安室透
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さよならなんて
今日も私はとある喫茶店に向かう。そこのお店は昔から通っていて言わば、常連客、と言ったところか。だからお店を切り盛りしている女性店員、梓さんともお友達…と思っているのは私だけかもしれないけれど、彼女の淹れる珈琲をおかわりして長居してしまうほどお喋りをする事もある。彼女が忙しい時は本を読んだり、スマホゲームをしたり……ゆったりとした時間を過ごしていた。
お店の名前は"喫茶ポアロ"。今日はどんなお話をしよう…。
チリリン——……
「いらっしゃいませ。おや?今日もいらしたんですね」
「むっ。いけませんか?ここの珈琲美味しいんですもん」
「それは良かった。貴女のお口に合ったようで嬉しい限りです」
お店に入って声を掛けてきたのはここ最近ポアロで働き始めたという男、安室透。
…梓さんじゃなかった、と心の中で舌打ち。この男とは何度か会話のやり取りをして思った事がある。それは気障な男だという事。何でも、この上の探偵事務所の弟子になったとかでその縁もあり今は梓さんのサポートをしているという。確かに、料理も美味しいし珈琲を淹れる腕はピカイチ。それに爽やかな笑顔で気配りも出来る…おまけにイケメンときた。まさに完璧な男だろう。彼を目当てにお店に来る若い女性客が増えたと梓さんから聞いていた。
けれど自分はそんなものには惑わされない。梓さんをこの気障な男から守らねばと変な使命感に駆られているのだ。だから今も彼のその爽やかスマイルを見て眉間に皺を寄せる。
「……前から思ってたんですけど…その笑顔、なんだかいけ好かないですね…」
「それは困りましたね…僕はマニュアル通りに接客をしているだけですが?」
「ほら。そういう所ですよ」
「どういう所でしょう…僕はまだ、ここで働き始めたばかりですので常連客でもある"貴女"にご教示頂ければ嬉しいのですが…」
「私から教える事なんてないですよ」
「ですが、お客様である貴女は不快に感じられるのでしょう?ならば、手取り足取り教えて下さい」
「…冗談はやめて下さい…。私が勝手に思ってるだけなので。いつも通りで大丈夫です。それより梓さんは?さっきから見かけませんが…」
いつもならこの辺で奥のバックヤードからひょっこり現れるのに今日は姿がない。
「梓さんなら買い出しです」
「こんな時間に?」
自分が訪れた時刻は午後二時。しかも土曜日だ。これからまだ混むというのに買い出しに行くなんて不自然極まりない。それに梓さんが居ないなんて…彼女とのお喋りは気分転換にもなっているというのに。彼を探るように見詰めれば、作業をしながら口を開く。
「ランチタイムに材料がそこをついてしまったんです。こんな事は滅多にないと梓さんが言っていました。それぐらいお客が多かったんですよ」
「…そうなんですか。でも今は私だけ?」
この気障な男を相手にしていて気が付かなかったが、店内を見渡せば自分一人だけ。不思議に思いながらカウンター席に着く。
「珍しいですね」
「そうですか?たまたまですよ。梓さんはあと一時間もしない内に戻ります」
彼の言葉に冷や汗が出始める。ということは、彼女が戻るまで私はこの男とここで…
「僕達二人きりです。梓さんが戻るまで」
「———?!」
「違いましたか?貴女が考えている事を推理してみたのですが…」
「それは推理じゃないです!誰だってこの状況を見れば分かりますよ…それをわざわざ口にするなんて…!」
少し声を荒らげながら目の前の男に食ってかかる。口にされたら変に意識してしまうじゃないか。現に意識してしまった事をバレないように怒って誤魔化すが…果たして上手くいくのだろうか。彼と二人きりなんて拷問に違いない。
「口にしなくても良かったのですが…言った方が貴女の怒った顔が見られると思ったまでです」
「…女性の怒った顔が見たいなんて変わった人ですね」
「失礼ですが…一つ間違ってますね」
「??何もおかしくはないですよ…?」
どこが違うというのか。怒った顔が見たい、なんてそんな事を言う人は初めてだけど。
