そう。だから、さようなら

 手が届かないと思っていた人が、実は同じ気持ちだった。
 そんな奇跡の大逆転で、俺は派手なことに目がない祭りの神から、全知全能の神になった。短い睡眠でも超元気だし、腹もそんなに減らない。地球から浮いてるみたいに身体が軽くて、いつだって気分がいい。先生がいてくれればなんでもできる気がした。

 バイトが終わったその足で、風のように自転車を走らせる。雨が何日も降っていない街は、日が落ちても地表から立ち上る熱で蒸されるように暑い。
 汗だくのまま、音を立てないようにドアを開けると、一瞬驚いた表情を浮かべた先生が手で口を覆った。指先のすぐ上にある目なんか細くなっちゃって、俺と会えたことを素直に喜んでいるのがよく分かる。カーテン同士をぴっちり合わせるように閉める後ろ姿を窓際で捕まえて、思いきり抱きしめた。
「どうしたの。何笑ってんの」
「教えない」
「俺に会えたの、そんなに嬉しいんだ?」
「宇髄くんは?」
「それ聞いちゃう? 見ろよ、この汗。このクソ暑いなか、誰に会いたくて急いで来たと思ってんの」
 胸あたりにある頭が笑い声とともに揺れる。他の誰かが聞いたら確実に白けそうな、内容も意味もない会話。互いの気持ちを知る者同士が戯れるためだけの言葉。たまらなかった。 
 何か言おうとしていた先生をひっくり返して口をふさいで、つづくはずだった言葉を飲み込んでやった。やわらかい身体の凹凸を感じ、落ちつくにおいに包まれていると、この世にある先生以外のことはどうでもよくなった。
 ただの教師と生徒じゃなくなってからはじめて会う今日も、場所は部活終わりの美術室だ。帽子をかぶろうが、サングラスをかけようが、普段着ない系統の服を着ようが、俺は目立ってしょうがない。背も体格も隠せないから、どうしたって一緒に外を歩くことはできない。この部屋が俺たちの世界のすべてで、大きな窓にかかっているほこりっぽいカーテンは、外界から俺たちを覆い隠す盾だ。 
「このあと、予備校だったよね。時間、大丈夫?」
「めんどくさ。行きたくねえな。このままここにいよっかな」
「宇髄くん」
「分かってるって。だから、もうちょっとだけ」
 受験勉強の時間を削って、先生と過ごす時間に変えた。夏休み前半の超模範的な受験生だった自分なんて跡形もなく消え去っていた。
 吸い寄せられるようにキスをする。窓際に追い詰めた先生が動くたび、ぶ厚い白いカーテンが不規則にゆらゆら揺れた。

   ◇◇◇

 朝起きて先生を思い、道を歩けば先生を思い、眠る前に閉じたまぶたの裏にも先生がいた。とにかく夢中。もはや狂っている。ちまちましていてめんどくさい駄菓子の品出しも鼻歌交じりでできちゃうくらい、今日も気分がいい。
「宇髄」
 バイト後の予定に意識を飛ばしていたら、背後から声をかけられた。見れば、画材屋に通っているあいつがにやけた顔で立っていた。
「おお。お前、あの店ほんと好きな」
「画家目指してっからね。それに、あそこのお姉さんめっちゃかわいいし」
「へえ」
 女の店員がいたことも、なんとなくのシルエットも覚えているが、顔がまったく思い出せない。
「いいよな、年上。色々教えてくれそうで。実際どうよ」
「は?」
「宇髄があの先生にドハマりしてるって噂聞いたんだよね。付き合ってんの? 人のいない美術室で、的な?」
「的な? じゃねえよ。エロ漫画のテンプレに当てはめんな。実技対策で場所借りてるだけだわ。他にもやってる奴いんのに、なんで俺だけそういう話になるんだよ」
「でもさ、先生と……ってやつ憧れるよな」
「本当にそんなことがあったら報告してやるよ。そういや、お前何フェチ? 俺は尻」
 そっち方面に話を広げて煙に巻いたものの、頭の中では噂の程度や発生要因に考えを巡らせていた。
 俺がどっかでミスったのか?
 先生とこうなる前に四回、こうなった後に一回。美術室にふたりでいたことは五回しかない。浮かれきって感覚が鈍っていた自覚がないといえば嘘になるが、時間も人目も気をつけていたのに。張りつけた笑顔が剥がれないよう神経を使いながら、目の前の男が語るフェチ論を聞き流した。

