♪ 真珠色の恋
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――絵画のようだ、と思った。
両手を広げてもとても届かない程、縦にも横にも大きなガラスの壁。その向こうは青空よりも深く、夜空よりは淡い群青色で満ちている。まるでキャンバスのように切り取られた空間を、煌びやかな衣装を纏った魚たちはゆうゆうと泳ぐ。星々に例えるには自由すぎる彼らが織り成す一瞬一瞬は、ひとつの芸術のようだった。
「何ぼーっとしてんスか」
寒色で埋め尽くされた視界に、横からひょこっと亜麻色が加わる。ユウが驚きに少したじろぐと、その様子を見た亜麻色の髪の持ち主――ラギーは、不満たっぷりに目を顰めた。
「まったくこっちはきりきりまいだってのに……ま、現実逃避したくなる気持ちも分からなくはないっスけど」
「はは……今日は一段と盛況ですもんね」
ユウは苦笑いを溢しながら、背後を見渡す。
此処は、魔法士育成学校のナイトレイブンカレッジに店舗を構えるカフェ、モストロ・ラウンジ。普段は学園内の生徒をターゲットに経営をしている此処も、今日は条件が一味違った。
広いホールに設置されているテーブル席とカウンター席は見事に人で埋まっている。しかしその人々の中に学園の制服を着た生徒はほとんどいない。誰一人として名前も顔も知らぬ人ばかりだ。
その多くの人が目的としているのは、今日この学園で開催される『全国高校生陸上競技大会』。大会はその名の通り、この辺鄙な賢者の島に全国からたくさんの人々が集まる。そんなまたとない好機を、学園に店を構える経営者が見逃すはずがなかった。大会の開催が決まってからというもの、直ぐに限定メニューの考案、食材の調達、宣伝の強化、人員の確保などなど。入念な準備をした上で今日という日を迎えた。そしてそれは見事に実を結び、一目で分かる大盛況ぶりだ。
支配人こだわりの食事の数々はもちろんのこと、外部の客は店員の装いにも興味を示しているようだった。当然それも支配人の戦略の一つである。店員はいつものフォーマルな寮服ではなく、本日限定で学園の式典服を身に纏っている。上質な漆黒のベロア生地には繊細な刺繍が施され、動く度にケープが優雅に揺れる――同じ学園の生徒にしてみれば新鮮味も何も無いし、飲食業にも不向きな衣服。だが外部の人たちには目新しく、ある種のファッションショーのようにも見えるのだろう。特に女性客からの評判は良く、うっとりとした視線を店員に向ける人も少なくはない。パフォーマンスとしては申し分無く大成功。全ては学園の持つブランド力を熟知した支配人の策略通りだ。
バイトとして働いているユウは、支配人の見事な采配に感嘆しつつどこか誇らしげな気持ちで接客に勤しんでいた。ただ、ランチのピークを越えたところで疲れもピークを迎えたのだろう。集中力がぷつりと途切れてしまい、魂が抜けたように立ち尽くしていた。そんなところを今日限定の助っ人として参上した彼に見つかってしまったのだった。
「あんまりサボってるとアズールくんに言いつけちゃうっスよ?」
「ゔっ、それだけは勘弁を……」
雇用主である支配人にサボりをチクられるのは誰でも遠慮したいところだろう。それでなくともユウは支配人――もとい、アズールに特別な想いを抱いているのだ。
密かな恋心が生まれたのがいつだったか、今となっては思い出せない。草木が陽に向かって伸びるように、魚が水を求めるようにユウにとってはごく自然のことだった。それを自覚したのは恐らく、あのイソギンチャク事件の後だ。そして芽生えた恋心は、間も無く起きたスカラビアでの一悶着でより成長を加速させたのかもしれない、と彼女なりに推測していた。
