完敗に乾杯

 夜ごはんも食べたし、お風呂も入った。しかも時間はまだ二十時半。明日からの怒濤の忙しさに備えて、水曜日の夜を思いきりだらだらと過ごしていた。
 忙しさの理由は、明後日の夜に彼氏が泊まりに来るのに備えて、ミッションがいっぱいあるから。部屋にお風呂にトイレはもちろん、靴箱やクローゼット、果ては冷蔵庫と冷凍庫の中も掃除するのは当たり前。華やかなメイン料理の他におつまみの食材も買いに行って、仕込みをするのだ。
 だって、好きな人には好かれたい。俺の女はド派手にいい女だ、って頭を撫でられたい。釣り合うように背伸びをしていれば、いつかそれが本当に私の背丈になれるかもしれない。そう思うだけで、アドレナリンが出て頑張れる。

「かれし、かぁ……」
 ソファーの肘置きに頭を乗せて、自分の言葉に自分でニヤける。
 同じ会社の直属の上司で、別世界の人でしかなかった宇髄さん。その人を彼氏と呼べるようになって、もうすぐ二ヶ月で、この部屋に来るのも三回目だ。回を重ねるごとに、住み慣れたせまいワンルームのそこかしこに、彼氏となった人のあれこれが染みついてた。
 例えば、テレビの前のローテーブル。あれは、この部屋に初めて来た日だ。二人掛けのソファーに並んで座るのすら緊張して、ローテーブルの横に正座する私をじっと見ていた宇髄さん。
「来ねぇなら、俺もそっちに座る」とソファーから立ち上がり、私の隣に座った。そして、ガラスの天板に手をついたかと思うと、「こんなんで、そんななってたら、この先どうすんだよ。なぁ?」と愉快そうに笑い、キスをしてきた。
 こんな記憶がちりばめられたこの部屋は、気持ちを加速させる恋心増幅機みたいだ。秘密の社内恋愛なのもあって、キャーとかヒャーみたいな変な声や、デュフフみたいなヤバめの笑い声を出しながら、高まる気持ちをこの部屋の中だけで放出させていた。

 前回のあれこれを思い返して、デュフフという安定の声が出たとき、ピンポーンとインターホンが鳴った。通販でなんか買ったっけ、とモニターの前に立って、冗談抜きで飛び上がるほど驚いた。
 モニターには宇髄さんが立っていた。
 なんで? 来るのは明後日だったはず。急いで携帯を見ると、《今、会社出た》《もうすぐ着くけど、なんか買っていく?》という二件のメッセージが届いていた。まるで約束があるような文面に焦ってメッセージを遡ると、今度は床を転げ回りそうなくらい驚いた。《○日、どうですか?》と自分が指定した日付が、今日だったのだ。

 寝具系が浴室乾燥中であること以外、目指すレベルには達していないものの、部屋の中は汚くない。むしろ、一番どうにもならないのは自分だ。眉なしのすっぴん、家用のメガネ、解散したバンドのライブTシャツに、愛用しすぎて毛羽立ったスウェットパンツ。前髪はヨークシャーテリアみたいに結んでいる。会うに値するレベルに持っていくには、軽く三時間はかかる。
 モニターに視線を戻すと、眉根を寄せて携帯をいじる宇髄さんが映っている。そして、届く追撃の《今どこ?》というメッセージ。これ以上待たせるわけにいかない。かといって正直に話したら、そんなの全然いいわ、とか言われて、全部を見られそうだ。考えがまとまらないまま、通話ボタンを押した。

「うずいさん」
「あっ、いるんじゃん」
「実は、ちょっと」
「具合悪いとか?」
「そうじゃなくて……」
「他に誰かいんのか」
 小さなモニターの中の顔が険しくなった。この部屋にいるのは私だけだけど、宇髄さんの知らない私だ。ド派手ないい女の対極にいる私だ。答えあぐねていると、宇髄さんの声が沈黙を切り裂いた。
「分かった。帰ったほうが良さそうだな」
「――だめっ、待って!」
 会いたい気持ちが勝ったのか、今すぐ誤解を解きたかったのか、自分でもよくわからない。玄関にあったサンダルに足を突っ込むと、エレベーターなんて待たずに、階段を駆け下りていた。
「良かった……、いた」 
 一階に着くと、ガラスのドアの向こう側に宇髄さんがいた。不機嫌そうだったその顔が、私を見るなり目も口も丸く大きく開く。幻滅されたな、と思った。
「他に誰かいるんじゃなくて、明後日だと思ってて……こんなひどい姿で会いたくなくて、がっかりされたくなくて……」
 ドアを開けてそう言うと、丸かった目や口が優しくゆるんでいった。

「行こ」
 手を引かれるまま部屋に戻り、ローテーブルの前に向かい合って座った。
「お前の気持ちも分かるけどよ。ごちゃごちゃ言うのも地味だから、これだけ。俺は、お前の上っ面だけを好きになったわけじゃねえから」
 膝の上に置いた両手が、肉厚の温かい手に包まれる。
「分かった?」
 顔をのぞき込まれ、胸がいっぱいで「はい」と頷くのがやっとだ。ちゃんと好きだからな、と呟いた唇が私のそれに重なった。

 気づいたら、二十一時になっていた。買い出しには明日行くつもりだったので、ガラガラの冷蔵庫には一パック九十八円の納豆がひとつだけ。このせまい部屋には、気合いの入った料理も無いし、派手に着飾った彼女もいないのに、納豆と冷凍の小口ネギだけのとても地味な納豆チャーハンを、うっま、とニコニコしながら食べてくれた。
「宇髄さん」
「うん?」
「だいすき」 
 紅い目が珍しく揺れたので、くすっと笑ってしまった。
 抱き寄せられ、宇髄さんの指が私の髪を耳にかける。何を言われるか、全身が心臓になったようにドキドキしていると、艶のある大好きな声が耳元で囁いた。
「前髪、犬みてえ。ド派手にかわいい」 
 思わず吹き出して、二人で顔を見合わせて笑う。
 これから先、納豆を見たら、今日のドタバタや美味しそうに食べる顔を思い出すだろう。地味な日も派手な日も大事に紡いでいって、願わくばずっとずっと宇髄さんの隣に。
1/1ページ
    スキ