右手の監督生
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今、監督生の目の前にあるのは木製の何の変哲もない扉である。決して巨大なコンクリートの塀や、曰く付きの廃墟などではない。しかしそう錯覚させてしまうぐらいに、監督生は脈打つ心臓を重たく感じ佇んでいた。
憂鬱な気分のまま扉の上に視線を移せば、見るからに上質な金属のインクと、洒落た筆記体で〝モストロ・ラウンジ〟と記されている。
其処はいつかは過酷な労働をさせられ、いつかは不利な契約を結ばされ、いつかは魔法の絨毯で突っ込んだ場所。何かと厄介事に巻き込まれる監督生── ユウにとって決していい思い出など無く、本来であればのこのこと足を運ぶはずがない場所だった。
ならば何故ここに至ったのか。答えは簡単。他でもないラウンジの支配人であるアズール・アーシェングロットに招かれたから、である。ユウの感覚からすれば、来るように脅された……といったほうが正しいかもしれない。
近頃、アズールは何かとユウに恩を売りたがる。これもそのひとつだった。課題の手伝いを勧められたり、錬金術の授業ではペアに立候補されたり、図書室で自主勉強をしていればほぼ確実に彼が現れるほどの押し売りようだ。
親切も行き過ぎれば困るもの。過去に悪徳商法もかくやな方法で自身を陥れた人物なら尚のことだ。それに加え、彼のクラスメイトであるジャミルには「あいつに関わるとロクなことにならないぞ」と有り難い助言をいただいていたこともあり、ユウは売られた恩を一度たりとも買うことはなかった。アズールは持ち前の不撓不屈の精神で殊勝な態度を見せていたが、最近は一瞬だけ表情を陰らせることにユウは気がついてしまった。
押してダメなら引いてみろ、というのは恋愛だけでなくあらゆる駆け引きに用いられる考えだ。アズールのそれも相手の同情を引く一つの手段に違いない、とユウは動じずにいようとした。が、マブ友にお人好しと称される人間がいつまでも突っぱねているわけもなく。「一度で構いません。ラウンジに遊びにいらして下さい」と懇願にも近い形で言われれば、「一回だけ、遊びに行くだけなら」と要求を飲んでしまったのだ。
ラウンジに足を踏み入れて早々にホールを素通りし、VIPルームに通された今となっては、それが運の尽きだったと思わざるを得ない。
適当に食事を注文してラウンジにお金を落とせば彼も満足するだろう。そう画策していたユウにはなかなか予想外の展開だ。
困惑するユウの心情を察してか「アズールとの〝お話〟が済みましたら、とっておきのお食事でもてなさせていただきますよ」と、此処まで案内したジェイドは優良な従業員然として言う。
彼らが見返りの無い奉仕などしないことはユウも存じるところ。つまり〝とっておきの食事を用意するほど無理難題なお話が待っている〟ということになる。入室する前から背中に冷や汗を流していると、「どうぞ」とジェイドが長い腕を伸ばし中へと誘う。
こんなことならエーデュースとグリムも連れてくれば良かった、と泣きついてももう遅い。厄介事に巻き込まれるのは一人だけで十分と腹を括ったのは自分自身なのだから。それでも、いざと言う時はSOSを出そう──ポケットの中のスマホをギュッと握りしめると、覚悟を決め出来るだけ堂々とVIPルームに足を踏み入れた。
「ああ、ユウさん。お待ちしていましたよ」
巨大な金庫を背景に座っていたアズールは、ユウの姿を視界に入れると肩に掛けたコートを翻し立ち上がって出迎える。
仰々しい立ち振る舞いに内心気圧されつつも「お掛けになって下さい」と促されるまま、部屋の中央に置かれたテーブルを挟んでアズールと向かい合う。ユウは面接さながらの緊張感で、一言断ってから皮張りのソファに腰を下ろした。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
そっと横からテーブルに差し出されたのは、ジェイド手ずから淹れたのであろう紅茶だ。ぎこちなくお礼を述べるユウを一瞥し、彼は恭しく退室した。
