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夜半、ごとりという物音で不意に小十郎の意識は浮上した。 反射的に寝床から抜け出すなり、燭台に灯るろうそくの炎を吹き消し、床の間に置いていた刀を手に取った。 腰を落とし静かに刀の鞘を抜き払い、刀身をあらわにさせる。 月夜に照らされた切っ先がぬらりと鈍く光った。 闇に眼を慣らし、耳を澄ませ、物音がした方向に全神経を集中させる。小十郎は待った。音もなく待った。 しかし待てど暮らせど、それきり音は止んでしまった。しんと水を打ったような静寂が広がるばかりである。 曲者か。 しかし、屋敷の各所には見張りがついているはずであるし、屋敷に曲者が侵入したとの知らせは受けていない。 …ではなんだ。 獣の類か。それにしては足音がしない。息遣いもない。 (いや…) この部屋ではない、障子の向こうの庭先から人の気配がする。 音ではなく気配だ。獣より大きな何かの気配が。 庭の先に誰かがいると小十郎は確信した。 利き手の刀に静かに右手を添え、姿勢は低く構えたまま、月明かりが差し込む障子の方へじりじりとにじり寄る。 息をひそめ機会をうかがい、一呼吸置き、そうして、勢いよく障子を蹴破った。 どうっという音と共に障子が吹き飛び視界を遮るものが一気になくなる。 ひやりとした夜の空気が肌をなぜた。 月明りに照らされた広い庭の中央、小十郎の目に真っ先に飛び込んできたのは、 「なっ…」 「小十郎くん?」 驚きで目を見開き、ついでに馬鹿みたいにあんぐりと口を開く女がいた。 小十郎は、その女に見覚えがあった。 見覚えがあるどころの騒ぎではなかった。 「小十郎くん…ですか?」 「っ…お前……」 「は、はい」 「なまえか?」 「はい…」 「本当に…?」 「はい…」 「……」 何か言うことがあったはずだったが、次に発すべき言葉は喉の奥でつかえてしまって、とうとう出てこなかった。 女は、自分は未来から来たのだと言った。 ある日、政宗様が道端で拾ってきた女だった。面白いと思ったものをなんでも持ち帰る、主君の悪い癖だ。 後ろ手を拘束され、兵士に付き添われ広間に登場した女は、俺や政宗様を目の前にし小さく萎縮しながらもあろうことか、自分ははるか遠い未来から来たのだと宣った。自らの意思に反して、数百年の時を駆けてきたのだと。 政宗様は女の話を面白がったが、俺をはじめ城の者は誰一人女の言葉を信じなかった。妄言を吐く頭のおかしい奴だと牢にぶち込もうとした。それで解決する。 だが政宗様はそれを良しとしなかった。 それならと、俺は政宗様のおられぬ間に独断で女を呼び出した。土の上に女を引きずり倒し、顔のわきに刀を突き立てた。今すぐこの城を出ていけ。そして二度とその面を政宗様の御前に晒すんじゃねえと恫喝した。女は恐怖か混乱か泣き出した。半分キレながら、泣きじゃくりながら女は言った。じゃあ家に帰してくださいよ、と。私だってこんなところ来たくなかった。家で家族と笑って過ごしたかった。こんなところに一人で来たくなかった。そう言って鳴きわめき涙を流す姿は、まるで駄々をこねる幼い子供のようで、嘘を吐いているようには到底見えなかったのだ。ほんの一瞬、わずかではあるが憐憫の情を抱かなかったわけでもない。 とはいえ、そこで同情をして、おいそれと城に置くことなぞできるわけがなく、そういうことなら殺すまではいかずともそのまま何か理由をつけて城から追い出すつもりでいた。政宗様の一言がなければ、今頃女はどこかで野垂れ死んでいたか、あるいは人さらいにでも買われてどこかに売り払われていたことだろうと思う。