♪ 真珠色の恋
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二時間ほど続いた慰労会も、段々と締めの空気が漂い始めていた。既に宴の余韻から覚めた寮生はホールの片づけに取り掛かっている。楽しいひと時が終わってしまうことに少し名残惜しさを感じていたユウも、バイトの一員として当然片づけの人手に加わった。
――手始めにテーブルの上の食器類でも片付けてしまおう。腕捲りをして気持ちを切り替え、まだ料理の残った大皿を手に取る。日持ちのしない余り物で作った賄い料理が中心だったとはいえ、やはり食べ物を廃棄するのは忍びない。そこでユウは、はたとあることに気が付いた。
これだけ帰りが遅くなれば、グリムもお腹を空かせて待っているに違いない。まして一人で豪勢な食事を食べてきたと知れれば「抜け駆けしてズルいんだゾ!」と毛を逆立てて怒る親分の姿は想像が出来過ぎた。一考した末、ユウはキッチンの保存容器を拝借して余った料理をお土産に頂いていくことにした。もちろん、先輩スタッフの許可も頂戴済みである。お土産さえあれば許してくれるだろうし、食べることが大好きなグリムなら両手を上げて喜ぶはずだ。小躍りする相棒を頭に思い浮かべつつ、後片づけの作業も残っている為手早く料理を詰めていく。あれもこれもと欲張っていたらなかなかの量になってしまった。
「まだまだ胃袋にも詰められたのに~」なんて愚痴りながら、持参した大量の保存容器にみっちりと詰め込んでいたラギーに比べれば控えめなほうだが。当の彼は、寮長直々の命令が下ったとのことで既に自寮へと帰ってしまった。今思えば慰労会が終わるギリギリのタイミングで退散したのは、面倒な後片付けを見越してのことだったのだろう。
「(……やっぱり、あのちゃっかりした性格は見習おう)」
ユウは小さく決意しながら保存容器を纏め、片付けの作業に戻った。
*
一通り清掃も終わり、今日の業務は本当の意味で終了となった。
疲れきった体を休めるべく、そして相棒にお土産を届けるべく。ユウは荷物を纏め、さっさとラウンジを後にしようとしていた。
「ユウさん、お気をつけて」
出入り口から離れて間もなく、背後から声を掛けられ足を止める。しかし寮生は皆、寮に戻っていくのをユウは確認していた。唯一残っていたのは――振り返ると、予想していた通りの人物が横並びに立っていた。
「先輩方も一緒に寮へ戻られるんですか?」
「ええ、そんなところです。ついでにユウさんのお見送りでもしようかと」
「アザラシちゃん、喜んでくれるといーね」
この兄弟がわざわざ一従業員の見送りなんて珍しい。ユウは怪訝に思いながらも「どうも」と軽く頭を下げれば、二人は不気味なぐらいの良い笑顔でひらひらと手を振る。
さっき詰めた料理に何か怪しいものを混入したのでは……と失礼極まりない心配をしていると、今度は「あー!」とわざとらしさ全開の驚いた声が上がる。
「ねぇねぇ小エビちゃん、あそこ見てみな」
「何ですか、急に……」
嬉々としてユウの背後を指差すフロイド。いーからいーから、と急かすのが余計に怪しさを煽っていた。
――どうせ、何か悪戯でも仕掛けてビクビクと怖がる様を楽しむつもりだろう。彼のいつものお遊びだ。良い反応をすると余計に遊びが長引くだろうことを踏まえ、ユウは嫌々フロイドの指の先を視線で辿る。
そこにあったのは、鏡舎に繋がる鏡から寮内部へと続く道。もっと正確に言えば、その道を歩く二人組だろう。
「アズール……先輩……」
特別視力が良くなくとも、海の中で揺れる銀糸は見間違えるはずもなかった。それから、隣に並ぶ華やかな金色も。腕を組み優雅に歩く二人はまさしく恋人のそれだ。その光景を一秒と見ていられず、ユウは咄嗟に顔を俯ける。
ドクリ、ドクリと大きく脈打つ心臓。水面を打ったように揺らぐ視界。地面を押し返すことを意識しなければ、今にも膝をついてしまいそうだった。
グッ、と堪えるように力が込められた手――その右手には、余りものの料理の詰まった袋が握られている。これも大事な相棒へのお土産とはいえ、愛しい人の手を取る二人とはあまりにも対照的だ。
