そう。だから、さようなら

 ヤマさんと呼ばれている爺さん美術教師が入院し、ピンチヒッターのあの人と出会ったのは高校三年の四月。美術の時間だった。
 満開の桜が校庭の一画を縁どって、美術室の窓から温かい風が吹きこむ気持ちのいい日。昼飯を食べ終わった五限目なのも相まって、とにかくダルくて眠くて、座っているのが苦行に感じるほどだった。だから、緊張した面持ちで教卓の前に立って挨拶をする姿を、半分寝たままボーっと見ていた。

「はじめまして。よろしくお願いします」

 小ざっぱりした白シャツに黒のスカート。黒髪をひとつに結んで、現役女子校生よりも化粧っけのない顔の三点セットは地味そのもの。挨拶だってウケを狙うわけでもなければ、ちょっとした自分の小ネタを入れて親近感を持たせるわけでもない。期間限定の講師の、印象に残るような要素なんかひとつもない登場シーンだ。それなのに、教室内を見渡してはにかんだように笑う顔を見た瞬間に、さっきまで俺をあんなに苦しめていた眠気が飛んでいった。空がやけに晴れていたことも、窓から吹きこむ風がカーテンを揺らしていたことも、全部引っくるめて心に刻まれた。まるで空間ごと切り取って、念写したみたいに。

 一週間後の放課後、俺は美術室にいた。
 美術部に入部したのは一年の中頃だったが、サボりにサボりまくっていたおかげで、顔を出すのは二度目だった。そもそも、美術部には自ら好き好んで入部したわけではない。売られたケンカを買ったら騒ぎが大きくなった戒めとして、なんでもいいから部活に入れと言われたからに過ぎない。部活なんてクソ面倒くさくって、籍だけ置いて卒業してやろうと思っていたのは一週間前まで。興味を惹かれた新任講師との接点ができたし、今日こうして美術室に堂々と入る資格を得た今となっては、入部させられてよかったとはじめて思えた。
 俺の登場に驚く部員に適当に挨拶しつつ、小さなキャンバス越しにあの人が見える位置に陣取った。自分のまわりだけスペースが空いていて、完全に遠巻きにされている。
「今日は、この石膏像のスケッチをしましょう」
 イスを半円に並べて座る俺たちの前に、長いひげを生やした謎のおっさんの石膏像が置かれた。
 開始から十五分。紙の上を鉛筆でさらさらなぞっているものの、スケッチをしているフリでしかない。何も形になっちゃいない。俺の意識のほとんどは、部員に話しかけられて笑ったり、小さくあくびをしたり、床に落っことした鉛筆を蹴って、さらに遠くに転がす姿を盗み見ることに集中していた。
 しばらくすると、コツッコツッとヒールの靴音をさせながら室内を歩き、部員に話しかけはじめた。このままのペースだと、あと四人で俺の番だ。さあ、第一声はどうするか。派手でいくか、それとも声を抑えて低めにいくか。いっそキメ顔でもしてみせるか……なんて考えているうちに、すでに打ち解けている様子の四人をすっ飛ばして俺の前に立った。

「名前、教えてくれる?」
「……う、ずい」
「宇髄くん? よろしくね」
「はぁ」

 今ここにいるのは、本当に俺か?
 自他共に認めるほど会話が得意な俺は、どこ行ったんだ。ありえない事態に自分が驚く。しかも、この対応のせいで、あっという間に会話が終了して、次の奴のところにさっさと行っちまった。派手に挨拶して、キメ顔を見せるどころの騒ぎじゃない。ぶっきらぼうにボソッと返事するのが精いっぱいなんて、生きてきて経験したことがなかった。
 よろしくね、そう言って微笑んだあの人は、化粧っけはないし、ピアスも着けていないほど飾り気もなくて、かなり地味だった。が、悪くなかった。悪くないどころか、恐らく二十代半ばの大人なのに、どこか子供みたいな警戒心のない笑顔がかわいかった。
 柄にもなく恥ずかしくなった俺は、やたらめったらに鉛筆を動かして、驚くべきスピードで下書きを完成に近づけたのだった。