 失敗した。今日、この道すげえ混むんだった。
 バイト終わり、茹だるように暑い夕方の道にはいつもの三倍くらいの人が歩いていた。誰も彼も笑顔でテンションが高い。温度も湿度も増した道を走り抜けることもできず、歩くより少しマシくらいのスピードで自転車を走らせた。
 正門に近づかないように大きく迂回をして、生徒用の駐輪場からも距離をとって、錆びたフェンスのある枯れ草だらけの場所に自転車を停めた。そして、周りを見回して誰もいないことを確認し、隠す効果なんてまるでないフードを目深にかぶって足早に校舎に入る。
 まるで一端の逃走犯だ。俺はただ、好きな相手に会いに行くだけなのに。
「……」
 約束の時間より遅れて開けたドアの向こうには先生がいた。でも、笑顔で迎えてくれることはなくて、知らない女子らの相手をしていた。
「あ、宇髄先輩」
「うへえ、まじじゃん」
 こいつら誰だ。見たこともない奴らが、異口同音に俺の名を呼び、ギラギラした好奇の視線を向けてくる。
「先生、場所借りるわ」
「あ……うん」
 イーゼルと描きかけの絵を手に取って、そいつらからキャンバスと手元が見えるポジションに陣取った。遠慮なく注がれる視線を全身で受け止めて、絵を仕上げていく。あの「うへえ、まじじゃん」の真意を聞くわけにもいかず、こんな急ごしらえの猿芝居しかできない自分の無力さに腹が立った。
「じゃあ、先生お願いしまぁす」
「宇髄先輩、さようならぁ」
「おう、気をつけて帰れよ」
 誰だか知らねえけど、と心の中でつけ足す。珍奇な動物を見るような視線を俺と先生に振りまいて、やばーい、しゃべっちゃったぁ、と騒ぎながら去っていった。その能天気で軽やかな声とは対照的に、室内の空気は重い。
「いくら夏休みだって、学校だもんね」
 このあとに何が続くのか、何を思っているのか想像することを脳が拒否している。でも、打開策をひねり出したくて解析しようともしている。浅く速い呼吸で苦しくて、言葉が出てこない。不安とか困惑とかそんなレベルじゃない。これは、恐怖だ。
「もう、ほんと、教師失格」
 自分自身にしがみつくみたいに両肘を抱え、なんとか口元に笑みを作ろうとしている白い顔。
 教師と生徒。
 大人と子供。 
 この違いが今さら重みを増してきた。
 先生がそれを口にするたび「そんなもん分かってんだよ」と思っていた。好きになっちゃったんだからしょうがねえじゃんって。だから、好きだ好きだと気持ちをぶつけて追い詰めて、隠しとおそうとしていただろう気持ちを吐露させた。
 この関係が明るみになれば、いや、噂程度であっても致命的に思えた。好き合っているから一緒にいたいだけだと主張したところで、そんなもんは認められないだろうし、下世話な憶測も消えないだろう。学校は噂の宝庫だ。生徒同士はもちろん、教師だって例外ではない。赴任と同時に「知ってる? あの先生って前の学校でね」という前置きで、噂は巡る。
 俺は何を言われても本気でどうでもいい。でも、先生はだめだ。『生徒に手を出した教師』という紙を背中に貼ったまま、夢だった教師として働く姿を想像すると胸が痛んだ。
 十年ものの夢を叶えようとしている好きな女を、危険に晒す奴は誰だ?
 箱庭のなかに引きずり込んで、浮かれていた奴は誰だ?
 他でもない俺だ。進路が断たれ、退路が口を開けたように思えた。

   ◇◇◇

「俺たち離れよっか」
 待ち構えていたように、あっという間に部屋中に充満する終わりの気配。それを吸ったり吐いたりして生命を維持しながら言葉をつづける。
「噂がこれ以上広がったら、シャレになんねえだろうし」
 先生の視線が何かを探すように、縋るように、不規則に動いた。
 こんなときでも、俺の言葉に動揺する先生を抱きしめたいと思う。理性と本能のはざまをふらふらしながら考えるが、終わらせたほうがいい理由は山ほど見つかるのに、つづけたい理由はひとつしかない。しかも、それは言葉にすると陳腐で、ド派手なエゴだ。
 それでも、なお。
 だからこそ、どうしても。
 分かっていても、やっぱり。
 諦めたくない。この人が好きだ。

