送り梅雨
「よぉし! ド派手に行くぜっ!」
導かれるまま、バシャバシャと水しぶきをあげながらどしゃ降りの雨の中を走り出す。この迷惑な雨に私が感謝していること、先生は気づいていないでしょう?
***
「おつかれさん。お前が部長で助かるわ。ありがとな」
時を戻すこと十五分ほど前。美術室で後片づけを終えて帰ろうとする私に宇髄先生が言った。男子とふざけているときとはちがう、低くてやさしい声。そして、『美術部の部長』の労をねぎらおうと頭に向けてのばしてきた手を避けると、口がまるく開いた。
「じゃあ、失礼します」
「お、おお。気をつけて帰れよ」
頭を下げて、美術室を出る。露骨すぎたかもしれないとは思うが、こうするしかない。この二年ちょっと、あの大きな手に頭を撫でられる心地よさは嫌というほど知っている。その手を避けるなんて、本当は嫌。でも、これは訓練だ。戦いだ。だって、先生はもうすぐ結婚してしまうから。それを知った日から、『いい部長』として片思いを終わらせるために四苦八苦していた。
教室に荷物を取りに行ったり、トイレに寄ってから昇降口に向かうと、ちょっと前まで曇天だった空から、大量の雨粒が落ちはじめていた。折りたたみのかさを持っておらず、昇降口の屋根の下、途方に暮れて空を見上げる。
「あっ。お前、まだ帰ってねえの?」
後ろを振り返ると、リュックを背負った通勤スタイルの先生が立っていた。
「はい。かさ持ってなくて……。先生は?」
「俺も持ってねえよ。だって、予報で降らねえっていうから。まあ、梅雨だからしょうがねえわな」
「ですね。でも、待っていれば止むかもしれませんし」
並んで、ザーザー降りの雨を眺める。こんなシチュエーション、前なら空を飛べそうなほどうれしかったのに、今はちょっとつらい。
「なあ、いいこと思いついたわ」
先生のニヤリとした顔がこちらを向く。この顔をする時は、おおよそ教師らしくない行動をする前触れだ。
「いいこと、ですか?」
「そっ。こっから三分くらいのところにコンビニあるだろ? そこで、かさ買おうぜ。ここに入れてやるから、一緒に走ってさ」
先生がパーカーの片側を開いて、自分の脇腹あたりの空間を指さした。わくわくを隠しきれない顔は、この状況を楽しんでいるようだ。
「そこに入るってことですか? それはちょっと……」
「地味なこと言ってねえで、早く来いよ。滅多に入れねえぞ」
パーカーの前を閉じたり開いたり、ひらひらさせながら待っていて、こどもみたい。笑っていたら、抵抗する気持ちがうそのように消えてしまった。
「じゃあ、失礼します」
「かたっくるしいわ。入れ、入れ」
パーカーの中に入ると、甘い香水と柔軟剤と火薬の匂いに包まれた。あとは、今までは頭をなでる手のひらからしか感じたことのない体温。ここまで近くにいるのははじめてで、やっぱり大人の男の人なんだな、とあたり前のことを思う。パーカーの前開き部分から見上げると、先生が笑った。
「よぉし! ド派手に行くぜっ!」
コンビニまでの短い距離を、先生と走る。寄り添って、大笑いして、バシャバシャと水しぶきを上げながら、走る、走る、走る――。
ふと、先生が恋人ならこんな感じなのかな、という考えが頭をかすめるが、水たまりにわざと大きく踏み込んで、「ちょっ、お前なにやってんだよ」とあわてる先生と一緒に笑うことで吹き飛ばした。
やっと到着したコンビニには、かさの先っぽが黄色くて丸い、こども用の小さなかさが二本残っているだけだった。
「これしかないって、まじかよ。ちっさ! こんなん頭しかカバーできねえんだけど」
その様子が面白いやら、二人でコンビニにいるのがうれしいやらで、ずっと笑っていた。先生はしばらくブーブー言っていたが、こども用のかさ二本と、あたたかい飲み物を二つ買ってくれた。
「しっかし、よく降るな。大丈夫か? 風邪ひくなよ」
コンビニの軒先で、先生は降りつづく雨を見ながらつぶやいた。私はホットココアを飲みながら、先生のかぶっているフードからぽたぽた垂れるしずくを目で追っていた。
「先生、結婚おめでとう」
「急になんだよ」
「幸せに、なってくださいね」
「ああ、ありがと」
結婚式の日、どしゃ降りの雨が降っちゃえばいいのに、なんて思った日もあった。いたずら好きな先生の冗談ならいいのに、と願った日もあった。でも、タネ明かしされる日なんてこなくて、先生のもとにお祝いの言葉が集まる場面を見かけるばかりだった。部長として悩んだとき、進路に悩んだとき、いつも私の心を照らしてくれた笑顔が、知らない誰かのものになることがくるしくてしょうがなかった。好きな人の幸せを願えない自分におどろいて、かなしくて、つらかった。