「こんな時間に、男女二人で何をするんでしょうね?」
追い討ちをかけるかのように、耳元でテノールが囁く。足元まで引いた血の気が、カッと頭に集まるのをユウは感じた。怒りにも似た感情がぶつけようもなくグラグラと全身で煮えたぎる。正気を失ってしまいそうな中でも、薄らと今の自分が冷静でないことぐらいの客観視は出来ていた。理性という堤防が決壊する前に、ユウは一刻も早くこの場を立ち去りたかった。だがこの状況を誂えた張本人である兄弟が、そう易々と許しはしない。
「慌てて逃げることねーじゃん。つか、小エビちゃんはちゃんと見届けたほうがいいんじゃない?」
「は、離して下さいっ。逃げるも何も私は寮に帰りたいだけです!」
両脇に差し込まれたフロイドの手に持ち上げられ、地面を蹴ろうとしたユウの足はジタバタと宙を泳ぐ。
「帰られるのは結構ですが、そしたら二人の関係はあなたの勝手な憶測で終わってしまいますよ?」
「憶測だけでも十分――」
「ほう。ユウさんは魔法薬学や錬金術の授業も憶測だけでこなしているのですか? 実践も結果の検証も必要ないと? 大したものです、お見逸れ致しました」
感心した風を装いながら、にっこりと笑みを模る。
タイプは違えど、どちらの先輩も人をイラッとさせる言い回しの才能に長けていた。持ち上げられているせいで、普段より近い目線でユウはジェイドを睨みつける。当の本人は怯むどころか、益々笑みを深くした。
「僕としましては最後まで観察し、真実を追求することをお勧めしますよ」
もっともらしいことを言っているが、面白がっているのは誰の目から見ても明らかだ。もちろん、ユウの目にも。ただ、ジェイドの提案が一理あることも彼女は否定できなかった。深いため息を吐くと、ユウは必死に捩っていた身体の力を抜く。
「あれ〜もう諦めちゃったの?」
ざーんねん、とフロイドはつまらなそうに掲げていた腕を下ろした。地面の感触に安心感を感じたのも束の間のこと。馬の尻を叩くが如く、ほらほらと二人に背中を押されユウは寮内に続く道を進む。
「……なんだか、ストーカーになった気分です」
「アズールに近づく為にラウンジで働いてるんでしょ? 今さらじゃん」
反論どころか、ぐうの音も出せなかった。ユウが苦虫を噛み潰したような顔をしていると「気後れする必要は無い、というフロイドなりの優しさですよ」と半笑いのジェイドがフォロー(になってないフォロー)を入れる。
――グリム、ごめん。どうやらお土産は夕食でなく夜食になってしまいそうです。
オンボロ寮で待ちぼうけているだろう親分に、心の中で詫びる。縛られこそしないものの、捕虜のように前後を兄弟に囲まれたユウは、重い足取りでオクタヴィネル寮内を進むのだった。
*
「お邪魔します」
オクタヴィネル寮内にある一室。その部屋の主に迎えられ、ラゼリアはおずおずと遠慮がちに足を踏み入れた。アズールこだわりの空間を、彼女は珍しそうに目を輝かせて見回す。
「オシャレで素敵なお部屋ね。アズールくんらしいわ」
「ふふ、お褒め頂き光栄です」
「でも……やっぱりこんな時間に迷惑じゃなかったかしら。我が儘を言ってごめんなさいね」
アズールのほうを振り返り、ラゼリアは眉を下げて控えめに笑む。そもそも彼女を部屋に招いたのも、談笑する中でアズールの私室の話になったからだった。当初は校舎内を見学したいという話だったが、時間と学園の規則を省みて避けた。これも見つかれば厳重注意は免れないだろうが、いざという時の言いくるめる算段などアズールはとうにつけていた。
「迷惑だなんてとんでもない。せっかくですから遠慮せずにどうぞご覧になっていってください」
「そうかしら……じゃあ、お言葉に甘えて」
ラゼリアは大層お気に召したようで、くるくると踊るように見て回る。陸に上がった経験はあるが海底で生活を送っている以上回数はそう多くない、というのは今日の会話の中でリサーチ済みだ。それ故、彼女にとって陸の物は目新しく映るのだろう。
これぐらいで太いパイプ――ご令嬢の機嫌が取れるなら容易いものだ。アズールが眼鏡の下でほくそ笑む。書斎の上を興味深く見る後ろ姿を眺めていると、不意にラゼリアが振り返る。その手には小さな球体が摘まれていた。
