犬と僕の暮らし
雲雀の家へ掛かった電話の主はアラウディで。彼は山本に静かに、『答えが出たよ』とだけ言った。これるならすぐにおいで。その言葉に従い、山本は足早にアラウディの住居へ向かう。
今日は、一人で。次郎も小次郎もロールも、代わりに留守番を買ってでた草壁に預けてきた。なんだかそういう気分だった。
「やあ、山本武。早かったね――それ、飲んでいいよ。百花蜜を貰ったんだ」
いつも通りの書斎に通され、冷えたレモネードを指さして言ったアラウディはやはりいつも通りで。ほのかに蜂蜜が甘い檸檬味を飲み干して、山本は口を開いた。
「それで、答えって」
急く山本に、アラウディは淡々とした答えを落とした。
「君の言うとおりだったよ」
「……っ、それって」
「君の父親を殺したのは、あの子だ。けど――」
「何か、あるのか?」
声を途切れさせたアラウディに問えば、彼は一度デスクの書類に目を落として、また顔を上げるとこんなことを言った。
「……ひとつ、断っておきたいことがある」
そうして、山本が返事をする前にアラウディは言葉を続けた。
「これはあの子を擁護するつもりで言ってるんじゃない。ただ、僕の知人の誇りに掛けて、言っている」
「何なのな?」
「君の父親を殺したのは間違いなくあの子だ。けれど、『デーチモ』ではない」
「…………は?」
目を丸くして言葉の意味を探る山本に、アラウディは言葉を止めなかった。
「『デーチモ』はね、人を殺さないようになっているんだよ。……あれは、甘い男だから」
アラウディの、その後半の呟きは意味が分からなかった。しかしそれ以外は――考えて、山本は頷いた。確かに、今まで任務ではち合わせたり偶然出会ったデーチモから明確な殺意を向けられたりは皆無だ。それを受けたのは一度だけ。あの、神社での一件だけだった。
「言ってしまえばね。その当時――君の父親を殺したときのあの子は、まだ『デーチモ』ではなかった。……まあ、君にはあまり関係はないかもしれないね」
また独り言のような言葉を吐いて、アラウディはふうと溜息を吐く。そんな彼に、ふと問いたくなって。山本はそれを投げた。
「なあ、アラウディさん。デーチモは、化け物なのか?」
「あれは人間だよ」
アラウディは、薄青の瞳で山本をじっと見て、答えた。静かな静かな言葉が、部屋に響く。
「深く傷つけば死ぬ。病気にもなる。パンケーキが好きであれに似て甘党の、只の人間だ」
「…………」
「ボンゴレも同じ。似たような異能を持った人間の集団。……そんなに、信じられないかい?」
山本の表情を見たのか、かくりと首を傾げるアラウディの仕草は雲雀に似ている。彼の言葉と一致しない声が、山本の脳裏に蘇った。静かな、少年の声。
「だって、あいつは……」
「あの子が、何か言っていたのかい?」
「自分は、化け物だって」
「…………そう」
言えば、あの子は、相変わらずだね。そうアラウディはぼやく。彼は何故か悲しそうな表情で、ふいと山本から目を逸らした。
再び口を開いた彼の言葉は、けれど違うことを――それでも、先ほどの話からそう離れない場所に降りる。
「そうだ、この間の問題の答えを聞こうか。あの子をはじめに化け物と呼んで忌み嫌うのは、誰?」
「…………わかんねえ。……分かんなくなったんだ。あいつが」
「そう」
山本の正直な言葉を、アラウディは否定しない。肯定もなく、ただ聴こうとする。
「自分で自分は化け物って言うし、その癖雲雀のこと助けたり、次郎のことだって拾って連れてきて、別に何もしてねえみたいだし……訳わかんねえ」
深い優しささえ滲ませる琥珀色と、憎んでも憎みきれない橙色の炎が、山本の中でどうしても一致しなかった。同じ人間だとははっきりしているのに、どうしても、そう思えない。
「じゃあ落第だね。……といっても、別に咎も何も用意していないんだけど」
「答え、教えてくれねえか?」
逡巡して、請えば。アラウディはまだわからないの、と不思議そうに答えた。