二人きりになった途端、張り詰めた糸の様な緊張感がユウの全身を襲う。良い香りを漂わせるティーカップに手をつける余裕も無く、対峙するアズールを見据えた。
「さて。貴方もお忙しいでしょうし、時間も勿体ないので早速本題といきましょうか」
緊張感のきの字も漂わせない彼は、優々と脚を組みなおし、ティーカップに手を伸ばすと一口飲み下し喉を潤した。
その口からどんな無茶が飛び出すのか。ユウは萎縮し丸まりそうになる背中を懸命に伸ばしながら、手汗ごと拳を握りしめる。
イソギンチャクよろしく労働を強いられるか、はたまたオンボロ寮の所有権に関する交渉か、いくら何でもさすがに命までは狙わないだろう。……恐らく。嫌な方向にばかり膨らむ想像をしていると、薄暗い中で硝子色の瞳が鋭く射抜く。
「ユウさんには、僕の右腕になってもらいたいんです」
一拍置いて、ユウの口から「は、」と空気が漏れ出た。
「……右腕?」
「はい」
「アズール先輩の?」
「ええ。そうです」
眉間にシワを寄せ、いかにも訝しむ視線を送るユウ。その反応も想定の範囲内だったのだろう、アズールは澄ました表情で掌を翻す。
「僕の契約書を砂にした、その素晴らしい手腕を買ってのことですよ」
「ま、待って下さい。お言葉ですが、砂にしたのはレオナ先輩ですよ?」
「レオナさんは指示通りに実行したまでに過ぎません。あの一連の計画を企てた張本人はユウさん、貴方なのでしょう?」
「……そうですけど」
経緯はどうあれアズールの積み重ねてきた努力の結晶を水の泡、ならぬ海の砂にしてしまったのだ。恨みを買うのも仕方がないか、とユウは俯く。
ただ、勘違いでなければ彼女の目に近頃の彼が恨み嫉みを滲ませる様子はみられなかった。むしろ雁字搦めになっていた過去の呪縛から解放され、あの一件以前より活き活きとした印象すら持っていたほどだ。
とはいえ他人の心というのは外から推し量ることはできても、真に深いところまでは分からないものだ。演じることが上手な彼も、腹の底では嫌悪や憎悪をグツグツと煮えたぎらせていたのかもしれない。何かと恩を売りつけようとしていたのも、自分を絶望のドン底に突き落とす為の彼の算段でしかなかったのかも──そう考えると、ユウは何故か胸の奥がズキンと重く痛んだ。顔を見ることが出来ずに窮屈に肩を竦めていると、呆れの混じった溜め息が耳に届く。
「何か勘違いをしていらっしゃるようですが、僕は貴方に感謝こそすれ恨みなんてものは抱いていませんよ」
「……え? じゃあなんで……」
「言葉のままです。ユウさんには僕の右腕としてラウンジの経営やその他諸々を補助してもらいたい、それだけですよ。些か深読みしすぎでは?」
──まあ、お人好しな貴方は用心深いぐらいがちょうどいいかもしれませんね。そう嫌味たっぷりに付け加えるとアズールは鼻で笑う。
彼の言葉に不愉快になるどころか、強張らせていた肩の力が抜けた。今のユウにとっては馬鹿にされていることよりも、恨みを抱かれていないことの安心感のほうが大きかったのだ。『別に、彼に恨みを持たれたところで問題は無いのでは?』とも疑問に思ったが、『敵は少ないに越した事はない』という答えであっさりと結論が出た。
だがそれならば尚更、契約を持ちかける理由が分からなくなるというもので。
「私じゃなくても、既に優秀なお二人が居るじゃないですか」
そう、アズールには幼なじみであり側近でもある人魚の仲間が二人もいるのだ。ユウの脳内に此処まで案内した一人と、気分屋なもう一人が思い浮かぶ。
「あの二人は僕に従っている遊びをしているだけに過ぎません。右腕なんて以ての外です。興が醒めれば僕とは全く別の道を躊躇いなく選択するでしょうから」
「そうかなぁ……」
ユウの目に彼らは仕事仲間としても友人としても十二分に仲が良いように見え、今さら第三者である自身の手が必要とはとても思えなかった。
一体どんな策略が隠れているのか、とレンズの向こうにある瞳を覗き込むが機嫌良くニコニコと微笑むばかりだ。
「イソギンチャクは嫌ですよ」
「まさか! この契約書に目を通していただければいかに正当な契約かご理解いただけるかと」