   ◇◇◇

 校庭に咲く花が桜から紫陽花に変わり、身体にまとわりつく湿気が鬱陶しい季節がやってきた。そのころには、週に一度の授業と、部員のひとりでしかいられない部活の時間だけでは、すでに物足りなくなっていた。
「宇髄くん、美大目指してるんだ」
「そう。実技の練習したいんだけど、家、兄弟多くって集中できねえんだ。場所借りていい?」
 他の部員が消えたのを見計らって、美大進学希望だと打ち明けた。進路希望を提出する担任以外で、この話をしたはじめての相手だった。
「いいよ。私も油彩卒だから何かアドバイスできるかも。一緒に頑張ろう」
 先生は快諾してくれた。この頼みは、半分本当で、半分が下心。熱心な部員が休み時間や部活後にこの部屋を借りていることを知って、俺も真似することにしたわけだ。顔を合わせる機会と時間が増えるのがうれしい反面、先生にとって今の俺は教え導く対象以上でも以下でもないのは明白だった。
 まぁ、いい。美術室に大手を振って来られる権利は得た。これくらいのハンデがある方が燃えるってもんよ。ド派手にやってやる。意気揚々と絵を描く準備をして、イスに座った。選んだのはもちろん、美術室前方の教卓で事務作業をしている先生をキャンバス越しに見られる席だ。
「先生ってさぁ、いくつ?」
「二十七」
 ふたりだけの美術室。作業の手を止めた先生の目に、俺だけが映っている状況に否が応でも滾る。
「ふうん、俺の十個上か。で、なんで先生になろうと思ったわけ?」
「高校のときの美術の先生に憧れたから。ベタでしょ」
「へえ、なるほどね。じゃあさ、好きな食べ物は?」
「好きな食べ物かあ……。好き嫌いないからなんでも食べるけど、強いて言うなら、ポテトが好き」
「あ、俺もポテト好き。旨いよな。じゃあさ」
「うん、なぁに。宇髄くん……ふふっ」

 先生が笑いをこらえきれないという顔をしている。そこではじめて、自分がまるでガキのように次から次に質問を浴びせていることに気がついた。聞きかけていた質問も、休みの日は何をしているのかというもので、先生のことをなんでも知りたい気持ちが派手に丸出しになりすぎている。気づけば、体の向きも足先もキャンバスよりも先生の方に向いている。最悪だ。ただでさえひと回り近く下なのに、これ以上ガキに見られたら完全に詰む。先生は口元に手を当てて、笑いを抑えようとしているようだった。

「……なんでもねえよ」
 我に返った俺は、キャンバスに向かい合うように座りなおした。
「あ、ごめんごめん。笑っちゃって。で、なんだっけ?」
「なんでもねえって。質問忘れたわ」
「じゃあ、思い出したら聞いて。宇髄くん、最初の印象と違って、いっぱい話してくれるんだね。うれしいよ」
 にこにこ笑う白い顔を前にするとどうにも調子が狂って、いつもの自分でいられない。冗談を派手にぶっこんだりして、会話の流れも雰囲気も一変させるのが得意なのに、持ちなおすことすらできない。
「……そろそろ帰るわ」
「そう? わかった。また部活でね。さようなら」 
 作業時間はわずか二十分ほど。これ以上いると何かしらの自爆行為をしそうで、初回はこれで帰ることにした。質問攻めにしても、拗ねても、突然帰ると言い出しても、先生は呑気な顔をして笑ったままで、帰って行く俺を引き留める気もなさそうだ。うしろ髪を引かれているのも、きっと完全に俺だけ。
 むしゃくしゃした気持ちのまま自宅の最寄り駅に着くと、ファーストフード店が目に入る。吸い寄せられるように入店して、ポテトをテイクアウトした。
「うっま」
 揚げたてのポテトを口に放りこむと、塩辛くてやけに旨い。これを食ったら、先生はあの笑顔を見せるんだろうか。いつか一緒に食ってみてえな、なんて思う自分の願いのあまりの地味さにうんざりした。