「少し考えれば、分かるだろう。……あの子を執拗に化け物と呼称する人間は、誰だい?」
「…………」
山本ではないと、以前アラウディは言っていた。そして山本は、自身以外にデーチモを化け物と呼んだ人間に、最近会っている。それは――。
「…………デーチモ、自身?」
「そうだよ」
頷きに、山本の混乱が募る。分からないことばかり増えていく中で、彼は必死になってアラウディに問いかけた。
「何で」
「そう、思いこんでいるから。誰より何よりも、あの子があの子自身を縛り付けている。――あれでも、少しはましになったんだけれどね」
淡い笑顔。彼はどうしてか、デーチモに優しい。知り合いだからか。それとも、他に理由があるのだろうか。
「まあ、何にせよ僕は、君があの子を殺そうと、止めはしない」
はっきりとした言葉に山本はびくりと身を震わせる。憎しみの形を明確な形へ形成されるのは、初めてだった。
「…………俺は」
否定は、できない。返答に詰まる山本にも、アラウディは笑い掛ける。
「選ぶのは君だよ、山本武。君の全てを掛けて、選ぶといい。――誰も、それを止めることも咎めることもできない」
決意に対する人間の無力さを、アラウディは知っているのだろう。山本は、何も答えられず、ただアラウディに頭を下げた。
*****
それから数日、山本と雲雀は珍しく険悪な雰囲気で睨み合っていた。 む、と眉間に皺を寄せ全く子供らしくない表情で、雲雀は山本を見上げた。そうして、ぼそりと答える。
「聞かないよ、君に指図される筋合いはない」
「けど、デーチモは」
「化け物、って言うんでしょう。貴方、しつこいよね」
先手を打って答えれば山本は溜息を吐いて頭を掻く。
平行線の会話はひたすらに交わらない。雲雀に、デーチモに近づくなと言う山本と、それを束縛と拒み嫌がる雲雀と。だんだんと両者の機嫌は悪くなって。先に、雲雀が会話を投げた。
「僕に指図するな」
ぶすりとした表情で言い捨てて、雲雀は山本の脇を通り過ぎる。止める声も無視をして玄関から、外へ出て。
空だけが青くて、雲雀は溜息を吐く。そうして、振り向かず歩きだした。
山本は、追ってこなかった。
あてもなく歩けば、足は自然といつもと変わらないルートを進む。いつも小鳥に餌を遣る公園までたどり着いて、辺りを見回し――ふと雲雀は公園の隅に生える大きな木で目を留めた。その根元、木陰になった場所に誰かが寝転がっていた。
ツンツンの茶の髪。小柄な身体。傍らに、オレンジ色の毛玉。
「…………ワオ」
それは山本と口論する原因になった人間、デーチモだった。何の因果か偶然か、彼はこんな公園で昼寝をしている。
「暢気なものだね」
腹が立つわけではないが、少しだけ気に食わない。文句の一つでも言ってやろうかと歩み寄った雲雀の足が、少年まであと一歩と言うところで止まった。
足音に目覚めたのかぱちりとデーチモの目が開いて。刹那、雲雀の背が粟立った。ゆらりと起き上がり、デーチモは無言で雲雀を見遣る。その瞳は、冷たい橙色に燃えていた。
「……っ!」
動くことができなかった。以前、雲雀を誘拐した時に見せた橙色の瞳とは、異なっている。あの時には微塵も感じなかった、鋭く純粋な害意――殺意。
しかし、デーチモはどうしてか雲雀をじっと見たまま動かず、雲雀も足を動かすことができない。
空気まで止まりそうな硬直の中動いたのは、オレンジの子ライオンだった。
「がう!」
吠えた子ライオンは短い足で草の地面を蹴ると、デーチモの指先に噛みついた。
「痛ったあ‼」
上がった悲鳴は情けなかった。
ぱっと瞬きをした瞬間に橙の色は琥珀に消え、無表情だったデーチモは眉を下げて手を押さえる。直後彼は雲雀に気づいて、息を呑むと雲雀と傍らの子ライオンをきょろきょろと見比べた。
「……戻った…?」
雲雀の呟きに、デーチモは表情を青ざめさせて子ライオンを抱き上げる。そうして、おどおどと雲雀に問いかけた。
