1
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
そしていつか愛になる
※本編より前のお話
「こじゅろさん」
甘ったるくたどたどしく、胸がむずがゆくなるような声が、開け放った戸から風に乗りどこかからともなく聞こえてきたものだから、政宗は思わず政務の筆を止めた。
どれくらいの間集中していただろうか。
ふと顔を上げると、春のあたたかな日差しが窓から差し込み自身の手元を明るく照らしていた。
庭の木々に留まった小鳥たちはしきりにさえずり、東北の遅い春を知らせている。
窓の外の新緑が眩しい。
幼い少女が発する声は、己の部下の名前を呼んでおり、置いて行かれまいと少し上ずっていてどこか不安と期待が入り混じっている。
わが城の姫君は今日も今日とて竜の腹心にご執心の様子である。
大柄な男の隙のない足音の後に、ぱたぱたと小さな駆け足が懸命付いて回っている。歩幅の大きな男に幼い彼女はきっと追いついていないに違いない。
「っこじゅろさん」
「…」
「かたくら、さっ」
「…」
「こじゅろさまっ」
何度呼び掛けても返事はなく。
再び彼女が声を上げようとしたところで聞こえてきたのは、深いため息の音。
それから、ようやく彼女を振り返ったであろう男の、予想通りあまり機嫌が良いとは言えない低い声が返ってくる。
「…なにがしてぇんだてめぇは。」
男の声は固い。
その冷たいくらいの声音は、自分のような強面の男が年端も行かない少女に懐かれるという珍事に対する戸惑いか、あるいはわずらわしさゆえの反応か。
いずれにせよ、友好的でないことはその場に居合わせない自分にも手に取るようにわかってしまう。
直接見ていない自分でもわかるのだから、男の目の前に立つ彼女にはきっとしっかりと伝わってしまっていることだろう。
小さな足音は男の声にぴたりと止まってしまう。
「なんだと聞いているんだ。」
「あ…」
「…」
「…えっと、」
頬を赤く染めて、しどろもどろになりながら着物の裾を握りしめる彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。
いたたまれない沈黙が続き、しばらくして再び男のため息が静けさを破った。
そんなに刺々しい雰囲気では、彼女だって喋れるものも喋れなくなってしまうと思うのだが、小十郎はわざとやっているのかなんなのか。
はて、城下の子らと話す時にはもう少し柔らかい雰囲気も出せたと思ったが、なぜ彼女に対してはこうも手厳しいのか。
訳あって城で住まう事になった少女ーーなまえは、なぜか城の中で最も友好的な自分を差し置き、あろうことか最も堅物で、厳つく、己のことを冷たくあしらういい歳した男にぞっこんなのである。
まったくもって不本意な話だ。
自分で言うのもなんだが、俺のほうが絶対に優しい。女の機嫌を取るのだって上手い(多分)。
だからなぜ、なまえが俺よりもあの小十郎に惹かれるのかがわからない。あの小十郎に、だ。
もしも彼女が、男に甘やかされるより冷たくされるほうが好きだというのであれば、今からその将来が心配だ。
そんなんじゃ大人になっても幸せになれねぇぞ?…などと、本人に伝えたところで首を傾げて不思議がるだけだろうが。
そして、小十郎も小十郎で。
なぜたかが少女に対してここまで冷たくするのか。
長い付き合いだから言えることだが、小十郎が決して非情な男ではないことを俺はよく知っている。
同性に対し稽古と称して少々手厳しい扱いをすることはあるが、その行為は必ず相手への思いや理由が隠れている。
女子供を無意味に怖がらせるなんてのはもってのほかだ。
だからきっと何かわけがあるのだろうとは思う。
思う、が。理由があるにせよ、この態度は少々やりすぎじゃないだろうか。
沈黙を破り、思い切ったように息を吸い込んだ音がしたかと思えば、続けてこんな彼女の台詞が聞こえてくる。
「あのっ」
「あ?」
「い、一緒にね」
「…」
「一緒にね、お話、して、仲良くなりたいって…」
「思、ってね…」
「…」
語尾に向かって段々しりすぼみになる可愛らしい願望だった。
小十郎は何も答えない。
なんだそれは。
もぞもぞする胸元を押さえて思わず机に突っ伏した。いけねぇ、口元が緩む。
机に頭を押し付け悶える姿は我ながらさぞかし異様に違いない。自分が部下なら城主のそんな姿を見て心底心配するだろう。この様子、胸の病か何かを疑われても仕方がない状況だ。
もしも彼女にねだられたのが俺だったら。頬に口づけの一つでも降らせているかもしれない。瞳を覗き込み、柔らかな手を握って自分の頬に押し当てているかもしれない。小さな体を抱きすくめて髪に鼻をうずめて、その場で意味もなく回ってしまうかもしれない。
くすぐったそうに笑い、少しだけ嫌がるそぶりを見せつつもそっと抱き着き返してくるなまえに、きっと一生分の幸せを嚙みしめるだろう。
つまり、だ。懸命に自分を見上げ声をふり絞る彼女に何も感じないのだとしたら小十郎はとんだ不能だ。馬鹿野郎め。いいから今すぐその場所を代われ。
勝手に聞き耳を立てておいてなんなんだが、段々小十郎に腹が立ってきた。
今すぐここから出て行ってなまえを搔っ攫ってやろうか、畜生。なんて。
「いいか。」
