右手の監督生
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アズールは数回の瞬きを繰り返した後、瞼を開けた。身体はベッドに沈めたまま、右に首を捻る。部屋の壁にはめ込まれた窓の外は、青い空──ではなく紺碧の海で埋め尽くされている。それは人間の住処と海中とを隔てている窓であり、深海を土地とするこの建物特有のしつらえだ。
暗い海中は、空から降り注いでいるであろう光を薄らと屈折させている。どうやらもう朝が来たらしい。アズールは上体を起こし一つ伸びをする。
今日の一限目は錬金術の授業だったなと思いを巡らし、一日のスタートを得意教科で迎えられることに気分を良くする。これが飛行術の日にはある程度心構えをしておかないといけないが、今日はその心配は無い。余裕のある心持で、いつものように眼鏡が置いてあるサイドテーブルに手を伸ばすと、
「いだっ!」
……気のせいだろうか?
部屋には自分一人しかいないことをアズールはボヤけた視界で確認する。だが再び右手をテーブルに乗せると、やはり「痛い!」と声がする。
まだ声だけであれば、疲れから来る幻聴だろうと適当に片すこともできた。しかし、声だけではなくアズールは右手に確かな違和感を覚えていた。痺れや痛みといったものではなく、むしろそれらを感じる感覚すらもない。怪我をした記憶は無いし、右手以外の身体の異常も自身で把握できる範囲では認められない。兎にも角にも、視界が悪くては確認のしようもなく。アズールは早々に右手を使うことを諦め、反対の手でメガネを取って装着した。
そして問題の手を目の前に持っていくとーー〝人〟と目が合った。
「は……?」
かけたばかりの眼鏡がずり落ちる。「これは夢か?」と震える左手でブリッジに手を当て、ぐるぐると思考を巡らせる。
目玉だけを動かし見てみるが、やはり本来の手の形ではない。手首から下はかろうじて腕の形を保っているようだったが、上はまるでパペット人形の如く生身の体が癒着しているのだ。
五本の指の代わりに二本の腕と丸い頭が、手のひらの代わりに胴体が、そしてその胸部に当たる部分には二つの丸い膨らみと薄桃色の……まで認識すると、お湯に突っ込まれた蛸のようにアズールはボンッと一気に顔を赤くした。
「なっ……ハァ!?」
テーブルにぶつけたのであろう頭を摩っていた小人の〝女性〟は、突然の大声にびくりと肩を揺らす。真っ赤に染まったアズールの顔を眺めると、不思議そうに自身の身体へと視線を落とす。肌色が剥き出しになっているのを確認するや否や、「ひい!」と情けない声を上げ袖の中に潜り込んでしまった。
ちょっとやそっとのことであれば動じないアズールも、自身の身体の異変に加え、初めて目にしてしまった異性の裸体に目を泳がせた。
その上、彼女の顔にはアズールは見覚えがあった。否、ありすぎた。それが余計に今のアズールを困惑させていた。
まさか、そんなはずはない。
あり得ない事象を頭ごなしに否定するが、残酷にも目の前の現実が許しはしなかった。せめて他人の空似であってくれという一縷の望みを胸に抱きつつ、意を決したアズールは声を出そうとしてみるが「ッ……ん゛んっ!」出だしから声がひっくり返る始末だ。
らしくない己を叱咤しつつ、何度か咳払いをしてチューニングを合わせるとやっと落ち着きを取り戻した。
「ユウ、さん……?」
口にした名前に、彼女は気まずそうに袖から顔を覗かせる。額に薄ら汗を浮かべるアズールの顔を小さな両の眼で映すと、コクリ、とひとつ頷いてみせた。
──夢であったら良かったのに。普段ならば毛嫌いしているたられば的思考も、今のアズールは縋らずにはいられなかった。
心なしか重くなった頭を抱えて、腹の底から息を吐く。そうすればいくらかいつもの調子が戻ってくるというもの。
「これは一体どういうことなんです?」
「私にもさっぱりで……ははは」
眉尻を下げて笑う姿は、彼女にとっても想定外の事態であることが窺えた。しかしながら当のアズールは同情するどころではなく「ははは、じゃありませんよ」と一蹴する。
「人体の一部に成り代わる魔法なんて、この僕ですら聞いたことがありません。しかも性別まで変えてしまうなんて……仮にこの世にあったとしても、間違いなく禁術クラスだ。それを貴方が何故──いえ。誰の仕業なんですか? 正直に白状なさい!」
「や、やめて下さい! 目が回る……!」
アズールは右手、もといユウの胴体を鷲掴むと遠慮なく揺さぶる。手の中の彼女はされるがまま頭を前後左右にガクガクと回されていた。
「こうなった、原因は、分かりませんが、もともと、私は、女、なんです……っ」
途切れ途切れに発せられた彼女の言葉を拾ったアズールの手がピタッと止まる。
「微塵も面白くない冗談はよして下さい」
「ところがどっこい大マジです」
残念ながらその目に嘘も冗談も見つけることが出来ず、アズールは肩を落とした。
今の今まで自身と同性だと思い接してきた人間が本当は異性だった、と聞かされて動揺しない者はそうそういないだろう。まして彼、改め彼女は過去にアズールを出し抜いた人物だ。
「僕は魔法も使えないただの人間、それも女性にしてやられたということですか……」
「性別は関係ないでしょう。差別ですよ、差別」
不満げに口を尖らせるユウを、アズールはジッと見つめる。不思議なもので、予め女性だと意識して見ればそうとしか思えなくなるものだ。
今は小さいながらも瞳は水晶もしくは真珠のように光を蓄え輝き、首は凹凸が少なく頼りない細さで、薄ら赤みを帯びた肩は柔らかい曲線を描く。そのどれもが自身の持ち得ない要素で構成されており、何故かどうしようもなく惹かれる。アズールは魅入られたかのように視線を逸らせずにいた。
「あの、あまりまじまじ見られると恥ずかしいのですが……」
「っ、失礼しました」
居心地悪そうに袖に潜るユウに、アズールはハッと我にかえった。大分冷静さを欠いていた自身を反省していれば、ふと当然の疑問が頭に浮かぶ。
此処はいわゆる男子校だ。女子など一人も存在しない上、いる事が許されるはずもない。そして魔法の使えないただの人間ということも踏まえれば、目の前の人物がいかにイレギュラーで、且つ危険な立場に置かれているかを推し量ることは容易かった。ただでさえ曲者揃いの学園で、今の今までどのようにやり過ごしてきたのだろうか。アズールが率直に疑問をぶつければ、ユウは気まずそうに視線を泳がせた後「学園長に色々計らってもらっていたので」と白状した。
「他言無用って言われてたし、学園長に知れたら怒られるだろうなー……」
ぼそりと呟かれたその言葉を、他者の弱味を握ることに余念のない男が聞き逃すわけがなかった。不安げなユウを前に、アズールは意気揚々と片手を広げてみせる。
「心中お察ししますよ。ですがバレた相手が僕で、貴女は本当に運が良い」
「むしろ逆では……」
「何か?」
「イイエ。ナンデモナイデス」
ギラリと光ったアズールの眼光に、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「では交換条件といきましょうか」
