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犬と僕の暮らし

 遂に満月の夜が、来てしまった。未だ明確な答えを見つけられず、けれど山本はデーチモの誘いを無視することができない。
 いつも通りの夕食と、その片づけを終えた後。山本が出かける支度をして玄関で靴を履いていると、唐突に後ろから声がした。
「何してるの?」
「雲雀?」
 はっと振り返れば風呂上がりで黒いパジャマ姿の雲雀が、じいっと山本を見つめている。山本はへらりと笑って、答えを返した。
「ちょっと出かけてくるのな」
「……そんな物持って、どこに?」
「あ……」
 雲雀の小さな手が指さしたのは、山本が背負うバットケースだった。その中身――時雨金時を、雲雀は知っている。だから、問われたのだろう。
「次郎も小次郎も連れているし」
「……買い物?」
「もっとマシな嘘は言えないの?」
 不機嫌を隠さない雲雀に、山本は苦笑した。この場をどう取り繕えば、この頭の良い子供は騙されてくれるのか。
 ――いや、騙されるはずがないのな。
 自分に不利な結論を出して、山本は考えた。素直に言うつもりはない。雲雀はまだきれいな明るい世界の住人で、山本の今抱えている色々なモノとは無関係だ。だから、巻き込みたくはない。
「……悪いけど、答えられねえのな」
 突き放せば、雲雀は更に機嫌を下降させた。漆黒の瞳が半眼になって山本を睨む。やがて小さな言葉がこぼれ落ちた。
「あなたは狡い。僕に、何も言わない」
「ごめんな」
「帰ってこないつもりなの?」
「分からねえんだ。――俺はまだ、決めきれてないのな」
 困り顔で笑う山本には、それしか答えられない。未だ、山本は迷っていた。どうすれば、いいのか。神社に行って、自分は何をするのか、してしまうのか。それとも。
 ジョットに、己の中に答えがあると教えられても、彼はまだそれにたどり着けていない。近づいてはいるとは思っている。けれど、まだそれに手は届かない。
「俺は雲雀が大事だから。だから、言えない。帰ってくるかどうかも、何も、決めきれねえ」
「意味が分からないよ」
「俺にもわかんねえ」
「馬鹿みたい」
 雲雀は盛大に嘆息して壁に背を凭れさせる。そして、ぼそりと言った。
「行きたいなら行けばいい。僕にはあなたは止められないでしょう」
 諦観の言葉。この子供が折れることは稀だ。山本はただ、感謝するしかない。けれどありがとうなんて、言えない。
「……悪い」
 頭を下げて、山本は玄関の戸に手を掛ける。その背に、雲雀の声が掛かった。
「いってらっしゃい」
「…………」
 いつもは簡単にできる返事が、今日僅かにも口にすることができない。山本は無言のまま次郎と小次郎を連れて、雲雀の屋敷を出た。


*****


 山本が家を出ていってからも、雲雀は玄関から動かなかった。ずるずると壁に凭れた背がずり落ちて、彼はやがて冷たい床に腰を下ろす。
「…………」
 雲雀はじっと、閉ざされた戸を見つめていた。山本が帰ってくるか、確証なんて無い。もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない。
 どうしてか、それが雲雀には嫌で仕方なかった。
 一人でいることは平気だった。――いや、今もそれは同じだ。雲雀は基本的に群れることを嫌う。けれど。けれど、静まり返ったこの家が、今日はやけに不気味だった。
「…………」
「恭弥」
 不意に名を呼ばれ、雲雀ははっと顔を上げる。そこにいたのは黒のコートを着たアラウディだった。彼は雲雀の様子に何かを察したらしい。雲雀の見ていた玄関を見て、ぽつりと呟いた。
「もう行ったんだね」
 彼はまた雲雀に視線を落とし、呟きに疑問を抱いた雲雀が口を開く前に、言った。
「何をしているんだい?」
「…………どうして?」
 アラウディの問いに答えず、雲雀が自身の抱く問いを返せば。彼は小さく首を傾げて、返答をしてくれた。
「裏口から入った。合鍵は持っているからね」
「そういうことじゃない」
 自然早口になる雲雀に、アラウディは頷く。