だから、先生にお祝いの言葉が言える日がくるなんて思わなかった。ココアのあたたかさと、先生のやさしい言葉と、どしゃ降りの雨が心の黒いものを溶かして、押し流してくれたのだろうか。
飲み終わったカップを捨て、こども用のかさをさして歩く。先生はやっぱり頭しかカバーできていなくて、びしょ濡れだ。電車通勤の先生と、バス通学の私。お別れの地点に着いてしまった。
「先生、ありがとう。お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「このかさ、もらっていいですか?」
「やるよ。最初からそのつもりだったわ」
「ありがとう。ずっと大事に、宝物にするね。今日――雨が降ってよかった」
あいかわらずザーザーはげしく降る雨の音。これは私の精いっぱいの告白。好き、の言葉の代わり。先生がこの意味に気づくか、気づかないかは分からない。賭けだ。
一瞬大きく見開かれた紅い目が、ふわっとゆるんだ。
「そうか。ありがとな」
先生が私の頭を、今までで一番やさしくなでた。手の表面は濡れてつめたいのに、じんわりあたたかい。これだけで、賭けの結果が分かった。先生みたいな人が、気づかないわけないか。バレンタインの日、大量のチョコにまぎれこませて、義理チョコをよそおって渡すこともできないほど、好きだった。本当に大好きだった。こんな形だけど、気持ちを伝えられて良かった。
そして、私たちは握手をして別れた。握手なんて変なの、なんて笑って、さし出されたぶ厚い手をにぎると、この感触を一生忘れたくないと心が叫んだ。
笑顔で別れたあと、バスの中で濡れたかさをしっかりと抱きしめ、泣きながら帰った。次から次に流れる涙は、どしゃ降りの雨に似ていた。
***
翌週の土曜日。先生の特別な日。連日の雨降りを吹きとばして、あの笑顔によく似たあかるく派手な太陽が輝く梅雨晴れになった。
――先生、おめでとう。大好きだったよ。幸せになってね。
胸が痛まないといったらうそになる。けれども、こども用の小さなかさをクローゼットの奥に大切にしまいながら、大好きな人の幸せを心から願えたことが本当にうれしくて、ちょっぴり自分を好きになれた。
導かれるまま、バシャバシャと水しぶきをあげながらどしゃ降りの雨の中を走り出す。この迷惑な雨に私が感謝していること、先生は気づいていないでしょう?
***
「おつかれさん。お前が部長で助かるわ。ありがとな」
時を戻すこと十五分ほど前。美術室で後片づけを終えて帰ろうとする私に宇髄先生が言った。男子とふざけているときとはちがう、低くてやさしい声。そして、『美術部の部長』の労をねぎらおうと頭に向けてのばしてきた手を避けると、口がまるく開いた。
「じゃあ、失礼します」
「お、おお。気をつけて帰れよ」
頭を下げて、美術室を出る。露骨すぎたかもしれないとは思うが、こうするしかない。この二年ちょっと、あの大きな手に頭を撫でられる心地よさは嫌というほど知っている。その手を避けるなんて、本当は嫌。でも、これは訓練だ。戦いだ。だって、先生はもうすぐ結婚してしまうから。それを知った日から、『いい部長』として片思いを終わらせるために四苦八苦していた。
教室に荷物を取りに行ったり、トイレに寄ってから昇降口に向かうと、ちょっと前まで曇天だった空から、大量の雨粒が落ちはじめていた。折りたたみのかさを持っておらず、昇降口の屋根の下、途方に暮れて空を見上げる。
「あっ。お前、まだ帰ってねえの?」
後ろを振り返ると、リュックを背負った通勤スタイルの先生が立っていた。
「はい。かさ持ってなくて……。先生は?」
「俺も持ってねえよ。だって、予報で降らねえっていうから。まあ、梅雨だからしょうがねえわな」
「ですね。でも、待っていれば止むかもしれませんし」
並んで、ザーザー降りの雨を眺める。こんなシチュエーション、前なら空を飛べそうなほどうれしかったのに、今はちょっとつらい。
「なあ、いいこと思いついたわ」
先生のニヤリとした顔がこちらを向く。この顔をする時は、おおよそ教師らしくない行動をする前触れだ。
「いいこと、ですか?」
「そっ。こっから三分くらいのところにコンビニあるだろ? そこで、かさ買おうぜ。ここに入れてやるから、一緒に走ってさ」
先生がパーカーの片側を開いて、自分の脇腹あたりの空間を指さした。わくわくを隠しきれない顔は、この状況を楽しんでいるようだ。
「そこに入るってことですか? それはちょっと……」
「地味なこと言ってねえで、早く来いよ。滅多に入れねえぞ」