   ◇◇◇

 先生の都合がついて、部活のない水曜日の放課後。美術室で絵を描くようになった。残念すぎる初回の教訓を生かし、ガキっぽい自分を封じることにも慣れてきた。
 絵筆を走らせる音しか存在しない部屋は異様に静かだ。新しい絵の具を毛に含ませて、次の塗りに移る前の数秒、先生を盗み見る。
 本に目を落としてうつむく顔を隠す黒髪。
 窓の外に目をやる横顔。
 パソコンに向かう真剣な顔。
 指で髪をすくい上げて耳にかけるしぐさ。
 自分の中に、先生のいろんなしぐさや表情がたまっていくたび、どうしたらいいか分からなくなった。腹より上で、のどより下。このあたりが、にぎりつぶされる寸前の絶妙な強さで苦しい。
 ――これってもう、完全にあれだろ。
「どうしたの、大丈夫?」
 はあっ、と大きく吐き吐いたため息が届いたのか、先生が様子を見にきた。大丈夫か大丈夫じゃないかでいえば、大丈夫じゃない。でも、の理由なんて言えるわけなくて、とっさに筆の先っぽを絵の余白に向けた。
「いや、このへんが地味ってか、ありきたりすぎてさ。なんかいい構図とか塗り方とかねえかなって」
 うーん、と小さく唸ると眉根を寄せて黙った。目の前の男子高校生にどんな気持ちを抱かれているかなんて、考えもしないんだろうな。柔軟剤なのかシャンプーなのか分からないが、清潔感のあるにおいを吸い込みながら言葉を待った。アドバイスなんか一生見つからないでいい。そんで、このまま俺の横にいてくれりゃいいのに。
 しばらくすると「じゃあこれは?」とさらに近づいてきて、テーマを際立たせる塗り方のアイディアをくれた。感覚派なのか、その説明はお世辞にも上手くない。
「……それって、こういうこと?」
 ひとしきり話を聞いたあと、先生の口から出たワードを集めて、つなげて、ひとつの形にしてみせると、どっちが先生か分からないね、と照れた顔は素の表情に見えた。
 顔を合わせるたびに、打ち解けた雰囲気が増していく。でも、それよりもハイスピードで増していくのは、俺の気持ちだった。 

   ◇◇◇

 夏休み以降、受験をひかえた三年生は美術部の活動が休止になる。それなのに、期末テストと売られたケンカを買った後始末のコンボで、七月に入って先生の顔を見たのは授業の一回だけ。期末と後始末が終わるや否や、美術室にすっ飛んで行った。
 このまま夏休みに入ってたまるか。尋常じゃない気合を入れて、美術室のドアを開ける。
「あっ、宇髄だ。この前ありがと。教えてくれた画材屋めっちゃよかった」
「だろ? あそこいいよな」
 はじめは異物感大アリだった俺も、この空間にいることが自他ともに普通の光景になっていた。