「交換って……今の私に差し出せるものなんて何も無いですよ?」
「安心して下さい、とても簡単なことですから。この趣味の悪い魔法が誰の仕業なのかを今すぐに吐くか、あるいは魔法を解くだけで構いません。そうすれば貴女の秘密は一生黙っていて差し上げますよ」
「いや、ですからそれが無理なんですって」
「……ならば性別のことは公に」
「わー! 絶っ対にダメです!」
両の拳を突き上げ断固抗議する姿勢を見せるユウ。その手で引っ張り上げていた袖は重力のままに落ち、隠していたそこが再び露わになる。アズールは二の舞を演じる前にサッと素早く目線を逸らした。
「まったく、貴女って人はどこまで抜けているんだ……!」
「なっ、だって今のはアズール先輩が!」
耳まで真っ赤に染めながら、アズールはサイドテーブルに置いてあったハンカチを彼女に差し出した。ユウは一度ならず二度までも嫁入り前の身体を晒してしまったことに轟沈しつつ、渡されたハンカチをバスタオルのように身体に巻き付けた。
いよいよもって気まずい空気が流れる中、雰囲気に似つかわしくない、ドアを軽快にノックする音が部屋に響いた。顔色をもとの色に戻したアズールが慌てて壁の時計に目を移す。針が示す時間は、いつもならとっくに準備を済ませて登校している時間だ。
と、いうことは──扉の向こうに居る人物を思い浮かべる前に、望んでもない正解を無理くり提示される。
「アズール〜、おっせーから迎えに来てあげたよぉ」
「おはようございます。今朝は随分ゆっくりされていたようですが……おや?」
「……しまった」
さっと右手を背中に回すが、時すでに遅し。凶暴かつ面白いことを何よりも好む双子が、みすみす見逃すわけがなかった。
二人は部屋に押し入ると迷うことなくベッドに近寄り、揃ってアズールの背後を覗き込む。決死の抵抗も虚しく、「つーかまーえた!」という無邪気な声と共に右手を掴まれる。
「おやおや。お人形遊びだなんて、可愛らしいところもあるじゃないですか」
「なっ……ち、違う!」
四つの瞳が一点に集中する。鋭い視線で滅多刺しにされたユウは背中に冷や汗を流しながら、必死に自分は人形だと言い聞かせて身体を固まらせた。
「これは……誰かさんにそっくりですね?」
「あは。小エビちゃんみてぇ」
──人形は瞬きしない、人形は呼吸しない、人形は汗をかかない。今にも遠のきそうな意識を繋ぎとめながら、早くこの場をどうにかしてくれ、とユウは心中でアズールに懇願する。
だがアズールもアズールで、普段から手を焼いている兄弟相手にどう言いくるめるものかと二の足を踏んでいた。
「でもー、なんで小エビちゃんに女みてーな格好させてんの? もしかしてアズールの趣味ってやつ?」
「こらこら、フロイド。他人の性的嗜好をとやかく言うのはナンセンスですよ」
「えぇ〜、知らねーし。てかこのこと小エビちゃん知ったらドン引きすんじゃね?」
嘲笑まじりにフロイドが手を伸ばし、長い指でハンカチの裾を摘む。人形に擬態するユウの心臓がドクリ、と嫌な音を立てた。案の定そのまま引っ張ろうとする指にもう終わりだ──と死期を悟っていると、
「やめなさい、フロイド」
柔らかく、温かい感触が小さな背中を覆う。アズールが着用しているパジャマのボタンがデカデカと視界を埋めていることに気づき、ユウは彼の胸に抱かれていることを理解した。押しつけられた額からは早鐘を打つ心音が聞こえ、焦る気持ちは同じなのだと思うと心なしか彼女の中の不安が和らいでいく。
宝石やマドルならいざ知らず、ユウに似た〝ただの人形〟をいかにも大事そうに抱えるアズールは、幼い頃から知る二人にとって不自然なものに映った。ジェイドとフロイドはぱちくりと目を瞬かせ顔を見合わせると、次の瞬間には新しい玩具を与えられた子どものように笑う。決定的な一連の様子を、アズールとユウは見逃してしまった。
「ああ、そういえばアズール。今、学園で面白い噂が流れているのはご存知ですか?」
「噂? 知りませんが」
神妙な雰囲気を漂わせながら話すジェイドに、アズールは素直に耳を傾けた。
ジェイドは副寮長として有能だと自寮他寮問わず太鼓判を押されている。そんな男が寮長が既に知っていることをわざわざ口にすることはないと踏んでのことだったが、
「ユウさんが実は〝女性〟なのではないか、という噂があるんです」
「……そんなわけないでしょう。下らない」
アズールは内容を聞くと途端に興味を失った。
だが噂の当人であるユウはそうもいかない。思わず大声を上げそうになるが、それを見越したアズールの手により胸に押しつけられたお陰で、音に発することは何とか免れられた。
──いつから、誰に、どこで、どうやって女だと漏れたのか。思考を巡らせるが、日頃から重々気をつけていたユウには皆目見当がつかなかった。今はただ、人の噂も七十五日ということわざに縋って祈るしかないだろう。
「此処は選ばれた者しか入学を許されない男子校ですよ? 女子があの様に堂々と居座るなんてあり得ません」
アズールは言いながら、本当にあり得ないな、と心の中で反芻する。あの胡散臭い学園長にどんな思惑があるのか今度揺さぶりをかけてみようかと考えていると、ジェイドが「ですが、」と言葉を繋いだ。
「噂を聞いた学園のお偉方が、グリムくんもろとも『退学処分にするべきなのではないか』と議論しているらしく──」
「えっ……!?」
懸命なアズールのフォローもここまでのようだった。ジェイドの話を聞いたユウは、反射的に首を後ろに捻り、驚きの声を上げた。ただの人形にはあるまじき現象だ。
「おや? お人形さんが動いて喋りましたよ。さすがはアズール、よく出来てますね」
「ほんとだぁ。どーなってんの? 魔導具かなんか?」
白々しいまでにきゃっきゃっと眺める二人を、ユウは目尻を吊り上げて見据える。
「ふ、ふざけている場合じゃないです。退学処分って本当なんですか!?」
万が一退学となれば、この世界に身寄りのない彼女はいよいよ路頭に迷うことになる。何より、将来は大魔法士になると常日頃語っているグリムまでもが自身のせいで退学処分となれば、相棒として黙っていられるわけがなかった。
必死の剣幕を向けるユウにジェイドは数度瞬きをすると、心配ご無用とばかりににっこり笑ってみせる。
「ああ。今のは全部、僕の作り話ですよ」
「えっ……は!?」
「ただ、ユウさんが実は女性だった……という話はどうやら本当だったようですが」
してやったり、と鋭い歯をチラつかせるジェイド。
まんまとウツボの術中にハマったユウは、ちくしょう、ちくしょう、と壁代わりに目の前の胸を叩く。アズールが彼の分かりやすい罠に気付かないわけがなく、自ら自滅の道を選んだユウの単純さに盛大に溜め息を零した。
「つーかアズールと小エビちゃんはなんでこんなおもしれーことになってんの?」
「私が聞きたいぐらいですよ……」
好奇の目で覗き込むフロイドに、ユウはがっくりと項垂れる。ジェイドからは「心当たりも何もないんですか?」と投げ掛けられ、当事者二人は改めて今までの行動に思いを巡らせる。ほどなくして、互いが関わる事柄がひとつだけ思い当たった。
「もしかして昨日の契約書のせいじゃないんですか?」
