはジェイド先輩とフロイド先輩が隣り合って座っていた。
出たな、オクタヴィネルの裏ボスツインズ。寮服がまた彼らの強者オーラを引き立てており、初期装備もいいとこな私は生まれたての小鹿のように足が震える。仮に装備を固めてみたところで本人のレベルが圧倒的に足りていないのだから、全く意味は為さないだろう。
入り口の前で二の足を踏んでいると、ある違和感に気づく。いつもならがやがやと賑わっている店内は不気味なぐらい静かだ。むしろ人っ子一人いなかった。
「あれ? お客さんは……?」
「本日は定休日なので、お客様はいません」
「そうだったんですか」
なるほど、定休日。お金に煩いとはいえその辺りはちゃんとホワイトなんだな、とはとてもここの支配人には言えない。
人の姿が一切無い店内はより海のモチーフが活きていた。壁一面の水槽、クラゲのような小洒落た照明、海中散歩を思わせるBGM、そして、二人の人魚。いつぞやの彼らの本当の姿を思い出してひそかに戦慄した。
そうして繁々と店内を見ていると、楽器のような高らかな靴音が響いてくる。
「ユウさん、ようこそいらっしゃいました」
「お、お邪魔しています」
満を辞していらっしゃいました、こちらはオクタヴィネルの大ボスだ。
アズール寮長もまた寮服に身を包んでおり、肩にかけたコートがより彼のボス感を際立たせる。恐らくそれも見目に気を遣う彼の計算の内なのだろう。
ジャケットを肩に掛ける男は強そうに見えるし、実際強いことが多い(ただし二次元に限る)。私も制服の上着を肩に縫い付けてみようかなと考えてから、担任であるクルーウェル先生に「バッドガール!」と真っ先に引っぺがされることまで想像して早々に諦めた。
アズール先輩は仰々しくも品のある所作でボックス席のソファに腰掛ける。「いつまで突っ立てるんですか」と訝しげに見る彼に促され、私もテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「さて、早速本題ですが」
眼鏡のブリッジを指で押し上げながら言うその姿はいやに様になっており、思わずごくりと喉が鳴る。
「あなた方が被った魔法薬というのは、対象を遠ざける薬でしょう」
「遠ざける……ですか」
アズール先輩の言葉に、道理であの時ジェイドに近づけなかったわけだと心の中で合点した。
「あなたとグリムさんは対象を誘き寄せる薬を生成されていたそうですね?」
「はい。そうです」
「ジェイドの話を聞く限り、恐らくセラチュラの頭花を入れるところを、バーダックの頭花を混入してしまったのでしょう」
セラチュラの頭花。口の中で復唱していると、グリムがそれを入れる時にジェイド先輩が何か言っていたのを思い出した。そうか、彼はあの時に違うものだと気づいていたんだ。
視線の先にいるジェイド先輩を見遣るとニコリと愛想笑いをされた。どういう顔をしていいか迷い、ぎこちない苦笑いで返す。
「二つの見た目はまぁ……似ていると言えなくもないですかね。僕は絶対間違えませんが」
やれやれと大袈裟にため息をつくアズール先輩。魔法素人の自分でも初歩中の初歩のミスだということは分かって、体を縮こませた。
あれをクルーウェル先生に見せなくて本当に良かった。否、現状と比べたらそっちのほうがマシだったかもしれないが。
「これは残念なお知らせなのですが」
言葉に反し、アズール先輩は淡々とした声で告げる。
「生憎と解除薬に必要な素材を切らしておりまして……サムさんにも伺いましたが、取り寄せに一週間ほどかかるそうです」
あの無敵の品揃えのサムさんにも縋れないとは、余程運が無いとしか言いようがない。ジェイド先輩は「おやおや」と微塵も困ってなさそうな声で言う。他人事とも取れるそれに、本当に食えない人だ、と私は人知れず苦手意識を強めた。
「ですが、見たところ近づけないのは半径五メートルといったところでしょう。幸い、二人は寮も違えば学年も違いますし普通に生活する分には困らないはずです」
アズール先輩は「反発し合うという点が厄介ですがね」とため息混じりに呟く。
つまり"近づかないように気をつけてさえいれば何も問題はない"、そういうことだ。
私にしてみればそもそも自ら進んで近づきたい人物ではないし、こうして言葉にしてみるとなんて事はない気がしてきた。相手がエースやデュースであれば、多少困りはしたかもしれないが。
一週間、それぐらいなら難なくやり過ごせるだろう。
私は小さく拳を作り気合を入れているとーー突然、視界の端にソフトボールくらいの水の玉が現れた。
明らかに自分の方に向かってくるそれに反射的に身構える。何故、と疑問に思いながらも犯人の目星はつきすぎていた。そのままぶつかると思われた水の玉は、幾分か手前で見えない何かにぶつかり弾かれる。
「なるほど。魔法も届かなくなるんですね」
「へぇ。オレのユニーク魔法みたいじゃん」
「いきなりはびっくりするのでやめていただけません……!?」
弾かれた辺りを見ると、大方の予想通りジェイド先輩がいた。優雅に座っているその手にはマジカルペンが握られている。
こちらの抗議の声など華麗にスルーして、勉強になりましたとばかりに感心するその人。私は程のいい実験体か? 血も涙もない所業だ。
「ねぇねぇ、オレもやってみていい? いいよね?」
「待って下さい、これはジェイド先輩だからで……ぶっ!」
「……はぁ。ジェイド、フロイド。掃除はお前たちがするんですからね」
飛んできた水の玉は今度は逸れることなく、私の顔面にクリーンヒットした。頭の天辺から肩まで水が滴る悲惨な有り様だ。この格好で寮まで帰ることになるこちらの身も少しは案じて欲しい。
元凶たるフロイド先輩には「何で避けねえの」とキレ顔を向けられる始末。あまりにも理不尽である。一連の様子を見ていたジェイド先輩は可笑しそうに笑っていた。さぞかし楽しそうで何より……んなわけあるかい!
完全にこの人たちのオモチャと成り果てている現状に、私はわなわなと肩を震わせる(元を辿れば自業自得なのだが)。
アズール先輩は寒さから来る震えだと思ったのか、「これをどうぞ」とふわふわのタオルを手渡してくれた。端正な顔には慈悲深い笑みを浮かべており、私は天からの恵みとばかりにそれを拝借する。
さすが寮長、これぞオクタヴィネル寮生の鑑。
濡れた頭ついでに感激の涙を拭っていると、スッと目の前に右手を差し出される。
ええっ、まさかエスコートまでーー
「一枚千マドルです」
寮生の鑑? いいえ、守銭奴の鑑の間違いでした。
にっこりとしたその笑顔に慈悲など無い。
この日、私は「絶っ対にジェイド先輩(と二人)に近づいてなるものか!」と固く胸に決意したのだった。
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