 こっち見ろ。ちょっとニコッと笑うくらいしてくれてもいいだろうが。まさか、この馴染みっぷりが良くないのか? 
 絵筆の音。鉛筆の音。物を落とす音。誰かがこそこそ話す声。そんな音が集まる部屋で、俺はイラついていた。あれだけ気合を入れて臨んだのに、どんなに視線を送っても、でかい身体と長い腕を存分に活かして豪快に伸びをしても、教卓から一番近い席に座っても、先生から特別な反応が返ってくることはない。話だって全然できない。
 結局、手を変え品を変えやってみたアピールの効果は無風のまま部活が終わろうとしていた。先生は先生らしく、俺はどこまでもただの部員でしかない現実を嫌というほど知っただけだ。でも、どうしても諦めきれそうになかった。ダサくて地味な男になり果てても、どんなに相手にされていなくても。
 他の奴らが挨拶をしながら次々に帰って行くのを横目に、のろのろつづけていた帰り支度もついに終わってしまった。平たいリュックを背負い、美術室のドアに向かう。そして、出る直前に未練がましく振り返ったときだった。
 先生が胸元で小さく手を振る。そして、口が動いた。
「さよなら、うずいくん」
 何あれ。信じらんねえくらいかわいいんだけど。手を振って、挨拶されただけ。たったこれだけなのに、気持ちが落ちまくってからの威力はやばい。勢いよく振り返って戻ると、さっき片付けたばかりの道具を並べて、席に座った。
「え、あれ、どうしたの? 帰るんじゃないの」
「帰んのやめた。だめ?」
 先生が吹き出す。そうそう、この顔が見たかったんだ。頭の中がド派手な祭状態になっていて、今にもニヤけそうになる顔を無理やり抑え込む。もう、ガキっぽい一面なんか絶対に見せねえと決めているんだ、俺は。
「ん、いいよ、三十分くらいなら」
 先生が艶のある黒髪を揺らして、壁掛け時計を見上げた。時刻は六時になろうとしていて、今にも踊り出しそうな喜びしか頭になかったが、先生からしたら残業になるという事実に今さら気がついた。
「いや、やっぱやめる。悪い。帰んの遅くなっちまうよな。帰るわ」
「えぇ、なに? 宇髄くんは自由だなあ。いいよ、大丈夫だよ」
 近づいてくると、ガタッと音を立ててその辺の椅子に座った。腕を伸ばしきらなくても触れられる距離に先生がいる。グレーの半袖のニットと白のロングスカートを着た身体が、窓から射す夕日に照らされている。腕や足首の妙に鮮やかな白さが目に入った瞬間、全身がぶわっと汗ばんだ。
「すてきな絵」
「……そォ? ありがと」
「極彩色のギラギラした絵専門かなと想像してたけど、繊細さもあるね。細かい技巧もきれい」
 うん、本当にすごくいい絵だ、そう呟いた自身の言葉にうんうん頷いている姿が、やっぱりあり得ないくらいかわいい。俺の絵を見つめる先生の、その横顔や身体に穴が開くんじゃねえかってほど、じっと見る。濃いリップをつけている女が多いが、先生は恐らく色なしのリップクリームくらいしかつけていない感じで、ありのままの色の唇に艶があるのがかえって色っぽかった。
 あと、ここもすごくいいね、と指を差して俺の絵を見てくれるのが嬉しくて、先生を横目にちらちら見ながら、ワールドクラスのコンクールにでも出すのかってくらい気合を入れて絵を描いた。

「宇髄くんの絵、いいね。好きだな」

 ふいに俺の方を向いて、そんなことを言う。褒められたくて本気を出して描いたのに、実際に褒められたら、えんじ色の俺の目とは違う薄茶色の目に見つめられ、真正面から顔を見つづけることすらできない。『の絵』という二文字をカットして、さっきの言葉をもう一回言ってくれねえかなとか思っちゃうほど完全にやられている。
「好きなんすか? 俺の絵」
「うん、好き。個性もアイデアも独創的で、うらやましいくらい。受験、絶対上手くいくよ」 
 さっきの言葉も聞こえてたし、なんなら心のなかで何回も反芻してたくせに、もう一回「好き」って単語を言わせるように仕向けた。ダサすぎる。でも、その唇から放たれるたった二文字は何度だって聞きたい。その「好き」が俺本体に対してじゃなくても、この絵は俺の一部だ。俺の脳内で生まれて、張りめぐらされた神経をとおって、この手で描き出したものだ。それを好きだと言われている事実は嬉しいなんてもんじゃなかった。
 膨れ上がった気持ちごと、今にも身体が派手に爆発しそうだ。
「宇髄くん、将来の夢は?」
「……」
「まだ決まってないか」
「いや」
 なりたいものならある。前は馬鹿正直に答えていたが、驚かれたり笑われたりするのが面倒で、適当にごまかすか、だんまりを決め込むのがいつもの流れだ。
「独特のセンスがあるからデザイナーもいいけど、美術の先生も似合いそうだね」
「え?」
 隠していた願望を、明るい場所に引っ張り出されて変な声が出た。
「もしかして、当たり?」
「いや……てか、俺、先生なんて柄じゃねえだろ」
「そうかなあ。はじめは距離があった部員の子たちとも、すぐ打ち解けてたじゃない? 面倒見もいいし、人に教えるのが好きそうに見える」
「……ふうん。それ、まじ?」
「まじ、まじ。大まじ。絶対にいい先生になるよ。私も今は講師だけど、クラスを受け持ちたいから頑張ってるんだ。お互い頑張ろう」
「ん。ありがと」
「どういたしまして」
 大人の女なのに、子供みたいにはにかんだ。なんだよ。俺のこと見てないふりして、見てたんじゃん。自分でもなんとなく隠すようになってた夢を言い当てて、無邪気に肯定してくんな。ふざけんなよ。気持ちに抑えがきかなくなんだろ。
 目の前の存在すべてが、欲しくて欲しくてどうしようもなくなった。