アズールがステッキを軽く持ち上げると、煌々と輝く一枚の紙がテーブルの上に現れる──彼だけが使えるユニーク魔法〝黄金の契約書〟だ。以前痛い目をみることになったその紙を恐る恐る手に取ると、一文字も見落としのないようユウはゆっくりと視線を滑らせた。そして意外にも、最後まで引っかかることなく読み終える。確かに、引き受ける側にとって不利な条件は一切記載されていない。報酬も用意されている辺りむしろ好条件と言えるだろう。
だが、逆にそこが怪しかった。上手い話には裏があるのが世の常。この一癖も二癖もある学園ではもはや教訓に等しいことをユウは身を持って学んでいた。
「本当に、この書面に書いてあることだけをこなせばいいんですね? 後から妨害とかは無しですよ?」
「ふふ……疑り深いですね。実に良い心掛けだ」
「茶化さないでください」
膨れっ面を晒すユウとは反対に、アズールは口元を緩ませる。
「もちろん、書面に記載されている以外のことは要求しません。報酬もしっかり払わせていただきましょう。支配人として誓います」
恭しく言う様にいつもの胡散臭さはなりを潜め、誠実な一商人がそこに居た。ユウは彼の手で差し出された万年筆を握る。
──サインを記せば、いよいよこの商人から逃げる術は無くなる。
契約成立を目前に化けの皮が捲れているのでは、と最後の警戒心を胸にアズールを窺う。彼は急かす風もなく、長い脚を組みリラックスした状態で構えていた。ハリネズミの如く毛を逆立てていた自身の方が馬鹿馬鹿しく思えるほどだ。
ユウはふう、と一旦息を吐くと、いよいよ金色に輝く契約書にインクを滲ませる。迷いなく名前を書き記すと、万年筆を置きアズールの方に紙ごと返した。
「……ええ、確かに。では書面の通り、明日からよろしくお願いしますね」
アズールは書かれたサインを確認すると、クルクルと慣れた手つきで契約書を丸め懐へと仕舞う。
「本日はユウさんの貴重なお時間を頂戴しありがとうございました。お礼に今日はラウンジの食事をご馳走しますよ」
「有難いお話ですが、結構です。きちんとお代は支払わせていただきますので」
これがグリムだったら「タダ飯だ!」と脊髄反射で真っ先に飛びついていただろう。そう考えると誘わなかったのは正解かもしれない、と小さく苦笑を零す。
「それはそれは、殊勝なことで。貴方がそう言うのなら無理強いはしませんが……まぁ、どうぞごゆっくりなさって下さい」
契約成立したことが余程嬉しかったのだろう。自らの厚意を断るユウに気を悪くする様子もなく、アズールは高らかに靴音を鳴らしホールへと案内する。
──正当な条件を提示されたとはいえ、やっぱりこの人相手に契約なんてするものではなかっただろうか。ユウは若干の後悔を感じながら広い背中を見る。
いずれにせよ後戻りは出来ない。先が思いやられる頭とは逆に、図太い胃袋はぐうと空腹の意を訴える。今は美味しい食事を素直に楽しむことにしよう、とユウは気持ちを切り替えた。
「……何でアズール先輩も座ってるんでしょうか」
案内されたボックス席で、当然のように隣に腰を据えたラウンジの支配人を横目で見る。従業員に料理の手配の指示を出していたアズールは、ユウの不満の込もった視線にやれやれと大袈裟にため息を吐いた。
「此処は僕が経営しているカフェなんですから、居るのは当然でしょう。それとも店員なんぞ座ってないで働いておけとでも? 貴方もなかなかの横暴をおっしゃる。そもそもお客様の反応を間近で観察し今後の運営に役立てるのは経営者として至極真っ当な──」
「はい。すみません。私が悪うございました。どうぞアズール先輩の気の済むまでお座り下さいませ」
口も頭もよく回る男を相手に勝ちをもぎ取る労力より、早々に勝負を切り上げることをユウは選んだ。右手を上げて降参の意を示す。
「そうですか? では、ユウさんの有り難いお言葉に甘えるとしましょう」
声音から何から端々に彼の機嫌の良さが窺える。あの契約一つでよくここまで喜べるものだ。
皮肉にも似た感心をしている間にも、支配人ご自慢の料理が次々とテーブルに並べられていく。人並みの胃の大きさと侘しい懐しか持たないユウには、どちらの意味でもキャパオーバーだ。
オーダーミスでもしているのではないか?
