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名前変換
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「なまえさん、少しいいですか。」
「………はぁ。」
見上げた先には、あまり見ない顔。確か、芭蕉先生の一番弟子河合さん、その人であった気がする。
こちらを見下ろす彼は、どうも私に用があるみだいだ。もしかすると私は、何かまたしでかしてしまったんじゃあなかろうか、と思った。そうでなければ、この人に話し掛けられる理由など全く思いつかない。まあ、いっこうに身に覚えがない、と言えば嘘になるのだが。例えば、昨日穴開けた障子だとか…。
私が訝しげに頭を傾けると、向こうは無表情のままただじっとこちらを観察し始めた。頭の天辺から、きちんと折り畳んだ足の先まで。上から下へ、じろじろ。特に言葉も発しない彼に、居心地が悪くなって思わずたじろいだ。目が。その視線が苦手だ。
何の用だろうか。
彼と話したことは数えるほどしかない。あったといってもほんの挨拶程度だ。『あ、どうも』『こんにちは。』こんなかんじ。芭蕉先生が主宰する俳句の集まりで幾度となく見かけていたものの、必要性も感じなかったせいかお互い自己紹介もしていない。彼の、この恐ろしいほど美しい切れ長の目だけはしっかりと覚えているのだけれど。
特に親しい間柄でもないし、寧ろ彼は、――これは私の勝手な独断と偏見だが――こんないてもいなくても変わらない、いっぱしの新人門下生に話し掛けるような人ではないと思う。…多分。
「なまえさん、」
不意に聞こえた自分の名前に、水面下にあった私の意識は再び急浮上した。畳へと落としていた視線をすぐさま上げ、彼を見つめる。
「…、なんでしょう。」
「僕の名前を、知っていますか。」
「…………へ?」
「僕が誰だか知っていますか、と問うたのです。」
素っ頓狂な声を上げた後で、私はまたもや首をひねった。なんなんだろうかこの人は。私に名前なんか聞いてどうするんだ。
しかしそんな思いも、彼の顔を見た途端、すぐに消え失せる。何を考えているかなんてとんと分からないが、苛立っているのだけは確かだ。兄弟子の名前を知らないことは、どうやら大罪らしい。嫌な汗が背中を伝ったのが分かった。
分からない。正確に言えば、私は彼の名前を覚えていないのだ。聞いたことはあるはずなのだから。たしか、名字は『河合』だったはずだ。じゃあ名前は…。
嗚呼、分からぬ。友人との廊下での立ち話を必死に思い返す。名前だって聞いたこと位あるのだ。思い出せ、思い出すんだ私。
目をきょろきょろと泳がせて、ああ、だとかううん、だとか唸る。気まずさから視線を合わせられず、ますますうなだれた。見なくても、分かる。彼はこちらを睨んでいるはずだ、そうに違いない。
ついに、私は一つ溜め息ついて観念した。
「……ごめんなさい、分かりません。」
畳のめを見つめながら首を左右に振る。
「……分かりませんか。」
「は、はい。」
「……本当に、分からないのですか。」
「申し訳ないのですが…。」
何故だか、やたらと河合さんは食い下がった。不思議に思い、気後れはしたもののちらりとその表情をうかがう。彼はそれこそいつもと変わらないような顔をしていた。いや、しようとしていた、のほうが正しい。努めて涼しげに装おうとしているものの、眉間に寄せられた皺までは隠しきれなかったようだ。刻々と深まる皺に比例し、その両眼もまた、じりじりと細められていった。少しの焦りを覚え、河合、誰さんでしたっけ?と問い掛けると、目の前の彼は一瞬にして顔を歪めた。ただ黙り込む。握り締めた両の拳は、膝のうえで僅かに震える。そのまま、きゅっと、その形の良い唇噛み締め、絞りだすように呟いた。
「…曽良……、河合曽良、です…。」
「ああっ、」
納得したように、ぽんと手を打ち、ああそうだそうだ曽良さんだ、と呟くと、両手で強く肩を捕まれた。驚き目を見開くと、目の前の視線とかち合った。ゆらゆらと恋しげに揺らいでいたのだ。瞳が。そのまま、両の腕で思い切り抱きしめられる。きつくきつく寄せられた体で、彼がとても震えているのがよく分かった。
「…ずるいんですよあなたは、」
顔を上げると、震える右手で頬を包みこまれた。
「……こんな馬鹿なことって、ありますか。」
「え、え、」
「………お願いです……、なかったことになんて、しないでください。」
「何を、」
「なまえさん…僕は、僕は……」
幸せの尺度ってなんだろうね、と誰かが耳元で囁いた。
「どうか、どうか僕を忘れないで、」
「あなたの中から僕を消さないで、」
言葉に詰まった河合さんは、そうしてまたきつく私を抱き締めるのだ。
2008.11.25
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記憶障害設定
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