「馬鹿を言わないで下さい。確かに僕は〝右腕になれ〟とは言いましたが、成り代われとまでは言ってません」
アズールの言う通り、成り代われなんて契約だったら余程命知らずでも無い限り、絶対にサインをするはずがないだろう。ユウもまた、契約の文面をよく見てからサインしたのだから単なる見間違いという説もほとんど無かった。
解決の糸口が見えず、一生このままだったらという可能性が二人の胸に影を落とす。
「昨日、というとお二人がVIPルームでお話されていた時ですか?」
「ええ、そうです。そこで僕はユウさんに、僕の右腕になっていただく契約を交わしました」
「……そういうことでしたか」
「んー? ジェイド何か知ってんの?」
三人の視線を集めたジェイドはふむ、と顎に指を当てて思案する。やがて全て合点がいったとばかりに満足そうに笑った。
「実はあの時、僕が淹れて差し上げた紅茶にちょっとした悪戯をしたんです」
「……おい、ちょっと待て。まさか」
嫌な予感が胸をよぎり、アズールの表情が強張る。
「そのまさか、ということになりますね。紅茶の中には〝一晩で言葉が具現化する魔法薬〟を混ぜたものですから」
瞬間、アズールはベッドから飛び起きると、ジェイドの胸ぐらにつかみかかる勢いで詰め寄る。
右腕を振り下ろしたことで宙吊り状態になり「ぎゃあ!」と悲鳴を漏らすユウに気付いてやれないぐらいには、彼は余裕を無くしていた。
「ユウさんのことを大層気に入っていらしたので、てっきり転寮を勧めるか、告白のひとつでもするのかと思ったんです。幼なじみなりに気を遣ったつもりだったのですが、まさかこんなおも……大変なことになるとは。申し訳ありません」
「本当に反省しているならもっとそれらしい顔をしたらどうです? 出来ないと言うなら手伝って差し上げますよ」
「とんでもない。寮長の手を煩わせるまでもなく、僕は心の底から申し訳ないと思っていますよ。しくしく」
目と言葉こそ反省の色を滲ませるものの、隠された口元が釣り上がっているのをアズールは見逃さなかった。それでもジェイドは弁明するでもなく、謝罪を重ねるでもなく、いつもの飄々とした調子で居直る。
「アズールも右腕になれだなんて回りくどいことを言わずに、ユウさんにお近づきになりたいんですと素直に言えば上手く事が運んだんですよ?」
「うっ、うるさい!」
そこは図星だっただけにアズールは言葉を詰まらせる。
側にいたいという思いはあっても、理由や確証も無しに相手を縛りつける道理がアズールには理解が出来なかった。商人としてはピカイチの頭脳も、恋愛感情という要素には非対応だった。それでも彼なりに考え、悩みに悩み、契約なら確実ではないかと思い至ってのことだったのだ。それを当初の契約内容とは斜め上の条件に勝手に塗り替えられ、腹が立たないわけがなかった。
二人が(一方的な)睨み合いをしていると、外野から「アズールぅ」と間延びした声が介入する。
「小エビちゃん死にそーだけどいいの?」
「……あ」
慌てて腕を上げれば、ユウはグルグルと目を回していた。
「すみません……大丈夫でしたか?」
指先でちょんちょんと頭を撫でれば、彼女は親指にしがみ付いて「び、びっくりしました」と気の抜けた顔でふにゃりと笑う。
──これは思いの外、可愛い。自分より小さい生き物を愛でる気分というのはこういうことか。アズールは人知れず人間の嗜好に対する理解を深めたが、クスクスと笑う声が聞こえ思考は現実に戻される。
「本当にアズールと居ると飽きませんね」
「ね〜」
「お前が撒いた種だろうが……!」
呑気に笑い合う兄弟に、アズールは苛立たしげにどかりとベッドに腰掛ける。だが幸か不幸か人為的なものなら解決の方法も見つけるのは容易かった。
「その魔法薬を出して下さい。今度は逆に〝元の右腕に戻る〟と言えば済むでしょう」
「あ! そういえばそうですね」
アズールは手のひらを差し出し、ユウは期待の宿った瞳でジェイドを見る。
「残念ながら全部使ってしまいました」
「……え?」
「それにあの魔法薬はフロイドが魔法薬学の授業でたまたま生成出来たものですから。ちなみにフロイド、調合は覚えていますか?」
「しらね。テキトーに突っ込んで混ぜてただけだし〜」
「そ、そんな……!」
唯一の希望を失い、ユウはヘナヘナとアズールの膝の上に突っ伏してしまう。
「イシダイせんせぇにでも聞いてみれば?」
「聞けるわけないでしょう。僕の評価に傷がつくだけです」
アズールの中では当然の如く、ユウの一大事<自身の評価らしい。この人なら仕方がないとどこか納得してしまうあたり、だいぶ彼に慣れてしまったなとユウはこっそり自嘲した。
トラブルは年長者に任せるのが一番安心できる手段だが、それに頼れないとなると自力でどうにかするしかない。うーんうーんと唸り何とか考えを捻り出そうとしていると、彼女の頭に一つの方法が思い浮かんだ。
「そうだ! 契約書を燃やしましょう」
「なっ……」
イソギンチャク事件を踏まえれば、契約が無効化してハッピーエンドのはずだ。我ながら過去の事例を活かしたナイスなアイデアだと、ユウは自信満々に発言する。
しかしジェイドは「いいえ」と取り付く島もないほど呆気なく否定した。
「何でですか?」
「魔法薬を口にしたアズールが作成した契約書も、恐らく具現化の一部でしょうから。言わばユウさんとは一心同体の産物です。燃やしたりなどしたらユウさんごと灰になってしまうかもしれませんよ。まぁ、個人的に興味はそそられますが──」
「やめましょう。絶対に」
くるりとアズールに向き直り、強く言い放つ。アズールは再び契約書を塵に変えられるなど言われるまでもない、と据わった目で彼女を見た。
「スパーッと切り落としちゃえばいいんじゃね? アズールの足いっぱいあるんだし、一本ぐらい大したことねーじゃん」
「大したことありますよ。それは元の姿の話でしょう」
「お二人とも私の身体のことは無視なんですね」
三人寄れば文殊の知恵、というがあまりに人選が悪すぎた。この調子だと今日中の解決は難しいだろう、と早くも白旗を上げたユウは遠い目をする。
「契約を締結したということは、勿論期間は設けているのでしょう?」
「はい。確か……一週間だったはずです」
「じゃーそれまでこのまま? ウケる」
言葉通り、ケラケラと笑うフロイド。これが自分も相手の立場だったらさぞおかしく思えただろう。だが当事者としては一ミリも笑えたものではない。ほぼ全ての自由を奪われ縛り付けられた状態はかなりのストレスだ。
だが現時点での解決策が無い以上、『契約期間が満了するまで我慢する』という一択しかユウとアズールには残されていない。
「結構な長期戦になりますけど、何とか耐え忍ぶしか──アズール先輩?」
見上げたアズールは、いやに罰の悪そうな表情をしていた。憂鬱なのはお互い様ではあるが、大きな肩書きを二つも持ち、且つプライドの高いアズールはもっと絶望しているのでは。ユウが心配の色を滲ませて見ると、彼は息を詰めて視線を逸らしてしまい、ぼそりと何か呟いた。
「……つです」
「え? すみません、もう一度……」
「一ヶ月です」
「…………は?」