「いいえ。一つだけ誤りがあります。女性の怒った顔、ではなく……」
彼はカウンターの向こう側から珈琲の入ったカップをコトリと丁寧に置いた。そして一言……
「"貴女"の怒った顔が見たかったんです」
「———っ!!」
カップを動かす彼の腕を視線で追っていた自分にボソリと囁くように発した言葉。驚きのあまり顔を上げれば間近に見る彼の青い瞳。その視線は悪戯な笑みを浮かべているがいつもより柔らかいような……途端に体中が熱くなり慌てて席を立つ。
「おつりはいりませんから!!」
珈琲代より少し多めの代金をカウンターにのせ、足早にお店を出た。加速する鼓動がうるさくて胸が苦しい。私の怒った顔が見たいなんて尚更変わってる。変人だ。なのに、早鐘のように脈を打ち付ける心臓。息が苦しくなって立ち止まる。横に視線を向ければ大きなショーウィンドーが。見れば頬を染め困惑している表情の自分の姿。
「…何よ…ますます意識しちゃうじゃない…」
飛び出すようにお店を後にしてしまい次行くのが気まずい。どう接したらいいのか…。考えても答えは見つかりそうになく、火照る体を冷ましながら帰路に就いた。
————————………
「はぁ〜……」
オフィス街の隙間にある小さな公園で昼休憩中。あの後、一ヶ月もポアロには行けずこうやってため息を漏らす日々を送っている。珈琲好きの自分には痛手だ。なんだかんだで彼の淹れる珈琲は美味しい。
けれど珈琲とともに思い出すのは彼の瞳。この一ヶ月、彼の事ばかり考えている。私の怒った顔が見たいなんて、深い意味は無かったのだろうが……あの瞳を思い出すだけで頬が熱を帯びていた。このままでは自分が自分で無くなりそうな気がして、お店には行かない事に決めた。梓さんに会えなくなるのは寂しいけれど、こうなったのもあの男のせいだ。けれど叶うことならもう一度…、
「…珈琲が飲みたいなぁ…」
「僕で良かったら一緒にいかがですか?」
ベンチに座っていたが背後から声をかけられる。その口調が彼と似ていて気に入らず、私なんかに声をかけるなんて変わった男性だと断りを入れるために振り返りながら話しかけた。
「ごめんなさい、他を当たって……!?」
「目が点になる、とは…正しく今の貴女にピッタリな言葉ですね」
「いや、ちょ…!なんであなたがここに…?!」
本当に驚きが隠せなかった。顎に手を当てそこに立っていたのは安室透、本人だったから。
「言ったでしょう?僕は探偵だと。まぁ見習いですけど」
「調べたんですか?!」
「違いますよ。これまでの貴女の行動を見て推理したんです。時折仕事帰りに来る事もあったでしょう?梓さんからも話は聞きましたし…一か八か足を運んでみた、という訳です。当たりでしたね」
なんて呑気に爽やかなスマイルを浮かべてペラペラと話す彼を黙って見ることしか出来ず……気付いた時には体を反対側に向け走り出していた。
けれど、すぐに捕まってしまい手首を彼に掴まれたまま足を止める。
「…全く。何故逃げるんです?」
「だ、だって…!どんな顔をして会えばいいのか…!」
「すみません。先日はからかい過ぎました」
僕の失態です、いつもより余裕のない声にゆっくりと振り向く。
「…それでも、私はもうあのお店には行きません」
「何故です?理由を教えて下さい」
「それは……」
"あなたに心を奪われそうになるから"、なんて言えず言葉に詰まる。沈黙が自分達を取り囲み、周りの音さえも耳に届かなくなった。
「…さよならなんて言葉を言うには、まだ早い」
口を開いたのは彼の方。けれど声色が一気に変わり、彼を纏う雰囲気も違う気がした。
「僕は狙った獲物は逃がさない。どんな事があっても捕まえる。そして、守るべきものは、必ず守る」
凛とした彼の姿に目が離せない。獲物がどうとか言ってるけどそんな事よりも、これが"安室透"の本当の姿なのか。ポアロで見せる顔とは全く異なるが何故か安堵した。
「…やっぱりあの笑顔はいけ好かない。今の安室さんの方が断然かっこいい」
素直に思った事を口走る。だが、自分の発した言葉に彼が空いている手で顔を隠した。もしかしなくても照れているのだろうか。そこに考えが至れば自分まで羞恥心が込み上げ……