「雲雀さん……ごめんなさい、あの、オレに何もされてませんか?」
「……されてない」
首を振れば、ほっと息を吐いてデーチモは腕の子ライオンを撫でる。子ライオンは噛んだ指先をぺろぺろと舐めてくうんと鳴いた。
「ナッツが起こしてくれたからかな。よかった、雲雀さんに何ともなくて」
「……今のは、何なの?」
問えば、デーチモはへなりと眉を下げた。そうして、信じてくれなくてもいいですけどと小さく言って、答えを返す。
「オレ、寝起きが悪いんです。それでちょっと……その、びっくりさせるようなことしちゃって……ごめんなさい」
ぺこりと下がる頭に拍子抜けをした雲雀は首を静かに横に振って答える。
「僕こそ悪かったよ、眠りの邪魔をして」
デーチモには、なぜか素直に謝れた。するとデーチモはきょとりと雲雀を見て、首を傾げる。そうして、こう言ってきた。
「雲雀さんはオレのこと怖くないんですか?」
「どうして」
雲雀の返答は、否定に等しい。それが意外だったのかデーチモはまごまごとしながらも、言葉を重ねた。
「化け物って言ってるでしょう、山本が」
「関係ないよ」
「関係ないって……」
「君は人間だろう」
言い切る雲雀に、デーチモは首を否定に動かし、淡く笑った。
「オレは、化け物ですよ。たまにああなっちゃうし」
「……それでも、僕にはそう見えないよ」
「今は、がんばってますから」
笑顔のまま、眉を下げてデーチモはそう答える。がう、と吠えた子ライオンにお前もがんばってるもんな、さっきはありがとう、と優しい言葉を掛けたデーチモは立ち上がり、茜に染まる空を見上げた。
「そろそろオレ、帰らないと。雲雀さんも早く帰った方がいいですよ、山本心配してると思うし」
「あれは関係ない」
「……喧嘩中でしたか?」
君のせいだよ。言えず、雲雀はそっぽを向いた。
*****
山本にも謝らないといけないのだろうか。そう考えながらまたあてどなく歩く雲雀の目の前で、一台の車が止まった。どこかで見たことのあるその車の、雲雀の側――助手席側の窓が開き、奥から運転手が顔を覗かせる。
赤と青のオッドアイ。六道骸だった。妙な奴に見つかった。身構える雲雀に、骸は声を掛ける。
「おや、こんな所にいたんですか。山本武が探していましたよ」
「……帰らないよ」
即答に、骸はクフフと笑って目を細める。不思議がる雲雀に、骸は手を伸ばすと助手席側のドアを開けて彼を手招きした。
「帰らないのは構いませんが、そろそろ子供の出歩く時間ではありませんよ。僕の家にでもおいでなさい」
躊躇は、すぐに諦めに変わる。少しでも家に帰る時間を遅らせたくて、雲雀はその誘いに乗った。
骸の車は当然のように彼の住まうマンションへ向かい、雲雀はおとなしく、六道家に二度目の訪問をすることになった。しかし、凪の姿はない。茶の仕度をする骸に問えば、
「今日はお友達の家でお菓子を作って、晩ご飯までいただいてくるそうです」
と返事をされた。紅茶の入ったマグカップを雲雀に手渡し、向かい合わせに座って骸は言う。
「山本武が探していましたよ」
「知らない」
雲雀がそっぽを向いて答えても、初めから分かっていたのか骸は動じることもなかった。ぽん、と彼は新しい言葉を投げる。
「寂しがってますよ。理由は知りませんが反省もしていました。あれにしてはやけに素直ですね」
「……僕はなにもしてない」
「それでは、何が原因なんです?」
「…………デーチモに近づくなって、うるさい」
ずけずけとされた問い。それにこぼした答えに、骸はクフフと笑ってやっぱり喧嘩してるんじゃないですか、と言う。
「あれはデーチモを嫌っていますからねえ」
「どうして」
「さあ。僕はよく知りません」
「…………じゃあ、」
雲雀は質問を変えることにした。こいつは、六道骸は、ただ者ではないだろう。山本のように簡単な奴でもない。
「あなたは、デーチモをどう思う?」
「はい?」