それも運命だ。しかし政宗様は俺の行動を咎め仰ったのだ。『女を客人として丁重にもてなせ。』と。 当然猛反対したが、政宗様の御意思は固く、兵士一同渋々ながら認めざるを得なくなった。 かくして、女は客人として城に迎え入れられることとなった。 それから女が城になじむのは早かった。 政宗様はもとより、初めは鬱陶しがっていた兵士たちでさえ、いつの間にやら女にほだされ警戒心を解いてしまっていた。それはそれは早かった。 女中も、兵士も、下男も、皆口を揃えて言った。彼女は本当に良い子だ、と。片倉様も彼女と話せばきっとわかると。 確かに女には怪しい動きは見られなかった。草の者を張り付かせ様子を観察させても、何も出てはこなかった。特に何をするでもなく、毎日をただ平穏に過ごしていた。…たまに故郷を恋しがって泣くだけ。それだけだ。女が話す言葉にも嘘はなかった。 女に悪意はない、それくらいのことはすぐに分かった。 分かってはいた。 だが、俺だけが彼女を受け入れられないでいた。 自分が彼女にほだされてしまったら、一体誰が彼女を警戒するのか。もしあれが悪意の塊で、いつか牙を剥いたら、一体誰が城を守れるのか。 他の者が彼女に取り込まれるのであれば、せめて自分だけでも冷静におらねば。 第一、初めの印象があれだ。今更どうこうしようとも思っていなかったし、何より向こうが俺を恐れ避けるか毛嫌いするだろうと踏んでいた。それならそれで好都合だ。そう思った。 しかし、彼女はしつこく俺に絡んできた。 やれその日の天気の話だ、今日の晩飯の話だ、趣味は何だ、甘いものは好きか、などと、本当にたわいもないことを聞いてくる。 その馴れ馴れしさに鬱陶しく思い邪険に扱ったこともあったし、普通の女なら泣き出すような我ながら酷い言葉を浴びせたとも思う。しかし彼女はめげずに話しかけてきた。 これは正直予想外だった。もちろん悪い意味でだ。 彼女なりに、当時の城での生活になじもうとしていたのだと思う。世話になっている皆への、彼女なりの誠意であったのかもしれない。『皆』のうちの一人に俺も含まれていたという、ただそれだけの話だ。誰だって敵意や憎悪を向けられたら良い気はしない。彼女からはいつも、なんとかしてこちらと打ち解けようとする頑張りがひしひしと伝わってきた。そこに悪意は微塵もなかった。 無視しても怒鳴りつけてもぞんざいに扱っても彼女は諦めなかった。俺の姿を見ればにこりと笑い必ず声をかけてきた。廊下の向こうから手を挙げ駆けてきては俺を呼んだ、『片倉さん』と。 そしてついに、何を思ったか、何の気の迷いか、どういうわけか、ある日俺は彼女に言ってしまっていた。 『あの時は悪かった』と。ああそうだ、俺は馬鹿だ。 この瞬間、俺は完全に彼女を受け入れてしまっていた。驚いた顔をした彼女が次の瞬間、嬉しそうに弾けるように目を細めたその時の表情を今でも鮮明に思い出せる。 「いいんです、全然。」それから、戸惑うこちらの手を勝手に握って言った。「これからよろしくお願いします。」 嫌な予感は別の形で当たってしまったのだ。俺は彼女を疑いきれなかった。 一度ほだされてしまってからの流れは早かった。それはそれは早かった。どういうわけか彼女は、自分より年下であるはずの俺にとてもよくなついた。博愛の塊のような彼女が、どうしてか自分にだけは特別甘かった。そしてそのことに悪い気がしない自分がいた。内心勝ち誇っている節さえあった。 そうこうしているうちに、いつの間にか彼女を特別扱いするようになってしまった。まずいな、と思った時にはもう遅かった。 