だが、恋心を抱いたところでユウは何も出来ずにいた。相手はカフェを経営する支配人で、且つオクタヴィネル寮を束ねる寮長でもある。肩書きに怯んでいるわけではないが、子ども騙しの魔法すら使えない凡庸な人間が彼に気持ちを伝えたところで結果は目に見えている。そうした諦めにも近い感情が、膨らんでいく恋心に「待った」をかけている状態だった。
だからこそユウは彼の近くに居られるこの(生活費の為と銘打って得られた)バイトを、貴重な時間として大事にしている。今日みたいに忙しい時間は恋だのなんだのと考えている暇すらないのだが。
「ニシシッ、ユウくんがサボってるなんて聞いたらアズールくん何て言うかな〜。たぶん、」
「ユウさんから差し引いたバイト代はラギーさんに回すとしましょう」
「そーそー、まさにそんな感じで……え?」
「確かにアズール先輩なら言いそ……え?」
それなー!とでも言うようにラギーとユウが顔を見合わせて笑っていれば、背後から冷ややかな声が投入される。
「お二人とも随分と楽しそうにされてますね? 何の為に此処にいらっしゃるのか、すっかりお忘れのようだ」
人当たりの良い笑みとは裏腹に、背後に背負っているオーラは禍々しさ全開だ。蛇に睨まれた蛙の如く、二人はギクリと肩を揺らす。
「いやいやいや誤解っスよ! オレは先輩としてサボってる後輩にガツンと言ってやってただけっスから」
「なっ……ラギー先輩だって、オーダーミスで返ってきた料理をこっそりつまみ食いしてましたよね」
「ちょ、ユウくんそれは言わないお約束……!」
保身の為にあっさりと後輩を売る先輩に、ユウは負けじと持っていた手札を切り出した。案の定、ラギーは焦った様子で人差し指を立てて後輩の口を塞ごうと試みる。支配人が背後に構えている時点で、既に手遅れだったわけだが。情けない罪のなすり付け合いを見せられたアズールは、営業スマイルを力無く崩しながらはぁ、とため息を吐き出した。
「海の魔女の慈悲の精神に免じて今回は見逃して差し上げますが、二度目はありませんからね」
「あ、ありがとうございます……!」
途端にユウとラギーは目を輝かせ、「アズールくんって優しいなぁ!」「此処がオクタヴィネルで良かった!」と白々しいまでに褒め称えた。アズールは本日二度目のため息を吐き、早く仕事に戻るよう言い渡す。
言われるや否やオーダーを取りにサッサとホールへ戻ったラギー。あまりにも速い変わり身と切り替わりに、さすが先輩だなぁとどこかズレた感心をする。ユウもその後に続こうとした矢先、「ちょっと待って下さい」と背後から呼び止められる。ホールに向けていた爪先をアズールのほうに向き直すと、彼はコツン、と静かに靴音を鳴らしてその距離を縮めた。
まさか個別のお説教だろうか。見上げなければその顔を捉えることが出来ない距離感に、ユウは二重の意味で心臓を跳ねさせる。それでなくとも耐え難いのに、目の前から伸びてきた両手にさらに身体を固まらせた。
「式典服の襟が縒れてますよ。お客様の前に立つ以上、身嗜みには十分気を付けてください」
「は、はい。ありがとうございます……」
襟を直しながら、これで良しとばかりにアズールが満足げに目を細める。鼻先を掠めるコロンの香りに意識を持っていかれそうになりながら、ユウは半ば譫言のようにお礼を述べた。
「それから、どうしても休憩を取りたいのでしたらスタッフルームでお願いしますよ。ディナータイムに入ってしまえばそんな暇も無くなりますから」
「大丈夫です。お叱りを受けた分、取り返さなきゃいけないので」
ファイティングポーズを決めて、やる気をアピールする。アズールは眼鏡越しの目を見張ると、噴き出すように笑った。
「それは頼もしい。ぜひよろしくお願いします」
――ああ、好きだなぁ。毒気の無い彼の笑顔に、ユウの心は春風が吹き込んできたかのように暖かくなる。一従業員としても、支配人によろしくされたら頑張らないわけにはいかないだろう。ユウは鼻息をやや荒くしながら、今度こそホールに向かおうとした。