隣に目を向けたユウは、言いかけてすぐ口を閉じた。
鋭い目線で従業員一人一人の動きや、客の反応に目を配るアズールの横顔は、高校生の姿というより立派な経営者の顔をしている。それも切れ者の。先ほどの言葉はお得意の口八丁で言っていたものではなかったのが分かり、彼がいかに心を傾けているかが、ユウには痛いほど伝わった。
「アズール先輩はモストロ・ラウンジを大事にされてるんですね」
向けられた言葉に気づいたアズールは、ユウのほうを見ると自信に満ち満ちた笑顔で答えてみせる。
「ええ、もちろん。ですが此処は僕にとってあくまで始まりに過ぎません。ゆくゆくは二号店、三号店……卒業後には全国展開も見据えています」
「はぁ。すごいですね」
一学生でしかないユウにとってはスケールの大きすぎる話だった。自身とたかだか一つしか齢の違わないアズールは将来の夢のような仮定の話ではなく、確実に実行するという意志だけを込めた瞳で言ってのける。
実際、彼ならば実現出来てしまうのだろう──そんな確信めいたことさえ思わせてしまうほどアズールという男を認めていたことに、ユウ自身が一番驚いていた。
この人は才能が無いわけじゃない。いつ何時も失敗を恐れず、例え望み通りの結果が出なくとも、むしろそれを糧に最良の手段を見出し、確実に選び取っていく。〝努力〟というれっきとした才を持った人物なのだ。
「かっこいいですね」
自然と口からまろび出た言葉に、アズールはぽかん、と些か間の抜けた顔を晒す。
「…………今、何と?」
それはユウにも身近に感じられる、年齢に見合った表情だった。
「え? かっこいいですねって」
「に、二回も言わなくて結構です!」
「アズール先輩が言わせたんじゃないですか」
要望通りにしたつもりが何故かお叱りを受ける。理不尽な言われように顔を顰めていると、都合の悪くなったアズールはそっぽを向いてしまう。
怒ったり、呆けたり、表情まで忙しい人だ。ユウは付き合ってられないとばかりに、ちょうどテーブルに乗せられたスペシャルドリンクを手に取ってストローに口をつける。口の中に広がるフルーツの上品な甘酸っぱさは、今まで口にした飲み物の中で一番と言っていいほど美味しかった。尖らせていた心は自ずと丸くなる。
「このドリンク……とっても美味しいです」
「当然です。僕が美味しいと認めたものしか此処では提供しませんから」
調子を取り戻したらしいアズールが鼻高々と語る。
「わぁ、すごい自信ですね」
「……馬鹿にしてます?」
「してませんよ。むしろやっぱりかっこいいなーと」
「ほう。この僕を揶揄うとはユウさんもいい度胸をしていらっしゃる」
「心の底から思ってますよ?」
「っ、貴方の場合は尚更たちが悪いんですよ……!」
アズールはハットを片手で押さえ、顔を覆ってしまう。彼にとって即席の蛸壷のようなものなのだろう。だがほんのりと色づく耳までは隠し切れておらず、ユウはにんまりと悪戯な子どものように笑う。
「ふふ、褒めてます?」
「そんなわけないでしょう。どれだけおめでたいんだか……はぁ」
心底疲れた様子の彼に、調子に乗り過ぎたことを少しばかり反省した。あんな契約をした矢先に下手なことを言うものではなかった、これでは右腕失格だなぁとぼんやり考える。
「すみませんでした。さっきの契約、無効にしますか?」
「しませんよ」
「……はーい」
咄嗟に思いついた『話の流れに乗じてちゃっかり契約を無かったことにしよう作戦』はあっさり敗北した。アズールと契約は切っても切れない関係、もはやアイデンティティーに近い存在なのだから仕方がない。
景気付けの為にも今日はたらふく食べておこうと、ユウはテーブルに並べられた料理を繁々と眺め、どれから片付けようかと視線を彷徨わせる。
「貴方、もしかして契約を反故する為にわざと──」
「はんへふか?」
「……いいえ、何でもありません」
神妙な面持ちをしていたアズールだったが、パスタを口いっぱいに頬張るユウの姿を見ると途端に顔の緊張が解けていった。呑気にもぐもぐと咀嚼するユウに、彼は呆れ顔で「やはり今日はご馳走します」と再度の提案を申し出る。
「その話はさっきお断りしたじゃないですか」
「どうも借りを作りっぱなしにするのは性に合わないもので」
「借り? アズール先輩に借りなんて作った覚えないですよ」