この話はあまり進んで思い出したい類のものではなく、博愛の彼女を独占したいという想いは単純で、青臭く、歳を食った今思い返すと胸焼けで胸をかきむしりたくなる。若気の至りだ。誰にでも人当たりの良い彼女にやきもきして、その気まぐれな甘言に振り回され、なつかれているつもりが手なずけられ、おちょくるつもりが温かい腕に包まれていた。夢中だった。 月夜の晩に一度切り、二人そろって縁側で酒を煽ったことがあった。なぜだったか。確か彼女が良い酒をもらったと俺に自慢をしてきた。軽く流すつもりが、彼女が俺を挑発するものだから、それに俺が乗っかって、なんやかんやで朝まで呑み明かすことになった。 よく月が出た静かな秋の夜のことだ。 「なんだなんだ、君結構強いじゃない。」 「どの口が言ってる。降参するなら今しかねぇぞ。」 手酌で注いだ酒を勢いよく煽るなり、据わった眼をして女は嗤った。 もうその頃彼女は、自分を『片倉さん』とは呼ばなくなっていた。竜の右目と呼ばれる男を馴れ馴れしくも名前で呼んだ。いやに下に見られたものだが、それでも、自分だけの特別に扱われているような気がしてむずがゆく、なぜだか呼ぶのを止めることができないでいた。こんなこと政宗様に知れようものなら何を言われたか分かったもんじゃない。 風に揺れるすすきの穂を背景に、こちらの手元の猪口を覗き込んだ彼女はけらけらと楽しそうに笑った。 「おやあ?小十郎くん、全然進んでないじゃない。君こそ顔真っ赤だよ。そろそろ降参したら?」 「ぬかせ。」 「おお怖い。やだねぇおっかない男は。そんなんじゃ女の子にもてないぞ。」 「生憎だが、そういう事には生まれてこのかた一度たりとも困ったことはねぇもんでな。呼ばなくたって女のほうから勝手寄ってくる。」 「ああやだやだ、堅物そうにみえてこれだもん!世の女性たちは君の見た目とクールな態度に騙されているよねぇ。このすけこましさんめ。お姉さんの夢を壊さないでよね。」 「どんな幻想抱いてんのか知らねぇが、てめぇこそ俺の淡い夢を壊すんじゃねえ。最初会った頃の健気な女はどこにいった。見ろ、ただの呑んだくれじゃねぇか。」 「たまにはいいじゃない。」 へらりと笑った彼女がうつむき、面を伏せたとき。さらりと肩から落ちた一房の細い髪と、そこからのぞいたやけに白いうなじが艶めかしく。 月明りに照らされた彼女の四肢が目に毒だった。 「…もうあきらめて降参しろよ。」 「やなこった。」 「強情だな。」 「どっちが。」 酒に濡れた唇が、伏せられた睫毛が、投げ出された足が、すべてがだめだった。 わざとなのか。そうなのか。 いやいやとかぶりを振って思い留まる。 この糞が付くほど鈍感な女に限って、こんなにも分かりやすい手練手管を弄するとは思えない。おそらくは無意識にやっているのだ。無意識だ。だから余計にたちが悪い。 煩悩を振り切るように目を瞑り、猪口の中身を一気に煽った。 何か話さなければ、と似合わないことをしようとしたからだろうか、不意に己の口をついて出た質問は、普段は意識的に避けてきた話題だった。 「なあ…」 「ん?」 「今でも帰りたいと思うのか。」 彼女の細い髪が、風になびいてはらはらと揺れている。 彼女はきょとんとした表情で瞬きを繰り返し、不思議そうに俺の言葉を反芻した。 「帰りたい?」 「ああ」 「家に?」 「ああ」 「んー…」 「……」 「そうだねぇ…」 空の猪口を手の中でもてあそびつつ、彼女は白い月を見上げた。 煌々と輝く月が、酒で火照る彼女の顔に影を作っている。 「そりゃあね、恋しいと思うことはあるよ。でもね、私、こっちに大事なものが沢山でき過ぎてしまったんだよね。」 「……」 「手放すのが、惜しくて。」 (嘘を吐け。) 