「…あの、その…今のは忘れて下さい、」
「…忘れる訳にはいかない。大事に仕舞いましたよ。ここに、ね」
話しながら頭をトントンと指で差す。
「おっと。危うく忘れるところでした。これを貴女に返します」
そう言って彼は私の手の平に何かを乗せた。感触からしてお金のようだ。違和感を感じる口調に困惑しながらも彼を見つめる。
「先日のお釣り代です。梓さんに叱られました」
「梓さんに?」
「ええ。ちゃんと接客したのかとみっちり…」
「…梓さんらしい」
なんとなくその様子が想像出来て思わず笑みを溢す。
「梓さんからでしたら、頂きます」
「良かった。受け取って貰えないのではと心配しました」
「安室さんからなら受け取ってなかったです」
「言ってくれますね」
彼は、お手上げです、と言わんばかりに片手をあげる。
「しかし俄然貴女に興味が湧きました」
「っ?!…どういう事ですか?」
「そのままの意味ですよ。では僕は仕事がありますので失礼します。またのお越しを、お嬢さん」
お嬢さん、顔を近付けて少し低めの声で囁かれる。耳から背筋にかけぞわりと何かが走った。手で耳を覆い、彼の背中を見送る。不意打ちなんて狡い。
手渡されたお金を財布に仕舞おうと手を開けばそこには小さく折り畳まれたメモも入っていた。嫌味でも書いてあるのかとそれを開く。中には短い文が。けれど、今の自分には破壊力抜群だった。思わず小銭を落としてしまうほど。
「私行きませんからねーー!!」
小さくなる彼の背中に向かって叫んだ。彼は応えるように手を挙げて遂には見えなくなる。落とした小銭を財布に仕舞い、再度メモに目を通す。これは行かなければ今度は仕事中にやって来そうな気がしてならない。嬉しいような、またからかわれているだけなのか…複雑な気持ちだが結局行くことに決めた。行くのは梓さんが心配だからと自分に言い聞かせて。
そして何が起きたのか。
それは二人だけの秘密の物語——……。
———『今度は逃げないで下さい。
〇日、午後二時。ポアロまで』
fin.
2020.1.30
今日も私はとある喫茶店に向かう。そこのお店は昔から通っていて言わば、常連客、と言ったところか。だからお店を切り盛りしている女性店員、梓さんともお友達…と思っているのは私だけかもしれないけれど、彼女の淹れる珈琲をおかわりして長居してしまうほどお喋りをする事もある。彼女が忙しい時は本を読んだり、スマホゲームをしたり……ゆったりとした時間を過ごしていた。
お店の名前は"喫茶ポアロ"。今日はどんなお話をしよう…。
チリリン——……
「いらっしゃいませ。おや?今日もいらしたんですね」
「むっ。いけませんか?ここの珈琲美味しいんですもん」
「それは良かった。貴女のお口に合ったようで嬉しい限りです」
お店に入って声を掛けてきたのはここ最近ポアロで働き始めたという男、安室透。
…梓さんじゃなかった、と心の中で舌打ち。この男とは何度か会話のやり取りをして思った事がある。それは気障な男だという事。何でも、この上の探偵事務所の弟子になったとかでその縁もあり今は梓さんのサポートをしているという。確かに、料理も美味しいし珈琲を淹れる腕はピカイチ。それに爽やかな笑顔で気配りも出来る…おまけにイケメンときた。まさに完璧な男だろう。彼を目当てにお店に来る若い女性客が増えたと梓さんから聞いていた。
けれど自分はそんなものには惑わされない。梓さんをこの気障な男から守らねばと変な使命感に駆られているのだ。だから今も彼のその爽やかスマイルを見て眉間に皺を寄せる。
「……前から思ってたんですけど…その笑顔、なんだかいけ好かないですね…」
「それは困りましたね…僕はマニュアル通りに接客をしているだけですが?」
「ほら。そういう所ですよ」
「どういう所でしょう…僕はまだ、ここで働き始めたばかりですので常連客でもある"貴女"にご教示頂ければ嬉しいのですが…」
「私から教える事なんてないですよ」
「ですが、お客様である貴女は不快に感じられるのでしょう?ならば、手取り足取り教えて下さい」
