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8・主人公
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窓から僅かに明るい光が溢れ、粗末な山小屋の室内は意外にも明るい。
西鶴は、髪紐に手を伸ばすと紐を解く
首の後ろに束ねられていた髪が扇状に広がり僅に波打った。
『今頃、学園では身体測定が終わってる頃かな。』
西鶴の手の中には深紅の髪紐。
胸に抱き込むように紐を握り締めた。
「先輩!!。あの、もしかして、その髪紐・・・。」
そう呼び止められたのは昨日ここへ来る前だ。
足を止め、声の主に視線を向ける。
伊助に髪を結い直されたのは偶然の出来事だった。
その時、彼はこの髪紐の色に気づいたのだろう。
「深紅ってことは、紅花染めですか?。」
彼は染め物にとても興味があったようで、他のは組の子達が立ち去る中、伊助は一人その場に残っていた。
私を見上げている彼の瞳は好奇心旺盛にキラキラと輝いている。
その瞳に“ある記憶”が呼び起こされた。
『これは貰い物だから・・・。』
伊助の問いかけに答える私は、いつものように笑えているだろうか。
後輩のその言葉に、向けられた瞳に動揺したなど知られてはいけない。
+++
“ある記憶”が閉じた瞳に鮮明に呼び起こされる。
あの夜は、月も出てない久しぶりに静かで穏やかな夜だった。
薄暗い室内には、幼かった私ともう一人だけしかその場に残っていない。
あの時、私はその人から告げられた言葉を信じたくなくて、一言だけ呟いた。
『嫌です。』
私のその言葉に、その人は小さく眉を下げる。
「そなたは、ほんにしょうがない子じゃ。でも、駄目。此処に残ってはならぬ。」
向かい合い私の頬を優しく包むように触れる手は暖かいのに、言いきるその人の瞳は、まるで夜の海の如く冷たい。
それは上に立つ者のみが持つ独特の瞳。覚悟の眼。
その瞳に射ぬかれ、私は再び『嫌です。』とは言えなかった。
その人に告げられた言葉を逆らう事は許されない。
だから、奥歯を噛み締め口を真一文字に引き結び、小さく頷く。
もっと強ければ。
私がもし・・・でなければ
幼く小さな手は強く強く拳を握りしめた。
西鶴は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
強く握り込んだ掌の中に視線を向ける。
「その髪紐…。深紅ってことは、紅花染めですか?。」
髪紐を結び直した一年生の彼は、只単に染め物に興味があったから私にそう問いかけたのだろう。
でも、たったそれだけの質問にもかかわらず
それは、私の心の奥底に沈めいたあの夜の記憶を呼び覚ますには十分だった。
西鶴の表情が僅に歪む。
掌の中にある髪紐を見つめ、西鶴はポッりと声を落とした。
『――――。』
瞼の裏に焼き付いているのは、艶やかで豊な黒髪に結ばれた紅花染めの深紅の髪紐。
後輩の彼の瞳は、幼い私がその人を見つめていた瞳にそっくりだった。
その人を思い出す度に、衝動が胸を衝く。
例えどんなに年月が過ぎてもこの感情は決して忘れる事など出来ない。
だからこそ、心の奥底に沈めていたのに。
記憶と共にあの夜の言葉が甦る。
『嫌です。』
あの夜、私は泣かないようにそう呟く事しか出来ず。
そして、その言葉すら実行する力さえ無かった。
ギリっと音がしそうな程、握りしめていた手を開き。
深紅の髪紐で頭上高く髪を結ぶ。
結ばれた髪はあまり手入れをしてない為か、首の後ろで結ぶ時より纏まりが悪いような気がする。
記憶の中にある光景に比べれば、今の自分は足下にも及ばないだろうと西鶴は苦く笑い。
再び、瞼を閉じてゆっくり呼吸を整えた。