どうせまた冷たい対応でもってなまえを追い返すんだろう、と思っていた俺は意外にも驚くことになる。
ふと、先ほどまでの厳しい口調とは打って変わって、なだめるような落ち着いた声が聞こえてきて、思わず飛び起きるように机から顔を上げた。
聞き間違えでなければ、今の声の出どころは小十郎だ。
だが、本当に聞き間違いじゃないのか。どういう風の吹き回しだ。
そして、話はこう続く。
「そうやって、無条件で大人を信用して無防備に懐くのはやめろ。自分で自分を危険にさらすんじゃねぇ。警戒心を持て。」
小十郎の言い分はこうだ。
「この戦国の世に生きていて、それができちまうっていうのは異常なことだ。わかるか?」
「いじょう…」
「城下の子らを見てみろ、どんなに懐いたように見えても皆心のどこかで大人のことを疑って掛かっているもんだ。結局信じられるのは自分だけ。大人は自分を裏切り利用する恐ろしい生き物だと割り切る。それが子供らが騙されず搾取されず賢くこの世を生き抜くための術なんだよ。皆そうやって自然と刷り込まれてる。だがてめぇはどうだ。」
どうだ、と言いながら小十郎はなまえを上から下まで見たのだろう。
一拍の間を置いて、
「…不憫ではあるが、警戒心が欠落しているお前は、この時代で長くは生きられねぇだろうな。」
「なんて、言っても理解できねぇだろうが。」
小十郎から漏れ出た本音。
盗み聞きしてしまったようでバツが悪いが、同時に合点もいった。
つまるところ不器用な男なのだ、この男は。
なまえを邪険にしていた理由がただの個人的な感情ではないことが分かり安心したし、他人の行く末を思いやる心を備えた部下を持てたことを誇りにも思う。
にしてもやり方ってもんはあるが。
これも小十郎なりの思いやりの形だと言われればそうなのかもしれない。
突然、なまえが「え、」と声を上げた。
何事か、と気になり、ついに戸から上半身だけ乗り出し覗き見てしまった。
小十郎がなまえの目線の高さまで座り込んでいた。己の手で彼女の小さな肩を包み込むと、視線を合わせ諭すように言った。
「なあなまえ、お前も長生きしたけりゃ、こんな血生臭い連中とは関わらずにどこぞなりと清く生きてくれ。そうすりゃ俺たちも少しは報われる。」
「ちなま?ぐさ…?」
「わからねぇか、わからねぇだろうな。…そうだな、せめてもう少しでかくなったら、お前の良い奉公先でも探してやるさ。」
聞いているのかいないのか、なまえは目を瞬いていた。
…やはりどこまでも不器用な奴だな。
呆れからか安心からか自分でもわからないが、ふと口元が緩んでしまい再び自室に体を戻した。
小十郎は当初から彼女を城に置くことには反対していた。立場的にそう言わざるを得ない部分もあったとは思うが、おそらくそれだけではなかったのだろう。本心はまた別のところにあったのかもしれない。
いつどこで命を散らすともわからぬ立場で「自分が守る」などと無責任なことは言わないが、せめてどうか自分の知らぬところで幸せであってほしいと、願わずにはいられないのだ。
なんてことはない。結局のところ、小十郎も心の奥底ではなまえのことを憎からず思っている。
冷たい態度とは裏腹に、心根の優しい奴だ。
もろもろの煩わしいもんも全部ひっくるめて丸ごと拾い上げようとする無謀な城主を御する立場にある者としては、今言ったような現実的な、ともすると冷めていると捉えかねない考え方になるんだろう。ある意味俺のせいでもあるというわけだ。
だが、なまえに小十郎の想いは伝わるだろうか。
おそらく幼い彼女には、先ほどの話の大半は理解できていないに違いない。仕方がない、まだうまく言葉も発せない、年端も行かない子どもだ。
もどかしくはあるが、いつか時が経ち、彼女が成長したら、その意味が分かる時が来るのだろう。
その時、なまえはどんな女になっているだろうか?幸せだろうか?笑って過ごしているだろうか?純粋で無垢な瞳は汚されずに先の世を見つめられているだろうか。
彼女がありのままの彼女で生きていける世の中であることを願わずにはいられなかった。
さて、話は終わりだとばかりに小十郎が立ち上がる足音がする。
いやはや、とんだ痴話喧嘩に巻き込まれたな。…いや、俺が勝手に聞き耳立ててただけなんだが。小十郎には全く非はないんだが。何ならのぞき見までしてしまったんだが。
などと考えていたら、
「さっき、」
「あ?」
思わぬところから声が上がる。
小十郎も思わず動きが止まったようだ。
「なんだ。」
「さっき、かたくらさま、なまえって呼んだ?」
…おお。おおお。なんと、珍しいこともあるもんだ。
しまったといわんばかりに小十郎が息を飲む音が聞こえた。
こりゃ驚いた。明日は槍でも降るか?
「うれしいなぁ。わたしも、これからはおなまえで呼ぶね。」
「おい、待て」
「こじゅ、ってどうかなぁ?」
「…」
「ふふっ、こじゅ、こじゅ。なんだか照れちゃうね。」
「……」
「えへへっ」
「……そういうところだと言っているんだがな…」
彼女が男の言葉の真意を理解する日はまだまだ先のようだ。
俺は、青筋を浮かべているであろう小十郎のとばっちりを食らわないよう、再び自身の政務に戻ることにした。
2022.5.8
---------------
76/76ページ