問いが意外だったのか、骸もきょと、とした様子で雲雀を見た。とりあえず知らないという訳ではないようだ。そこをまず安堵して、雲雀は言葉を足す。
「あれは、自分を化け物だと言った」
「……親しいのですか?」
「偶然会っただけだよ」
答えた雲雀を、骸は咎めなかった。一度色違いの瞳を瞬きさせて、彼はじいと雲雀を見下ろす。
「そうですか。彼を、どう思うか…………これは僕の私見です、それでも構いませんか?」
前置きに頷くと、骸は大きな溜息を吐いて、答える。
「化け物――何を馬鹿なことを言っているのでしょうね。この世に化け物など、いるはずがないでしょう」
「じゃあ、何だというの」
「少々異質ではありますが、ただの人間ですよ」
「…………」
言い切られるとは思わず。雲雀は言葉を失う。そんな雲雀に笑んで、内緒ですよ、と骸は口元に人差し指を当てた。
「まあ、僕はこれを山本武に言ったことはありません。聞き入れられるとは思いませんし」
「そうだろうね」
それに、と骸は曖昧な表情で笑った。
「そもそも、僕はデーチモをあまり知りません。相手ができないんです」
「どういうことなの、それ」
聞き返せば、簡単な話だと骸は説明をしてくれた。赤い右目を押さえて彼はぼやくように言う。
「彼と僕はいわゆる商売敵の関係ですが、正直な所……彼の相手をするに僕は無力なのですよ。詳しいことは言えませんが」
「そう」
「けれど、思ったことはあります。あれは、恐らくは地獄を見た人間なのだと」
「地獄って、化け物は否定して地獄はあるって言うのかい?」
冷笑した雲雀に、骸はあるかもしれないじゃないですか、と意味深な返事をして。
「物の例えですよ。この世の地獄、世界の一番深淵の、光すら届かない、澱み忌まれる場所。彼はそこで生きていたのではないでしょうか」
「…………」
雲雀には、その世界が分からなかった。想像もつかない。――だからこそ、骸はそれを地獄と呼んだのだろうと、考えた。
そうして骸もそれを知らないのだという。
「幸いにも、今生の僕はそれを知りません。僕自身、多少人から外れた物を持っていますが、それなりに幸福に生きてしまっていますので。だから、これは想像でしかありません」
「確かめないの?」
「その必要はありません。地獄など、知らない方がいいのです。わざわざのぞき込むの愚か。僕の師はそう言いました。……おや、もうこんな時間ですね」
さあ、帰りなさい。手を引かれ立ち上がらされ、そうして雲雀は骸に背を押され、反抗もできず玄関に立たされる。
「謝らないよ」
強がりにも、やはり骸は笑った。
「まあ、君も彼も強情だった、ということで」
骸が手をかける前に開いたドアが開く。
その向こうには、困り顔の山本がいた。彼ははっと雲雀を見て、眉を下げる。
「雲雀……」
山本が二の句を紡ぐ前に、雲雀は彼の脇を通り抜け、
「帰るよ」
と告げた。山本は少しだけ硬直して、すぐに立ち直り頷き返す。
「お、おう。骸、サンキュな!」
「貸しておきます。積み立て分、そのうちまとめていただきますよ」
ひらひらと骸に手を降られ、山本は苦笑いを浮かべてちいさく手を振りかえした。
帰る足取りは、重いような軽いような。山本は幼い背中を追う。先をゆく雲雀がふいに立ち止まって、山本がその隣に追いつくと、小さな声で言った。
「謝らないよ」
「……」
まだ、怒っているのだろうか。しかし雲雀は山本の返事も待たずに言葉を続けた。
「だから、あなたも謝らなくていい」
「雲雀?」
聞いても、それ以上は答えない。ふいに山本を見上げた雲雀は、すっかりいつも通りの様子で不満を訴えてくる。
「帰るよ、晩ごはんまだなんだ」
「そうだな」
考えてみれば山本だって夕飯はまだだ。雲雀を探してすっかり遅くなってしまった。
「何なら、どっかで買って帰るか?」
「やだ。あなたが作るものの方が、おいしい」
それだけで気分が浮上してしまう自分を単純だと内心罵って、しかし山本は笑顔になった。