言っていることが飲み込めず、ユウはぽかん、と口を開けてアズールを見る。彼は徐にサイドテーブルの下に置いてある金庫に手を伸ばし、片手で器用に解錠する。中に納められていたのは埋め尽くさんばかりの契約書。まだこんなにあったのか、あるいはまたこれほどまでに収集をしたのか、いずれにしても変わらないアズールの強かさにユウは感心しつつ彼の動向を見守る。左手は迷いなく、一番上に重ねてあった一枚の紙を取り出した。
「一番下をよくご覧になって下さい」
「下……?」
目の前に掲げられた紙を眺めると、見慣れた字体で自身のサインが書き込まれており、間違いなく昨日契約したものだと確認する。
そしてアズールに言われた通り紙の下部に目を移しよくよく見てみると、そこにはゴマ粒ほどの小さい文字で『一ヶ月まで延長可とする』と注釈がつけられていた。
「なんて典型的で悪質な手口……!?」
今になって、あの時のVIPルームはやけに薄暗かったと思い出す。ユウはてっきり部屋の元々の仕様だと思い、その場で特に言及はしなかった。しかしそのせいで文字は紙の柄に紛れて見落としてしまったのだろう。
「貴女って人は……前回から何も学んでいらっしゃらなかったようで残念です」
「そのお言葉、そっくりそのままアズール先輩にお返ししますよ」
「何ですって?」
引っかかるほうも引っかかるほうだが、自身の仕掛けた罠のせいで厄介な状況がより悪い方に傾いているのだから、彼女を一方的に責められたものではないだろう。こめかみに青筋を立てるアズールに負けじと、ユウは語気を強めた。
「こうなったのだって、アズール先輩が私なんかに契約を持ちかけたせいじゃないですか」
「その契約に同意したのは紛れもない貴女でしょう。僕に非はないはずです」
「いいえ、ありますよ。契約書にも記載されていませんでしたし、こんなハメになるなんて誰も、夢にも思わないじゃないですか!」
「なっ……それを言うなら僕だって、この様な面倒事になるなら初めから契約なんて提案しませんでしたよ!」
「だったら──」
「仲睦まじいところ大変恐れ入りますが」
元凶オブ元凶の登場に、アズールとユウはキッと鋭い視線を送る。ジェイドは怯む風も無く、いつものように胸に手を添えると首を傾げた。この期に及んでまだ何か爆弾発言を投下するつもりかと、ユウは自然と身構える。
「そろそろ登校しないと遅刻するのでは?」
ジェイドの言葉に、二人は睨んでいた目を時計に移すと……時刻はなんと始業の十分前を指していた。
未だパジャマのまま、身支度の一つも出来ていない状態にアズールは顔を青くする。
「まったく、単位を落としたらどうしてくれるんですか!?」
「それはお互い様ですよ! ていうか私は登校すら出来ないんですけど?」
「ああ、そういえばそうですね……可哀想に。心配されずとも勉強なら教えて差し上げますよ。無論、二年の範囲を貴女が理解できればの話ですが」
「本っ当にアズール先輩って清々しいぐらい性格悪──むぐっ」
「これはこれは失礼しました。急いでいるので、ついいつものようにボタンを外そうとしてしまいましたよ」
「絶対、わざとでしょう!?」
不可抗力によってアズールの胸に顔面からダイブをかましてしまい、ユウは鼻を押さえて抗議する。
「口を動かすのは結構ですが、是非手も動かしていただきたいものですね。片手では不便で仕方がない」
「! わ、私に脱がせろと……?」
「そうですが、何か問題でも? こうなった以上、僕の右手としてしっかり働くのは当然でしょう。……それとも、何か下心でもおありで?」
「ありません!」
勝気に鼻を鳴らすアズールに、ユウは顔を真っ赤にして否定した。こうなりゃヤケクソだ、と小さい両手を使ってボタンを素早く外していく。言葉では断固として否を主張したが、実際に露わになった白く引き締まった素肌を間近にすると狼狽えた。まじまじと見るのが憚られ、視線は行き場を失い宙を泳ぐ。
ユウのいじらしい様に、胸の奥から加虐心と愛おしさがふつふつと沸き上がりアズールは目を細めた。口元に湛えられた彼の笑みをユウはおろか、誰も知ることはないだろう。
……二名を除いて。
既に飽きの来たフロイドは、書斎の椅子に跨り背凭れに上半身を預けてゆらゆらと足を傾ける。その隣で行儀良く立っているジェイドは、ただの着替えに四苦八苦しているアズール(とユウ)を眺めていた。
「つーか着替えとか実践魔法使えば一発──」
「シッ。せっかくアズールが楽しそうにしているんです。僕たちは見守るとしましょう」
ニコニコと上機嫌にしている片割れを見ては、フロイドは言いかけた言葉の先を放り捨てた。代わりにポケットに入れていたお気に入りの棒付きキャンディーを口に含む。
「ジェイドもよくやるよねぇ〜」
「ありがとうございます」
「褒めてねーし」
よくもこんな面倒臭いことを、と嫌味を込めた言葉は兄弟の中では賛辞の言葉に変換されたらしい。生まれた時から今までを共に過ごしてきた彼の性格などとうに分かりきっている為、さして気にせずキャンディーを口の中で弄ぶ。
「そもそも、あの魔法薬は言葉に乗せる思いの強さが無ければ具現化はしなかったはずなんです」
「へぇ?」
「アズールに試した後、僕も〝部屋中に珍しいキノコが生える〟と口にしてみましたが一つも生えませんでした」
「何言ってくれちゃってんの?」
しょんぼりと肩を落とすジェイドに、同室であるフロイドは聞き捨てならずキレ気味に返す。どうりで今朝は不自然に部屋中を眺めていたことを思い出した。部屋中がキノコまみれになりあまつさえキノコの上で眠る自分を想像してしまい、あまりの悪夢にグシャグシャと頭を掻いて瞬時に霧散させる。
気を紛らわすように思考を元に戻すと、ある考えに行き着いた。
「ってことはぁ……アズールって相当アレじゃんね」
「アレ、ですよ。少なくとも僕のキノコへの思いより、アズールのユウさんへの想いのほうが上だった、ということですから。ああ、こうして考えると悔しいですね」
歯噛みするジェイドのキノコ愛には興味なさげに、フロイドは口に含んでいたキャンディをガリガリと噛み砕く。残った棒を指で摘むと、先端を隣に立つ片割れに向けた。
「それってかなーり、重いんじゃね?」
「ええ。激重ですね」
兄弟は鏡写しに似た笑みを浮かべ、話題の二人に視線を戻す。いつの間にか着替えは済み、アズールが包帯で右前腕もろともユウをグルグル巻きにしているところだった。
「ちゃんと息が出来る様にして下さいよ!」
「分かってますから、貴女はジッとしていなさい。それから学園では絶対に声は出さないように──ああくそっ、あと五分しかないじゃないか……!」
どうやら二人の間で右手は怪我を装うことに決まったらしい。包帯を巻き終わり、仕上げに三角巾を首に引っ下げたアズールが兄弟のほうを振り向く。
「二人とも! 急ぎますよ!」
「はい」「ハーイ」
いつものスマートさを欠いた靴音の後に、のんびりと悠長な音が続く。
忙しない中で満更でもない表情を浮かべていた幼なじみを思い返し、これから当分楽しみに困ることはないだろう──とジェイドとフロイドは揃って気持ちを高揚させるのだった。
つづく?