「…冗談はやめて下さい…。私が勝手に思ってるだけなので。いつも通りで大丈夫です。それより梓さんは?さっきから見かけませんが…」
いつもならこの辺で奥のバックヤードからひょっこり現れるのに今日は姿がない。
「梓さんなら買い出しです」
「こんな時間に?」
自分が訪れた時刻は午後二時。しかも土曜日だ。これからまだ混むというのに買い出しに行くなんて不自然極まりない。それに梓さんが居ないなんて…彼女とのお喋りは気分転換にもなっているというのに。彼を探るように見詰めれば、作業をしながら口を開く。
「ランチタイムに材料がそこをついてしまったんです。こんな事は滅多にないと梓さんが言っていました。それぐらいお客が多かったんですよ」
「…そうなんですか。でも今は私だけ?」
この気障な男を相手にしていて気が付かなかったが、店内を見渡せば自分一人だけ。不思議に思いながらカウンター席に着く。
「珍しいですね」
「そうですか?たまたまですよ。梓さんはあと一時間もしない内に戻ります」
彼の言葉に冷や汗が出始める。ということは、彼女が戻るまで私はこの男とここで…
「僕達二人きりです。梓さんが戻るまで」
「———?!」
「違いましたか?貴女が考えている事を推理してみたのですが…」
「それは推理じゃないです!誰だってこの状況を見れば分かりますよ…それをわざわざ口にするなんて…!」
少し声を荒らげながら目の前の男に食ってかかる。口にされたら変に意識してしまうじゃないか。現に意識してしまった事をバレないように怒って誤魔化すが…果たして上手くいくのだろうか。彼と二人きりなんて拷問に違いない。
「口にしなくても良かったのですが…言った方が貴女の怒った顔が見られると思ったまでです」
「…女性の怒った顔が見たいなんて変わった人ですね」
「失礼ですが…一つ間違ってますね」
「??何もおかしくはないですよ…?」
どこが違うというのか。怒った顔が見たい、なんてそんな事を言う人は初めてだけど。
「いいえ。一つだけ誤りがあります。女性の怒った顔、ではなく……」
彼はカウンターの向こう側から珈琲の入ったカップをコトリと丁寧に置いた。そして一言……
「"貴女"の怒った顔が見たかったんです」
「———っ!!」
カップを動かす彼の腕を視線で追っていた自分にボソリと囁くように発した言葉。驚きのあまり顔を上げれば間近に見る彼の青い瞳。その視線は悪戯な笑みを浮かべているがいつもより柔らかいような……途端に体中が熱くなり慌てて席を立つ。
「おつりはいりませんから!!」
珈琲代より少し多めの代金をカウンターにのせ、足早にお店を出た。加速する鼓動がうるさくて胸が苦しい。私の怒った顔が見たいなんて尚更変わってる。変人だ。なのに、早鐘のように脈を打ち付ける心臓。息が苦しくなって立ち止まる。横に視線を向ければ大きなショーウィンドーが。見れば頬を染め困惑している表情の自分の姿。
「…何よ…ますます意識しちゃうじゃない…」
飛び出すようにお店を後にしてしまい次行くのが気まずい。どう接したらいいのか…。考えても答えは見つかりそうになく、火照る体を冷ましながら帰路に就いた。
————————………
「はぁ〜……」
オフィス街の隙間にある小さな公園で昼休憩中。あの後、一ヶ月もポアロには行けずこうやってため息を漏らす日々を送っている。珈琲好きの自分には痛手だ。なんだかんだで彼の淹れる珈琲は美味しい。
けれど珈琲とともに思い出すのは彼の瞳。この一ヶ月、彼の事ばかり考えている。私の怒った顔が見たいなんて、深い意味は無かったのだろうが……あの瞳を思い出すだけで頬が熱を帯びていた。このままでは自分が自分で無くなりそうな気がして、お店には行かない事に決めた。梓さんに会えなくなるのは寂しいけれど、こうなったのもあの男のせいだ。けれど叶うことならもう一度…、
「…珈琲が飲みたいなぁ…」
「僕で良かったら一緒にいかがですか?」
ベンチに座っていたが背後から声をかけられる。その口調が彼と似ていて気に入らず、私なんかに声をかけるなんて変わった男性だと断りを入れるために振り返りながら話しかけた。
「ごめんなさい、他を当たって……!?」
