祭りのあと
駅から離れるにつれて夜道はどんどん静けさを増していって、宇髄さんの鼻歌だけが聞こえている。流行りのあの歌かな、と予想した瞬間に聞いたことのないメロディーに変わり、もしかしたら色んな歌の歌いたいところだけを思うままに歌っているのかもしれなかった。
「何考えてんの」
「何の歌かなって考えてました」
「ふうん。じゃあ、これは?」
今までよりも少しボリュームが上がり、鼻歌曲名当てクイズが自然とはじまった。数曲に一回ペースで交ざる知らない歌は、どれも宇髄さん即興の歌だった。不正解を出すたびに「はずれ。これ、俺のオリジナル」と無邪気に笑う宇髄さんは信じられないくらいかわいかった。どうしてもその笑顔が見たくて、二曲だけわざと間違えてみたりもした。
まるで小学生のようなやり取りだが、世の中にこんなに楽しくて幸せなクイズが存在するだろうかと本気で思ってしまう。そして、つないだ手がしっかりとしまわれているポケットの中が自分の手の本当の居場所かもしれない、と思う程度にはお花畑状態だ。
着いたのは、人気のない小さな公園だった。ブランコとジャングルジムと砂場と、ベンチがふたつ。その他には何もない。これからのことを考えると、全身に一気に緊張感が走る。
「座って」
大人ひとり分くらいのスペースを空けてベンチに座ると、遠すぎるわ、と抱き寄せられた私の頭は宇髄さんの胸元あたりにポスッと音を立てて着地した。あまいにおいに再び包まれながら、この体勢、この近さで、思考がストップするのと同時に身体も硬直してしまった。
「なんつうか、どうしてもあのまま帰したくなくってさ」
かかえこむように抱き、頭をなでて囁いた。
お互いの気持ちを知った日の飲み会帰り、終電まで残り一時間ちょっとのシチュエーション。聞いているだけでも数多くの恋愛経験がある宇髄さんのこの言葉。ああ、これはそういうことだ。きっと、そういう系のお誘いだ。私を選んだのは、気まぐれと目新しさ。そんなところかもしれない。ここでうなずけば、華やかな武勇伝たちのすみっこに自分も加えられる。悪い予感が当たったのだと思った。
「あの、ごめんなさい」
「ん?」
「そういうのはちょっとむりっていうか、できないです」
「なんだよ、急に。どうした?」
頭に置かれていた手をつかみ、胸元から身体を起こした。何が起きたかと目を丸くしてもきれいな顔を見ながら、おとぎ話から急にはじき出された気がして、悲しみがじわじわと心に広がっていく。ほらね、やっぱりそんな夢みたいなことあるわけなかった。どう見てもつり合ってないし、夢を見すぎた。
「そういう系は……むりです。子どもみたいなこと言ってごめんなさい」
「そういう系? なんだそれ」
「……」
「あっ、ちっげえよ! そういう意味じゃねえ」
くるくる変わる表情に目を奪われる。不思議そうな顔が、眉根を寄せて考える顔に変わり、何かを悟ったような顔を一瞬経由して、最後は大きく目を見開いたまま大きな声を出した。
「派手に勘違いすんな」
私の頬を両手で包んで自分の方に向けると、きれいな赤い目で真正面から見すえてきた。顔面の圧に耐えかねて、首に力を入れてうしろに逃げようとしてもびくともしない。
「あのまんま帰ったら、お前が悩むんじゃねえかって思ったんだよ。したら、案の定苦しそうな顔してるっていうし。酔いにまかせた行動じゃねえこととか、ちゃんと話したかったんだよ」
「……」
「まあ、俺がただ一緒にいたかったのがでけえけど」
頬を包む手が背中にまわって抱きすくめられると、顔のすぐ横で声が聞こえた。その小さな声に宿る真剣な響きが、耳から入って心臓を強く締めつけた。
「宇髄さん」
「うん?」
「宇髄さんは、私のことが好き、なんですか?」
「はあっ? この状況でなんだそれ。びっくりするわ」
ベリッと音がしそうな勢いで自分の身体から私を剥がすと、両肩を持ったまま怪訝そうに問いかけてきた。
「今まで全然そんな感じなかったので、本当に信じられなさすぎて……。それに」
「なんだよ」
「はっきり何か言われたわけでもないですし」
「……あー、そういうこと。そういや、ちゃんと言ってなかったか」
視線が揺らいだあと、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「お前が好きだよ、ほんと好き」