「分かっているよ。――僕はね、いや、僕達は知っているんだ」 
 『僕達』。単独行動を是とするアラウディには珍しい単語だ。そして、アラウディはそのまま言葉を止めようとしない。雲雀は、低い声に耳をすませる。何も、聞き落とすことがないように。
「君の知らないことを。奇妙に張り巡らされた縁を」
「…………縁」
「良縁も有れば悪縁もある。それは当然のことだ。そして僕達は決めた。……誰一人、手を出さないと」
「どうして?」
「……答えを出すのは、彼等でないとならない。一人は元から答えを出していた。もう一人はずっと迷っている。……僕達は、その迷いに賭けた」
 迷っているのは、山本だろう。それなら、もう一人は。雲雀は考えて、すぐに気付く。山本と何かがあるらしい人間に。
 それは、デーチモなのだろう。
 山本はデーチモを嫌って、けれど何か、最近は迷っている様子だった。難しい顔をして考えることが、特にここ数日、多かった。
「…………」
 何も言わずにいる雲雀に、アラウディは問いを投げた。
「結果によっては、山本武はもう二度と此処へは戻ってこない。それでも恭弥、君は待ち続けるの?」
「…………待つよ」
 頷いて雲雀が答えれば、アラウディは少しだけ、意外そうな様子で。また問いかけてくる。
「それはどうして?」
「……分からない。けれど」
 雲雀はアラウディの先、静まり返った屋敷を見た。そしてそっと、口を開いて言葉の続きを紡ぐ。
「この家が静かなのに違和感があるんだ。……あいつのせいで変えられて、けど僕はそれを戻すのが、嫌だ」
「……昔の君なら、きっとそうは言わなかったね、恭弥」
 ふいと、アラウディの纏う気配が緩む。それは昔々、まだアラウディの許に身を寄せていた頃を思い出させた。ぽんぽんと、幼い子供をあやすように、アラウディは微かに笑んで雲雀の頭を撫でる。昔と同じように。
「僕は嬉しいよ。恭弥。君が、変わっていくことが」
「アラウディ?」
「君が成長していくことが。新しいことを知って、世界を広げていくことが。……だから僕は、僕達は願わずにはいられないんだ」
 これが、あのアラウディの言葉なのか。
 雲雀は漆黒の瞳を丸くして彼を見上げる。こんなアラウディの姿は見たことがなかった。そもそも彼がこんなに饒舌なことが、なかった。
 薄青の瞳は、優しげな、悲しげな光を灯して。静かな声がしんとした屋敷に降り注ぐ。
「僕達が祝福した子供達の、幸いを」
「…………」
「話しすぎたね。……君はすぐ風邪をひくから部屋に戻った方がいい。明日も学校だろう?」
「嫌だ」
「……だろうね」
 きっぱりと言い返す雲雀にそれ以上何も言わず、アラウディは踵を返す。しばらくしないうちに彼は雲雀の毛布を手に、肩と頭にロールと小鳥を乗せて戻ってきた。
「……その子達も寝てなかったの?」
「君が起きているなら、起きているだろうね。ほら、毛布を使って」
「…………ありがとう」
 毛布を受け取れば、小鳥もロールも雲雀の側に寄って一人と一羽と一匹、毛布にくるまる。雲雀はまたアラウディを見上げて、問うた。
「あなたは山本を信じているの?」
「……僕より君の方が信じているだろう?」
 はぐらかすように言って、アラウディはまた雲雀の頭を撫でる。そして手を離すとポケットから携帯電話を取り出した。いくつか操作して、彼はくるりと雲雀に背を向け、言った。
「じゃあ、僕は帰るよ。ちゃんと暖かくしておくこと、いい?」
「分かってる」
「なら、いいよ」
「……アラウディ」
「なに?」
 振り返ったアラウディに、雲雀はひとつ、頼みごとをした。すると、アラウディは僅かに首を傾げてまた、問う。
「いいけど。どうするの、それ?」
「使うよ」
「…………そう。ちゃんと使えることを祈るよ」
 そうして、もうアラウディは振り返らない。雲雀はまた玄関に視線を向けて、待ち続けた。


*****


 石段を登りながら、山本は空を見上げた。雲の少ない夜空には散らばるように星がまたたき、満月が闇をやわらかに照らす。元から人気のないこの場所は、夜ともなればしんと静まり返って。耳をすませても、山本と次郎の足音、そして小次郎が羽ばたく音しか聞こえない。
