そう。だから、さようなら
「おい、おっさん!」
遠慮のない声に呼び戻された。我に返ると、キャンバス越しに六つの丸い目がうかがうように見ていた。筆の先に含ませた絵の具も鮮度を失い、少し乾いている。
「宇髄先生、大丈夫ですか? 具合悪いんですか?」
「いや……ちょっと考えごと」
絵に視線を移した竈門が「何を描いてるかは分かりませんが、宇髄先生らしい派手ないい絵だと思います」と、いかにもこいつらしい感想を述べた。
「お前に芸術が分かってたまるかっての」
絵の具を厚く塗り重ねて立体的にした部分に忍び寄っていた、嘴平の手をはたき落とす。
なんとなく気を遣われている気配を感じて、居心地が悪い。脳天気なようでいて、変なところで敏感な奴らだ。でも、こんな空気を生み出したのは自分で、過去を思い出しながらどんな顔をしていたかなんて考えたくもなかった。
「おい、おごってやるから、なんか食いに行くぞ。ラーメン餃子なんてどうよ」
「芋! 芋を揚げたやつが、腹いっぱい食いてえっ!」
「ポテトかあ。いいなあ、伊之助」
竈門と嘴平が、ナチュラルに俺の提案を却下して盛り上がっている。
ポテト、ねえ。先生と一緒に食ってみたいという地味な願いはついぞ叶わなかった。あの日を最後にして先生とは会っていない。夏休み明け一週間ほどでヤマさんが復帰して、先生はいなくなった。俺が思い浮かべた未来には先生が必要不可欠だったのに、先生が選んだのは俺がいない未来だった。
目を輝かせた嘴平が、両手を上げて美術室を出ていく。竈門は菓子の袋をまとめてゴミ箱に捨てると「伊之助、食べたら後片づけをしろ」と言いながら、それにつづいて出ていった。
「何やってんだ? 早く行くぞ」
あらかた片づけを終えると、我妻がドアの前でバッグを抱えて立ったまま動かない。うつむいて、あーとかうーとか唸っている。
「……かったですね」
「あ? もたもたすんな。とっとと出ろ」
「悪かったですねって言ってんの! 俺が変なこと聞いたから、苦しいこと思い出させちゃって!」
さっきは三角だった目が、今度はピンポン玉みたいに丸くなって飛び出している。バッグを両腕で抱きかかえ、伸びあがるようにして大声を出した。
「はあ?……あ、お前さっき俺がボーっとしてたの気にしてんのか」
「……」
なんだよ、こいつ。いい奴かよ。うつむいている頭をガシガシなでると、鬱陶しそうな顔をしたものの大人しくしていた。
「我妻。ちょっといいか」
なによ、と金色に透ける目が困ったように見上げる。
「お前は暇さえありゃあ、モテたいモテたい言ってるけどな、いつか本当に好きな相手ができたら最後までド派手に行けよ。ダサくても、無様でもいいから、思いっきりな。そうすりゃ、例え望んだ結果にならなくても、いい思い出に変わってくれる」
「……俺は、好きな子とはずっと一緒にいたいし、うまくいきたいよ」
「そりゃあ、うまくいくのが一番だ。でもな、別れが最大の愛情ってこともあんのよ、世の中にはさ。どっかで幸せに暮らしててくれって願える相手がいるのもいいもんだ」
「そっか。その人……先生の好きだった人、幸せにしてるよ。絶対に」
「だな。行くぞ」
たぁーんじろぉー、いのすけぇーという我妻の声を聞きながら、美術室を施錠する。
好きな相手とは一緒にいたい。離れたくない。それは俺だっておなじだ。だが、上手くいかなかったからって恋が終わるわけではない。あとから思い返したときに「なんであんなことをしたのか」と頭を抱えたくなる誤りや、「なぜあれをしなかったんだろう」と項垂れるような心残りがあったとしても、全身全霊に愛した結果なら、いつかちゃんといい思い出に変わる。
こう思えるようになったのも、先生と会えなくなって結構な時間が経ってからだ。
強すぎる愛情は憎しみに似ている。