パーカーの前を閉じたり開いたり、ひらひらさせながら待っていて、こどもみたい。笑っていたら、抵抗する気持ちがうそのように消えてしまった。
「じゃあ、失礼します」
「かたっくるしいわ。入れ、入れ」
パーカーの中に入ると、甘い香水と柔軟剤と火薬の匂いに包まれた。あとは、今までは頭をなでる手のひらからしか感じたことのない体温。ここまで近くにいるのははじめてで、やっぱり大人の男の人なんだな、とあたり前のことを思う。パーカーの前開き部分から見上げると、先生が笑った。
「よぉし! ド派手に行くぜっ!」
コンビニまでの短い距離を、先生と走る。寄り添って、大笑いして、バシャバシャと水しぶきを上げながら、走る、走る、走る――。
ふと、先生が恋人ならこんな感じなのかな、という考えが頭をかすめるが、水たまりにわざと大きく踏み込んで、「ちょっ、お前なにやってんだよ」とあわてる先生と一緒に笑うことで吹き飛ばした。
やっと到着したコンビニには、かさの先っぽが黄色くて丸い、こども用の小さなかさが二本残っているだけだった。
「これしかないって、まじかよ。ちっさ! こんなん頭しかカバーできねえんだけど」
その様子が面白いやら、二人でコンビニにいるのがうれしいやらで、ずっと笑っていた。先生はしばらくブーブー言っていたが、こども用のかさ二本と、あたたかい飲み物を二つ買ってくれた。
「しっかし、よく降るな。大丈夫か? 風邪ひくなよ」
コンビニの軒先で、先生は降りつづく雨を見ながらつぶやいた。私はホットココアを飲みながら、先生のかぶっているフードからぽたぽた垂れるしずくを目で追っていた。
「先生、結婚おめでとう」
「急になんだよ」
「幸せに、なってくださいね」
「ああ、ありがと」
結婚式の日、どしゃ降りの雨が降っちゃえばいいのに、なんて思った日もあった。いたずら好きな先生の冗談ならいいのに、と願った日もあった。でも、タネ明かしされる日なんてこなくて、先生のもとにお祝いの言葉が集まる場面を見かけるばかりだった。部長として悩んだとき、進路に悩んだとき、いつも私の心を照らしてくれた笑顔が、知らない誰かのものになることがくるしくてしょうがなかった。好きな人の幸せを願えない自分におどろいて、かなしくて、つらかった。
だから、先生にお祝いの言葉が言える日がくるなんて思わなかった。ココアのあたたかさと、先生のやさしい言葉と、どしゃ降りの雨が心の黒いものを溶かして、押し流してくれたのだろうか。
飲み終わったカップを捨て、こども用のかさをさして歩く。先生はやっぱり頭しかカバーできていなくて、びしょ濡れだ。電車通勤の先生と、バス通学の私。お別れの地点に着いてしまった。
「先生、ありがとう。お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「このかさ、もらっていいですか?」
「やるよ。最初からそのつもりだったわ」
「ありがとう。ずっと大事に、宝物にするね。今日――雨が降ってよかった」
あいかわらずザーザーはげしく降る雨の音。これは私の精いっぱいの告白。好き、の言葉の代わり。先生がこの意味に気づくか、気づかないかは分からない。賭けだ。
一瞬大きく見開かれた紅い目が、ふわっとゆるんだ。
「そうか。ありがとな」
先生が私の頭を、今までで一番やさしくなでた。手の表面は濡れてつめたいのに、じんわりあたたかい。これだけで、賭けの結果が分かった。先生みたいな人が、気づかないわけないか。バレンタインの日、大量のチョコにまぎれこませて、義理チョコをよそおって渡すこともできないほど、好きだった。本当に大好きだった。こんな形だけど、気持ちを伝えられて良かった。
そして、私たちは握手をして別れた。握手なんて変なの、なんて笑って、さし出されたぶ厚い手をにぎると、この感触を一生忘れたくないと心が叫んだ。
笑顔で別れたあと、バスの中で濡れたかさをしっかりと抱きしめ、泣きながら帰った。次から次に流れる涙は、どしゃ降りの雨に似ていた。
***
翌週の土曜日。先生の特別な日。連日の雨降りを吹きとばして、あの笑顔によく似たあかるく派手な太陽が輝く梅雨晴れになった。
――先生、おめでとう。大好きだったよ。幸せになってね。
胸が痛まないといったらうそになる。けれども、こども用の小さなかさをクローゼットの奥に大切にしまいながら、大好きな人の幸せを心から願えたことが本当にうれしくて、ちょっぴり自分を好きになれた。
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