黒紺の頭巾を手に西鶴は立ち上がる。
身を包むのは着なれた鶯色の制服ではなく、黒紺の忍装束。
戸口から出れば、頭上で高く結んだ髪が馬の尾のように風に揺れた。
――― 欲しいものがある。その為に・・・。――
『私は強くなる!!』
西鶴の声が普段より少し高く、辺りに響いた。
忍術学園から遠く離れたとある山中
自分を呼び出した人物を見つけた青影西鶴は、足音を消してその人物へと近づいた。
一歩、二歩と進むにつれ、ピリリと殺気が西鶴の肌に突き刺さる。
それでも、臆する事なく気配を消すとその人物の背後に回り込んだ。
山中に佇む女性。彼女は黒紺の装束に身を包み。
その気配に全く隙は見当たらない。
―― やはり、一筋縄ではいかないか。――
西鶴は僅に体勢を変えた。
学園長に突然呼び出されたのは、まだ暖かくなり始めた春先の事。
訪れた学園長の庵で告げられたのは西鶴にとって予想外の出来事であった。
「貴女しばらく、私の生徒になってね。」
そう言って、ニッコリと微笑むのは三年前に学園を卒業したくノ一の神石。
その笑顔に西鶴はビシッと音がしそうなほど固まった。
忍たま側で神石と言えば、トラウマ生産者の異名を持つ恐るべきくノたまであった。
彼女が卒業して三年過ぎた今でも、彼女せいで恐怖のトラウマを持つ忍たまは数多くいる。
西鶴自身はその被害者ではないけれど、散々な目に遭った忍たま達を間近で見ていたので、彼女の恐ろしさは良く知っていた。
その恐ろしい先輩が目の前に居て、更にとんでもない事を言っている。
『ちょっと待って下さい。』
混乱した西鶴が一言そう言えば
「あら、そう。じゃぁ、学園長先生お茶のおかわり入れますね。」
「そうじゃのぅ。貰おうか。」
落ち着いた様子で、お茶を入れ直す神石と学園長ものんびりとお茶のおかわりを受け取って飲んでいる。
そんな二人に西鶴は呆れたのか諦めたのか、少しだけ冷静に戻れた。
『確かに、ちょっと待てとは言いましたが、二人して和まないでください!。それに私が生徒になるとはどうゆう事ですか。』
その言葉に神石がお茶を飲むのを止めてこちらを向いた。
「この春から私は臨時的にくノたまの授業を受け持つ事になったの。山本先生が用事がある時とかにね。でも、教師としての私はまだ経験が不足してるわ。だから、それを補おうと思って。」
一度そこで神石は言葉を区切ると真剣な表情をして西鶴を見つめた。
「貴女にはくノ一の授業を受けてもらいたいの。」
西鶴は目を真ん丸にした。
『それは……。』
「突然ではあるが、お主にとっては悪い話しじゃなかろうて。青影西鶴。お主は自らの事を良く知らねばならん。」
学園長がキッパリと言い放つ。
けれど、その声音に彼の優しさが含まれている事を西鶴は知っている。
六年近く忍たまとして、この学園に居るのだ。
おそらく他の者よりも学園長の懐の深さを西鶴は身を持って知っていた。
しかし、六年間忍たまとして過ごしたのには其なりに理由がある。今更、くノ一として学ぶ事に西鶴は不安になった。
『ですが……。』
思わず反論した言葉は神石によって遮られる。
「あまりくノ一をなめないでくれるかしら。貴女が強くなりたいのは知っているわ。でもね。この世界はそんなに甘くないの。」
神石の冷たい瞳が西鶴を睨む。
「貴女が女でありながら忍たまを選んだのは私達を甘く見てる証拠だわ。くノ一を女だからと侮れば痛い目みるわよ。だから、くノ一の本領しっかりと見せてあげる。」
「神石、そう怒るでない。西鶴とてそれを分かっておるよ。しかし、いい機会なのも確かじゃ。くノ一の事をよく知るのも西鶴にとって糧になろう。」
学園長が朗らかに微笑む。
「そうゆう訳だから、これからよろしくね。」
神石から伸ばされた手を西鶴は掴んだ。
『こちらこそ……。』