「随分と可愛らしい真珠ね?」
なんてことはないただの真珠。むしろ小さい分、価値は流通しているものより格段に劣る。ブーゲンビリア家のご令嬢ともあらば、それを見定めるぐらいの審美眼は備わっている。だからこそ、この部屋の安くはない設えとのちぐはぐさが可笑しかったのだろう。クスクスと笑う彼女に、アズールは慌てて愛想笑いを貼り付けた。
「ああ、すみません。他の生徒のものが私物に紛れてしまったんでしょう」
言いながら手を差し出すと、ラゼリアは驚いた顔でそこに真珠を転がした。
「小さいけれどよく磨かれているし、大事なものかもしれないわよ? 早く元の持ち主に返して差し上げたほうがいいわ」
「……そうですね」
頷くアズールに安心したのか、ラゼリアの興味は書斎に並ぶ本の方に移ったようだ。気になったのだろう一冊を指す彼女に「読んでみてもいいかしら?」と尋ねられ、アズールは快く了承する。
真珠の持ち主は見つけるまでもなく、とうに本人の手に握られている……なんてことは今さら言えるはずがなかった。そもそもこれを他人に見せるつもりなど無かったのだ。
手の上で無造作に転がる真珠を、恨めしげに見つめる。
(本当に、あなたは僕の邪魔ばかりしてくれますね)
いつもは引き出しの中にしまっているというのに、昨夜は引っ張り出したまま眠ってしまったのを、アズールは今になって思い出した。
♦︎
アトランティカ記念博物館に、例の写真を返還した帰り道。「あっ」という声と共に、水泡がぽこりと生まれるのをアズールは横目に見た。隣で泳いでいた彼女は迷いない動作で底の方に潜っていく。
深海まではいかないものの、海中である以上単独行動は危険が伴う。万が一何かあれば、寮長として責を問われかねない。やれやれとアズールが注意する前に、彼女は直ぐに元の高さまで浮上してきた。
「これ、本物ですかね?」
問いかけと共に目の前に突き出された手には、何かが摘まれていた。アズールが首を傾げつつ手を差し出すと、爪の先ほどの白い球体が手のひらの上に転がる。故郷では珍しくもないそれの真贋は容易に見分けがついた。
「一応、本物の真珠のようですよ」
答えを聞いた発見者の表情は、秘宝でも見つけたかのように輝いた。
実際はただの真珠一粒。それも小指の爪先ほどしかない小さいものだ。これぐらいで喜べるとは、なんて単純だろう。
思っていることと大して変わらない内容を皮肉たっぷりに言えば「昔から四つ葉のクローバーを見つけたり、川辺で綺麗な小石を見つけるのが好きだったんですよね」と幼い笑顔を晒す。アズールに言わせれば実に非生産的な行為だが、それを好んでいた彼女にしてみれば今回の発見はよほど幸運なことに感じられたらしい。
「まさか海底で真珠を拾える日が来るなんて、夢にも思わなかったです。へへ。これも、アズール先輩のおかげですね」
彼女は声を弾ませてさも嬉しそうに話す。
心の中で嘲っていたアズールはなんとなく居心地の悪さを覚え、真珠を閉じ込めた拳を突き返した。しかし、彼女は首を横に振り「先輩に差し上げます」と受け取りを拒否した。
「魔法薬を用意してくれたのと、楽しいところに連れてきて下さったお礼です」
お礼の根拠に述べられた行為は、アズールにしてみれば賭けに負けた者としてやったことだ。それを当然と思うどころか、お礼とは。つくづく不思議な人間だ。もしくは彼女なりの当て付けだろうかと推し量るが、彼女の呆けた顔を見てその考えは霧散した。
「こんな慎ましいサイズの真珠など珍しくも何ともありませんし、価値なんてたかが知れています。僕よりもあなたのほうがよほどお似合いですよ」
「ゔ。まぁ、そうかもしれませんけど……」
途端に彼女は弱々しい声で呟く。
そう、お礼としては粗末なものだ。その真珠が持つ価値など、コレクションしているコインの一番下のランクにすら満たない。エレメンタリースクールの稚魚だってもっとマシなものをプレゼントに選ぶだろうし、高校生、まして店を経営している自分が受け取る価値もない。そうしてアズールはにべもなく吐き捨てようとした。しかし口から出たのは正反対の台詞だった。