「目が点になる、とは…正しく今の貴女にピッタリな言葉ですね」
「いや、ちょ…!なんであなたがここに…?!」
本当に驚きが隠せなかった。顎に手を当てそこに立っていたのは安室透、本人だったから。
「言ったでしょう?僕は探偵だと。まぁ見習いですけど」
「調べたんですか?!」
「違いますよ。これまでの貴女の行動を見て推理したんです。時折仕事帰りに来る事もあったでしょう?梓さんからも話は聞きましたし…一か八か足を運んでみた、という訳です。当たりでしたね」
なんて呑気に爽やかなスマイルを浮かべてペラペラと話す彼を黙って見ることしか出来ず……気付いた時には体を反対側に向け走り出していた。
けれど、すぐに捕まってしまい手首を彼に掴まれたまま足を止める。
「…全く。何故逃げるんです?」
「だ、だって…!どんな顔をして会えばいいのか…!」
「すみません。先日はからかい過ぎました」
僕の失態です、いつもより余裕のない声にゆっくりと振り向く。
「…それでも、私はもうあのお店には行きません」
「何故です?理由を教えて下さい」
「それは……」
"あなたに心を奪われそうになるから"、なんて言えず言葉に詰まる。沈黙が自分達を取り囲み、周りの音さえも耳に届かなくなった。
「…さよならなんて言葉を言うには、まだ早い」
口を開いたのは彼の方。けれど声色が一気に変わり、彼を纏う雰囲気も違う気がした。
「僕は狙った獲物は逃がさない。どんな事があっても捕まえる。そして、守るべきものは、必ず守る」
凛とした彼の姿に目が離せない。獲物がどうとか言ってるけどそんな事よりも、これが"安室透"の本当の姿なのか。ポアロで見せる顔とは全く異なるが何故か安堵した。
「…やっぱりあの笑顔はいけ好かない。今の安室さんの方が断然かっこいい」
素直に思った事を口走る。だが、自分の発した言葉に彼が空いている手で顔を隠した。もしかしなくても照れているのだろうか。そこに考えが至れば自分まで羞恥心が込み上げ……
「…あの、その…今のは忘れて下さい、」
「…忘れる訳にはいかない。大事に仕舞いましたよ。ここに、ね」
話しながら頭をトントンと指で差す。
「おっと。危うく忘れるところでした。これを貴女に返します」
そう言って彼は私の手の平に何かを乗せた。感触からしてお金のようだ。違和感を感じる口調に困惑しながらも彼を見つめる。
「先日のお釣り代です。梓さんに叱られました」
「梓さんに?」
「ええ。ちゃんと接客したのかとみっちり…」
「…梓さんらしい」
なんとなくその様子が想像出来て思わず笑みを溢す。
「梓さんからでしたら、頂きます」
「良かった。受け取って貰えないのではと心配しました」
「安室さんからなら受け取ってなかったです」
「言ってくれますね」
彼は、お手上げです、と言わんばかりに片手をあげる。
「しかし俄然貴女に興味が湧きました」
「っ?!…どういう事ですか?」
「そのままの意味ですよ。では僕は仕事がありますので失礼します。またのお越しを、お嬢さん」
お嬢さん、顔を近付けて少し低めの声で囁かれる。耳から背筋にかけぞわりと何かが走った。手で耳を覆い、彼の背中を見送る。不意打ちなんて狡い。
手渡されたお金を財布に仕舞おうと手を開けばそこには小さく折り畳まれたメモも入っていた。嫌味でも書いてあるのかとそれを開く。中には短い文が。けれど、今の自分には破壊力抜群だった。思わず小銭を落としてしまうほど。
「私行きませんからねーー!!」
小さくなる彼の背中に向かって叫んだ。彼は応えるように手を挙げて遂には見えなくなる。落とした小銭を財布に仕舞い、再度メモに目を通す。これは行かなければ今度は仕事中にやって来そうな気がしてならない。嬉しいような、またからかわれているだけなのか…複雑な気持ちだが結局行くことに決めた。行くのは梓さんが心配だからと自分に言い聞かせて。
そして何が起きたのか。
それは二人だけの秘密の物語——……。
———『今度は逃げないで下さい。
〇日、午後二時。ポアロまで』
fin.
2020.1.30
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