カステランデブー

 私は、自分の想い人についてほとんど何も知らない。
 どこで生まれて、何人兄弟なのか。下の名前だって聞いたことがない。顔すら全部をまともに見たことがないし、どんな髪形をしているかも知らない。長い時間、会話をしたことだってない。
 もしもこれを故郷にいる親友に話したら、そんなに何も知らないのになぜ好きなの? なんて不思議がられてしまうだろうか。そんな日がきたら、胸を張って答えよう。ほとんど何も知らなくても、こんなに好きになることはあるんだよって。

 後藤さんと出会った日のことは今でも忘れない。心から取り出して何度も反すうしているくらい、大切な宝物みたいな思い出だ。
 あの日、任務は完遂できたものの、壬に昇級したばかりで張りきっていた私は、無茶をしすぎていた。頭はくらくらして、膝なんか笑ってしまってがくがくしていた。おまけに、深く切られた肩からは血が流れ出ていて、血塗れの隊服のじっとりした冷たさが気持ち悪かった。
「……ううっ」
 後頭部から魂を抜かれるみたいに意識が遠のいて、目の前はまっしろ。少し離れたところで隠が事後処理をしているのは分かっていたが、こんな怪我をしたことが恥ずかしくて、助けを呼ぶのが申し訳なかった。
「やいっ! コラ! そこのお前!」
 突然の大声に意識を驚いたおかげか、意識と視界が元に戻った。そして、きょろきょろと見回すと、暗い森の奥から隠の男性が一直線に近づいてきていた。
「お前だよ、お前! やい! 怪我してんだろ」
 あっという間に隣まで来たかと思うと、私を抱きかかえて傷の状態を見はじめた。
 こりゃあすぐに蝶屋敷に運ばねえと駄目だ、という低い声に耳をくすぐられ、べっ甲飴のような薄茶色の透きとおった真剣な瞳を腕の中から見上げる。どういうわけか、こんな状態なのに胸が高鳴った。
「なんで、俺たちを呼ばねえんだよ」
 鋭い視線が私をとらえた。もっと日の光が明るかったなら、べっ甲色の中心に自分が映っているのが見えたのかもしれない。
「いや……、弱いくせに張り切った自分がわるいんです。このくらいの傷でこんなになって恥ずかしいです」
「馬ァ鹿か!」
「え」
「恥ずかしいことあるか! 呼べっつーの!」
 ただでさえ鋭かった視線が、目を大きく開いたことでさらに迫力を増した。
「最前で戦ってる隊士を助けるのが、俺たちの使命なんだよ。やい、顔真っ青じゃあねえか。乗りやがれ!」
 一喝すると、何も言えなくなった私を背中に乗せて走り出した。
 温かくて大きい背に揺られ、頬をくっつける。必死で走ってくれているせいで、後藤さんの背がじんわり汗ばんでいくのがわかった。胸の奥をぎゅっとつままれるような感覚と、顔が熱を帯びていく。
「あの、お名前は」
「名前? ああ、後藤だ」
「ごとう、さん」
 これが初恋っていうものかな、と眠りの淵に足をかけながら思った。
 それからの私は任務を終えると、怪我人を助けたり、壊れた現場の修復にあたる隠の中に、大好きな姿を探すようになった。目だけを出した真っ黒な人たちの中をきょろきょろして、耳をそばだてながら足早に歩いた。一目でいい。一言でいい。後藤さんの存在を感じたかった。
「後藤さん!」
「おお、大丈夫か」
「はい。それより、いつかカステラを食べに行きませんか」
「……おう。行こうな。だから絶対に死ぬなよ」
「はい! 約束ですよ」
 カステラを食べに行こうと誘い、行くから絶対に死ぬなよと答えが返ってくる。私たちの間ですっかり定着した合言葉になっていた。
 これは、恋に落ちてからしばらくして、後藤さんが甘いもの――特にカステラが好きだという情報を耳にしたことがきっかけだった。顔見知りの隊士が蝶屋敷で静養していると、一押しのカステラを見舞の品として持って行くらしい。こんな些細な情報でもとてもうれしくて、勇気を出して誘ったのだ。
 
 
「やい、大丈夫かよ」
 探しても見つからず、撤収作業も終盤になって諦めかけたそのとき、聞き慣れた声に呼びとめられた。勢いよく振り向くと、眠たげな三白眼をした後藤さんが立っていた。
「後藤さん……! お久しぶりです」
 走り寄る私をじっと見ている。
「怪我してねえだろうな」
「はい」
「ちょっとでも、どっか痛めてねえだろうな」
「大丈夫です。あの、後藤さん……」
「あ、カステラか? 食いに行こうな。だから絶対死ぬんじゃねえぞ」
「それもそうなんですけど……会いたかったんです、とっても。一目会えて嬉しかったです。今日も生きてて良かった」
 べっ甲飴のような瞳が、濃く深い色になったように見えた。大きく息を吐いたのか、口元の布がふわっと舞い上がった。
「隠は、縁の下の力持ちみたいなもんだ。剣技の才が無いかわりに、命を懸けて闘う剣士を手助けできるなら、どこへだってすっ飛んで行く。この任務に誇りを持ってるのは今も変わらねえ。でもな」
「はい」
「好いた女を――お前を、俺の手で守ってやりてえなんて考えるようになっちまったよ」
 目だけしか見えない後藤さんの顔に、甘さが含まれたのが不思議とわかった。
 私の初恋は、どうやら成就したようだ。
「あー……なんだ、うん。カステラ食いに行くか。これからか」
「ええっ、いいんですか! ぜひ」
 また生きて必ず会おう、という願いを含んだ合言葉だった「カステラを食べに行こう」が、恋仲となった私たちの最初のランデブーの思い出に変わろうとしている。
「後藤さん、顔見せてくださいよ」
「期待されるほどの面じゃねえぞ。ほれ」
「……ひ」
 布を指でつまんで見せてくれた顔に、さっそく惚れなおしたのは言うまでもない。
 これから、後藤さんのことを少しずつ知っていくたび、自分の心が煮つめたべっ甲飴のように甘くとろけてしまう予感がするのだった。
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