「ユウさんがどうしてもとおっしゃるなら……〝仕方がないので〟いただいておきますよ」
こほん、と咳払いをしながら手の中のものを改めて握り締める。意識をしなければ、握っていることすら忘れてしまいそうな小さな存在。そんなものを海に攫われないように大事に掴んでいるとは、なんて滑稽なのだろう。なのに、離す気には不思議となれない。
まるで自分の中に別の人格が生まれたみたいだ。そしてそれを排除しようとする自分と、受け入れようとする自分がいる。そのどちらにも付けず境界に立ち尽くしているような心地がした。
ふっ、と小さく吹き出す声が聞こえて、アズールはいつの間にか俯けていた顔を上げた。
「アズール先輩って、かわいらしい方なんですね」
「……は?」
心からの疑問がその一音に込められていた。置いてけぼりをくらっているアズールを他所に、彼女は照れたように微笑む。
「おーい! 早く戻らねぇと魔法薬の効果が切れちまうゾー!」
「はーい、今行く! アズール先輩も急ぎましょう」
「っ、待ってください。今のはどういう――」
言葉の真意を問い詰める前に、彼女は先のほうで待っている仲間のもとへと泳いで行ってしまう。
離れていく後ろ姿を見ながら、つい昨日も『まんまるでかわいいね』と言っていたことをアズールは思い出した。彼女にとっては口癖のようなものなのだろうか。いずれにせよ「かわいらしい」なんて言葉は己より格下と見做した者に使うものだ。彼女が自分のような男を形容するには相応しくない。
だからこのいやに早く脈打つ心臓も、叫びたくなるような衝動も、耐えがたい屈辱を与えられたせいに他ならない。今まで何度となく経験した、怒り、憎悪の感情だ。ならば、と報復の方法を考えようとするが、さっぱり思い浮かばない。それどころか彼女の表情を思い返すだけで、ドロドロした感情が綺麗に濾過されていくようだった。
感情はいつだって自分の支配下にあると思っていた。なのに、昨日からまるで上手くコントロール出来ていない。
「くそっ……なんなんだ」
開いた手のひらの上に真珠が転がる。表面は心なしか赤みを帯びて輝いていた。
♦︎
――手始めにテーブルの上の食器類でも片付けてしまおう。腕捲りをして気持ちを切り替え、まだ料理の残った大皿を手に取る。日持ちのしない余り物で作った賄い料理が中心だったとはいえ、やはり食べ物を廃棄するのは忍びない。そこでユウは、はたとあることに気が付いた。
これだけ帰りが遅くなれば、グリムもお腹を空かせて待っているに違いない。まして一人で豪勢な食事を食べてきたと知れれば「抜け駆けしてズルいんだゾ!」と毛を逆立てて怒る親分の姿は想像が出来過ぎた。一考した末、ユウはキッチンの保存容器を拝借して余った料理をお土産に頂いていくことにした。もちろん、先輩スタッフの許可も頂戴済みである。お土産さえあれば許してくれるだろうし、食べることが大好きなグリムなら両手を上げて喜ぶはずだ。小躍りする相棒を頭に思い浮かべつつ、後片づけの作業も残っている為手早く料理を詰めていく。あれもこれもと欲張っていたらなかなかの量になってしまった。
「まだまだ胃袋にも詰められたのに~」なんて愚痴りながら、持参した大量の保存容器にみっちりと詰め込んでいたラギーに比べれば控えめなほうだが。当の彼は、寮長直々の命令が下ったとのことで既に自寮へと帰ってしまった。今思えば慰労会が終わるギリギリのタイミングで退散したのは、面倒な後片付けを見越してのことだったのだろう。
「(……やっぱり、あのちゃっかりした性格は見習おう)」
ユウは小さく決意しながら保存容器を纏め、片付けの作業に戻った。
*
一通り清掃も終わり、今日の業務は本当の意味で終了となった。
疲れきった体を休めるべく、そして相棒にお土産を届けるべく。ユウは荷物を纏め、さっさとラウンジを後にしようとしていた。
「ユウさん、お気をつけて」
出入り口から離れて間もなく、背後から声を掛けられ足を止める。しかし寮生は皆、寮に戻っていくのをユウは確認していた。唯一残っていたのは――振り返ると、予想していた通りの人物が横並びに立っていた。