「ええ、ええ。そうでしょうね。本当に腹立たしいことです」
「なんで怒られてるんでしょう……?」
思い当たる節が全く見つからず、ユウは首を傾げる。
「ほら、冷める前に早く召し上がって下さい。万が一残したりなどしたら倍の額を請求しますからね」
「いきなりフードファイトですか!? ていうか注文したのアズール先輩じゃないです──」
「つべこべ言っていると追加オーダーしますよ」
「何という闇カフェ……!」
小一時間の格闘の末、料理は全て胃袋の中に収まりテーブルの上は綺麗さっぱり片付いた。ユウの根性もさることながら、何だかんだ言いつつアズールも食事を共にしてくれたお陰だ。紙一重といった具合ではあるが、結果的に倍額の支払いも何とか免れたのだった。
もう二度と客としては来るまい──ラウンジの扉を恨めしく見上げると、はちきれそうな胃を抱えながらユウはオンボロ寮へと帰っていった。
憂鬱な気分のまま扉の上に視線を移せば、見るからに上質な金属のインクと、洒落た筆記体で〝モストロ・ラウンジ〟と記されている。
其処はいつかは過酷な労働をさせられ、いつかは不利な契約を結ばされ、いつかは魔法の絨毯で突っ込んだ場所。何かと厄介事に巻き込まれる監督生── ユウにとって決していい思い出など無く、本来であればのこのこと足を運ぶはずがない場所だった。
ならば何故ここに至ったのか。答えは簡単。他でもないラウンジの支配人であるアズール・アーシェングロットに招かれたから、である。ユウの感覚からすれば、来るように脅された……といったほうが正しいかもしれない。
近頃、アズールは何かとユウに恩を売りたがる。これもそのひとつだった。課題の手伝いを勧められたり、錬金術の授業ではペアに立候補されたり、図書室で自主勉強をしていればほぼ確実に彼が現れるほどの押し売りようだ。
親切も行き過ぎれば困るもの。過去に悪徳商法もかくやな方法で自身を陥れた人物なら尚のことだ。それに加え、彼のクラスメイトであるジャミルには「あいつに関わるとロクなことにならないぞ」と有り難い助言をいただいていたこともあり、ユウは売られた恩を一度たりとも買うことはなかった。アズールは持ち前の不撓不屈の精神で殊勝な態度を見せていたが、最近は一瞬だけ表情を陰らせることにユウは気がついてしまった。
押してダメなら引いてみろ、というのは恋愛だけでなくあらゆる駆け引きに用いられる考えだ。アズールのそれも相手の同情を引く一つの手段に違いない、とユウは動じずにいようとした。が、マブ友にお人好しと称される人間がいつまでも突っぱねているわけもなく。「一度で構いません。ラウンジに遊びにいらして下さい」と懇願にも近い形で言われれば、「一回だけ、遊びに行くだけなら」と要求を飲んでしまったのだ。
ラウンジに足を踏み入れて早々にホールを素通りし、VIPルームに通された今となっては、それが運の尽きだったと思わざるを得ない。
適当に食事を注文してラウンジにお金を落とせば彼も満足するだろう。そう画策していたユウにはなかなか予想外の展開だ。
困惑するユウの心情を察してか「アズールとの〝お話〟が済みましたら、とっておきのお食事でもてなさせていただきますよ」と、此処まで案内したジェイドは優良な従業員然として言う。
彼らが見返りの無い奉仕などしないことはユウも存じるところ。つまり〝とっておきの食事を用意するほど無理難題なお話が待っている〟ということになる。入室する前から背中に冷や汗を流していると、「どうぞ」とジェイドが長い腕を伸ばし中へと誘う。
こんなことならエーデュースとグリムも連れてくれば良かった、と泣きついてももう遅い。厄介事に巻き込まれるのは一人だけで十分と腹を括ったのは自分自身なのだから。それでも、いざと言う時はSOSを出そう──ポケットの中のスマホをギュッと握りしめると、覚悟を決め出来るだけ堂々とVIPルームに足を踏み入れた。
「ああ、ユウさん。お待ちしていましたよ」
巨大な金庫を背景に座っていたアズールは、ユウの姿を視界に入れると肩に掛けたコートを翻し立ち上がって出迎える。
仰々しい立ち振る舞いに内心気圧されつつも「お掛けになって下さい」と促されるまま、部屋の中央に置かれたテーブルを挟んでアズールと向かい合う。ユウは面接さながらの緊張感で、一言断ってから皮張りのソファに腰を下ろした。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