うあー恥じい、という声を発して、宇髄さんは片手で口元を覆った。
二十年生きてきて、うれし泣きをするほどうれしいことも、何度思い出しても笑えるほど楽しいこともあったけれど、今目の前で起きていることはその比ではない。派手を愛する宇髄さんのシンプルな言葉が心のど真ん中に一直線に届き、照れてまばたきが多くなった目からも愛情が流れこんでくるように思えて、本当の意味で気持ちを信じて受け止めることができた。
肩からあご下に移った手に顔を上げられ、うっすらと開いた宇髄さんの唇が頬に触れる。てっきり口にされると思っていたので、自動的に閉じていた目を開けると、にやりと笑った顔が目の前を占拠していた。
「お前も言ってくれていいんだぞ」
心の中では毎秒くらいの勢いで好きだと思っているけれど、すぐに答えられなかった。居酒屋のトイレ前でキスしたときもそうだったが、宇髄さんから放出されるとんでもない色気に気圧されてしまって、言葉が出てこなくなるのだ。特に、何でも見透かしているようなこの目が本当にいけない。
「……」
好きです、とか、私もです、とか、なんて言おうか迷いつづける口をふさがれた。重なった唇の端から端までを確かめるようになでられる感触も、あご先から耳の輪郭を確かめる手のあたたかさもただただ心地よく、幸福感で満ちていく。唇が離れてからも互いの吐息がかかる距離で目を見合わせていると、聞かなくてもわかるけどな、とつぶやいて再び重なった。
パーカーのフードを脱いだ首元にもたれ掛けるように引き寄せられ、私の頭はじんわりあたたかいスペースにおさまった。どちらからともなく手をつなぎ、すっぽり包んでくれる手の大きさも、かすかにシャンプーの匂いがするふわふわの髪も、私の脳や心をどろどろに溶かしていった。
「今、こうしているのが信じられないです」
「そんなん俺もだわ」
「え?」
予想もしない言葉に驚いて首元のスペースから身を起こすと、いわゆるジト目と呼ばれる類の目でじっと見てから、ここから出るなとでもいうように元の場所に戻した。どこまでも居心地のいい最高のスペースに、宇髄さんも私を収めておきたいのかもしれない。
「今まで何しても手ごたえないっつうか、逃げられるっていうか。目すらろくに合わねえし。俺が何しても、信じねえで逃げんの分かってたから、時間かけて慎重にいくしかねえかあ、なんて地味なこと思ってたんだけど」
心当たりがありすぎる。宇髄さんが自分を認識しない状態で、盗み見たり、あれこれ観察するのが好きだった。だから、突然絡んでこられると、純粋によろこぶ気持ちより、うわーどうしようという気持ちが大きくて、安全地帯に逃げ込みたくなった。失いも叶いもしない場所で思うだけの恋は楽だったから。
でもなあ、と私の頭に頬をくっつける。
「俺がちがうテーブル行っただけで、あんな顔してるの見たら、もう我慢できねえって思ってさ」
「あんな顔って……」
「そりゃあもう、すっげえさみしそうな顔」
「えっ、気づいてたんですか? あの状況で?」
「まあな、さすが俺だろ。神だからな」
自信満々な言葉にぴったりの誇らしげな顔で、私に視線を落としている。宇髄さんが女の子たちに呼ばれて違うテーブルに行ってしまったとき、目の前で繰り広げられる盛り上がりとは対照的に、確かにここにいた痕跡がたくさん残る隣の席に目をやって、嫉妬心と寂しさが心に広がっていったことを思い出す。思い返してみればあれがトリガーとなって素直になれて、今のこの状況があるわけだけど。盛り上がりの中心人物として楽しんでいるように見えていた宇髄さんが、実は気にしてくれていたことも、一気飲み後の盛り上がりもそこそこに戻ってきてくれた理由も、どちらも想像すらしていなかったことで、うれしくてたまらかった。
「それに、うかうかしてたらお前が連れて行かれそうだったし」
「そんなことありましたっけ」
「めちゃくちゃあったわ。山田だよ。あいつ、自分のテーブルに来いとか誘ってただろうが」
きれいさっぱり忘れていたが、言われてみれば確かにそんなことがあった。
「ああ、ありましたね、そんなこと。山田くんは課題で一緒になってから話すようになっただけですよ」
「ふうん」