暗い海中は、空から降り注いでいるであろう光を薄らと屈折させている。どうやらもう朝が来たらしい。アズールは上体を起こし一つ伸びをする。
今日の一限目は錬金術の授業だったなと思いを巡らし、一日のスタートを得意教科で迎えられることに気分を良くする。これが飛行術の日にはある程度心構えをしておかないといけないが、今日はその心配は無い。余裕のある心持で、いつものように眼鏡が置いてあるサイドテーブルに手を伸ばすと、
「いだっ!」
……気のせいだろうか?
部屋には自分一人しかいないことをアズールはボヤけた視界で確認する。だが再び右手をテーブルに乗せると、やはり「痛い!」と声がする。
まだ声だけであれば、疲れから来る幻聴だろうと適当に片すこともできた。しかし、声だけではなくアズールは右手に確かな違和感を覚えていた。痺れや痛みといったものではなく、むしろそれらを感じる感覚すらもない。怪我をした記憶は無いし、右手以外の身体の異常も自身で把握できる範囲では認められない。兎にも角にも、視界が悪くては確認のしようもなく。アズールは早々に右手を使うことを諦め、反対の手でメガネを取って装着した。
そして問題の手を目の前に持っていくとーー〝人〟と目が合った。
「は……?」
かけたばかりの眼鏡がずり落ちる。「これは夢か?」と震える左手でブリッジに手を当て、ぐるぐると思考を巡らせる。
目玉だけを動かし見てみるが、やはり本来の手の形ではない。手首から下はかろうじて腕の形を保っているようだったが、上はまるでパペット人形の如く生身の体が癒着しているのだ。
五本の指の代わりに二本の腕と丸い頭が、手のひらの代わりに胴体が、そしてその胸部に当たる部分には二つの丸い膨らみと薄桃色の……まで認識すると、お湯に突っ込まれた蛸のようにアズールはボンッと一気に顔を赤くした。
「なっ……ハァ!?」
テーブルにぶつけたのであろう頭を摩っていた小人の〝女性〟は、突然の大声にびくりと肩を揺らす。真っ赤に染まったアズールの顔を眺めると、不思議そうに自身の身体へと視線を落とす。肌色が剥き出しになっているのを確認するや否や、「ひい!」と情けない声を上げ袖の中に潜り込んでしまった。
ちょっとやそっとのことであれば動じないアズールも、自身の身体の異変に加え、初めて目にしてしまった異性の裸体に目を泳がせた。
その上、彼女の顔にはアズールは見覚えがあった。否、ありすぎた。それが余計に今のアズールを困惑させていた。
まさか、そんなはずはない。
あり得ない事象を頭ごなしに否定するが、残酷にも目の前の現実が許しはしなかった。せめて他人の空似であってくれという一縷の望みを胸に抱きつつ、意を決したアズールは声を出そうとしてみるが「ッ……ん゛んっ!」出だしから声がひっくり返る始末だ。
らしくない己を叱咤しつつ、何度か咳払いをしてチューニングを合わせるとやっと落ち着きを取り戻した。
「ユウ、さん……?」
口にした名前に、彼女は気まずそうに袖から顔を覗かせる。額に薄ら汗を浮かべるアズールの顔を小さな両の眼で映すと、コクリ、とひとつ頷いてみせた。
──夢であったら良かったのに。普段ならば毛嫌いしているたられば的思考も、今のアズールは縋らずにはいられなかった。
心なしか重くなった頭を抱えて、腹の底から息を吐く。そうすればいくらかいつもの調子が戻ってくるというもの。
「これは一体どういうことなんです?」
「私にもさっぱりで……ははは」
眉尻を下げて笑う姿は、彼女にとっても想定外の事態であることが窺えた。しかしながら当のアズールは同情するどころではなく「ははは、じゃありませんよ」と一蹴する。
「人体の一部に成り代わる魔法なんて、この僕ですら聞いたことがありません。しかも性別まで変えてしまうなんて……仮にこの世にあったとしても、間違いなく禁術クラスだ。それを貴方が何故──いえ。誰の仕業なんですか? 正直に白状なさい!」
「や、やめて下さい! 目が回る……!」
アズールは右手、もといユウの胴体を鷲掴むと遠慮なく揺さぶる。手の中の彼女はされるがまま頭を前後左右にガクガクと回されていた。
「こうなった、原因は、分かりませんが、もともと、私は、女、なんです……っ」
途切れ途切れに発せられた彼女の言葉を拾ったアズールの手がピタッと止まる。
「微塵も面白くない冗談はよして下さい」
「ところがどっこい大マジです」
残念ながらその目に嘘も冗談も見つけることが出来ず、アズールは肩を落とした。
今の今まで自身と同性だと思い接してきた人間が本当は異性だった、と聞かされて動揺しない者はそうそういないだろう。まして彼、改め彼女は過去にアズールを出し抜いた人物だ。
「僕は魔法も使えないただの人間、それも女性にしてやられたということですか……」
「性別は関係ないでしょう。差別ですよ、差別」
不満げに口を尖らせるユウを、アズールはジッと見つめる。不思議なもので、予め女性だと意識して見ればそうとしか思えなくなるものだ。
今は小さいながらも瞳は水晶もしくは真珠のように光を蓄え輝き、首は凹凸が少なく頼りない細さで、薄ら赤みを帯びた肩は柔らかい曲線を描く。そのどれもが自身の持ち得ない要素で構成されており、何故かどうしようもなく惹かれる。アズールは魅入られたかのように視線を逸らせずにいた。
「あの、あまりまじまじ見られると恥ずかしいのですが……」
「っ、失礼しました」
居心地悪そうに袖に潜るユウに、アズールはハッと我にかえった。大分冷静さを欠いていた自身を反省していれば、ふと当然の疑問が頭に浮かぶ。
此処はいわゆる男子校だ。女子など一人も存在しない上、いる事が許されるはずもない。そして魔法の使えないただの人間ということも踏まえれば、目の前の人物がいかにイレギュラーで、且つ危険な立場に置かれているかを推し量ることは容易かった。ただでさえ曲者揃いの学園で、今の今までどのようにやり過ごしてきたのだろうか。アズールが率直に疑問をぶつければ、ユウは気まずそうに視線を泳がせた後「学園長に色々計らってもらっていたので」と白状した。
「他言無用って言われてたし、学園長に知れたら怒られるだろうなー……」
ぼそりと呟かれたその言葉を、他者の弱味を握ることに余念のない男が聞き逃すわけがなかった。不安げなユウを前に、アズールは意気揚々と片手を広げてみせる。
「心中お察ししますよ。ですがバレた相手が僕で、貴女は本当に運が良い」
「むしろ逆では……」
「何か?」
「イイエ。ナンデモナイデス」
ギラリと光ったアズールの眼光に、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「では交換条件といきましょうか」
「交換って……今の私に差し出せるものなんて何も無いですよ?」
「安心して下さい、とても簡単なことですから。この趣味の悪い魔法が誰の仕業なのかを今すぐに吐くか、あるいは魔法を解くだけで構いません。そうすれば貴女の秘密は一生黙っていて差し上げますよ」
「いや、ですからそれが無理なんですって」