「じゃ、今日も腕を振るうのな!」
あなた、本当に単純だね。同じことを口にした雲雀がようやく笑った。
今日は、一人で。次郎も小次郎もロールも、代わりに留守番を買ってでた草壁に預けてきた。なんだかそういう気分だった。
「やあ、山本武。早かったね――それ、飲んでいいよ。百花蜜を貰ったんだ」
いつも通りの書斎に通され、冷えたレモネードを指さして言ったアラウディはやはりいつも通りで。ほのかに蜂蜜が甘い檸檬味を飲み干して、山本は口を開いた。
「それで、答えって」
急く山本に、アラウディは淡々とした答えを落とした。
「君の言うとおりだったよ」
「……っ、それって」
「君の父親を殺したのは、あの子だ。けど――」
「何か、あるのか?」
声を途切れさせたアラウディに問えば、彼は一度デスクの書類に目を落として、また顔を上げるとこんなことを言った。
「……ひとつ、断っておきたいことがある」
そうして、山本が返事をする前にアラウディは言葉を続けた。
「これはあの子を擁護するつもりで言ってるんじゃない。ただ、僕の知人の誇りに掛けて、言っている」
「何なのな?」
「君の父親を殺したのは間違いなくあの子だ。けれど、『デーチモ』ではない」
「…………は?」
目を丸くして言葉の意味を探る山本に、アラウディは言葉を止めなかった。
「『デーチモ』はね、人を殺さないようになっているんだよ。……あれは、甘い男だから」
アラウディの、その後半の呟きは意味が分からなかった。しかしそれ以外は――考えて、山本は頷いた。確かに、今まで任務ではち合わせたり偶然出会ったデーチモから明確な殺意を向けられたりは皆無だ。それを受けたのは一度だけ。あの、神社での一件だけだった。
「言ってしまえばね。その当時――君の父親を殺したときのあの子は、まだ『デーチモ』ではなかった。……まあ、君にはあまり関係はないかもしれないね」
また独り言のような言葉を吐いて、アラウディはふうと溜息を吐く。そんな彼に、ふと問いたくなって。山本はそれを投げた。
「なあ、アラウディさん。デーチモは、化け物なのか?」
「あれは人間だよ」
アラウディは、薄青の瞳で山本をじっと見て、答えた。静かな静かな言葉が、部屋に響く。
「深く傷つけば死ぬ。病気にもなる。パンケーキが好きであれに似て甘党の、只の人間だ」
「…………」
「ボンゴレも同じ。似たような異能を持った人間の集団。……そんなに、信じられないかい?」
山本の表情を見たのか、かくりと首を傾げるアラウディの仕草は雲雀に似ている。彼の言葉と一致しない声が、山本の脳裏に蘇った。静かな、少年の声。
「だって、あいつは……」
「あの子が、何か言っていたのかい?」
「自分は、化け物だって」
「…………そう」
言えば、あの子は、相変わらずだね。そうアラウディはぼやく。彼は何故か悲しそうな表情で、ふいと山本から目を逸らした。
再び口を開いた彼の言葉は、けれど違うことを――それでも、先ほどの話からそう離れない場所に降りる。
「そうだ、この間の問題の答えを聞こうか。あの子をはじめに化け物と呼んで忌み嫌うのは、誰?」
「…………わかんねえ。……分かんなくなったんだ。あいつが」
「そう」
山本の正直な言葉を、アラウディは否定しない。肯定もなく、ただ聴こうとする。
「自分で自分は化け物って言うし、その癖雲雀のこと助けたり、次郎のことだって拾って連れてきて、別に何もしてねえみたいだし……訳わかんねえ」
深い優しささえ滲ませる琥珀色と、憎んでも憎みきれない橙色の炎が、山本の中でどうしても一致しなかった。同じ人間だとははっきりしているのに、どうしても、そう思えない。
「じゃあ落第だね。……といっても、別に咎も何も用意していないんだけど」
「答え、教えてくれねえか?」
逡巡して、請えば。アラウディはまだわからないの、と不思議そうに答えた。
「少し考えれば、分かるだろう。……あの子を執拗に化け物と呼称する人間は、誰だい?」