両手を広げてもとても届かない程、縦にも横にも大きなガラスの壁。その向こうは青空よりも深く、夜空よりは淡い群青色で満ちている。まるでキャンバスのように切り取られた空間を、煌びやかな衣装を纏った魚たちはゆうゆうと泳ぐ。星々に例えるには自由すぎる彼らが織り成す一瞬一瞬は、ひとつの芸術のようだった。
「何ぼーっとしてんスか」
寒色で埋め尽くされた視界に、横からひょこっと亜麻色が加わる。ユウが驚きに少したじろぐと、その様子を見た亜麻色の髪の持ち主――ラギーは、不満たっぷりに目を顰めた。
「まったくこっちはきりきりまいだってのに……ま、現実逃避したくなる気持ちも分からなくはないっスけど」
「はは……今日は一段と盛況ですもんね」
ユウは苦笑いを溢しながら、背後を見渡す。
此処は、魔法士育成学校のナイトレイブンカレッジに店舗を構えるカフェ、モストロ・ラウンジ。普段は学園内の生徒をターゲットに経営をしている此処も、今日は条件が一味違った。
広いホールに設置されているテーブル席とカウンター席は見事に人で埋まっている。しかしその人々の中に学園の制服を着た生徒はほとんどいない。誰一人として名前も顔も知らぬ人ばかりだ。
その多くの人が目的としているのは、今日この学園で開催される『全国高校生陸上競技大会』。大会はその名の通り、この辺鄙な賢者の島に全国からたくさんの人々が集まる。そんなまたとない好機を、学園に店を構える経営者が見逃すはずがなかった。大会の開催が決まってからというもの、直ぐに限定メニューの考案、食材の調達、宣伝の強化、人員の確保などなど。入念な準備をした上で今日という日を迎えた。そしてそれは見事に実を結び、一目で分かる大盛況ぶりだ。
支配人こだわりの食事の数々はもちろんのこと、外部の客は店員の装いにも興味を示しているようだった。当然それも支配人の戦略の一つである。店員はいつものフォーマルな寮服ではなく、本日限定で学園の式典服を身に纏っている。上質な漆黒のベロア生地には繊細な刺繍が施され、動く度にケープが優雅に揺れる――同じ学園の生徒にしてみれば新鮮味も何も無いし、飲食業にも不向きな衣服。だが外部の人たちには目新しく、ある種のファッションショーのようにも見えるのだろう。特に女性客からの評判は良く、うっとりとした視線を店員に向ける人も少なくはない。パフォーマンスとしては申し分無く大成功。全ては学園の持つブランド力を熟知した支配人の策略通りだ。
バイトとして働いているユウは、支配人の見事な采配に感嘆しつつどこか誇らしげな気持ちで接客に勤しんでいた。ただ、ランチのピークを越えたところで疲れもピークを迎えたのだろう。集中力がぷつりと途切れてしまい、魂が抜けたように立ち尽くしていた。そんなところを今日限定の助っ人として参上した彼に見つかってしまったのだった。
「あんまりサボってるとアズールくんに言いつけちゃうっスよ?」
「ゔっ、それだけは勘弁を……」
雇用主である支配人にサボりをチクられるのは誰でも遠慮したいところだろう。それでなくともユウは支配人――もとい、アズールに特別な想いを抱いているのだ。
密かな恋心が生まれたのがいつだったか、今となっては思い出せない。草木が陽に向かって伸びるように、魚が水を求めるようにユウにとってはごく自然のことだった。それを自覚したのは恐らく、あのイソギンチャク事件の後だ。そして芽生えた恋心は、間も無く起きたスカラビアでの一悶着でより成長を加速させたのかもしれない、と彼女なりに推測していた。
だが、恋心を抱いたところでユウは何も出来ずにいた。相手はカフェを経営する支配人で、且つオクタヴィネル寮を束ねる寮長でもある。肩書きに怯んでいるわけではないが、子ども騙しの魔法すら使えない凡庸な人間が彼に気持ちを伝えたところで結果は目に見えている。そうした諦めにも近い感情が、膨らんでいく恋心に「待った」をかけている状態だった。