「……ならば性別のことは公に」
「わー! 絶っ対にダメです!」
両の拳を突き上げ断固抗議する姿勢を見せるユウ。その手で引っ張り上げていた袖は重力のままに落ち、隠していたそこが再び露わになる。アズールは二の舞を演じる前にサッと素早く目線を逸らした。
「まったく、貴女って人はどこまで抜けているんだ……!」
「なっ、だって今のはアズール先輩が!」
耳まで真っ赤に染めながら、アズールはサイドテーブルに置いてあったハンカチを彼女に差し出した。ユウは一度ならず二度までも嫁入り前の身体を晒してしまったことに轟沈しつつ、渡されたハンカチをバスタオルのように身体に巻き付けた。
いよいよもって気まずい空気が流れる中、雰囲気に似つかわしくない、ドアを軽快にノックする音が部屋に響いた。顔色をもとの色に戻したアズールが慌てて壁の時計に目を移す。針が示す時間は、いつもならとっくに準備を済ませて登校している時間だ。
と、いうことは──扉の向こうに居る人物を思い浮かべる前に、望んでもない正解を無理くり提示される。
「アズール〜、おっせーから迎えに来てあげたよぉ」
「おはようございます。今朝は随分ゆっくりされていたようですが……おや?」
「……しまった」
さっと右手を背中に回すが、時すでに遅し。凶暴かつ面白いことを何よりも好む双子が、みすみす見逃すわけがなかった。
二人は部屋に押し入ると迷うことなくベッドに近寄り、揃ってアズールの背後を覗き込む。決死の抵抗も虚しく、「つーかまーえた!」という無邪気な声と共に右手を掴まれる。
「おやおや。お人形遊びだなんて、可愛らしいところもあるじゃないですか」
「なっ……ち、違う!」
四つの瞳が一点に集中する。鋭い視線で滅多刺しにされたユウは背中に冷や汗を流しながら、必死に自分は人形だと言い聞かせて身体を固まらせた。
「これは……誰かさんにそっくりですね?」
「あは。小エビちゃんみてぇ」
──人形は瞬きしない、人形は呼吸しない、人形は汗をかかない。今にも遠のきそうな意識を繋ぎとめながら、早くこの場をどうにかしてくれ、とユウは心中でアズールに懇願する。
だがアズールもアズールで、普段から手を焼いている兄弟相手にどう言いくるめるものかと二の足を踏んでいた。
「でもー、なんで小エビちゃんに女みてーな格好させてんの? もしかしてアズールの趣味ってやつ?」
「こらこら、フロイド。他人の性的嗜好をとやかく言うのはナンセンスですよ」
「えぇ〜、知らねーし。てかこのこと小エビちゃん知ったらドン引きすんじゃね?」
嘲笑まじりにフロイドが手を伸ばし、長い指でハンカチの裾を摘む。人形に擬態するユウの心臓がドクリ、と嫌な音を立てた。案の定そのまま引っ張ろうとする指にもう終わりだ──と死期を悟っていると、
「やめなさい、フロイド」
柔らかく、温かい感触が小さな背中を覆う。アズールが着用しているパジャマのボタンがデカデカと視界を埋めていることに気づき、ユウは彼の胸に抱かれていることを理解した。押しつけられた額からは早鐘を打つ心音が聞こえ、焦る気持ちは同じなのだと思うと心なしか彼女の中の不安が和らいでいく。
宝石やマドルならいざ知らず、ユウに似た〝ただの人形〟をいかにも大事そうに抱えるアズールは、幼い頃から知る二人にとって不自然なものに映った。ジェイドとフロイドはぱちくりと目を瞬かせ顔を見合わせると、次の瞬間には新しい玩具を与えられた子どものように笑う。決定的な一連の様子を、アズールとユウは見逃してしまった。
「ああ、そういえばアズール。今、学園で面白い噂が流れているのはご存知ですか?」
「噂? 知りませんが」
神妙な雰囲気を漂わせながら話すジェイドに、アズールは素直に耳を傾けた。
ジェイドは副寮長として有能だと自寮他寮問わず太鼓判を押されている。そんな男が寮長が既に知っていることをわざわざ口にすることはないと踏んでのことだったが、
「ユウさんが実は〝女性〟なのではないか、という噂があるんです」
「……そんなわけないでしょう。下らない」
アズールは内容を聞くと途端に興味を失った。
だが噂の当人であるユウはそうもいかない。思わず大声を上げそうになるが、それを見越したアズールの手により胸に押しつけられたお陰で、音に発することは何とか免れられた。
──いつから、誰に、どこで、どうやって女だと漏れたのか。思考を巡らせるが、日頃から重々気をつけていたユウには皆目見当がつかなかった。今はただ、人の噂も七十五日ということわざに縋って祈るしかないだろう。
「此処は選ばれた者しか入学を許されない男子校ですよ? 女子があの様に堂々と居座るなんてあり得ません」
アズールは言いながら、本当にあり得ないな、と心の中で反芻する。あの胡散臭い学園長にどんな思惑があるのか今度揺さぶりをかけてみようかと考えていると、ジェイドが「ですが、」と言葉を繋いだ。
「噂を聞いた学園のお偉方が、グリムくんもろとも『退学処分にするべきなのではないか』と議論しているらしく──」
「えっ……!?」
懸命なアズールのフォローもここまでのようだった。ジェイドの話を聞いたユウは、反射的に首を後ろに捻り、驚きの声を上げた。ただの人形にはあるまじき現象だ。
「おや? お人形さんが動いて喋りましたよ。さすがはアズール、よく出来てますね」
「ほんとだぁ。どーなってんの? 魔導具かなんか?」
白々しいまでにきゃっきゃっと眺める二人を、ユウは目尻を吊り上げて見据える。
「ふ、ふざけている場合じゃないです。退学処分って本当なんですか!?」
万が一退学となれば、この世界に身寄りのない彼女はいよいよ路頭に迷うことになる。何より、将来は大魔法士になると常日頃語っているグリムまでもが自身のせいで退学処分となれば、相棒として黙っていられるわけがなかった。
必死の剣幕を向けるユウにジェイドは数度瞬きをすると、心配ご無用とばかりににっこり笑ってみせる。
「ああ。今のは全部、僕の作り話ですよ」
「えっ……は!?」
「ただ、ユウさんが実は女性だった……という話はどうやら本当だったようですが」
してやったり、と鋭い歯をチラつかせるジェイド。
まんまとウツボの術中にハマったユウは、ちくしょう、ちくしょう、と壁代わりに目の前の胸を叩く。アズールが彼の分かりやすい罠に気付かないわけがなく、自ら自滅の道を選んだユウの単純さに盛大に溜め息を零した。
「つーかアズールと小エビちゃんはなんでこんなおもしれーことになってんの?」
「私が聞きたいぐらいですよ……」
好奇の目で覗き込むフロイドに、ユウはがっくりと項垂れる。ジェイドからは「心当たりも何もないんですか?」と投げ掛けられ、当事者二人は改めて今までの行動に思いを巡らせる。ほどなくして、互いが関わる事柄がひとつだけ思い当たった。
「もしかして昨日の契約書のせいじゃないんですか?」
「馬鹿を言わないで下さい。確かに僕は〝右腕になれ〟とは言いましたが、成り代われとまでは言ってません」