「…………」
山本ではないと、以前アラウディは言っていた。そして山本は、自身以外にデーチモを化け物と呼んだ人間に、最近会っている。それは――。
「…………デーチモ、自身?」
「そうだよ」
頷きに、山本の混乱が募る。分からないことばかり増えていく中で、彼は必死になってアラウディに問いかけた。
「何で」
「そう、思いこんでいるから。誰より何よりも、あの子があの子自身を縛り付けている。――あれでも、少しはましになったんだけれどね」
淡い笑顔。彼はどうしてか、デーチモに優しい。知り合いだからか。それとも、他に理由があるのだろうか。
「まあ、何にせよ僕は、君があの子を殺そうと、止めはしない」
はっきりとした言葉に山本はびくりと身を震わせる。憎しみの形を明確な形へ形成されるのは、初めてだった。
「…………俺は」
否定は、できない。返答に詰まる山本にも、アラウディは笑い掛ける。
「選ぶのは君だよ、山本武。君の全てを掛けて、選ぶといい。――誰も、それを止めることも咎めることもできない」
決意に対する人間の無力さを、アラウディは知っているのだろう。山本は、何も答えられず、ただアラウディに頭を下げた。
*****
それから数日、山本と雲雀は珍しく険悪な雰囲気で睨み合っていた。 む、と眉間に皺を寄せ全く子供らしくない表情で、雲雀は山本を見上げた。そうして、ぼそりと答える。
「聞かないよ、君に指図される筋合いはない」
「けど、デーチモは」
「化け物、って言うんでしょう。貴方、しつこいよね」
先手を打って答えれば山本は溜息を吐いて頭を掻く。
平行線の会話はひたすらに交わらない。雲雀に、デーチモに近づくなと言う山本と、それを束縛と拒み嫌がる雲雀と。だんだんと両者の機嫌は悪くなって。先に、雲雀が会話を投げた。
「僕に指図するな」
ぶすりとした表情で言い捨てて、雲雀は山本の脇を通り過ぎる。止める声も無視をして玄関から、外へ出て。
空だけが青くて、雲雀は溜息を吐く。そうして、振り向かず歩きだした。
山本は、追ってこなかった。
あてもなく歩けば、足は自然といつもと変わらないルートを進む。いつも小鳥に餌を遣る公園までたどり着いて、辺りを見回し――ふと雲雀は公園の隅に生える大きな木で目を留めた。その根元、木陰になった場所に誰かが寝転がっていた。
ツンツンの茶の髪。小柄な身体。傍らに、オレンジ色の毛玉。
「…………ワオ」
それは山本と口論する原因になった人間、デーチモだった。何の因果か偶然か、彼はこんな公園で昼寝をしている。
「暢気なものだね」
腹が立つわけではないが、少しだけ気に食わない。文句の一つでも言ってやろうかと歩み寄った雲雀の足が、少年まであと一歩と言うところで止まった。
足音に目覚めたのかぱちりとデーチモの目が開いて。刹那、雲雀の背が粟立った。ゆらりと起き上がり、デーチモは無言で雲雀を見遣る。その瞳は、冷たい橙色に燃えていた。
「……っ!」
動くことができなかった。以前、雲雀を誘拐した時に見せた橙色の瞳とは、異なっている。あの時には微塵も感じなかった、鋭く純粋な害意――殺意。
しかし、デーチモはどうしてか雲雀をじっと見たまま動かず、雲雀も足を動かすことができない。
空気まで止まりそうな硬直の中動いたのは、オレンジの子ライオンだった。
「がう!」
吠えた子ライオンは短い足で草の地面を蹴ると、デーチモの指先に噛みついた。
「痛ったあ‼」
上がった悲鳴は情けなかった。
ぱっと瞬きをした瞬間に橙の色は琥珀に消え、無表情だったデーチモは眉を下げて手を押さえる。直後彼は雲雀に気づいて、息を呑むと雲雀と傍らの子ライオンをきょろきょろと見比べた。
「……戻った…?」
雲雀の呟きに、デーチモは表情を青ざめさせて子ライオンを抱き上げる。そうして、おどおどと雲雀に問いかけた。
「雲雀さん……ごめんなさい、あの、オレに何もされてませんか?」
「……されてない」