「先輩方も一緒に寮へ戻られるんですか?」
「ええ、そんなところです。ついでにユウさんのお見送りでもしようかと」
「アザラシちゃん、喜んでくれるといーね」
この兄弟がわざわざ一従業員の見送りなんて珍しい。ユウは怪訝に思いながらも「どうも」と軽く頭を下げれば、二人は不気味なぐらいの良い笑顔でひらひらと手を振る。
さっき詰めた料理に何か怪しいものを混入したのでは……と失礼極まりない心配をしていると、今度は「あー!」とわざとらしさ全開の驚いた声が上がる。
「ねぇねぇ小エビちゃん、あそこ見てみな」
「何ですか、急に……」
嬉々としてユウの背後を指差すフロイド。いーからいーから、と急かすのが余計に怪しさを煽っていた。
――どうせ、何か悪戯でも仕掛けてビクビクと怖がる様を楽しむつもりだろう。彼のいつものお遊びだ。良い反応をすると余計に遊びが長引くだろうことを踏まえ、ユウは嫌々フロイドの指の先を視線で辿る。
そこにあったのは、鏡舎に繋がる鏡から寮内部へと続く道。もっと正確に言えば、その道を歩く二人組だろう。
「アズール……先輩……」
特別視力が良くなくとも、海の中で揺れる銀糸は見間違えるはずもなかった。それから、隣に並ぶ華やかな金色も。腕を組み優雅に歩く二人はまさしく恋人のそれだ。その光景を一秒と見ていられず、ユウは咄嗟に顔を俯ける。
ドクリ、ドクリと大きく脈打つ心臓。水面を打ったように揺らぐ視界。地面を押し返すことを意識しなければ、今にも膝をついてしまいそうだった。
グッ、と堪えるように力が込められた手――その右手には、余りものの料理の詰まった袋が握られている。これも大事な相棒へのお土産とはいえ、愛しい人の手を取る二人とはあまりにも対照的だ。
「こんな時間に、男女二人で何をするんでしょうね?」
追い討ちをかけるかのように、耳元でテノールが囁く。足元まで引いた血の気が、カッと頭に集まるのをユウは感じた。怒りにも似た感情がぶつけようもなくグラグラと全身で煮えたぎる。正気を失ってしまいそうな中でも、薄らと今の自分が冷静でないことぐらいの客観視は出来ていた。理性という堤防が決壊する前に、ユウは一刻も早くこの場を立ち去りたかった。だがこの状況を誂えた張本人である兄弟が、そう易々と許しはしない。
「慌てて逃げることねーじゃん。つか、小エビちゃんはちゃんと見届けたほうがいいんじゃない?」
「は、離して下さいっ。逃げるも何も私は寮に帰りたいだけです!」
両脇に差し込まれたフロイドの手に持ち上げられ、地面を蹴ろうとしたユウの足はジタバタと宙を泳ぐ。
「帰られるのは結構ですが、そしたら二人の関係はあなたの勝手な憶測で終わってしまいますよ?」
「憶測だけでも十分――」
「ほう。ユウさんは魔法薬学や錬金術の授業も憶測だけでこなしているのですか? 実践も結果の検証も必要ないと? 大したものです、お見逸れ致しました」
感心した風を装いながら、にっこりと笑みを模る。
タイプは違えど、どちらの先輩も人をイラッとさせる言い回しの才能に長けていた。持ち上げられているせいで、普段より近い目線でユウはジェイドを睨みつける。当の本人は怯むどころか、益々笑みを深くした。
「僕としましては最後まで観察し、真実を追求することをお勧めしますよ」
もっともらしいことを言っているが、面白がっているのは誰の目から見ても明らかだ。もちろん、ユウの目にも。ただ、ジェイドの提案が一理あることも彼女は否定できなかった。深いため息を吐くと、ユウは必死に捩っていた身体の力を抜く。
「あれ〜もう諦めちゃったの?」
ざーんねん、とフロイドはつまらなそうに掲げていた腕を下ろした。地面の感触に安心感を感じたのも束の間のこと。馬の尻を叩くが如く、ほらほらと二人に背中を押されユウは寮内に続く道を進む。
「……なんだか、ストーカーになった気分です」
「アズールに近づく為にラウンジで働いてるんでしょ? 今さらじゃん」
反論どころか、ぐうの音も出せなかった。ユウが苦虫を噛み潰したような顔をしていると「気後れする必要は無い、というフロイドなりの優しさですよ」と半笑いのジェイドがフォロー(になってないフォロー)を入れる。