アズールの言う通り、成り代われなんて契約だったら余程命知らずでも無い限り、絶対にサインをするはずがないだろう。ユウもまた、契約の文面をよく見てからサインしたのだから単なる見間違いという説もほとんど無かった。
解決の糸口が見えず、一生このままだったらという可能性が二人の胸に影を落とす。
「昨日、というとお二人がVIPルームでお話されていた時ですか?」
「ええ、そうです。そこで僕はユウさんに、僕の右腕になっていただく契約を交わしました」
「……そういうことでしたか」
「んー? ジェイド何か知ってんの?」
三人の視線を集めたジェイドはふむ、と顎に指を当てて思案する。やがて全て合点がいったとばかりに満足そうに笑った。
「実はあの時、僕が淹れて差し上げた紅茶にちょっとした悪戯をしたんです」
「……おい、ちょっと待て。まさか」
嫌な予感が胸をよぎり、アズールの表情が強張る。
「そのまさか、ということになりますね。紅茶の中には〝一晩で言葉が具現化する魔法薬〟を混ぜたものですから」
瞬間、アズールはベッドから飛び起きると、ジェイドの胸ぐらにつかみかかる勢いで詰め寄る。
右腕を振り下ろしたことで宙吊り状態になり「ぎゃあ!」と悲鳴を漏らすユウに気付いてやれないぐらいには、彼は余裕を無くしていた。
「ユウさんのことを大層気に入っていらしたので、てっきり転寮を勧めるか、告白のひとつでもするのかと思ったんです。幼なじみなりに気を遣ったつもりだったのですが、まさかこんなおも……大変なことになるとは。申し訳ありません」
「本当に反省しているならもっとそれらしい顔をしたらどうです? 出来ないと言うなら手伝って差し上げますよ」
「とんでもない。寮長の手を煩わせるまでもなく、僕は心の底から申し訳ないと思っていますよ。しくしく」
目と言葉こそ反省の色を滲ませるものの、隠された口元が釣り上がっているのをアズールは見逃さなかった。それでもジェイドは弁明するでもなく、謝罪を重ねるでもなく、いつもの飄々とした調子で居直る。
「アズールも右腕になれだなんて回りくどいことを言わずに、ユウさんにお近づきになりたいんですと素直に言えば上手く事が運んだんですよ?」
「うっ、うるさい!」
そこは図星だっただけにアズールは言葉を詰まらせる。
側にいたいという思いはあっても、理由や確証も無しに相手を縛りつける道理がアズールには理解が出来なかった。商人としてはピカイチの頭脳も、恋愛感情という要素には非対応だった。それでも彼なりに考え、悩みに悩み、契約なら確実ではないかと思い至ってのことだったのだ。それを当初の契約内容とは斜め上の条件に勝手に塗り替えられ、腹が立たないわけがなかった。
二人が(一方的な)睨み合いをしていると、外野から「アズールぅ」と間延びした声が介入する。
「小エビちゃん死にそーだけどいいの?」
「……あ」
慌てて腕を上げれば、ユウはグルグルと目を回していた。
「すみません……大丈夫でしたか?」
指先でちょんちょんと頭を撫でれば、彼女は親指にしがみ付いて「び、びっくりしました」と気の抜けた顔でふにゃりと笑う。
──これは思いの外、可愛い。自分より小さい生き物を愛でる気分というのはこういうことか。アズールは人知れず人間の嗜好に対する理解を深めたが、クスクスと笑う声が聞こえ思考は現実に戻される。
「本当にアズールと居ると飽きませんね」
「ね〜」
「お前が撒いた種だろうが……!」
呑気に笑い合う兄弟に、アズールは苛立たしげにどかりとベッドに腰掛ける。だが幸か不幸か人為的なものなら解決の方法も見つけるのは容易かった。
「その魔法薬を出して下さい。今度は逆に〝元の右腕に戻る〟と言えば済むでしょう」
「あ! そういえばそうですね」
アズールは手のひらを差し出し、ユウは期待の宿った瞳でジェイドを見る。
「残念ながら全部使ってしまいました」
「……え?」
「それにあの魔法薬はフロイドが魔法薬学の授業でたまたま生成出来たものですから。ちなみにフロイド、調合は覚えていますか?」
「しらね。テキトーに突っ込んで混ぜてただけだし〜」
「そ、そんな……!」
唯一の希望を失い、ユウはヘナヘナとアズールの膝の上に突っ伏してしまう。
「イシダイせんせぇにでも聞いてみれば?」
「聞けるわけないでしょう。僕の評価に傷がつくだけです」
アズールの中では当然の如く、ユウの一大事<自身の評価らしい。この人なら仕方がないとどこか納得してしまうあたり、だいぶ彼に慣れてしまったなとユウはこっそり自嘲した。
トラブルは年長者に任せるのが一番安心できる手段だが、それに頼れないとなると自力でどうにかするしかない。うーんうーんと唸り何とか考えを捻り出そうとしていると、彼女の頭に一つの方法が思い浮かんだ。
「そうだ! 契約書を燃やしましょう」
「なっ……」
イソギンチャク事件を踏まえれば、契約が無効化してハッピーエンドのはずだ。我ながら過去の事例を活かしたナイスなアイデアだと、ユウは自信満々に発言する。
しかしジェイドは「いいえ」と取り付く島もないほど呆気なく否定した。
「何でですか?」
「魔法薬を口にしたアズールが作成した契約書も、恐らく具現化の一部でしょうから。言わばユウさんとは一心同体の産物です。燃やしたりなどしたらユウさんごと灰になってしまうかもしれませんよ。まぁ、個人的に興味はそそられますが──」
「やめましょう。絶対に」
くるりとアズールに向き直り、強く言い放つ。アズールは再び契約書を塵に変えられるなど言われるまでもない、と据わった目で彼女を見た。
「スパーッと切り落としちゃえばいいんじゃね? アズールの足いっぱいあるんだし、一本ぐらい大したことねーじゃん」
「大したことありますよ。それは元の姿の話でしょう」
「お二人とも私の身体のことは無視なんですね」
三人寄れば文殊の知恵、というがあまりに人選が悪すぎた。この調子だと今日中の解決は難しいだろう、と早くも白旗を上げたユウは遠い目をする。
「契約を締結したということは、勿論期間は設けているのでしょう?」
「はい。確か……一週間だったはずです」
「じゃーそれまでこのまま? ウケる」
言葉通り、ケラケラと笑うフロイド。これが自分も相手の立場だったらさぞおかしく思えただろう。だが当事者としては一ミリも笑えたものではない。ほぼ全ての自由を奪われ縛り付けられた状態はかなりのストレスだ。
だが現時点での解決策が無い以上、『契約期間が満了するまで我慢する』という一択しかユウとアズールには残されていない。
「結構な長期戦になりますけど、何とか耐え忍ぶしか──アズール先輩?」
見上げたアズールは、いやに罰の悪そうな表情をしていた。憂鬱なのはお互い様ではあるが、大きな肩書きを二つも持ち、且つプライドの高いアズールはもっと絶望しているのでは。ユウが心配の色を滲ませて見ると、彼は息を詰めて視線を逸らしてしまい、ぼそりと何か呟いた。
「……つです」
「え? すみません、もう一度……」
「一ヶ月です」
「…………は?」