「先生が、俺の絵を好きならさ」
「うん」
「俺が好きなのは先生、つったらどうする?」
「……あはは、ありがとう。光栄です。宇髄くん、そういうセリフすっごい似合う」
「なんだよ、その返し。流しすぎじゃね」
「学生時代に先生に憧れた時期、私にもあったからね」   
 夕陽が落ち、かげりゆく美術室にふたりだけ。自分たちの他には誰もいないのに、こんなに近くで、こんな言葉を言われても警戒する様子がない。冗談ぽく言ったにしても、顔色ひとつ変えねえし、ここまで脈がないとは。
 スタートラインにすら立てねえことなんかあんのか?
 この俺が?
 今まで何もしなくても女が寄ってきた。だから、経験のスピードも数も周りの奴らより頭ふたつくらい抜けている。かわいいとか、抱きたいとか、一緒にいて嫌じゃないとか、普通に好きとか、そんな気持ちなら今までの相手で経験済みだ。相手に溺れて悩む奴らを横目に、恋愛を楽しむ余裕がある俺すげえって思ってたのに。
 だから今、先生への気持ちが手に余ってどうすればいいか分からなかった。そばにいるだけで血が湧いて、心は踊るし、よく分からない焦燥感に支配されて苦しい。誰かの心を自分のものにしようと努力したことなんかなくて、何を一体どうすれば俺を見てくれるのかも分からない。四月のあの日、俺たちの前で挨拶をした姿を見てから好きになっていくばっかりで、ずっと溺れてもがいているみたいだ。
 もう認めざるを得ない。これが、初恋なのかもしれない。