そっと横からテーブルに差し出されたのは、ジェイド手ずから淹れたのであろう紅茶だ。ぎこちなくお礼を述べるユウを一瞥し、彼は恭しく退室した。
二人きりになった途端、張り詰めた糸の様な緊張感がユウの全身を襲う。良い香りを漂わせるティーカップに手をつける余裕も無く、対峙するアズールを見据えた。
「さて。貴方もお忙しいでしょうし、時間も勿体ないので早速本題といきましょうか」
緊張感のきの字も漂わせない彼は、優々と脚を組みなおし、ティーカップに手を伸ばすと一口飲み下し喉を潤した。
その口からどんな無茶が飛び出すのか。ユウは萎縮し丸まりそうになる背中を懸命に伸ばしながら、手汗ごと拳を握りしめる。
イソギンチャクよろしく労働を強いられるか、はたまたオンボロ寮の所有権に関する交渉か、いくら何でもさすがに命までは狙わないだろう。……恐らく。嫌な方向にばかり膨らむ想像をしていると、薄暗い中で硝子色の瞳が鋭く射抜く。
「ユウさんには、僕の右腕になってもらいたいんです」
一拍置いて、ユウの口から「は、」と空気が漏れ出た。
「……右腕?」
「はい」
「アズール先輩の?」
「ええ。そうです」
眉間にシワを寄せ、いかにも訝しむ視線を送るユウ。その反応も想定の範囲内だったのだろう、アズールは澄ました表情で掌を翻す。
「僕の契約書を砂にした、その素晴らしい手腕を買ってのことですよ」
「ま、待って下さい。お言葉ですが、砂にしたのはレオナ先輩ですよ?」
「レオナさんは指示通りに実行したまでに過ぎません。あの一連の計画を企てた張本人はユウさん、貴方なのでしょう?」
「……そうですけど」
経緯はどうあれアズールの積み重ねてきた努力の結晶を水の泡、ならぬ海の砂にしてしまったのだ。恨みを買うのも仕方がないか、とユウは俯く。
ただ、勘違いでなければ彼女の目に近頃の彼が恨み嫉みを滲ませる様子はみられなかった。むしろ雁字搦めになっていた過去の呪縛から解放され、あの一件以前より活き活きとした印象すら持っていたほどだ。
とはいえ他人の心というのは外から推し量ることはできても、真に深いところまでは分からないものだ。演じることが上手な彼も、腹の底では嫌悪や憎悪をグツグツと煮えたぎらせていたのかもしれない。何かと恩を売りつけようとしていたのも、自分を絶望のドン底に突き落とす為の彼の算段でしかなかったのかも──そう考えると、ユウは何故か胸の奥がズキンと重く痛んだ。顔を見ることが出来ずに窮屈に肩を竦めていると、呆れの混じった溜め息が耳に届く。
「何か勘違いをしていらっしゃるようですが、僕は貴方に感謝こそすれ恨みなんてものは抱いていませんよ」
「……え? じゃあなんで……」
「言葉のままです。ユウさんには僕の右腕としてラウンジの経営やその他諸々を補助してもらいたい、それだけですよ。些か深読みしすぎでは?」
──まあ、お人好しな貴方は用心深いぐらいがちょうどいいかもしれませんね。そう嫌味たっぷりに付け加えるとアズールは鼻で笑う。
彼の言葉に不愉快になるどころか、強張らせていた肩の力が抜けた。今のユウにとっては馬鹿にされていることよりも、恨みを抱かれていないことの安心感のほうが大きかったのだ。『別に、彼に恨みを持たれたところで問題は無いのでは?』とも疑問に思ったが、『敵は少ないに越した事はない』という答えであっさりと結論が出た。
だがそれならば尚更、契約を持ちかける理由が分からなくなるというもので。
「私じゃなくても、既に優秀なお二人が居るじゃないですか」
そう、アズールには幼なじみであり側近でもある人魚の仲間が二人もいるのだ。ユウの脳内に此処まで案内した一人と、気分屋なもう一人が思い浮かぶ。
「あの二人は僕に従っている遊びをしているだけに過ぎません。右腕なんて以ての外です。興が醒めれば僕とは全く別の道を躊躇いなく選択するでしょうから」
「そうかなぁ……」
ユウの目に彼らは仕事仲間としても友人としても十二分に仲が良いように見え、今さら第三者である自身の手が必要とはとても思えなかった。
一体どんな策略が隠れているのか、とレンズの向こうにある瞳を覗き込むが機嫌良くニコニコと微笑むばかりだ。
「イソギンチャクは嫌ですよ」