言っていることが飲み込めず、ユウはぽかん、と口を開けてアズールを見る。彼は徐にサイドテーブルの下に置いてある金庫に手を伸ばし、片手で器用に解錠する。中に納められていたのは埋め尽くさんばかりの契約書。まだこんなにあったのか、あるいはまたこれほどまでに収集をしたのか、いずれにしても変わらないアズールの強かさにユウは感心しつつ彼の動向を見守る。左手は迷いなく、一番上に重ねてあった一枚の紙を取り出した。
「一番下をよくご覧になって下さい」
「下……?」
目の前に掲げられた紙を眺めると、見慣れた字体で自身のサインが書き込まれており、間違いなく昨日契約したものだと確認する。
そしてアズールに言われた通り紙の下部に目を移しよくよく見てみると、そこにはゴマ粒ほどの小さい文字で『一ヶ月まで延長可とする』と注釈がつけられていた。
「なんて典型的で悪質な手口……!?」
今になって、あの時のVIPルームはやけに薄暗かったと思い出す。ユウはてっきり部屋の元々の仕様だと思い、その場で特に言及はしなかった。しかしそのせいで文字は紙の柄に紛れて見落としてしまったのだろう。
「貴女って人は……前回から何も学んでいらっしゃらなかったようで残念です」
「そのお言葉、そっくりそのままアズール先輩にお返ししますよ」
「何ですって?」
引っかかるほうも引っかかるほうだが、自身の仕掛けた罠のせいで厄介な状況がより悪い方に傾いているのだから、彼女を一方的に責められたものではないだろう。こめかみに青筋を立てるアズールに負けじと、ユウは語気を強めた。
「こうなったのだって、アズール先輩が私なんかに契約を持ちかけたせいじゃないですか」
「その契約に同意したのは紛れもない貴女でしょう。僕に非はないはずです」
「いいえ、ありますよ。契約書にも記載されていませんでしたし、こんなハメになるなんて誰も、夢にも思わないじゃないですか!」
「なっ……それを言うなら僕だって、この様な面倒事になるなら初めから契約なんて提案しませんでしたよ!」
「だったら──」
「仲睦まじいところ大変恐れ入りますが」
元凶オブ元凶の登場に、アズールとユウはキッと鋭い視線を送る。ジェイドは怯む風も無く、いつものように胸に手を添えると首を傾げた。この期に及んでまだ何か爆弾発言を投下するつもりかと、ユウは自然と身構える。
「そろそろ登校しないと遅刻するのでは?」
ジェイドの言葉に、二人は睨んでいた目を時計に移すと……時刻はなんと始業の十分前を指していた。
未だパジャマのまま、身支度の一つも出来ていない状態にアズールは顔を青くする。
「まったく、単位を落としたらどうしてくれるんですか!?」
「それはお互い様ですよ! ていうか私は登校すら出来ないんですけど?」
「ああ、そういえばそうですね……可哀想に。心配されずとも勉強なら教えて差し上げますよ。無論、二年の範囲を貴女が理解できればの話ですが」
「本っ当にアズール先輩って清々しいぐらい性格悪──むぐっ」
「これはこれは失礼しました。急いでいるので、ついいつものようにボタンを外そうとしてしまいましたよ」
「絶対、わざとでしょう!?」
不可抗力によってアズールの胸に顔面からダイブをかましてしまい、ユウは鼻を押さえて抗議する。
「口を動かすのは結構ですが、是非手も動かしていただきたいものですね。片手では不便で仕方がない」
「! わ、私に脱がせろと……?」
「そうですが、何か問題でも? こうなった以上、僕の右手としてしっかり働くのは当然でしょう。……それとも、何か下心でもおありで?」
「ありません!」
勝気に鼻を鳴らすアズールに、ユウは顔を真っ赤にして否定した。こうなりゃヤケクソだ、と小さい両手を使ってボタンを素早く外していく。言葉では断固として否を主張したが、実際に露わになった白く引き締まった素肌を間近にすると狼狽えた。まじまじと見るのが憚られ、視線は行き場を失い宙を泳ぐ。
ユウのいじらしい様に、胸の奥から加虐心と愛おしさがふつふつと沸き上がりアズールは目を細めた。口元に湛えられた彼の笑みをユウはおろか、誰も知ることはないだろう。
……二名を除いて。
既に飽きの来たフロイドは、書斎の椅子に跨り背凭れに上半身を預けてゆらゆらと足を傾ける。その隣で行儀良く立っているジェイドは、ただの着替えに四苦八苦しているアズール(とユウ)を眺めていた。
「つーか着替えとか実践魔法使えば一発──」
「シッ。せっかくアズールが楽しそうにしているんです。僕たちは見守るとしましょう」
ニコニコと上機嫌にしている片割れを見ては、フロイドは言いかけた言葉の先を放り捨てた。代わりにポケットに入れていたお気に入りの棒付きキャンディーを口に含む。
「ジェイドもよくやるよねぇ〜」
「ありがとうございます」
「褒めてねーし」
よくもこんな面倒臭いことを、と嫌味を込めた言葉は兄弟の中では賛辞の言葉に変換されたらしい。生まれた時から今までを共に過ごしてきた彼の性格などとうに分かりきっている為、さして気にせずキャンディーを口の中で弄ぶ。
「そもそも、あの魔法薬は言葉に乗せる思いの強さが無ければ具現化はしなかったはずなんです」
「へぇ?」
「アズールに試した後、僕も〝部屋中に珍しいキノコが生える〟と口にしてみましたが一つも生えませんでした」
「何言ってくれちゃってんの?」
しょんぼりと肩を落とすジェイドに、同室であるフロイドは聞き捨てならずキレ気味に返す。どうりで今朝は不自然に部屋中を眺めていたことを思い出した。部屋中がキノコまみれになりあまつさえキノコの上で眠る自分を想像してしまい、あまりの悪夢にグシャグシャと頭を掻いて瞬時に霧散させる。
気を紛らわすように思考を元に戻すと、ある考えに行き着いた。
「ってことはぁ……アズールって相当アレじゃんね」
「アレ、ですよ。少なくとも僕のキノコへの思いより、アズールのユウさんへの想いのほうが上だった、ということですから。ああ、こうして考えると悔しいですね」
歯噛みするジェイドのキノコ愛には興味なさげに、フロイドは口に含んでいたキャンディをガリガリと噛み砕く。残った棒を指で摘むと、先端を隣に立つ片割れに向けた。
「それってかなーり、重いんじゃね?」
「ええ。激重ですね」
兄弟は鏡写しに似た笑みを浮かべ、話題の二人に視線を戻す。いつの間にか着替えは済み、アズールが包帯で右前腕もろともユウをグルグル巻きにしているところだった。
「ちゃんと息が出来る様にして下さいよ!」
「分かってますから、貴女はジッとしていなさい。それから学園では絶対に声は出さないように──ああくそっ、あと五分しかないじゃないか……!」
どうやら二人の間で右手は怪我を装うことに決まったらしい。包帯を巻き終わり、仕上げに三角巾を首に引っ下げたアズールが兄弟のほうを振り向く。
「二人とも! 急ぎますよ!」
「はい」「ハーイ」
いつものスマートさを欠いた靴音の後に、のんびりと悠長な音が続く。
忙しない中で満更でもない表情を浮かべていた幼なじみを思い返し、これから当分楽しみに困ることはないだろう──とジェイドとフロイドは揃って気持ちを高揚させるのだった。
つづく?