握った神石の手は、自らと同じ戦う事を知る手で
『よろしくお願いします。』
西鶴はその手を握り返した。
+++
「来るのが遅いーー!」
先ほど体勢を変えたのが裏目に出てしまった。
先に彼女が西鶴を発見した。
西鶴は、逆に彼女に間合いを詰められる。
避ける暇も与えられない。
西鶴はなんとか攻撃をかわしたが、先手を取られた分、不利だ。
彼女から距離を取ろうとするもそれは難しい。
西鶴にジワリと嫌な汗が滲む。
『噂通りの腕前ですね。少しは手加減って言葉を覚えてたらどうですか。神石先生。』
あえて“先生”の部分を強調して言えば
「甘いわね。」
と元先輩である彼女は鼻で笑った。
「これが任務中だったらどうするの、たった一撃が致命傷になるかもしれない。手加減をしたら、貴女の為にならないもの。」
そう言った彼女は、真面目な教師の顔していた。
強い相手との実践。
それは西鶴にとって貴重な授業である。
こちらも本気を出さねば痛い目に合うのは、その顔を見れば分かる。
懐から苦無いを取りだし構えた。
「フフっ。そうこなくっちゃ。面白くないわ。」
神石は冷たく微笑んだ。
「『いざ、勝負。』」
苦無いを手に西鶴は地を駆け抜ける。
+++
春は様々な植物が色鮮やかに野山を染める。
そうした中で西鶴の目の前には先ほど摘んできた植物達が山小屋の床に並べられている。
ヨモギにヤマブキ、トウカにヤブツバキ。
並べられた植物に西鶴は厳しい目を向けた。
『こっちが本命だったのですね。』
ジロリと西鶴は不機嫌そうに神石を睨む。
「あら、来る前に言ってなかったかしら。今度、くノたまの子達に薬学の野外授業するって。」
『いいえ、聞いていません。今日はその為に野山の下見に来たってわけですか。』
西鶴はすねたように口をとがらせた。先ほどの勝負は神石の圧勝だったせいだ。
真新しく出来た傷に摘んできたヤブツバキの葉を張り付ける。
ヤブツバキは切り傷などの出血に揉んでつければ良く効くのだ。
もちろんヤブツバキだけではなく
ヤマブキは花を乾燥して粉末にしたものが止血剤になるし。
ヨモギにいたっては、虫刺されに切り傷、干した葉は食あたりや煎じた湯は……痔に効くらしい。
「忍たまはやっぱりその程度しか知らないのね。」
神石がヨモギを手に取る
「ヨモギとトウカを合わせて飲むとどんな効能があるか知ってる?。」
そう問われて西鶴がトウカに目を向ける。
ヤブツバキにヤマブキ、ヨモギなどの中に淡い桃の花びらが含まれているのに違和感があったのだ。
トウカとは桃の花びら。その効能はむくみに良く効くはずだ。
しかしヨモギとの効能には覚えがない。
ふっと同級生と親友の顔が思い浮かぶ。
―― これが伊作や瀬戸田だったらあっさり答えるのだろうな。――
あの二人は薬学に強い。特に伊作は六年も保健委員をやっているので薬学に関しては学園一を誇る。
そんな事を思いつつ西鶴は首を横に振った。
「やはり、知らないのね。ヨモギとトウカを合わせて飲むと貧血に効くの。」
神石は掴んだヨモギの葉をクルクルと回転させた。
「ヨモギは温めながら治す薬で下腹部の冷えや痛みに効くから冷に伴う生理痛や生理不順に良いの。」
その言葉に西鶴の表情が少しこわばったのを神石は見逃さなかった。
「ちゃんと知っておきなさい。必ず貴女にも起こりえる事なのだから。」
さらに神石は続ける。
「他にも、桃の種子である桃仁(トウニン)は生理痛に効くし、ガマの花粉が外傷に効くのは有名だけど、煎じて飲めば生理前の痛みに効くのはあまり知られていないわね。」
忍たまとくノたまでは薬学でもこういった知識に違いがある。
忍たまとして生活する西鶴の知識が不足している事は充分予測できていた。
だからこそ、神石が先生として選ばれたのだ。