だから、ドラマや映画なんかでよく出てくる「叶わなかったけれど、好きにならせてくれてありがとう」なんてセリフがあるが、あんなもんは綺麗事だと思った。
好きだと言ってくれたのに、俺と未来を創る選択をしてくれなかったことを恨めしく思った。
追い縋るように本気で気持ちをぶつけたのに、信じてついてきてもらえなかった自分の情けなさもしんどかった。
どうしようもなく会いたくなったときは、目を閉じた。写真一枚、画像一枚すらなくて、会える唯一の方法はまぶたの裏だけだったから。全知全能の神なんて、もうどこにもいなかった。派手な見た目で、中身は未練たらたらの地味な男が出来上がっていた。
黙ってても治る身体の傷よりも、厄介なのは心の傷だ。完治したつもりでも、真皮の深い部分やそれ以上の深さまで損傷していることに自分で気づけない。古傷は予期せぬタイミングで何度でも痛んだし、痛みを感じる間隔が長くなると、それはそれで本当の終わりを意味する気がして、古傷を自分でえぐった。
それでも、必死に前に進もうとする昼を過ごして、会えないことに苦しむ夜を耐えて、何も変わらない朝を迎えることを何度も繰り返し、どれくらい経った頃だったか。ある日突然「先生を好きになってよかった。頭がおかしくなるほど好きになれて幸せだった」という気持ちが胸を埋めつくした。まさに、ドラマや映画のあのセリフを実地で体感したわけだ。
先生以外の一切を失ってもいいほど惚れ抜いて、捨て鉢になっていた俺が、こうして美術教師の夢を叶えたのも先生がこの道を選んでくれたからだ。そして、もしもあれだけ好きだった人の夢を傷つけて失わせていたなら、俺は自分を絶対に許せなかっただろう。
すべては先生の最大の愛情だったんだと思えた。
今、俺の姿を見たら「宇髄くんらしい、いい先生になったね」と笑ってくれるだろうか。
先生を好きになって、本当によかった。
胸の遠くで微かな痛みを感じながら、廊下の端っこで待ちくたびれた様子のトリオの元に急いだ。
遠慮のない声に呼び戻された。我に返ると、キャンバス越しに六つの丸い目がうかがうように見ていた。筆の先に含ませた絵の具も鮮度を失い、少し乾いている。
「宇髄先生、大丈夫ですか? 具合悪いんですか?」
「いや……ちょっと考えごと」
絵に視線を移した竈門が「何を描いてるかは分かりませんが、宇髄先生らしい派手ないい絵だと思います」と、いかにもこいつらしい感想を述べた。
「お前に芸術が分かってたまるかっての」
絵の具を厚く塗り重ねて立体的にした部分に忍び寄っていた、嘴平の手をはたき落とす。
なんとなく気を遣われている気配を感じて、居心地が悪い。脳天気なようでいて、変なところで敏感な奴らだ。でも、こんな空気を生み出したのは自分で、過去を思い出しながらどんな顔をしていたかなんて考えたくもなかった。
「おい、おごってやるから、なんか食いに行くぞ。ラーメン餃子なんてどうよ」
「芋! 芋を揚げたやつが、腹いっぱい食いてえっ!」
「ポテトかあ。いいなあ、伊之助」
竈門と嘴平が、ナチュラルに俺の提案を却下して盛り上がっている。
ポテト、ねえ。先生と一緒に食ってみたいという地味な願いはついぞ叶わなかった。あの日を最後にして先生とは会っていない。夏休み明け一週間ほどでヤマさんが復帰して、先生はいなくなった。俺が思い浮かべた未来には先生が必要不可欠だったのに、先生が選んだのは俺がいない未来だった。
目を輝かせた嘴平が、両手を上げて美術室を出ていく。竈門は菓子の袋をまとめてゴミ箱に捨てると「伊之助、食べたら後片づけをしろ」と言いながら、それにつづいて出ていった。
「何やってんだ? 早く行くぞ」
あらかた片づけを終えると、我妻がドアの前でバッグを抱えて立ったまま動かない。うつむいて、あーとかうーとか唸っている。
「……かったですね」
「あ? もたもたすんな。とっとと出ろ」