首を振れば、ほっと息を吐いてデーチモは腕の子ライオンを撫でる。子ライオンは噛んだ指先をぺろぺろと舐めてくうんと鳴いた。
「ナッツが起こしてくれたからかな。よかった、雲雀さんに何ともなくて」
「……今のは、何なの?」
問えば、デーチモはへなりと眉を下げた。そうして、信じてくれなくてもいいですけどと小さく言って、答えを返す。
「オレ、寝起きが悪いんです。それでちょっと……その、びっくりさせるようなことしちゃって……ごめんなさい」
ぺこりと下がる頭に拍子抜けをした雲雀は首を静かに横に振って答える。
「僕こそ悪かったよ、眠りの邪魔をして」
デーチモには、なぜか素直に謝れた。するとデーチモはきょとりと雲雀を見て、首を傾げる。そうして、こう言ってきた。
「雲雀さんはオレのこと怖くないんですか?」
「どうして」
雲雀の返答は、否定に等しい。それが意外だったのかデーチモはまごまごとしながらも、言葉を重ねた。
「化け物って言ってるでしょう、山本が」
「関係ないよ」
「関係ないって……」
「君は人間だろう」
言い切る雲雀に、デーチモは首を否定に動かし、淡く笑った。
「オレは、化け物ですよ。たまにああなっちゃうし」
「……それでも、僕にはそう見えないよ」
「今は、がんばってますから」
笑顔のまま、眉を下げてデーチモはそう答える。がう、と吠えた子ライオンにお前もがんばってるもんな、さっきはありがとう、と優しい言葉を掛けたデーチモは立ち上がり、茜に染まる空を見上げた。
「そろそろオレ、帰らないと。雲雀さんも早く帰った方がいいですよ、山本心配してると思うし」
「あれは関係ない」
「……喧嘩中でしたか?」
君のせいだよ。言えず、雲雀はそっぽを向いた。
*****
山本にも謝らないといけないのだろうか。そう考えながらまたあてどなく歩く雲雀の目の前で、一台の車が止まった。どこかで見たことのあるその車の、雲雀の側――助手席側の窓が開き、奥から運転手が顔を覗かせる。
赤と青のオッドアイ。六道骸だった。妙な奴に見つかった。身構える雲雀に、骸は声を掛ける。
「おや、こんな所にいたんですか。山本武が探していましたよ」
「……帰らないよ」
即答に、骸はクフフと笑って目を細める。不思議がる雲雀に、骸は手を伸ばすと助手席側のドアを開けて彼を手招きした。
「帰らないのは構いませんが、そろそろ子供の出歩く時間ではありませんよ。僕の家にでもおいでなさい」
躊躇は、すぐに諦めに変わる。少しでも家に帰る時間を遅らせたくて、雲雀はその誘いに乗った。
骸の車は当然のように彼の住まうマンションへ向かい、雲雀はおとなしく、六道家に二度目の訪問をすることになった。しかし、凪の姿はない。茶の仕度をする骸に問えば、
「今日はお友達の家でお菓子を作って、晩ご飯までいただいてくるそうです」
と返事をされた。紅茶の入ったマグカップを雲雀に手渡し、向かい合わせに座って骸は言う。
「山本武が探していましたよ」
「知らない」
雲雀がそっぽを向いて答えても、初めから分かっていたのか骸は動じることもなかった。ぽん、と彼は新しい言葉を投げる。
「寂しがってますよ。理由は知りませんが反省もしていました。あれにしてはやけに素直ですね」
「……僕はなにもしてない」
「それでは、何が原因なんです?」
「…………デーチモに近づくなって、うるさい」
ずけずけとされた問い。それにこぼした答えに、骸はクフフと笑ってやっぱり喧嘩してるんじゃないですか、と言う。
「あれはデーチモを嫌っていますからねえ」
「どうして」
「さあ。僕はよく知りません」
「…………じゃあ、」
雲雀は質問を変えることにした。こいつは、六道骸は、ただ者ではないだろう。山本のように簡単な奴でもない。
「あなたは、デーチモをどう思う?」
「はい?」
問いが意外だったのか、骸もきょと、とした様子で雲雀を見た。とりあえず知らないという訳ではないようだ。そこをまず安堵して、雲雀は言葉を足す。