「でも、とりあえず貴女の怪我の手当てを全部済ませてからじゃないと、授業にならないわね。」
神石は包帯を手にと取り西鶴の切り傷や打ち身に丁寧に巻いてゆく。
『自分の手当ては自分できます。』
むくれた子供のように西鶴が頬を膨らませている。
「まぁ、そうは言っても片手だと包帯巻きにくいし。任せなさい。」
神石は、無理やり包帯巻き始めた。
傷だらけの西鶴に対し、神石は目立つほどの外傷は見当たらない。
『どうして、攻撃が当たらないんですか。』
西鶴が悔しげに呟いた言葉に神石はクスッと笑った。
ご機嫌ななめの原因はそれだったのか。
神石は自信満々に笑みを作る。
「仮にも教師を名乗るモノ。これくらい実力がなくてはプロでやっていけないわ。それに私は見たいものがあるの。だから強いわよ。」
『見たいもの………。』
西鶴の瞳や言葉にに強い意思が宿る。
『私は欲しいものがあるんです。』
神石は瞬き一つして更に笑みを深くした。
「知ってるわ。だからこそ図書委員会の時間を対価にしても、こっちを選んだのでしょ。」
神石は西鶴の覚悟を知っている。
学園長の庵に呼び出された後、西鶴は自らの意思で図書委員会の顧問へ委員会を辞めること告げに行ったのだ。
こうして神石からくノ一の授業を受けるのならば委員会には参加する暇はない。
そうなれば図書委員会に迷惑がかかるからと委員会を辞めた。
神石はポンと西鶴の頭に手を置く。
「でも、焦りは禁物よ。まだ時間は残ってる。」
『はい。』
頷く西鶴を満足げに撫でているとあるモノを見つけた。
「あれ、左目の上の怪我なんて、あったかしら。この前までなかったわよね?。」
『あっ。これは……。』
ボフッと音がしそうなほど西鶴が赤くなる。
西鶴がそんな反応をするのは珍しい。
神石は物凄く理由が気になった。
「西鶴。あら、その話し聞かせてもらうわよ。今日はまだたっぷり時間があるもの。」
『いや、べつに話すほどでも……。』
慌てる西鶴に神石はにんまりと口元を上げた。
*
西鶴は、髪紐に手を伸ばすと紐を解く
首の後ろに束ねられていた髪が扇状に広がり僅に波打った。
『今頃、学園では身体測定が終わってる頃かな。』
西鶴の手の中には深紅の髪紐。
胸に抱き込むように紐を握り締めた。
「先輩!!。あの、もしかして、その髪紐・・・。」
そう呼び止められたのは昨日ここへ来る前だ。
足を止め、声の主に視線を向ける。
伊助に髪を結い直されたのは偶然の出来事だった。
その時、彼はこの髪紐の色に気づいたのだろう。
「深紅ってことは、紅花染めですか?。」
彼は染め物にとても興味があったようで、他のは組の子達が立ち去る中、伊助は一人その場に残っていた。
私を見上げている彼の瞳は好奇心旺盛にキラキラと輝いている。
その瞳に“ある記憶”が呼び起こされた。
『これは貰い物だから・・・。』
伊助の問いかけに答える私は、いつものように笑えているだろうか。
後輩のその言葉に、向けられた瞳に動揺したなど知られてはいけない。
+++
“ある記憶”が閉じた瞳に鮮明に呼び起こされる。
あの夜は、月も出てない久しぶりに静かで穏やかな夜だった。
薄暗い室内には、幼かった私ともう一人だけしかその場に残っていない。
あの時、私はその人から告げられた言葉を信じたくなくて、一言だけ呟いた。
『嫌です。』
私のその言葉に、その人は小さく眉を下げる。
「そなたは、ほんにしょうがない子じゃ。でも、駄目。此処に残ってはならぬ。」
向かい合い私の頬を優しく包むように触れる手は暖かいのに、言いきるその人の瞳は、まるで夜の海の如く冷たい。
それは上に立つ者のみが持つ独特の瞳。覚悟の眼。
その瞳に射ぬかれ、私は再び『嫌です。』とは言えなかった。
その人に告げられた言葉を逆らう事は許されない。