「悪かったですねって言ってんの! 俺が変なこと聞いたから、苦しいこと思い出させちゃって!」
さっきは三角だった目が、今度はピンポン玉みたいに丸くなって飛び出している。バッグを両腕で抱きかかえ、伸びあがるようにして大声を出した。
「はあ?……あ、お前さっき俺がボーっとしてたの気にしてんのか」
「……」
なんだよ、こいつ。いい奴かよ。うつむいている頭をガシガシなでると、鬱陶しそうな顔をしたものの大人しくしていた。
「我妻。ちょっといいか」
なによ、と金色に透ける目が困ったように見上げる。
「お前は暇さえありゃあ、モテたいモテたい言ってるけどな、いつか本当に好きな相手ができたら最後までド派手に行けよ。ダサくても、無様でもいいから、思いっきりな。そうすりゃ、例え望んだ結果にならなくても、いい思い出に変わってくれる」
「……俺は、好きな子とはずっと一緒にいたいし、うまくいきたいよ」
「そりゃあ、うまくいくのが一番だ。でもな、別れが最大の愛情ってこともあんのよ、世の中にはさ。どっかで幸せに暮らしててくれって願える相手がいるのもいいもんだ」
「そっか。その人……先生の好きだった人、幸せにしてるよ。絶対に」
「だな。行くぞ」
たぁーんじろぉー、いのすけぇーという我妻の声を聞きながら、美術室を施錠する。
好きな相手とは一緒にいたい。離れたくない。それは俺だっておなじだ。だが、上手くいかなかったからって恋が終わるわけではない。あとから思い返したときに「なんであんなことをしたのか」と頭を抱えたくなる誤りや、「なぜあれをしなかったんだろう」と項垂れるような心残りがあったとしても、全身全霊に愛した結果なら、いつかちゃんといい思い出に変わる。
こう思えるようになったのも、先生と会えなくなって結構な時間が経ってからだ。
強すぎる愛情は憎しみに似ている。
だから、ドラマや映画なんかでよく出てくる「叶わなかったけれど、好きにならせてくれてありがとう」なんてセリフがあるが、あんなもんは綺麗事だと思った。
好きだと言ってくれたのに、俺と未来を創る選択をしてくれなかったことを恨めしく思った。
追い縋るように本気で気持ちをぶつけたのに、信じてついてきてもらえなかった自分の情けなさもしんどかった。
どうしようもなく会いたくなったときは、目を閉じた。写真一枚、画像一枚すらなくて、会える唯一の方法はまぶたの裏だけだったから。全知全能の神なんて、もうどこにもいなかった。派手な見た目で、中身は未練たらたらの地味な男が出来上がっていた。
黙ってても治る身体の傷よりも、厄介なのは心の傷だ。完治したつもりでも、真皮の深い部分やそれ以上の深さまで損傷していることに自分で気づけない。古傷は予期せぬタイミングで何度でも痛んだし、痛みを感じる間隔が長くなると、それはそれで本当の終わりを意味する気がして、古傷を自分でえぐった。
それでも、必死に前に進もうとする昼を過ごして、会えないことに苦しむ夜を耐えて、何も変わらない朝を迎えることを何度も繰り返し、どれくらい経った頃だったか。ある日突然「先生を好きになってよかった。頭がおかしくなるほど好きになれて幸せだった」という気持ちが胸を埋めつくした。まさに、ドラマや映画のあのセリフを実地で体感したわけだ。
先生以外の一切を失ってもいいほど惚れ抜いて、捨て鉢になっていた俺が、こうして美術教師の夢を叶えたのも先生がこの道を選んでくれたからだ。そして、もしもあれだけ好きだった人の夢を傷つけて失わせていたなら、俺は自分を絶対に許せなかっただろう。
すべては先生の最大の愛情だったんだと思えた。
今、俺の姿を見たら「宇髄くんらしい、いい先生になったね」と笑ってくれるだろうか。
先生を好きになって、本当によかった。
胸の遠くで微かな痛みを感じながら、廊下の端っこで待ちくたびれた様子のトリオの元に急いだ。
4/4ページ