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膝を抱え、むせび泣く少年がいた。肩を震わせ嗚咽をこらえる姿が胸に痛い。 牧野はそんな彼の背後に立っていた。 これは夢だ、と牧野は分かっていた。夢だと分かっていて、しかし彼には目の前で涙を流す少年を放っておくようなことはできなかった。 「どうしたの」 遠慮がちにかけられた牧野の声に少年はゆっくりと顔を上げた。どこかで見た顔だ、と牧野は思った。光の射さない暗い闇のような彼の瞳は、流れる涙でしっとりと濡れている。 「苦しい…」 「え…?」 「苦しいんだ」 牧野の問いかけには答えず、少年は己の肩をかき抱いた。 「苦しい、辛い、悲しい、僕は悪くないのに」 「ちょ、ちょっと君…」 「嫌だ怖いよ助けて僕はやってない、僕は悪くない悪いのは僕じゃない…」 「あなたのせいだ」 はっとして後ろを振り向く。いつの間にか背後には人が立っていた。無表情で牧野を見つめるその人物は、彼と全く同じ顔をした双子の片割れだった。凍てつくような眼差しが牧野を縫い止め、その冷たさに彼は途端にどうしたらいいのか分からなくなる。牧野は昔から、この男が怖かった。 「宮田さん…」 思わずその名前が牧野の口からこぼれると、相手の顔は大きく歪んだ。 「全部あなたのせいだ」 宮田の左手の人差し指は真っ直ぐに牧野に向いている。 「聞こえないふりをするあなたが悪い。手をさしのべないあなたが悪い。自分の役職に甘んじ、己(おの)が保身に奔走し、あなたの為犠牲となった者たちの苦しみを省みない、あなたが悪い。」 「な、にを…」 「あなたは俺を、一度たりとも見てはくれなかった。」 一歩前へと踏み出した宮田につられ、ふらふらとへ後退する牧野。 今になってようやく気がつく。(…ああそうだ、さっきのあの少年。どことなく幼い頃の宮田さんに似てはいなかっただろうか…。) 彼の思いつきは飽くまでも憶測の範囲内に留まる。彼に少年の正体を確かめるだけの術がないのは、宮田の言うとおり、牧野は生まれてこの方、この双子の片割れと正面から向き合い理解しようとしたことが一度もなかったからだ。 (理解しようとする努力でさえ放棄してしまった私には、きっともうどうすることも出来ないのだろうな…) ついに二人は向かい合う形となった。 「兄さん」 どこから取り出したのか。おもむろに額に突きつけられた銃口に、牧野は始め何か言葉を発するつもりで口を開いたが、しばらくすると、開きかけていた口を閉じ観念したようにそっと瞼を下ろした。瞼の向こうからジリジリと自身を焦がす強い憎悪の視線を感じる。己の生死を分かつこの重要な局面を、彼はなぜか、自分でも驚くほど不思議と穏やかな気持ちで迎えていた。…これでようやく解放されるのだ。死という未知の領域に足を踏み入れることへの漠然とした不安は勿論あったが、しかしそれ以上に、牧野はこの上なく満ち足りた気分を味わっていた。今まで自分が知らなかった、未だかつて経験したことのない感情だ。『解放される』ということは、彼の中では、彼が思っている以上に何物にも代え難いとても大きな意味を持っている。自分の存在価値を認められ、誰にも縛られない一人の人間として新たにこの世に生を受けること。求道師の牧野慶ではなく、この世にただ一人の人間・ただ一つの存在となること。それは、牧野が望む自由の実現の形の一つと言えた。 ――そう、これが正解だ。 引き金に添えられた宮田の指先がわずかに動いたのを見届け、牧野は最期に小さく微笑んでみせた。 牧野は真っ白な空間を一人で歩いていた。なぜ自分はこんな所にいるのか。ここは一体どこなのか。彼は何一つ知らなかった。知らなくても困りはしなかったし、彼にとってそんなことはどうでもよいことだった。 終わりの見えないこの世界を抜け出すただ一つの方法。それは、この世界のどこかで静かに自分を待ち受ける『彼』のみが知っているということを牧野は理解していた。だからこそ彼は歩いた。その衝動は本能に近く、宿命ともとれた。 遠く前方、膝を抱えむせび泣く少年の丸まった小さな背中が見えた。絵の具を塗りたくったように白くどこまでも果てしなく広がる空間で、彼は始めただの微小な点に過ぎなかったが、近づくにつれその姿形ははっきりとしてくる。牧野は不思議に思いながらも彼に近づいていった。以前にもどこかでこの光景を眺めたことがあるような、どこか得体の知れない既視感に胸をざわつかせながら。 蜘蛛と糸 2011.9.30 ------------- continue to next loop... |
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