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ウィーン
「ありがとうございましたー」
店員の挨拶を背にスーパーの自動ドアを抜けると、途端に生暖かい湿った空気が肌にまとわりついた。午後になってようやく顔を出した太陽の光に照らされて、電線だとか、近くに停めてある誰かの自転車だとか、自販機なんかに付いた水滴が、目に痛いくらいきらきらと輝いていた。
雨が降った後のアスファルトは独特の匂いがする。皆がどう思うかは知らないが、私はこの匂いが嫌いじゃない。割と好きな部類だと思う。この匂いをかぐと、何故か故郷の父親と母親の顔が頭の中にぼんやりと浮かんでくる。家に帰らなくちゃという気分になる。ぎゅーっと、ゆっくりゆっくり心臓を締め付けられるようで、無性に誰かが恋しくなる。―…なんでだろう。誰かの家の換気扇から漂う煮物の匂いをかいだ時や、夕方5時の鐘をきいた時、確か同じような気持ちになったような気もする。
恋しくなる。無性に。自分を待つ誰かのもとへ、早く帰りたくなるこの気持ち。不思議だな。
両手にぶら下げたスーパーの袋をもう一度しっかり持ち直した。袋の中に入っているのは、隊士の皆さんに頼まれ購入した商品が少しと、大量の食料だ。日用雑貨、台所用品が少々、そして今日の夕飯の食材、大量の鯖。真選組で女中をしている私は、度々お使いを頼まれこのスーパーに買い物にくる。今日もそう。今夜は鯖の味噌煮が食いてぇなあなんてのたまう沖田君にせっつかれ、こうして一人買い物にきたのだ。
屯所を出てからもうだいぶ時間が経ってしまっている。今頃屯所では、お腹を空かせて退屈している沖田君の魔の手に掛かった誰かの悲鳴が、痛々しく響いている頃かもしれない。
被害者は山崎さんか土方さんか。いやいやそれとも………、
「…………。」
(……い、いけない 急いで帰らなくちゃ…)
先ほどまでのセンチメンタルな気分なんてどこかに吹っ飛んでしまっていた。私のせいでまた新たな犠牲者が出てしまう前に、一刻も早く屯所に戻らなくては。
ふと顔を上げる。
と同時に、私は少し驚いてぱちくりと目を瞬かせた。
少し先の道の端に、見慣れた黒い隊服に身を包んだ、見慣れた人物の後ろ姿を見つけたからだ。
(あ……)
心臓がびくんと跳ね上がったような気がした。
遠目にもわかる、線の細い繊細なシルエット。色素の薄い髪。他人を寄せ付けない、少し冷たい雰囲気。
私は自分の胸が熱くなるのが分かった。
「…伊東先生、」
彼がこちらを振り向いた。僅かに首を傾け、私を見、「なまえさん」と呟いた。
それだけでもう、私の心臓はきゅうっと締め付けられたように切なくなる。じっと見つめられ、たまらず視線を余所へ逸らした。顔を覆って声を上げ、今にもその場にしゃがみ込んでしまいたい。恥ずかしい。でも嬉しい。どうしよう…。
気持ちばかりが先走って、なかなか次の言葉がうまく出てこない。
「い、今、お帰りですか?」
辛うじてそう口にすると、彼はああと頷いた。
「君は買い物かな。」
伊東先生の手が、私の手から何気なくスーパーの袋を奪いとっていった。断りを入れようと慌てて顔を上げると、彼は私の手の届かない方へとさっさと袋を持ち替えてしまった。
いつの間にか、私たちは二人並んで歩いている。
(…困った)
顔が、熱い。
「鯖か…」
伊東先生がぽつりと呟いた。見れば、彼の視線は手元の袋の中。
「お嫌いですか…?」
思わず聞き返すと、いや、と彼は否定した。
「鯖は好きだ。」
(良かった…。)
内心胸をなで下ろす。
と同時に、彼のことをまた一つ知ることが出来た、とささやかな幸せから若干口元が弛んでしまう。
…伊東先生、鯖好きなんだ。
「…実は、今夜は鯖の味噌煮にしようと思っていたところなんです。」