「まさか! この契約書に目を通していただければいかに正当な契約かご理解いただけるかと」
アズールがステッキを軽く持ち上げると、煌々と輝く一枚の紙がテーブルの上に現れる──彼だけが使えるユニーク魔法〝黄金の契約書〟だ。以前痛い目をみることになったその紙を恐る恐る手に取ると、一文字も見落としのないようユウはゆっくりと視線を滑らせた。そして意外にも、最後まで引っかかることなく読み終える。確かに、引き受ける側にとって不利な条件は一切記載されていない。報酬も用意されている辺りむしろ好条件と言えるだろう。
だが、逆にそこが怪しかった。上手い話には裏があるのが世の常。この一癖も二癖もある学園ではもはや教訓に等しいことをユウは身を持って学んでいた。
「本当に、この書面に書いてあることだけをこなせばいいんですね? 後から妨害とかは無しですよ?」
「ふふ……疑り深いですね。実に良い心掛けだ」
「茶化さないでください」
膨れっ面を晒すユウとは反対に、アズールは口元を緩ませる。
「もちろん、書面に記載されている以外のことは要求しません。報酬もしっかり払わせていただきましょう。支配人として誓います」
恭しく言う様にいつもの胡散臭さはなりを潜め、誠実な一商人がそこに居た。ユウは彼の手で差し出された万年筆を握る。
──サインを記せば、いよいよこの商人から逃げる術は無くなる。
契約成立を目前に化けの皮が捲れているのでは、と最後の警戒心を胸にアズールを窺う。彼は急かす風もなく、長い脚を組みリラックスした状態で構えていた。ハリネズミの如く毛を逆立てていた自身の方が馬鹿馬鹿しく思えるほどだ。
ユウはふう、と一旦息を吐くと、いよいよ金色に輝く契約書にインクを滲ませる。迷いなく名前を書き記すと、万年筆を置きアズールの方に紙ごと返した。
「……ええ、確かに。では書面の通り、明日からよろしくお願いしますね」
アズールは書かれたサインを確認すると、クルクルと慣れた手つきで契約書を丸め懐へと仕舞う。
「本日はユウさんの貴重なお時間を頂戴しありがとうございました。お礼に今日はラウンジの食事をご馳走しますよ」
「有難いお話ですが、結構です。きちんとお代は支払わせていただきますので」
これがグリムだったら「タダ飯だ!」と脊髄反射で真っ先に飛びついていただろう。そう考えると誘わなかったのは正解かもしれない、と小さく苦笑を零す。
「それはそれは、殊勝なことで。貴方がそう言うのなら無理強いはしませんが……まぁ、どうぞごゆっくりなさって下さい」
契約成立したことが余程嬉しかったのだろう。自らの厚意を断るユウに気を悪くする様子もなく、アズールは高らかに靴音を鳴らしホールへと案内する。
──正当な条件を提示されたとはいえ、やっぱりこの人相手に契約なんてするものではなかっただろうか。ユウは若干の後悔を感じながら広い背中を見る。
いずれにせよ後戻りは出来ない。先が思いやられる頭とは逆に、図太い胃袋はぐうと空腹の意を訴える。今は美味しい食事を素直に楽しむことにしよう、とユウは気持ちを切り替えた。
「……何でアズール先輩も座ってるんでしょうか」
案内されたボックス席で、当然のように隣に腰を据えたラウンジの支配人を横目で見る。従業員に料理の手配の指示を出していたアズールは、ユウの不満の込もった視線にやれやれと大袈裟にため息を吐いた。
「此処は僕が経営しているカフェなんですから、居るのは当然でしょう。それとも店員なんぞ座ってないで働いておけとでも? 貴方もなかなかの横暴をおっしゃる。そもそもお客様の反応を間近で観察し今後の運営に役立てるのは経営者として至極真っ当な──」
「はい。すみません。私が悪うございました。どうぞアズール先輩の気の済むまでお座り下さいませ」
口も頭もよく回る男を相手に勝ちをもぎ取る労力より、早々に勝負を切り上げることをユウは選んだ。右手を上げて降参の意を示す。
「そうですか? では、ユウさんの有り難いお言葉に甘えるとしましょう」
声音から何から端々に彼の機嫌の良さが窺える。あの契約一つでよくここまで喜べるものだ。
皮肉にも似た感心をしている間にも、支配人ご自慢の料理が次々とテーブルに並べられていく。人並みの胃の大きさと侘しい懐しか持たないユウには、どちらの意味でもキャパオーバーだ。
オーダーミスでもしているのではないか?