だから、奥歯を噛み締め口を真一文字に引き結び、小さく頷く。
もっと強ければ。
私がもし・・・でなければ
幼く小さな手は強く強く拳を握りしめた。
西鶴は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
強く握り込んだ掌の中に視線を向ける。
「その髪紐…。深紅ってことは、紅花染めですか?。」
髪紐を結び直した一年生の彼は、只単に染め物に興味があったから私にそう問いかけたのだろう。
でも、たったそれだけの質問にもかかわらず
それは、私の心の奥底に沈めいたあの夜の記憶を呼び覚ますには十分だった。
西鶴の表情が僅に歪む。
掌の中にある髪紐を見つめ、西鶴はポッりと声を落とした。
『――――。』
瞼の裏に焼き付いているのは、艶やかで豊な黒髪に結ばれた紅花染めの深紅の髪紐。
後輩の彼の瞳は、幼い私がその人を見つめていた瞳にそっくりだった。
その人を思い出す度に、衝動が胸を衝く。
例えどんなに年月が過ぎてもこの感情は決して忘れる事など出来ない。
だからこそ、心の奥底に沈めていたのに。
記憶と共にあの夜の言葉が甦る。
『嫌です。』
あの夜、私は泣かないようにそう呟く事しか出来ず。
そして、その言葉すら実行する力さえ無かった。
ギリっと音がしそうな程、握りしめていた手を開き。
深紅の髪紐で頭上高く髪を結ぶ。
結ばれた髪はあまり手入れをしてない為か、首の後ろで結ぶ時より纏まりが悪いような気がする。
記憶の中にある光景に比べれば、今の自分は足下にも及ばないだろうと西鶴は苦く笑い。
再び、瞼を閉じてゆっくり呼吸を整えた。
黒紺の頭巾を手に西鶴は立ち上がる。
身を包むのは着なれた鶯色の制服ではなく、黒紺の忍装束。
戸口から出れば、頭上で高く結んだ髪が馬の尾のように風に揺れた。
――― 欲しいものがある。その為に・・・。――
『私は強くなる!!』
西鶴の声が普段より少し高く、辺りに響いた。
忍術学園から遠く離れたとある山中
自分を呼び出した人物を見つけた青影西鶴は、足音を消してその人物へと近づいた。
一歩、二歩と進むにつれ、ピリリと殺気が西鶴の肌に突き刺さる。
それでも、臆する事なく気配を消すとその人物の背後に回り込んだ。
山中に佇む女性。彼女は黒紺の装束に身を包み。
その気配に全く隙は見当たらない。
―― やはり、一筋縄ではいかないか。――
西鶴は僅に体勢を変えた。
学園長に突然呼び出されたのは、まだ暖かくなり始めた春先の事。
訪れた学園長の庵で告げられたのは西鶴にとって予想外の出来事であった。
「貴女しばらく、私の生徒になってね。」
そう言って、ニッコリと微笑むのは三年前に学園を卒業したくノ一の神石。
その笑顔に西鶴はビシッと音がしそうなほど固まった。
忍たま側で神石と言えば、トラウマ生産者の異名を持つ恐るべきくノたまであった。
彼女が卒業して三年過ぎた今でも、彼女せいで恐怖のトラウマを持つ忍たまは数多くいる。
西鶴自身はその被害者ではないけれど、散々な目に遭った忍たま達を間近で見ていたので、彼女の恐ろしさは良く知っていた。
その恐ろしい先輩が目の前に居て、更にとんでもない事を言っている。
『ちょっと待って下さい。』
混乱した西鶴が一言そう言えば
「あら、そう。じゃぁ、学園長先生お茶のおかわり入れますね。」
「そうじゃのぅ。貰おうか。」
落ち着いた様子で、お茶を入れ直す神石と学園長ものんびりとお茶のおかわりを受け取って飲んでいる。
そんな二人に西鶴は呆れたのか諦めたのか、少しだけ冷静に戻れた。
『確かに、ちょっと待てとは言いましたが、二人して和まないでください!。それに私が生徒になるとはどうゆう事ですか。』
その言葉に神石がお茶を飲むのを止めてこちらを向いた。