「ああ…。確か、沖田君がそんなことを言っていたな。」
相変わらずの涼しげな表情で、彼は思い出すように沖田君の名前を口にする。
「ええ、そうなんですよ。どうしても食べたいって聞かないから、もうこうなったら、今夜は本当に鯖の味噌煮にしちゃおうって思って。」
思い出したら、なんだか可笑しくなってちょっとだけ笑ってしまった。
本当に夕飯が鯖の味噌煮になったって知ったら、沖田君、一体どんな反応をするだろう…。
「…君は甘いよ。」
ぽつりと呟かれたどこか含みのある言葉に思わず視線を上げた。どうしていいのか分からなかった私は、ただ少し気まずげな彼の横顔を言葉もなくじっと見つめていた。
「そうでしょうか…」
「ああ、甘い。隊士達は皆、君のことを母親か何かと勘違いしている。」
…怒っているのかな、と思ったけれど、どうやらそういうわけではないらしい。
「それは、沖田君のことを…?」
「沖田君もそうだし、他にも。皆、君の優しさに甘えているんだよ。」
君の優しさを、自分の所有物だと勘違いしているんじゃないか。
そっと視線を余所へやった伊東先生は、やはり少し気まずげな表情を浮かべている。気まずげというか、なんと言うか…
拗ねている。
わけ、ないか…
失礼なことは百も承知だけれど、なんでだろう。なんとなくそんな気がしてしまったのだ。いや、ただの私の願望かもしれない。きっとそう。
(優しさか…)
私の小さな小さな呟きは、誰に届くでもなく風に溶けて消えてしまった。隣にいる伊東先生にだって、きっと聞こえていないに違いない。
もしも伊東先生が、私が誰彼構わず優しさを振りまく女だと認識しているのなら、それは誤解だ。私は誰にでも優しいわけじゃない。いつだって伊東先生によく見られたくて必死な、ただの恋する一人の人間だ。今だって、『優しい女性』と伊東先生に評価されたことに心底舞い上がっている。
なんて簡単な女だろう。自分で言っていて恥ずかしいくらいだ。
「…別に責めているわけじゃないんだ。」
ぽつり、彼の口から呟かれた言葉がまるで私の独白に対する答えであるかのような気がして、内心わずかに狼狽する。口に出したつもりはなかったのだけど…。
「君が皆に優しいことは悪いことじゃない。ただ…君のその優しさを独り占めできる男が、この世にたった一人いたって良いんじゃないかと思って。」
「…それは、」
どういう…?
口を開きかけて固まる。
いつの間にか、私の右手に優しく重なる誰かのぎこちない左手があったからだ。
驚きで顔を上げる。
「…言葉で説明しなければ伝わらないかな。」
「……言葉にして欲しい、と思うのは野暮ですか。」
そうしたら、きっと、今すぐにでも独り占めできると思います。
私の中の何処にこんな大胆な一面があったんだろう、口にしてからそんなことを思った。
目を逸らすことなくじっと私を見つめる伊東先生の真摯な態度に、私の頬は自然と、まるで赤く熟れた果実のようにじわじわと染まっていった。目を逸らしたくないと思った。ずっと見ていたい、と。
私たちの足はいつの間にか止まっていた。
「…君は、思ったよりしたたかな女性のようだ」
「先生は、想像していたよりもっともっと不器用な方みたい」
「そういう男だよ、僕は」
こういう男は嫌いかな、と問うてくるその人の手を、私は少し力を込めて握り返した。「いいえ。」
雨の匂いを感じたとき、誰かの家の換気扇から漂う煮物の匂いをかいだ時、夕方5時の鐘をきいた時、ふとした瞬間に彼が思い出す特別な存在が、いつか私になるといい。
「たまにはこうして二人で買い物に来ましょうね。」
見上げた私に彼は小さく、だけどどこか照れくさそうに笑ってみせた。
2011.8.31
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