「あ、そうだ。言っておこうかな。あぁ……でもな」
「えっ、なにっ? 言って」
 まさかの一発逆転。
 この流れで遠慮がちな口調と困り顔なんて期待しかない。食い気味で催促した俺は、意味もなく姿勢を正して、先生の口から出てくる言葉を待った。頼むから、ちょっとでいいから可能性を感じさせて。例えそれがどんなに小さな可能性でも絶対見逃さねえから。
「こういうこと言うのはじめてなんだけど」
 きた、きた、きた! なんだよ。さっきまでのは全部いらない心配だったか。落ちる必要なんてなかった。俺はスタートラインどころか、すでにゴール間近の勝ち確だったんじゃねえか。
「ゆっくりでいいよ。待つから」
 すっかり余裕を取り戻した俺は、ちょっと悩んだような顔までかわいいわ、なんて思いながら先生を見つめた。すぐにでも抱きしめたいが、自分の腕の中であんな顔されたら、理性なんて派手に吹っ飛ぶのは間違いない。
「宇髄くん」
「なに」
「……ケンカ、ほどほどにね。担任でもないし、事情も知らないし、私がこんなこと言う立場にないとは思うんだけど」
「は」
「もしも手に怪我しちゃって、絵を描けなくなったら本当にもったいないよ。こんなにいい絵を描くんだから」
 流れこんできた言葉に、全身の力が一気に抜けた。
「はああ……なんだよ、そっちかよ……」
「お説教するつもりじゃないから、これで終わりね」
「だったらさ」
「ん?」 
「だったら、俺のこと見張っててよ」
 え、と言った先生の目が大きく開く。よく潤っていて、きれいな目だ。
「ずっと俺のそばにいて。先生がいてくれたら、二度とケンカしねえから」
 気づいたら、こんな言葉とともに先生の手首をつかんでいた。夏休み目前の七月にも関わらず、エアコンから吐き出される風はぬるくて、美術室の空気はもわっとして暑い。
 はじめて触れた肌はやわらかくて、思った以上に細い手首も、それをつかむ自分の手も、どことなく汗ばんでいるのがまた俺を煽る。かろうじて残っている理性が働いて、腕を引いて抱き締めるのは我慢することができたが、もう本当にギリギリだ。
 先生は自分の手首に視線を落としていて、顔にかかる髪の毛のせいで表情が読み取れない。今、どんな顔をしているんだろう。自分が何かをして、相手の反応を知るのが怖いなんて思ったことはなかった。腹を括った俺は、背中をだらだらと伝う汗が流れるのを感じながら先生の顔を覗き込んだ。

   ◇◇◇

 イヤホンを耳につっこんで、追い立てられるようにサブスクを起動する。耳に悪影響がありそうな爆音を流しても、さっきこの目で見た映像が脳内で繰り返し流れつづけていた。
 覗きこまれる寸前で顔を上げ、手を振り払った姿は、先生の姿かたちを模したバネ仕掛けの人形みたいだった。ド派手な反応に面食らっていると、パラパラ漫画みたいにコマ送りで表情が変わった。
 大きく見開かれる目。
 外れた視線が、宙を泳ぐ。
 唇を内側に巻きこむように結んで、下を向く。
 ふっと息を吐いた口が動いて「宇髄くん、もう帰りなさい」と言った。やっと聞き取れるくらいの小さい声なのに、やけに迫力があった。
 リュックをつかんで美術室を出て、飛び降りるように階段を降りて昇降口に向かう。離れていくのは自分なのに、中にいる先生ごと美術室の方が俺から離れていく気がした。
 どのコマの先生を思い出しても、まったく嬉しそうじゃない。でも、不思議と嫌悪感や怒りも感じない。ただただ戸惑っている――そんなふうに見えた。
 一階に着くと、だだっ広い昇降口に熱風が吹き渡っていた。足を止めた瞬間に暑さがまとわりついて、流れ出す汗で濡れたシャツが背中に張りついて気持ち悪い。十歩も歩けば外に出られるのに、足が前に進まない。それどころか、さっき走ってきたルートを逆からなぞるように戻っていた。薄暗い廊下を走り、五段とびで階段を駆け上がって、うす暗い廊下を走る。
 はい、また空回り。
 あっという間にたどり着いた美術室は、施錠されて、電気が消えていた。
 こんなに必死に走ってきて、謝りたかったのか、言い訳したかったのか、自分でも分からない。地味でダサくなる一方の恋愛なんか腹いっぱい。今すぐやめたい。それなのに、今すぐ会いたくて仕方ない。  
 あー……くそっ。俺の情緒どうなってんの。
 ドアの前に座り込むと、床に近い空気は少し涼しかった。俺史上一番しんどくて、苦しい夏休みのはじまりだった。

   ◇◇◇ 

 オープンキャンパス、バイト、予備校、自習、創作。とにかく予定を詰め込んだ。高校三年生らしい超模範的な毎日のおかげで、不毛な片思いをしていることなんか嘘みたいだ。でも、ふと気づけばあれ以来誰ともケンカはしてないし、思うままに絵を描くことに自信がついたし、教えられた構図と塗り方が反映された絵を描いている。自分の内部に先生がしっかり存在していることを自覚して、身体の底からため息が出た。