「あれは、自分を化け物だと言った」
「……親しいのですか?」
「偶然会っただけだよ」
答えた雲雀を、骸は咎めなかった。一度色違いの瞳を瞬きさせて、彼はじいと雲雀を見下ろす。
「そうですか。彼を、どう思うか…………これは僕の私見です、それでも構いませんか?」
前置きに頷くと、骸は大きな溜息を吐いて、答える。
「化け物――何を馬鹿なことを言っているのでしょうね。この世に化け物など、いるはずがないでしょう」
「じゃあ、何だというの」
「少々異質ではありますが、ただの人間ですよ」
「…………」
言い切られるとは思わず。雲雀は言葉を失う。そんな雲雀に笑んで、内緒ですよ、と骸は口元に人差し指を当てた。
「まあ、僕はこれを山本武に言ったことはありません。聞き入れられるとは思いませんし」
「そうだろうね」
それに、と骸は曖昧な表情で笑った。
「そもそも、僕はデーチモをあまり知りません。相手ができないんです」
「どういうことなの、それ」
聞き返せば、簡単な話だと骸は説明をしてくれた。赤い右目を押さえて彼はぼやくように言う。
「彼と僕はいわゆる商売敵の関係ですが、正直な所……彼の相手をするに僕は無力なのですよ。詳しいことは言えませんが」
「そう」
「けれど、思ったことはあります。あれは、恐らくは地獄を見た人間なのだと」
「地獄って、化け物は否定して地獄はあるって言うのかい?」
冷笑した雲雀に、骸はあるかもしれないじゃないですか、と意味深な返事をして。
「物の例えですよ。この世の地獄、世界の一番深淵の、光すら届かない、澱み忌まれる場所。彼はそこで生きていたのではないでしょうか」
「…………」
雲雀には、その世界が分からなかった。想像もつかない。――だからこそ、骸はそれを地獄と呼んだのだろうと、考えた。
そうして骸もそれを知らないのだという。
「幸いにも、今生の僕はそれを知りません。僕自身、多少人から外れた物を持っていますが、それなりに幸福に生きてしまっていますので。だから、これは想像でしかありません」
「確かめないの?」
「その必要はありません。地獄など、知らない方がいいのです。わざわざのぞき込むの愚か。僕の師はそう言いました。……おや、もうこんな時間ですね」
さあ、帰りなさい。手を引かれ立ち上がらされ、そうして雲雀は骸に背を押され、反抗もできず玄関に立たされる。
「謝らないよ」
強がりにも、やはり骸は笑った。
「まあ、君も彼も強情だった、ということで」
骸が手をかける前に開いたドアが開く。
その向こうには、困り顔の山本がいた。彼ははっと雲雀を見て、眉を下げる。
「雲雀……」
山本が二の句を紡ぐ前に、雲雀は彼の脇を通り抜け、
「帰るよ」
と告げた。山本は少しだけ硬直して、すぐに立ち直り頷き返す。
「お、おう。骸、サンキュな!」
「貸しておきます。積み立て分、そのうちまとめていただきますよ」
ひらひらと骸に手を降られ、山本は苦笑いを浮かべてちいさく手を振りかえした。
帰る足取りは、重いような軽いような。山本は幼い背中を追う。先をゆく雲雀がふいに立ち止まって、山本がその隣に追いつくと、小さな声で言った。
「謝らないよ」
「……」
まだ、怒っているのだろうか。しかし雲雀は山本の返事も待たずに言葉を続けた。
「だから、あなたも謝らなくていい」
「雲雀?」
聞いても、それ以上は答えない。ふいに山本を見上げた雲雀は、すっかりいつも通りの様子で不満を訴えてくる。
「帰るよ、晩ごはんまだなんだ」
「そうだな」
考えてみれば山本だって夕飯はまだだ。雲雀を探してすっかり遅くなってしまった。
「何なら、どっかで買って帰るか?」
「やだ。あなたが作るものの方が、おいしい」
それだけで気分が浮上してしまう自分を単純だと内心罵って、しかし山本は笑顔になった。
「じゃ、今日も腕を振るうのな!」
あなた、本当に単純だね。同じことを口にした雲雀がようやく笑った。