――グリム、ごめん。どうやらお土産は夕食でなく夜食になってしまいそうです。
オンボロ寮で待ちぼうけているだろう親分に、心の中で詫びる。縛られこそしないものの、捕虜のように前後を兄弟に囲まれたユウは、重い足取りでオクタヴィネル寮内を進むのだった。
*
「お邪魔します」
オクタヴィネル寮内にある一室。その部屋の主に迎えられ、ラゼリアはおずおずと遠慮がちに足を踏み入れた。アズールこだわりの空間を、彼女は珍しそうに目を輝かせて見回す。
「オシャレで素敵なお部屋ね。アズールくんらしいわ」
「ふふ、お褒め頂き光栄です」
「でも……やっぱりこんな時間に迷惑じゃなかったかしら。我が儘を言ってごめんなさいね」
アズールのほうを振り返り、ラゼリアは眉を下げて控えめに笑む。そもそも彼女を部屋に招いたのも、談笑する中でアズールの私室の話になったからだった。当初は校舎内を見学したいという話だったが、時間と学園の規則を省みて避けた。これも見つかれば厳重注意は免れないだろうが、いざという時の言いくるめる算段などアズールはとうにつけていた。
「迷惑だなんてとんでもない。せっかくですから遠慮せずにどうぞご覧になっていってください」
「そうかしら……じゃあ、お言葉に甘えて」
ラゼリアは大層お気に召したようで、くるくると踊るように見て回る。陸に上がった経験はあるが海底で生活を送っている以上回数はそう多くない、というのは今日の会話の中でリサーチ済みだ。それ故、彼女にとって陸の物は目新しく映るのだろう。
これぐらいで太いパイプ――ご令嬢の機嫌が取れるなら容易いものだ。アズールが眼鏡の下でほくそ笑む。書斎の上を興味深く見る後ろ姿を眺めていると、不意にラゼリアが振り返る。その手には小さな球体が摘まれていた。
「随分と可愛らしい真珠ね?」
なんてことはないただの真珠。むしろ小さい分、価値は流通しているものより格段に劣る。ブーゲンビリア家のご令嬢ともあらば、それを見定めるぐらいの審美眼は備わっている。だからこそ、この部屋の安くはない設えとのちぐはぐさが可笑しかったのだろう。クスクスと笑う彼女に、アズールは慌てて愛想笑いを貼り付けた。
「ああ、すみません。他の生徒のものが私物に紛れてしまったんでしょう」
言いながら手を差し出すと、ラゼリアは驚いた顔でそこに真珠を転がした。
「小さいけれどよく磨かれているし、大事なものかもしれないわよ? 早く元の持ち主に返して差し上げたほうがいいわ」
「……そうですね」
頷くアズールに安心したのか、ラゼリアの興味は書斎に並ぶ本の方に移ったようだ。気になったのだろう一冊を指す彼女に「読んでみてもいいかしら?」と尋ねられ、アズールは快く了承する。
真珠の持ち主は見つけるまでもなく、とうに本人の手に握られている……なんてことは今さら言えるはずがなかった。そもそもこれを他人に見せるつもりなど無かったのだ。
手の上で無造作に転がる真珠を、恨めしげに見つめる。
(本当に、あなたは僕の邪魔ばかりしてくれますね)
いつもは引き出しの中にしまっているというのに、昨夜は引っ張り出したまま眠ってしまったのを、アズールは今になって思い出した。
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アトランティカ記念博物館に、例の写真を返還した帰り道。「あっ」という声と共に、水泡がぽこりと生まれるのをアズールは横目に見た。隣で泳いでいた彼女は迷いない動作で底の方に潜っていく。
深海まではいかないものの、海中である以上単独行動は危険が伴う。万が一何かあれば、寮長として責を問われかねない。やれやれとアズールが注意する前に、彼女は直ぐに元の高さまで浮上してきた。
「これ、本物ですかね?」
問いかけと共に目の前に突き出された手には、何かが摘まれていた。アズールが首を傾げつつ手を差し出すと、爪の先ほどの白い球体が手のひらの上に転がる。故郷では珍しくもないそれの真贋は容易に見分けがついた。
「一応、本物の真珠のようですよ」
答えを聞いた発見者の表情は、秘宝でも見つけたかのように輝いた。