惜しいなどと、そんなことを言って、きっといざとなったらすぐにでもすべてを手放して消えてしまうくせに。 今すぐに帰れるとしたら、彼女は全てをここに置き去りにして姿を消してしまうんだろう。なんの躊躇もせず、振り返りもせず、行ってしまうに違いない。 何が大事なものだ、となじってやりたい。 もどかしさとも、苛立ちとも、焦りともとれる感情が喉元にせりあがってきて、声になりそうになるところを、寸でのところで飲み込んだ。 代わりに手が出た。 酒が入っていたせいか、その場の雰囲気にやられたか。いや酒のせいに違いない。じゃなきゃ気でも触れてたか。 気が付けば彼女を引き留めるように手を伸ばしていて、 「ん?おおーい?」 「……」 「小十郎くん?」 「なあ、」 「君、ちょっと目が据わっているね。お酒飲みすぎたかな?」 「問題ねえ。いたって正気だ。」 「じゃあこの腕は何かな?どこをまさぐっているのかな?」 「……」 「おーい?」 「既成事実を」 「うん?」 「…作っちまえばいいかと。」 「……君、すごく頭の切れる軍師なんだよね?いいの?大丈夫?」 大丈夫。じゃないかもしれない。 端から見れば自分のほうが危ない状況だろうに、なぜか心配そうにこちらの顔を覗き込んできたりするものだから、やはり彼女は変わっている。 目の前で手を振る彼女に軽くのしかかってみると、存外あっさり後ろへ倒れこんだ。ゴツという鈍い音と「いてっ!」という呻き声がしたから、多分頭でも打っているに違いない。こんな時まで呑気な彼女に笑えてくる。丁度いい。できればその衝撃で、これから俺が言うことは明日になったらきれいさっぱり忘れてしまっていることを願いたい。そうでなくては困る。 しばらく黙っていると、そろりと手を伸ばした彼女に、子供をあやすようにやわやわと髪を撫でられた。齢20を超えたいい歳した男が、だ。 なんてことだ。嘗められたものだと思う頭の片隅で、心地よいと感じている自分がいる事に気が付き、戦慄する。 こんな姿を今部下に見られてみろ、俺は誰が何と言おうと腹を斬ってやる。 「大きな子供みたいだなあ。よしよし、どうしたどうした。」 「嘗めてると犯すぞ。」 「いちいち発言が凶悪だな!でもねぇ、そうしてむっつりしてても言いたいことは伝わらないよ。」 「…何が言いたい。」 「私には、小十郎くんのほうこそ何か言いたそうに見えるよ。」 「………」 「ね、話してみてよ。」 そんな、まるでこちらの胸の内を見透かしたようなことを言うものだから困る。彼女はたまにこういう謎の勘の良さを発揮した。 すごいとは思う、思うが、何も今それを発揮しなくてもいいだろう、と内心愚痴った。 年上とはいえ自分といくつも歳が違わないうえに、普段は本当に年上か疑わしいほど平和で幼い言動が目立つというのに、こういう時だけ年上面をする。 この優しさが心地よく、到底敵わないと思うようになったのはいつ頃からだろう。 このままはぐらかし流してしまえばいい。そうすればまたいつもの関係に戻ることができるに違いなかった。 だが、これはきっと良い機会なのだ。 彼女本人から許しが下りたのであれば、こちらとて遠慮なく物申せるというもの。 「…大事だってんなら手放さなきゃいいだろう。」 「うん?」 「行くんじゃねえよ、どこにも。」 「……」 「手放すのが惜しいんだろうが。」 「……」 「違うか?」 「……えっと、」 「それともなんだ、その程度なのかお前の大事ってのは。」 畳みかけるように言い募ってやれば、予想通り、返答に窮したのか困ったように口を引き結び、彼女はそれきり急に黙り込んでしまった。 酒でろくに頭も回っていないに違いない。考えるだけ無駄だというに。 