「この春から私は臨時的にくノたまの授業を受け持つ事になったの。山本先生が用事がある時とかにね。でも、教師としての私はまだ経験が不足してるわ。だから、それを補おうと思って。」
一度そこで神石は言葉を区切ると真剣な表情をして西鶴を見つめた。
「貴女にはくノ一の授業を受けてもらいたいの。」
西鶴は目を真ん丸にした。
『それは……。』
「突然ではあるが、お主にとっては悪い話しじゃなかろうて。青影西鶴。お主は自らの事を良く知らねばならん。」
学園長がキッパリと言い放つ。
けれど、その声音に彼の優しさが含まれている事を西鶴は知っている。
六年近く忍たまとして、この学園に居るのだ。
おそらく他の者よりも学園長の懐の深さを西鶴は身を持って知っていた。
しかし、六年間忍たまとして過ごしたのには其なりに理由がある。今更、くノ一として学ぶ事に西鶴は不安になった。
『ですが……。』
思わず反論した言葉は神石によって遮られる。
「あまりくノ一をなめないでくれるかしら。貴女が強くなりたいのは知っているわ。でもね。この世界はそんなに甘くないの。」
神石の冷たい瞳が西鶴を睨む。
「貴女が女でありながら忍たまを選んだのは私達を甘く見てる証拠だわ。くノ一を女だからと侮れば痛い目みるわよ。だから、くノ一の本領しっかりと見せてあげる。」
「神石、そう怒るでない。西鶴とてそれを分かっておるよ。しかし、いい機会なのも確かじゃ。くノ一の事をよく知るのも西鶴にとって糧になろう。」
学園長が朗らかに微笑む。
「そうゆう訳だから、これからよろしくね。」
神石から伸ばされた手を西鶴は掴んだ。
『こちらこそ……。』
握った神石の手は、自らと同じ戦う事を知る手で
『よろしくお願いします。』
西鶴はその手を握り返した。
+++
「来るのが遅いーー!」
先ほど体勢を変えたのが裏目に出てしまった。
先に彼女が西鶴を発見した。
西鶴は、逆に彼女に間合いを詰められる。
避ける暇も与えられない。
西鶴はなんとか攻撃をかわしたが、先手を取られた分、不利だ。
彼女から距離を取ろうとするもそれは難しい。
西鶴にジワリと嫌な汗が滲む。
『噂通りの腕前ですね。少しは手加減って言葉を覚えてたらどうですか。神石先生。』
あえて“先生”の部分を強調して言えば
「甘いわね。」
と元先輩である彼女は鼻で笑った。
「これが任務中だったらどうするの、たった一撃が致命傷になるかもしれない。手加減をしたら、貴女の為にならないもの。」
そう言った彼女は、真面目な教師の顔していた。
強い相手との実践。
それは西鶴にとって貴重な授業である。
こちらも本気を出さねば痛い目に合うのは、その顔を見れば分かる。
懐から苦無いを取りだし構えた。
「フフっ。そうこなくっちゃ。面白くないわ。」
神石は冷たく微笑んだ。
「『いざ、勝負。』」
苦無いを手に西鶴は地を駆け抜ける。
+++
春は様々な植物が色鮮やかに野山を染める。
そうした中で西鶴の目の前には先ほど摘んできた植物達が山小屋の床に並べられている。
ヨモギにヤマブキ、トウカにヤブツバキ。
並べられた植物に西鶴は厳しい目を向けた。
『こっちが本命だったのですね。』
ジロリと西鶴は不機嫌そうに神石を睨む。
「あら、来る前に言ってなかったかしら。今度、くノたまの子達に薬学の野外授業するって。」
『いいえ、聞いていません。今日はその為に野山の下見に来たってわけですか。』
西鶴はすねたように口をとがらせた。先ほどの勝負は神石の圧勝だったせいだ。
真新しく出来た傷に摘んできたヤブツバキの葉を張り付ける。
ヤブツバキは切り傷などの出血に揉んでつければ良く効くのだ。
もちろんヤブツバキだけではなく
ヤマブキは花を乾燥して粉末にしたものが止血剤になるし。
