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林檎ステーション

夕陽を引っ張って汽車が来た。私はベンチから立ち上がり、重いトランクを持ち上げる。見上げた看板には、すすに汚れた「長春」の文字。握る切符は新京発莫斯科(モスクワ)行。白への旅。氷への旅。異国への旅。この世の果てに旅立つのだ。
露西亜では日本語は通じない。英語も通じるか分からない。そして私は露西亜語を知らない。ましてや貿易の交渉には高度な語学力が必要不可欠である。その事実だけで、これから先の雲行きというものは大体予想できるものだ。
ただ、折角行くからには何かしらの成果を残さなくてはならない。私は何があっても食らいつく覚悟でいた。場合にもよるが、二度と帰ってこないことも頭には置いている。
「『本日天気晴朗ナレドモ波高シ』、か……。」
人生の興廃はこの旅上にあり。私よ一層奮励努力せよ。
腹の空かせた獣の雄叫びのような音がして汽車が止まった。息を切らしてもうもうと煙を吐き出している。その大きさ。その金属光沢。その煩さ。その威圧感。随分と頼もしい存在ではないか。こいつが私を異界へと誘ってくれるのだ。そうだ私は一人旅ではない。この力強い汽車との二人旅である。弥次郎兵衛と喜多八、芭蕉と曾良。古来より二人旅は趣深いものとして描かれてきた。この旅は面白いものになる。何よりも縁起が良い。そう思わなければ私はやっていけなかった。
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