「半年経ったらさ、俺んところに来てよ」
「え?」
「そんときはもう高校生でもねえし、十八になってるし。俺らの気持ち次第だろ」
「……」
「誰も知らねえ土地に移ってもいいし、俺といて目立つのが嫌なら地味を極めてやる」
 手の甲で左目のまわりの化粧を強く擦ると、先生が「あっ」と声を出した。
「どうしてそこまで……」
「好きだから」
 天秤の左側に先生を乗せたなら、右側に何が乗ったって勝てるものはない。
 物心ついたころから、とにかく目立つ自分の派手さがずっと好きだった。景色に溶け込むことも、雑踏に紛れることも絶対にない。知らぬ間に自分が知らない多くの人間に認知されている。そんな環境を普通のものとして生きてきた。でも、先生と一緒にいられるなら、とやかく言われずに大手を振って恋人としていられるなら、どっか遠くの土地で、誰の記憶にも残らないほど地味に生きたっていい。
「せっかく頑張ってるのに、進路を変えたらだめだよ。宇髄くんらしさを消しちゃうのも耐えられない」
「一緒にいられんなら、そんなの全部どうでもいい」
「私だって宇髄くんが大切なの、分かって」
「分かってるよ。でも……待ってる」 
 守ってもやれないのに、諦めも悪い。渡せるのは気持ちだけ。そんな俺の手に一瞬だけ触れると、先生は出口に向かって行った。
 やっと近づけたと思っていたのは、悲しい錯覚だったらしい。近づけば近づくほど遠くなって、今は最初よりずっと遠く感じる。
 相手の言葉ひとつ、視線ひとつで、心も身体も浮いて沈んで、怒涛のように流れ込んでくる苦しさや嬉しさに溺れた毎日だった。これを初恋というなら、好きな人が自分から離れていこうとしているこれが失恋というものなんだろう。普通に退屈で、ありきたりに楽しくて、面倒なことは後回しで、くだらないことで笑う。そんな日々に戻れるのか? 先生を失ってから。
 最後にもう一回、一秒だけでもいい。この手で抱きしめたい。勢いよく振り返ると、ガチャッという音がして、泣いているんだか笑っているんだか分からない顔の先生がいた。
「カギ閉めちゃった」
「え……?」
 カギを閉めて作り出した密室。こんなもんバレたら一発アウトだ。でも、やっぱり俺たちの世界の全部はここにしかない。ここで始まって、ここで育って、終わるのもきっとここだ。
 小走りで駆け寄ってきた先生を抱きしめる。
「そうだ。ちゃんと言ってなかったよね」
「なに?」
「宇髄くん、好きだよ」
「う、知ってる」
 突然のド直球に動揺したのを隠したつもりだったが、くすぐったそうに笑う先生の様子でそれが叶わなかったことを知る。でも、もうひとつは気づかれていないといい。心臓の端を強くつねられたように胸が痛むほど愛しいこと。腕の力を強めると、先生の身体が弓なりに反った。

 ドォーン……。ドドッ。ドォーン……。ドッ……。
 遠くから雷鳴が轟くような音が聞こえる。夜空に花火が咲く音だ。さっき道に溢れていた奴らは、今ごろどこかで歓声をあげているんだろうか。一緒に花火大会に行くことすら叶わない相手を好きになるのははじめてで、なるべく見ないようにしてその間を縫うように走ったことを思い出す。
「花火?」
「そう。花火大会」 
「一緒に観ようか」
 先生に導かれるまま窓際に座りこみ、カーテンを細く開いた隙間から二人で見上げた。
「……ちょーっと光ってるか」
「煙も、ちょっと見えるね」
 二人で顔を見合わせて笑う。時々、近くの建物の上がピカッと光り、もやっとした煙が見えるだけ。いつも俺らを隠していたカーテンで細長く切り取った空には花火の切れ端も見えなかった。でも、この光景を一生忘れたくないと思った。
「全然見えねえけど、幸せだわ」
 笑いかけた口がやわらかいものでふさがれて、鼻先が触れる距離に先生がいた。唇の上をなでるようなやさしいキスがつづいていたのに、離れる瞬間に下唇を強く吸われた。
「……」
 目を見て、頬を包んで、耳を覆って、キスをする。先生の五感も五官も奪って、俺で満たした。
 深く深く溺れるみたいなキスをして、時おり漏れる息や俺の背をつかむ手の力強さまでも愛おしい。こんなにも狂ったように何かを欲しいと思ったことはない。人も物もひっくるめて、自分のものにしたいと思ったのもはじめてだ。身体の中に溜まった熱が蠢いて、出口を求めていた。
 左耳を包んでいた手を首から鎖骨に滑らせると、先生の身体が震えて、俺の口の中で「ん」と声を出した。
 目を開けると、水の膜で包んだみたいに濡れた目がすくい上げるように俺を見ていた。先生も俺を欲しているのが、はっきりわかった。
 鍵を閉めて作り出した密室だ。誰も見ちゃいない。
 もっと触れたい。すべてを知りたい。理性なんか捨てて、溶けておかしくなるほど抱き合いたい。そして、俺の痕跡を身体の奥に残したい。
 だって、俺たちはこんなにも好き合っているんだ。何が悪い? 
 鎖骨の下の皮膚に触れると、びっくりするほどきめ細かくてやわらかかった。そのさらに先、服の中に手を差し入れようとすると、先生の茶色い目が不安げに揺れた。それは、数ミリの揺れ。でも、俺の理性を戻すには十分だった。
 服の中から手を出して、先生の手をにぎる。
「ごめんね、宇髄くん。本当にごめんね。ありがとう」
「いや」
 好きだ、と口にするたびに胸が痛むから、手を強くにぎって、唇を重ねた。次から次に流れる先生の涙が俺の頬を濡らして、つないだ手の上にも落ちて、泣けない俺の分まで泣いてくれているみたいだった。

 先生は二十七歳の大人で、俺は十七歳のこども。
 自分たちさえ黙っていれば、この部屋で何があったって誰にも知られることはないだろう。
 でも、もう不安にさせたくなかった。
 堂々と夢を叶えてほしかった。
 先生のこの先と、その心に暗い影に落とす原因になりたくなかった。   
 今の自分にできるのは離れることだ。この選択が正しいのかなんて分からない。それでも、好きで好きで仕方ないから、先生が何よりも大切だから決めたことだった。
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