このまま勢いで押せばいけるか、などと甘い期待をしたが、そんな俺が馬鹿だった。 そうだ、この女はこういう奴だった。すっかり忘れていた。 「…大丈夫」 「は?」 弾かれた様に急に顔を上げるなり、大丈夫だと彼女は宣った。 意味が分からない。 何がどう大丈夫なのか。 右手の猪口を宣戦布告でもするかのように頭上に掲げると、声高々に彼女は言ってのけたのだ。 「大丈夫!たぶんね!」 「なにが…」 「私、いなくなったりしないよ!」 「はぁ…?」 「小十郎くんが、私がこの時代にいることを望んでくれている限り、私はここにいるよ。きっとね。」 「…どこから来るんだその自信は。」 「勘?」 「勘。」 「そう、勘。」 勘。勘、ねぇ。 「ね、ほら、どこにもいかない。」 「…っ」 「ね、」 「……くっ」 「…怖っ!なんでそこで笑うの?」 「そうだな、てめぇはそういう奴だ。」 肩を揺らし咽喉の奥で嗤う俺を、彼女は怪しいものでも見るかのように眉間に皺を寄せてじっと見つめてきた。「小十郎くんがそんなに笑うなんて珍しいね…。」などと。 そんな彼女を見ていたら懸命に頭を悩ませている自分が馬鹿みたいに思えてきた。 彼女は消えたりしない。それが彼女の勘だというのであれば、俺ももう少し自分の感情に素直になってもいいのかもしれない。これも勘だ。 全力でのしかかっていた体を起こし、組み伏せた眼下の肢体を無言で見下ろしてやる。すると、やっとというべきか、今の際どい状況に気が付いたらしい彼女が珍しく狼狽の色を示した。 普段飄々としていて人をおちょくってばかりの嘗めた女が、自分のためにうろたえる姿は実に心地よかった。 そんな表情もできるのだな、と感心する。これが他の男には見せたことのない表情であったらなお良いのだが。 想像していた以上に反応がよく、思いのほか可愛らしく、知らず加虐心が煽られる。 実に気分が良かった。 「あー…そっか、うん、これはまずいね。いったんどこうか小十郎くん、ね、」 「悪いが酒が回っちまったみてぇでな。一寸も動けねぇ。」 「えええ嘘吐けぇ」 「とはいえ、据え膳を出されたなら食っておかねぇと勿体ねぇだろ。」 「ない。据え膳なんてどこにもないよ。」 「酔ってるからな。仕方がねぇよな。なんならてめぇが介抱してくれてもいいぜ。」 「本当に酔ってる人はそんなに上手に着物を脱がせられないと思うよ?」 「……」 「脱がすな脱がすな。っねぇ、君絶対酔ってないでしょ…ってなにその手早さ!」 着物の合わせ目を掴み抵抗をする彼女としばしの攻防が続いたが、所詮は女の力、慣れた動作でいとも容易く帯を外し、着物を剥ぎ取り、あれよあれよという間に肌襦袢のみを残し全ての衣服をひん剥いてしまった。 非力な腕で大の男の腕を掴んで止めようとしていた彼女も、もうここまで来たら制止することは敵わないと踏んだのか、諦めて己の肩を抱き小さく身を縮こまらせた。 そうして、非難している風でもなく、いつもの調子で彼女は宣った。 「好きでも無い女を抱けちゃうのね…男は狼だわ。」 「は?」 「え?」 「今なんて言った。」 「『男は狼だわ。』」 「その前」 「『好きでもない女を抱けちゃうのね』?」 「………」 「いや、なんで怒るの?」 「そうか。てめえには一度体に叩き込んで教えてやる必要があるみてぇだな…」 「なんで?」 「分かるまで抱く。」 「理不尽!」 「抱く。」 「ちょっ、本気にしないでよちょっ、ちょっと…まじで?」 焦りの色を濃くした彼女に近づき、首筋に顔を埋め、わざとらしく香りを嗅ぎ、舌で嘗め上げてやった。 色気のない声で小さく悲鳴を上げながら、それでも彼女はぎゅっと目を瞑り意地でもこちらを見ようとしないし、なおぶつぶつと抗議の言葉を呟いている。 