だからこそユウは彼の近くに居られるこの(生活費の為と銘打って得られた)バイトを、貴重な時間として大事にしている。今日みたいに忙しい時間は恋だのなんだのと考えている暇すらないのだが。
「ニシシッ、ユウくんがサボってるなんて聞いたらアズールくん何て言うかな〜。たぶん、」
「ユウさんから差し引いたバイト代はラギーさんに回すとしましょう」
「そーそー、まさにそんな感じで……え?」
「確かにアズール先輩なら言いそ……え?」
それなー!とでも言うようにラギーとユウが顔を見合わせて笑っていれば、背後から冷ややかな声が投入される。
「お二人とも随分と楽しそうにされてますね? 何の為に此処にいらっしゃるのか、すっかりお忘れのようだ」
人当たりの良い笑みとは裏腹に、背後に背負っているオーラは禍々しさ全開だ。蛇に睨まれた蛙の如く、二人はギクリと肩を揺らす。
「いやいやいや誤解っスよ! オレは先輩としてサボってる後輩にガツンと言ってやってただけっスから」
「なっ……ラギー先輩だって、オーダーミスで返ってきた料理をこっそりつまみ食いしてましたよね」
「ちょ、ユウくんそれは言わないお約束……!」
保身の為にあっさりと後輩を売る先輩に、ユウは負けじと持っていた手札を切り出した。案の定、ラギーは焦った様子で人差し指を立てて後輩の口を塞ごうと試みる。支配人が背後に構えている時点で、既に手遅れだったわけだが。情けない罪のなすり付け合いを見せられたアズールは、営業スマイルを力無く崩しながらはぁ、とため息を吐き出した。
「海の魔女の慈悲の精神に免じて今回は見逃して差し上げますが、二度目はありませんからね」
「あ、ありがとうございます……!」
途端にユウとラギーは目を輝かせ、「アズールくんって優しいなぁ!」「此処がオクタヴィネルで良かった!」と白々しいまでに褒め称えた。アズールは本日二度目のため息を吐き、早く仕事に戻るよう言い渡す。
言われるや否やオーダーを取りにサッサとホールへ戻ったラギー。あまりにも速い変わり身と切り替わりに、さすが先輩だなぁとどこかズレた感心をする。ユウもその後に続こうとした矢先、「ちょっと待って下さい」と背後から呼び止められる。ホールに向けていた爪先をアズールのほうに向き直すと、彼はコツン、と静かに靴音を鳴らしてその距離を縮めた。
まさか個別のお説教だろうか。見上げなければその顔を捉えることが出来ない距離感に、ユウは二重の意味で心臓を跳ねさせる。それでなくとも耐え難いのに、目の前から伸びてきた両手にさらに身体を固まらせた。
「式典服の襟が縒れてますよ。お客様の前に立つ以上、身嗜みには十分気を付けてください」
「は、はい。ありがとうございます……」
襟を直しながら、これで良しとばかりにアズールが満足げに目を細める。鼻先を掠めるコロンの香りに意識を持っていかれそうになりながら、ユウは半ば譫言のようにお礼を述べた。
「それから、どうしても休憩を取りたいのでしたらスタッフルームでお願いしますよ。ディナータイムに入ってしまえばそんな暇も無くなりますから」
「大丈夫です。お叱りを受けた分、取り返さなきゃいけないので」
ファイティングポーズを決めて、やる気をアピールする。アズールは眼鏡越しの目を見張ると、噴き出すように笑った。
「それは頼もしい。ぜひよろしくお願いします」
――ああ、好きだなぁ。毒気の無い彼の笑顔に、ユウの心は春風が吹き込んできたかのように暖かくなる。一従業員としても、支配人によろしくされたら頑張らないわけにはいかないだろう。ユウは鼻息をやや荒くしながら、今度こそホールに向かおうとした。