口先を尖らせて、とってもおもしろくなさそうな顔をしている。これは、まさか嫉妬? いや、宇髄さんがこんなことで嫉妬するとは思えない。それに、私が声をかけられるより、宇髄さんに向けられる好意の方が圧倒的に多いのだから、こちらが心配することは多々あっても心配されるようなことはない。自分で言っていて悲しくなるけれど、これは事実だ。
「山田くんとは会ったら話す程度で、なんにもないですから」
「あっそォ。なんかあってたまるかっての。もう、ちょっかい出してこねえだろ。俺らがそういう感じってこと、あいつも派手に目の当たりにして分かっただろうからな」
駅に向かう途中で宇髄さんがした一連の行動にはそんな狙いもあったんですか、と聞きたくなる顔をしている。
「びっくりしたか」
黙ってうなずくと、宇髄さんが顔をくしゃっとさせて笑う。
「なんだ、俺。余裕ねえな。地味でかっこわる」
「……そんなこと、ないですよ」
頬に手を伸ばして触れると、自嘲気味な笑顔が少し和らいだ。私と山田くんの間には本当に何もない。お互いに気があるなんてことも絶対にないし、宇髄さんだってそれを本気で疑っているわけではないんだろう。
自分の好きな人が他の異性と仲が良いのがなんか嫌、どうにもおもしろくない。誰かを好きになったことがある人なら一度は経験したことがあるだろうこのモヤモヤを宇髄さんが発動させたことを知って、手の届かないと思っていた人が身近に思えて愛おしかった。
『宇髄天元が誰かを好きになった姿を想像してください』というアンケートが仮にあったならば、「俺は神だ。祭りの神と付き合えてうれしいだろ」なんてことを自信たっぷりに言い放つ姿を回答にする人が多いだろう。それはきっとまちがいではないし、それがまたものすごく似合っているから違和感もない。
でも、今こうして目の前にいる実際の宇髄さんは、顔も声も言葉もよろこびを噛みしめるような雰囲気に満ちているし、する必要が全くない嫉妬までする一面もある、繊細で人間らしい姿だった。
知らない一面を見るたび、好きなんて二文字では言い表せないほどの気持ちが芽吹いて、ぐんぐん育つ。言葉が出なくなるほどの色気の暴力に負けて言えなかったけれど、さっき気持ちを聞かれた時に「好きです」と返せていたら、はじけるような笑顔でよろこんでくれたのかもしれない。
「あ、宇髄さんって呼び方、今この瞬間から禁止な」
私の指を伸ばしたりにぎったり手遊びをしながら、そんな提案をする。
「じゃあ……宇髄先輩?」
「却下」
「……宇髄、天元さん」
「それも却下。俺、自分の彼女にいちいちフルネームで呼ばれんのかよ。そんなん嫌だわ」
今、私のことを彼女って言った……! 身体の中にマグマが流しこまれたように熱くなってしまって、ますます呼べそうにない。
「天元……さん?」
「さん、もいらねえ。て、ん、げ、ん。それでいい。なあ、呼んで」
て、ん、げ、ん、という四文字に合わせ、大きくてうすいくちびるがゆっくり閉じたり開いたりする。リピートアフターミーとでもいいたげな様子で、私の顔をじっと見て呼ばれるのを待っている。
数時間前、後輩女子たちが天元さんと呼ぶのがうらやましくて自分も呼んでみたいと思ったけれど、本人から求められる形で呼ぶことできるようになるなんて。しかもこんなに早く、予想していたレベルよりはるか上の状況で。けれど、できない。好きな人の名前を呼ぼうとするだけで、なぜこんなにも照れてしまうのか。
「あーあ、お前に名前呼ばれたいわ」
ちょっと拗ねて甘えた口調。それでも呼べない私の手を取ると、顔の前に広げた。
「今からさあ、ここに文字書くから読めよ」
「は、い」
赤いネイルをが塗られたひとさし指が手の真ん中にトンっと触れたかと思うと、そのままスーッとすべって文字を形づくる。手のひらだけではなくて、触れられていない心もくすぐったい。片手で私の手を持って、もう片方の手で文字を書くせいでうしろから抱きかかえられる体勢になっていることに気づき、まともに返事ができないほどドキドキしていた。
「て」
「ん」
「げ」
「……ん」
「やった、最初の一回ゲット」
語尾に音符でもつきそうな調子で笑うと、私の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
下の名前を呼ばれたことくらいで、こんな顔をしてくれるの?