実際はただの真珠一粒。それも小指の爪先ほどしかない小さいものだ。これぐらいで喜べるとは、なんて単純だろう。
思っていることと大して変わらない内容を皮肉たっぷりに言えば「昔から四つ葉のクローバーを見つけたり、川辺で綺麗な小石を見つけるのが好きだったんですよね」と幼い笑顔を晒す。アズールに言わせれば実に非生産的な行為だが、それを好んでいた彼女にしてみれば今回の発見はよほど幸運なことに感じられたらしい。
「まさか海底で真珠を拾える日が来るなんて、夢にも思わなかったです。へへ。これも、アズール先輩のおかげですね」
彼女は声を弾ませてさも嬉しそうに話す。
心の中で嘲っていたアズールはなんとなく居心地の悪さを覚え、真珠を閉じ込めた拳を突き返した。しかし、彼女は首を横に振り「先輩に差し上げます」と受け取りを拒否した。
「魔法薬を用意してくれたのと、楽しいところに連れてきて下さったお礼です」
お礼の根拠に述べられた行為は、アズールにしてみれば賭けに負けた者としてやったことだ。それを当然と思うどころか、お礼とは。つくづく不思議な人間だ。もしくは彼女なりの当て付けだろうかと推し量るが、彼女の呆けた顔を見てその考えは霧散した。
「こんな慎ましいサイズの真珠など珍しくも何ともありませんし、価値なんてたかが知れています。僕よりもあなたのほうがよほどお似合いですよ」
「ゔ。まぁ、そうかもしれませんけど……」
途端に彼女は弱々しい声で呟く。
そう、お礼としては粗末なものだ。その真珠が持つ価値など、コレクションしているコインの一番下のランクにすら満たない。エレメンタリースクールの稚魚だってもっとマシなものをプレゼントに選ぶだろうし、高校生、まして店を経営している自分が受け取る価値もない。そうしてアズールはにべもなく吐き捨てようとした。しかし口から出たのは正反対の台詞だった。
「ユウさんがどうしてもとおっしゃるなら……〝仕方がないので〟いただいておきますよ」
こほん、と咳払いをしながら手の中のものを改めて握り締める。意識をしなければ、握っていることすら忘れてしまいそうな小さな存在。そんなものを海に攫われないように大事に掴んでいるとは、なんて滑稽なのだろう。なのに、離す気には不思議となれない。
まるで自分の中に別の人格が生まれたみたいだ。そしてそれを排除しようとする自分と、受け入れようとする自分がいる。そのどちらにも付けず境界に立ち尽くしているような心地がした。
ふっ、と小さく吹き出す声が聞こえて、アズールはいつの間にか俯けていた顔を上げた。
「アズール先輩って、かわいらしい方なんですね」
「……は?」
心からの疑問がその一音に込められていた。置いてけぼりをくらっているアズールを他所に、彼女は照れたように微笑む。
「おーい! 早く戻らねぇと魔法薬の効果が切れちまうゾー!」
「はーい、今行く! アズール先輩も急ぎましょう」
「っ、待ってください。今のはどういう――」
言葉の真意を問い詰める前に、彼女は先のほうで待っている仲間のもとへと泳いで行ってしまう。
離れていく後ろ姿を見ながら、つい昨日も『まんまるでかわいいね』と言っていたことをアズールは思い出した。彼女にとっては口癖のようなものなのだろうか。いずれにせよ「かわいらしい」なんて言葉は己より格下と見做した者に使うものだ。彼女が自分のような男を形容するには相応しくない。
だからこのいやに早く脈打つ心臓も、叫びたくなるような衝動も、耐えがたい屈辱を与えられたせいに他ならない。今まで何度となく経験した、怒り、憎悪の感情だ。ならば、と報復の方法を考えようとするが、さっぱり思い浮かばない。それどころか彼女の表情を思い返すだけで、ドロドロした感情が綺麗に濾過されていくようだった。
感情はいつだって自分の支配下にあると思っていた。なのに、昨日からまるで上手くコントロール出来ていない。
「くそっ……なんなんだ」
開いた手のひらの上に真珠が転がる。表面は心なしか赤みを帯びて輝いていた。
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