こういうのを往生際が悪いと言うんだ。 顎を掴み強制的にこちらを向かせると、ついに諦めたのか、それとも腹をくくったのか、何を思ったか彼女が楽しそうに笑い出した。 「目ぇ瞑って口閉じてろ。うるさくて敵わねぇ。」 「雰囲気もへったくれもないよね。うーん…ま、いいか。」 「…いいのか。」 「まあ、小十郎くんならいいかな、と。」 「勘違いするぞ。」 「いいんじゃない?」 「言ったな。」 こんな時にまで余裕かましやがって、気に食わねえ。 噛みつくように口づけてやれば、口をふさがれたこの状況でなお、彼女が肩で笑った。 …本当に、雰囲気もへったくれもねぇ奴だな。 彼女の柔らかい腕が自分の後頭部へ回されたことに満足し、そのまま暗がりに押し込めるように部屋の中へと雪崩れ込んだ。 若かりし頃の俺はこの時有頂天であった。やっと彼女を自分だけのものにできたと浮かれていた。 その数日後だ。彼女は誰にも何も告げずに俺達の目の前から忽然と姿を消した。 誰も行先を知らされず、何も告げられず、彼女は煙のように姿をくらませてしまった。 その日、彼女のもとを尋ね、あてがわれた部屋の障子を開いた時、主を失いがらんとした室内を見渡した俺の心境はどう説明したらいい。 なるほど、遠い未来から来たという彼女はとうとう本来の居場所へと、未来へと帰ってしまったというわけだ。 大団円ではないか。喜ぶべきだ。きっと彼女はもうここには戻らない。 これまでのことは夢か何かか、あるいは犬にでも噛まれたと思うしかないだろう。 淡い恋心は胸の奥底に押し込め、自分を納得させた。 そのはずだった。 あれから何年経ったと思う。10年だ。10年経った。 あれから、もう彼女は戻らないものだと自分に言い聞かせて生きてきた。そうして過ごしてきたのだ。 …それを、何を今更。 やっと諦めがつきそうだったというのに。なぜ今になって。なんて質の悪い女だ。最悪だ。 あの時と少しも変わらない姿で彼女は目の前に呆けて座り込んでいる。 10年の月日のお陰で、今やこちらのほうが随分と年上になってしまった。 あの時、少し大人びて、自分には手が届かないと思っていた遠い存在だった女が、きっと一生かけても敵わないと思っていた女が、その面影をずっと追いかけ続けた女が、またこうして目の前に現れたのだ。一体俺にどうしろと言うのか。この行き場のないやるせなさはどうしたらいい。 「えっと、」 「……」 「元気にしてました?」 なにが元気にしてましたか、だ。 ふざけるんじゃねえ。 「すごく渋い男になっちゃって、まあ…。なんだか別人みたい…えっと、あれから何年経ったんですか?」 「…10年だ。」 「わあ、じゃあ小十郎くん?小十郎さん?は、今おいくつで…?」 「んなことはどうでもいい。」 目の前でのんきに受け答えする彼女も、10年という月日を律義に指折り数え待っていた女々しい自分にも、無性に腹が立つ。 ああそうだ待ってたさ。この10年間ずっと、いつかお前が返ってくるんじゃないかって乙女のようにな。これで満足か。 苦々しい表情を浮かべているであろう俺を見、彼女は困ったように眉を下げた。 「…今までどこに居た。」 「ええと、未来に帰っておりまして…」 「そうか。だろうな。」 「…なんか怒ってます?」 「あぁ?」 「怒ってますよねぇ…」 「怒っちゃいねえさ。ただてめぇには仕置きが必要とは思っている。」 「あ、完全に怒ってますねこれ。」 「面貸せ。10年分の鬱憤を晴らしてやる。」 「えええええ」 口元を引きつらせ逃げ腰の姿勢の彼女にわき目も降らずに向かっていく。 