 視線を僅か下ろす。月の下に、鳥居が見えた。
「……この先に」
 この先に、デーチモが待っている。あの日聞いた言葉が嘘ではないのなら、化け物退治を望んで、山本を待っている。
 境内に入れば、件のデーチモは社の低い石段に腰掛けていて。彼は山本をすぐに見つけ、声を掛けた。
「ちゃんと来たんだ」
 布包みを解き、出した時雨金時を刀の姿にしながらも山本は一歩ずつ、デーチモに近づいていく。デーチモは刀に一度目を落として、けれどその場から立つことさえしない。彼はいつものように腕には子ライオンを抱いて、仕事中にはつけているグローブも、見あたらなかった。
「何で、俺を呼びだしたのな」
 鍔を鳴らし刀を向けた山本の問いに、デーチモは淡々と答えを返す。
「決着をつけたくて」
「丸腰でか?」
 図星を突けば、デーチモはもう一度刀に目を落とし、その視線を自分の手と子ライオンに移し、そうして顔を上げると薄く笑って頷いた。
「……そうだね」
「死にてえのか」
 山本の声は静かに、燃えているようだった。デーチモはふうと息を吐いて、呟くようなトーンで答えた。琥珀色の瞳は山本から僅かそれて、空を見る。
「オレはね、いつか、殺されるって、ずっと思ってた。昔から――デーチモっていう名を貰う前から。憎まれて恨まれて、殺されるんだって。それが、当たり前だって」
「…………」
「君は、オレを憎んでるだろう」
 答えられなかった。向けた刀を動かすことも、できなかった。微動だにしない山本に首を傾げたデーチモは、
「ああ、でも」
 と声を漏らす。それには、山本は問いを投げることができた。
「何だ?」
 聞けばデーチモは腕に抱いた子ライオンを示した。そうして、申し訳なさそうに願う。
「ナッツのこと、見逃してくれないかな。本当は連れてくるつもりじゃなかったんだ」
「がうがう‼」
 視線を下ろせば、デーチモの腕に抱かれた子ライオンがオレンジの瞳をきりりとつり上げて、山本に向けて吠えた。威嚇だろう、か。いまいち威圧感の足りないそれに、デーチモは淡い笑顔のまま眉を下げて、そのたてがみをを撫でると窘める。
「こら、やめなよナッツ。……だから、留守番しててって言ったろ?」
 けれど子ライオンは止めない。怖いのか、ふるふると震えながらも、山本をしっかと見上げてぐるぐると唸る。必死な様子が逆に山本の頭を冷やし、平静に傾けた。
「こいつ、あんたの何?」
「…………はじめての友達、かな」
 ともだち。
 思いもしない回答に山本は薄茶の瞳を瞬かせる。けれど次郎や小次郎だって、山本にとっては相棒で――言ってみれば、友にも等しい。
 そういえば、次郎とこいつは。思い出して、山本はまた聞いた。
「こいつが次郎と一緒にいたんだよな」
「うん。それで、二匹まとめて連れて帰っちゃった」
「何で次郎のこと、助けたのな?」
「……なんでだろ」
 ふ、とこぼして。数秒考えたデーチモは、子ライオンを見下ろすと、ぽつり言った。
「オレが、ナッツがいないとさびしいからかな。次郎も、恋しがってたし」
 さびしい。その一言に、ずっと絡まり続けていた糸が、解けた気がした。
 同じだ。山本はようやく気付く。父を喪って、自分は、さびしかった。たった一人の家族だった。だからその原因を憎んだ。次郎や小次郎とはぐれた時も、気付かなかったけれどさびしかった。
 ――それなら、こいつだって。
「逆は?」
「え?」
「……あんたがいなくなったら、そいつはどうなるんだ」
「………………」
 デーチモは答えない。その腕の中、子ライオンはがう、と小さく吠えて、じっと少年を見上げている。
「そいつも、さびしいんじゃねえのか?」
「…………」
「……それなら、もう、あんたと争いたくない。争えねえ。俺はそいつを、昔の俺にしたくない。そりゃあさ、親父のことは許せねえけど……けど、殺したりはしない。……次郎とか雲雀とか、色々と助けて貰ってるし」
 山本が子ライオンに手を伸ばせば、ナッツは一度吠えて指先に噛みつき――けれど困ったように、山本を見上げた。
「ごめんな、怖がらせて」
 山本がそう言って笑えば、そわそわと身じろぎして、薄く血のにじむ指先をペロペロと舐める。