「あ、宇髄じゃん。ここでバイトしてんだ」
「おお、ひさしぶり。あの店また行ったのか」
「そう、いい感じのがあったから買ってきた」
 画材屋近くのコンビニでバイト中の俺の前に、美術部の奴が現れた。よっぽど気に入ったのか、店を紹介した俺よりも通っていて、この日も大きい袋を手に持っていた。
「ヤマさん、退院したって」
 聞こえてきた言葉に、会計中のガムが逃げるように手からすべり落ちた。
「……まじか。いつ復帰すんの」
「知らん。本人、張り切ってるらしいからはやいんじゃん。じゃ、俺行くわ」
「ん。じゃあな」
 へえ。じゃあ、先生もうすぐいなくなるんじゃん。
 そしたら、あれか。余裕がなくて空回りまくる、地味の極みみたいな俺もいなくなるってことだ。自分で自分をコントロールできないのも、もう勘弁。イラつくし、苦しいし、とにかく疲れるんだよね。願ったり叶ったりだわ。
「宇髄くん、雑誌入ってきたから並べてきて。……聞いてる?」
「すいません、クッソ腹痛いんで上がっていいすか」
「えっ」
「漏れそう。あー……やばい、これだめなやつだ」
「ちょっ、やだ、上がっていいよ。ここでしないで」
「お疲れっした」
 慌てる店長を置いて、一分もしないうちに店を出た。紺色とストライプが半々の制服の上にパーカーを羽織って、ぎこぎこうるさい自転車を漕ぐ。向かうは学校――の、三階のはじっこにある美術室。
 本当に、もう勘弁。自分でも何やってんだって本気で思う。思うけど、心に引っ張られるように動く身体は止められなかった。

 夏の学校は太陽の光の派手な明るさに反して、静かだ。がら空きの駐輪場に自転車を停めて、階段を駆け上がる。
「……宇髄くん」
 勢いよくドアを開けた向こうに、びっくり顔の先生がいた。二週間ぶりに顔を合わせるが何も変わりない。もちろん、俺の気持ちも。
「ヤマさん、退院したって聞いて」
「情報はやいね」
「ここ辞めたらどうすんの」
「ね。どうしようかな」
「いつまでここにいんの」
「いつまでだろう」
 前にもこんなふうに質問責めにしたことがあった。でも、今日は一個も答えてくれない。うす笑いを浮かべ、オウム返しをするだけ。
「答える気ねえだろ」
「なんでそんなに聞いてくるの」
 うるせえガキとしか思われてないんだろう。ダサいなんてレベルを通り越して、無様だ。ぬぐっても止まらない汗と冷える背中。もはや、自分が怒ってるのか、悲しいのかも分からない。
「好きだから」
「何言ってるの……。私は先生で、宇髄くんは生徒だよ」
「それがどうした。人の気持ちを、そんなもんで片付けんな。立場なんかどうでもいいくらい好きになることだってあるんだよ。そんなことも分かんねえの。大人なのに」
 心臓がバカみたいに激しく動いて、うるさくて、吐きそうだ。頭の先から滲み出るように広がる冷たさと、燃えるような熱さ。震える指をパーカーのポケットにしまった。先生の顔が叱られた子どもみたいに悔し気にゆがんで、思わず一歩前に出ると、顔をそらされてしまった。
「……分かるよ」
「え?」
「分かっちゃったから、困ってるの」
「……」
「大人なのに」
 居ても立っても居られずに走り寄り、教卓にきっちり収まっている先生を抱きしめる。抵抗されることはなかったが、腕をまわしてくることもない。それでも、自分の腕の中に好きな相手がいる現実に頭がおかしくなりそうだった。
「先生」
「……」
「ほんと好き」
 ガラスみたいな目で見上げ、うん、としか返ってこなかった。でも、分かる。俺たちがおなじ気持ちだってこと。唇の表面を触れ合わせるだけのキスをすると、自分たちがこうなることが必然だった気がした。
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