左手に握られた刀はそのままにしてあるので、彼女の視線はその切っ先の鋭さに釘付けだ。 「ちょ、あの、それしまいませんか…?」 「あいにく、10年も出しっぱなしなもんでな。刀の納めどころが分からなくなっちまった。」 「やだもうすごい怒ってる。」 「観念して歯ァ食いしばれ。」 ついに彼女の眼前に立ちはだかった。 鞘は部屋に置いてきてしまったので刀は地面に突き立てた。そして歩いてきた勢いのまま彼女を抱きすくめてやった。 「むっ…!?」 「……」 「ぐるじい…」 「なあおい。」 「はい…」 「何か言うことはねぇのか。」 「…ただいま?」 「……」 「違いますね。…あの時は置いて行ってしまってごめんなさい。」 「……」 「ごめん。もうどこにも行かないから。」 「…その言葉、今度は嘘じゃねぇだろうな。」 「うん、嘘じゃない。」 「勘でもねぇだろうな。」 「勘でもないよ。今度こそずっとここにいる。」 あえて何があったか詳しくは聞かないが、本当に、もう彼女が未来に帰ることはないのだろう。そんな気がした。 複雑な気分ではあるが、彼女がこの時代を…もしかしたら自分を選んでここに残る選択をしてくれたのかもしれないと思うと、心苦しくもあるが、同時に震えるほど嬉しくもある。 なんだ、震えるほど嬉しいって。あの頃から何一つ進歩していないのか。ガキか俺は。 そのまましばし抱きすくめていても良かったが、ふと、重要なことを思い出し彼女を腕の中から解放した。 「じゃあ仕置きといこうや。」 「へ?」 「言ったろ。仕置きが必要だってな。」 「…帰ってきて早々?」 「関係ねぇ。こちとら10年待ったんだ。今更待てはなしだぜ。」 「わぁお…」 「10年分の鬱憤、たんと味わえよ。」 固まった彼女。 2人の間に流れるしばしの沈黙。 突然、弾かれたようにダッと勢いよくその場から駆け出し逃げ出そうとした彼女の襟首を寸でのところで掴み、そのまま米俵のごとく肩に担ぎあげた。 ずるい、だとか今のは常人の反応じゃなかった、とかほざき暴れている彼女は、まあ人の気も知らずに呑気なものである。 俺が一体どれほど待ったと思ってるのか。こちとら待ちすぎて体中に苔でも生えてしまいそうだ。勘弁してくれ。 「どうしてやろうか。」 「やっぱり狼じゃんかあ。」 「そのうち狼のほうがまだましだったと思うだろうぜ。」 「勘弁してよ、死んじゃうよ…」 「甘えてんじゃねえ。」 これから自分の身に起こるであろうことを想像し呆然としたのか、あるいはこれ以上の抵抗は無駄だと観念したのか、急に大人しくなった彼女を抱え直す。 されるがままの無言の彼女が気にかかり、『嫌なのか』と問うが返事がない。 自信がないわけじゃあないが、こうも反応が薄いと少し不安になる。 もう一度同じ質問を繰り返すと、 「嫌じゃない…ですよ。」 「そうか。」 「…なんか、こう、久しぶりで。」 「ああ。」 「なんだろうなぁ…嬉しくて。」 『ただいま』。 そう、幸せでも噛みしめるように言うものだから、聞かされるこちらは参ってしまう。 …なぜこうも人を試すようなことを平気で言うのか。確信犯だろうか。 「分かってやってるなら質が悪い…」 「え?」 「いや……これから楽しくなりそうだと思ってな。」 「げっ」 やっぱり降ろして下さいなどという彼女の願いは聞かぬふりをしてやる。 やはり今夜は楽しくなりそうだ。 月はあの時と同じように変わらず二人を照らしている。 ラブ・ ドラマティック 2020.4.30 -------------------- |
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