ヨモギにいたっては、虫刺されに切り傷、干した葉は食あたりや煎じた湯は……痔に効くらしい。
「忍たまはやっぱりその程度しか知らないのね。」
神石がヨモギを手に取る
「ヨモギとトウカを合わせて飲むとどんな効能があるか知ってる?。」
そう問われて西鶴がトウカに目を向ける。
ヤブツバキにヤマブキ、ヨモギなどの中に淡い桃の花びらが含まれているのに違和感があったのだ。
トウカとは桃の花びら。その効能はむくみに良く効くはずだ。
しかしヨモギとの効能には覚えがない。
ふっと同級生と親友の顔が思い浮かぶ。
―― これが伊作や瀬戸田だったらあっさり答えるのだろうな。――
あの二人は薬学に強い。特に伊作は六年も保健委員をやっているので薬学に関しては学園一を誇る。
そんな事を思いつつ西鶴は首を横に振った。
「やはり、知らないのね。ヨモギとトウカを合わせて飲むと貧血に効くの。」
神石は掴んだヨモギの葉をクルクルと回転させた。
「ヨモギは温めながら治す薬で下腹部の冷えや痛みに効くから冷に伴う生理痛や生理不順に良いの。」
その言葉に西鶴の表情が少しこわばったのを神石は見逃さなかった。
「ちゃんと知っておきなさい。必ず貴女にも起こりえる事なのだから。」
さらに神石は続ける。
「他にも、桃の種子である桃仁(トウニン)は生理痛に効くし、ガマの花粉が外傷に効くのは有名だけど、煎じて飲めば生理前の痛みに効くのはあまり知られていないわね。」
忍たまとくノたまでは薬学でもこういった知識に違いがある。
忍たまとして生活する西鶴の知識が不足している事は充分予測できていた。
だからこそ、神石が先生として選ばれたのだ。
「でも、とりあえず貴女の怪我の手当てを全部済ませてからじゃないと、授業にならないわね。」
神石は包帯を手にと取り西鶴の切り傷や打ち身に丁寧に巻いてゆく。
『自分の手当ては自分できます。』
むくれた子供のように西鶴が頬を膨らませている。
「まぁ、そうは言っても片手だと包帯巻きにくいし。任せなさい。」
神石は、無理やり包帯巻き始めた。
傷だらけの西鶴に対し、神石は目立つほどの外傷は見当たらない。
『どうして、攻撃が当たらないんですか。』
西鶴が悔しげに呟いた言葉に神石はクスッと笑った。
ご機嫌ななめの原因はそれだったのか。
神石は自信満々に笑みを作る。
「仮にも教師を名乗るモノ。これくらい実力がなくてはプロでやっていけないわ。それに私は見たいものがあるの。だから強いわよ。」
『見たいもの………。』
西鶴の瞳や言葉にに強い意思が宿る。
『私は欲しいものがあるんです。』
神石は瞬き一つして更に笑みを深くした。
「知ってるわ。だからこそ図書委員会の時間を対価にしても、こっちを選んだのでしょ。」
神石は西鶴の覚悟を知っている。
学園長の庵に呼び出された後、西鶴は自らの意思で図書委員会の顧問へ委員会を辞めること告げに行ったのだ。
こうして神石からくノ一の授業を受けるのならば委員会には参加する暇はない。
そうなれば図書委員会に迷惑がかかるからと委員会を辞めた。
神石はポンと西鶴の頭に手を置く。
「でも、焦りは禁物よ。まだ時間は残ってる。」
『はい。』
頷く西鶴を満足げに撫でているとあるモノを見つけた。
「あれ、左目の上の怪我なんて、あったかしら。この前までなかったわよね?。」
『あっ。これは……。』
ボフッと音がしそうなほど西鶴が赤くなる。
西鶴がそんな反応をするのは珍しい。
神石は物凄く理由が気になった。
「西鶴。あら、その話し聞かせてもらうわよ。今日はまだたっぷり時間があるもの。」
『いや、べつに話すほどでも……。』
慌てる西鶴に神石はにんまりと口元を上げた。
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