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「ねぇ、なまえちゃん。元譲のやつの今日の顔見た?邸の中に迷い込んだ猫を外に逃がそうとして、近づいたら爪で引っかかれたんだって!右の頬に見事な3本線が入っててさぁ」 「あ、なまえちゃん。今日は君の好きそうなお菓子を持ってきたよ。…じゃーん!珍しいでしょ、これ、南方から取り寄せた果実を使っていてね、甘い生地の中に酸味が効いていて美味しいんだ。なまえちゃんも食べてみてよ」 「なまえちゃん、今日はすっごく良い天気だよ。市へ買い物へ行かない?どうかな?あ、でももし忙しいようだったらまた後にするんだけど……え!いいの?うわぁ、嬉しいなぁ。じゃあ、部屋の外で待ってるから、用意ができたら声を掛けてね。」 「今から軍議だって。面倒くさいね。あいつらがなまえちゃんの意見も聞きたいとか言って聞かなくてさ。申し訳ないけど、少しだけ顔を出してやってくれないかな。もちろん、無理してなにか喋る必要はないからね。俺が傍にいるよ」 「孟徳…」 楽しげに会話を繰り広げる主の様に、見かねた元譲が声を掛けた。 丞相直々の命により軍議に召集されたはずの臣下たちは、自分たちを差し置き寵姫と談笑する主の姿に心底困惑していた。 ここのところいつもこうだ、と元譲は嘆息した。元譲にとって、この異様な光景はもはや見慣れたものになりつつあった。 当の本人…孟徳その人は、彼ら臣下の反応に全く動じる様子はなく、いつものように隣に控える女ーーみょうじ なまえに、熱心に何かを語っていた。 官吏たちは声を潜めひそひそと囁き合い、武将たちは顔を見合わせ気まずげに視線を逸らす。 悲しいかな、こんな異常な光景でも、元譲にとっては日常の1つだった。 「なぁ孟徳…」 「でね、昨日なんかさ、」 「孟徳…」 「執務が進んでいないって、文若のやつが俺にお冠で」 「孟徳!!」 「……はぁ。なんだよ元譲。聞こえてるよ。」 やっとと言うべきか、元譲の半ばヤケクソ気味の呼びかけに、孟徳は鬱陶しそうに視線を寄越してきた。振り向いた主の眉間には皺が刻まれ、瞳はうっすらと細められている。これは孟徳が機嫌が良くないときの顔だ、と元譲は内心冷や汗を垂らした。 「俺は今なまえちゃんと喋っているんだ、見て分からないのか。」 「あ、ああ、すまない…だが、」 「そんなんだからいつまでたってもお前は女人に相手にされないんだぞ。大体いつになったら妻を娶るんだ?そろそろ浮ついた話の1つや2つ、あってもいいだろう。ねぇなまえちゃん。なまえちゃんもそう思うよね?」 「……」 いたたまれない空気に、元譲は主からそっと視線を外した。 …ああ、どうしてこうなった。 元譲がその質問を問うべき相手はこの場にはおらず、おそらく唯一その答えを持っているであろう少女は既にこの世を去ってしまった。どこを探しても、もう彼女はいないのだ。 刺客の凶刃から孟徳を庇い深手を負った彼女は、最期に、孟徳の腕の中で静かに息を引き取った。彼女を失った孟徳の怒りと悲しみは苛烈を極めた。下手人は捕まり一族郎党処刑され、死体はバラバラに撒かれ野犬の餌となった。下手人たちの血の海の中で孟徳は始終笑っていた。 それから葬儀はしめやかに執り行われ、彼女は丁重に弔われた。暗く沈んだ空気が流れる葬儀の最中、突如孟徳が声を上げたことがこの喜劇の始まりだった。 『あ、あ、見ろ…見ろ元譲!!』 『?どうした孟徳、そんな驚いた顔をして…』 『なまえちゃんだ…!なまえちゃんが帰ってきたんだ!』 『は…?なまえ?』 『おーいなまえちゃん!あ、こっちに気がついた!なまえちゃーん、こっちこっち!』 『孟徳、お前…』 『おい元譲、そんなしかめ面しないでお前もなまえちゃんを温かく出迎えてやれよ。辛気臭いな。』 『…いいか孟徳。非常に言いづらいんだが…彼女はもう‥』 『何を言っているんだ元譲。なまえちゃんはちゃんとここにいる。おかしなことを言うな。』 『孟徳…』 『なまえちゃん…今までどこに行っていたの。ずっと…ずっと君のことを待っていたんだよ。会いたかった…』 …ああ、どうしてこうなった。 どこから道を間違えてしまったのか。 彼女が死んだ事か、丞相 曹孟徳が彼女を妙に気に入った事か、あるいはそもそも、長坂橋で溺れかけた彼女を救った事か。どこを分岐に道を間違えてしまったのか、なにがいけなかったのか、今となっては元譲にも分からない。彼女の存在がここまで主を狂わせると知っていたら、自分は新野の戦いで早々に彼女を排除していたことだろう。 少女に対する怨嗟の声は小さくはない。何を隠そう元譲自身も、彼女を少なからず恨めしく思っている者のうちの一人だった。なぜ孟徳一人を残してこの世を去ってしまったのか。いっそのこと、我々の預かり知らぬ場所でどこへなりと勝手に消えてくれればよかったものを。彼女が中途半端に関わったがために、主は、孟徳はーー… しかし、見えない何かをきつく抱きしめ、愛おしげに髪を撫で、苦しく恋い焦がれる男の姿を見ていると、元譲にはいつも、それ以上何も言えなくなってしまった。 「ほら、なまえちゃんもこう言ってる。元譲、お前はもう少し女人に興味を持てよ。俺のことにばっかりかまけて相手してないでさ。もったいない。」 「そうだな…」 中原を見据えるはずの偉大なる覇者の瞳は、もはや自身の天下統一への道を映すことはないのだろう。代わりにその瞳には、若い女の亡霊が優しく笑みを浮かべるのみなのである。 2020.5.6 -------------------- 孟徳エンディング『泡沫の未来』後 |
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