 その間も、デーチモは何も言わなかった。ただ、琥珀色の瞳を驚きに染め抜いて、山本をじっと見ている。
「なん、で?」
 ようやくデーチモからこぼれ落ちた疑問。それに山本ははっきりと答えられた。
「あんたを大事な奴が、いるだろ」
「でも、だってオレは――」
「あんたは化け物じゃねえよ。ずっと言ってた俺が言うのもどうだかと思うけど……その辺は悪かった」
「………………」
 謝罪にまた、デーチモは言葉を無くす。様子が違うことに気が付いたのか子ライオンは心配そうに彼を見上げて、ぴとりとその腕にくっついて離れない。それがなんだか雲雀とハリネズミと小鳥を思い出させて、山本は無意識に呟いていた。
「帰らなきゃな」
 わん、と彼の足下で次郎が答えるように吠え、小次郎も同意するようにぴい、と鳴く。山本は刀を布包みに納め背負うと、まだ呆然としているデーチモに呼びかけた。
「お前も、早く帰れよ」
 こんなことをこいつに言う日が来るなんて。少しおかしくて、奇妙で、けれどどうしてか、悪くはない。返事がないのも当然だろうと思って、彼は鳥居へと足を向けた。
 満ちた月が、山本達を見下ろしている。神社の長い石段を下りる。早く帰らないと。山本はひたすらに思う。どうしてか、心が急いていた。
 前も、こんな風に走って帰ったな。どこか他人事のように、冷静でいる自分のぼやきが聞こえるようで、けれど足は止まらない。
 帰らないと。そればかりが、山本の頭を占めていく。目に入る景色が見慣れたものになりやがてよく知った屋敷が見えて。その時、山本の中に芽生えた感情は、安堵だった。
「…………あれ?」
 山本は呟いた。もう、真夜中だ、雲雀だってとうに眠っている時間だろうに。外から見た雲雀の屋敷は、玄関が明るかった。
 屋敷の戸を開けると、どうしてか、山本を見送った雲雀がその時と全く同じ場所で、毛布に埋もれていた。音に気付いて視線をあげたらしい漆黒の瞳が山本を捉える。それが僅か――微かに、喜色を見せたような、気がした。
「おかえり」
 山本が何も言わないうちに、雲雀はそう言って山本を迎えた。彼は立ち上がり毛布を引きずって、小さな裸足が玄関のマットを踏む。
「早かったね」
「…………雲雀」
 ただいまとさえ言えず、山本は雲雀の小さな身体を抱きしめた。毛布にくるまっていたせいか、山本の身体が外気で冷えていたせいか、あたたかくて仕方ない。
 薄色の瞳にじわりと涙が溜まるのを、山本は止められない。頭を雲雀の肩に埋めるよう寄せて、彼はぽつりと言葉を漏らした。
「デーチモ、殺せなかった」
「そう」
 何も知らないはずなのに。雲雀は驚きもせず、いつも通りの子供らしくない平坦さで、声を返した。
「あいつ……親父の仇だったのに…………できなかった…」
「……」
「ずっと、憎かったのに」
「……そう」
 雲雀は、否定も肯定もしなかった。ただ、山本の言葉を受け止めて、頷いた。毛布で暖かだった身体が冷やされているだろうに、怒ることもしない。夜のしんとした空気と冷えた温度に、声が小さく響いては消えていく。
 いつまで、それが続いたか。山本には分からない。
「ねえ」
 山本が何も言えなくなれば、ようやく雲雀は相槌以外の言葉を紡ぐ。山本はようやく雲雀から離れて、涙に濡れた薄茶で雲雀を見下ろした。
「なんなのな?」
「明日の晩は、ハンバーグがいい。大根おろしのやつ」
 こいつは、変わらない。その事実が、どうしてか何よりも嬉しくて、山本は泣き笑いを浮かべていた。
「……雲雀はそればっかなのな」
「貴方が作るとおいしいから」
 ほんのりと、雲雀も笑みを返した。和らぐ雰囲気を敏感に察知した次郎と小次郎が山本の身体にすりついて。それにも、山本は笑う。ハリネズミと小鳥を手に、雲雀が小さくこぼした。
「にぎやかだね」
「サビシクナイ?」
 ロールはご機嫌な鳴き声で返事をして、黄色の小鳥は意味深な問いかけを雲雀に投げる。小鳥のくちばしをつついて、雲雀は口を尖らせた。
「さびしかったことなんてないよ、これからもね」

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