隣に目を向けたユウは、言いかけてすぐ口を閉じた。
鋭い目線で従業員一人一人の動きや、客の反応に目を配るアズールの横顔は、高校生の姿というより立派な経営者の顔をしている。それも切れ者の。先ほどの言葉はお得意の口八丁で言っていたものではなかったのが分かり、彼がいかに心を傾けているかが、ユウには痛いほど伝わった。
「アズール先輩はモストロ・ラウンジを大事にされてるんですね」
向けられた言葉に気づいたアズールは、ユウのほうを見ると自信に満ち満ちた笑顔で答えてみせる。
「ええ、もちろん。ですが此処は僕にとってあくまで始まりに過ぎません。ゆくゆくは二号店、三号店……卒業後には全国展開も見据えています」
「はぁ。すごいですね」
一学生でしかないユウにとってはスケールの大きすぎる話だった。自身とたかだか一つしか齢の違わないアズールは将来の夢のような仮定の話ではなく、確実に実行するという意志だけを込めた瞳で言ってのける。
実際、彼ならば実現出来てしまうのだろう──そんな確信めいたことさえ思わせてしまうほどアズールという男を認めていたことに、ユウ自身が一番驚いていた。
この人は才能が無いわけじゃない。いつ何時も失敗を恐れず、例え望み通りの結果が出なくとも、むしろそれを糧に最良の手段を見出し、確実に選び取っていく。〝努力〟というれっきとした才を持った人物なのだ。
「かっこいいですね」
自然と口からまろび出た言葉に、アズールはぽかん、と些か間の抜けた顔を晒す。
「…………今、何と?」
それはユウにも身近に感じられる、年齢に見合った表情だった。
「え? かっこいいですねって」
「に、二回も言わなくて結構です!」
「アズール先輩が言わせたんじゃないですか」
要望通りにしたつもりが何故かお叱りを受ける。理不尽な言われように顔を顰めていると、都合の悪くなったアズールはそっぽを向いてしまう。
怒ったり、呆けたり、表情まで忙しい人だ。ユウは付き合ってられないとばかりに、ちょうどテーブルに乗せられたスペシャルドリンクを手に取ってストローに口をつける。口の中に広がるフルーツの上品な甘酸っぱさは、今まで口にした飲み物の中で一番と言っていいほど美味しかった。尖らせていた心は自ずと丸くなる。
「このドリンク……とっても美味しいです」
「当然です。僕が美味しいと認めたものしか此処では提供しませんから」
調子を取り戻したらしいアズールが鼻高々と語る。
「わぁ、すごい自信ですね」
「……馬鹿にしてます?」
「してませんよ。むしろやっぱりかっこいいなーと」
「ほう。この僕を揶揄うとはユウさんもいい度胸をしていらっしゃる」
「心の底から思ってますよ?」
「っ、貴方の場合は尚更たちが悪いんですよ……!」
アズールはハットを片手で押さえ、顔を覆ってしまう。彼にとって即席の蛸壷のようなものなのだろう。だがほんのりと色づく耳までは隠し切れておらず、ユウはにんまりと悪戯な子どものように笑う。
「ふふ、褒めてます?」
「そんなわけないでしょう。どれだけおめでたいんだか……はぁ」
心底疲れた様子の彼に、調子に乗り過ぎたことを少しばかり反省した。あんな契約をした矢先に下手なことを言うものではなかった、これでは右腕失格だなぁとぼんやり考える。
「すみませんでした。さっきの契約、無効にしますか?」
「しませんよ」
「……はーい」
咄嗟に思いついた『話の流れに乗じてちゃっかり契約を無かったことにしよう作戦』はあっさり敗北した。アズールと契約は切っても切れない関係、もはやアイデンティティーに近い存在なのだから仕方がない。
景気付けの為にも今日はたらふく食べておこうと、ユウはテーブルに並べられた料理を繁々と眺め、どれから片付けようかと視線を彷徨わせる。
「貴方、もしかして契約を反故する為にわざと──」
「はんへふか?」
「……いいえ、何でもありません」
神妙な面持ちをしていたアズールだったが、パスタを口いっぱいに頬張るユウの姿を見ると途端に顔の緊張が解けていった。呑気にもぐもぐと咀嚼するユウに、彼は呆れ顔で「やはり今日はご馳走します」と再度の提案を申し出る。
「その話はさっきお断りしたじゃないですか」
「どうも借りを作りっぱなしにするのは性に合わないもので」
「借り? アズール先輩に借りなんて作った覚えないですよ」
「ええ、ええ。そうでしょうね。本当に腹立たしいことです」
「なんで怒られてるんでしょう……?」
思い当たる節が全く見つからず、ユウは首を傾げる。
「ほら、冷める前に早く召し上がって下さい。万が一残したりなどしたら倍の額を請求しますからね」
「いきなりフードファイトですか!? ていうか注文したのアズール先輩じゃないです──」
「つべこべ言っていると追加オーダーしますよ」
「何という闇カフェ……!」
小一時間の格闘の末、料理は全て胃袋の中に収まりテーブルの上は綺麗さっぱり片付いた。ユウの根性もさることながら、何だかんだ言いつつアズールも食事を共にしてくれたお陰だ。紙一重といった具合ではあるが、結果的に倍額の支払いも何とか免れたのだった。
もう二度と客としては来るまい──ラウンジの扉を恨めしく見上げると、はちきれそうな胃を抱えながらユウはオンボロ寮へと帰っていった。