派手を司る神とやらを自称するこの人が、こんなに地味なことで笑うの?
こんなにすてきな人の相手が自分でいいの?
次から次に生まれる驚き。手のひらには、なぞられた指先の感触が残っている。ななめ上にあるにこにこ笑う顔を見上げていたら、涙があふれ出てきた。今夜の供給に次ぐ供給をどうにか受け止めつづけてきた心のキャパシティを超えてしまったらしい。しかも、頬をひとすじ流れるくらいで止めたいのに、軽くしゃくりあげてしまうくらいの涙に気持ちばかりが焦る
「ちょっ、急にどうした、何泣いてんだよ」
「いえ、あの、ちょっと……、ごめんなさい」
自分の身体にしなだれかかっていた私を向かい合わせにすると、涙の原因を見つけようとしているのか、眉尻が困ったように下がっている。
「ごめんなさい、なんか感極まっちゃって……。いつかまた手に触りたいと思ってたら叶っちゃうし、私のことを好きだと言ってくれるし、幸せそうに笑ってくれるし、もう、なんか、本当にもうどうしたら」
「なんだ、そんなことで泣いてんのか。手以外どこでも自由に触っていいよ」
「……」
冗談とも本気ともつかない調子でそんなことをいうので、ちょっとだけ涙が引っ込んだ私を見て苦笑いをした。
「なんだよ、触りたくねえのかよ。ま、いいわ。俺はお前をド派手に幸せにするって決めてるんだから、こんなことで泣いてたら涙が枯れ果てるぞ」
涙の原因を理解した宇髄さんの表情は、しょうがねえな、という口調とはちがってとろけるようだ。きっとこれから先、私には予想つかない方法で、予想もつかない大きさの気持ちを届けてくれる気がした。
のどを鳴らすように笑いながら、パーカーの袖に手をしまって私の目元に近づけてきた。涙でぐしゃぐしゃな目元はマスカラやアイシャドウでひどいことになっているはずで、そんなことをしたら真っ白のパーカーの袖が汚れてしまう。
「あっ、パーカー汚れちゃいますよ。付いたら落ちないですから」
「別にいい。いい思い出になるんじゃね」
「……夢かな、しあわせすぎる」
「こら、もう泣くなって。夢じゃねえよ。俺を信じて、ずっとド派手に愛されとけ」
笑いながら、汚れるのもお構いなしに私の目元をぬぐうパーカーの袖には、ブラウンのマスカラと赤系のアイシャドウがにじんで付いてしまっていた。それを見ていたら涙がさらに込み上げてきて、赤茶色をした喜びの証がぼやけて見えなくなった。
「よっし。アイスでも食うか」
ひとしきり感情を放出して落ちついた私に、上機嫌丸出しの宇髄さんからうれしい提案があった。
「食べたいです! アイス好きなんですよね」
「知ってる。いつもうれしそうに食ってるのに、今日食えなかったもんな」
「……はい」
あれ? 宇髄さんは私がアイス好きなことも、食べそこねたことも知ってるみたいだ。今日の飲み会で祭りの神が盛りつけてくれた食べ物を見たときにも思った、この感じ。あのお皿には私の好物ばかりがのっていた。こいつ美味そうに食うなあ、なんて密かに観察されていたのかもしれない。
「終電まであと三十分くらいか。初デートにしちゃあ、かなり地味だがコンビニ行こうぜ」
フードをかぶり、ひとっ子ひとり訪れないこの公園から少し離れたコンビニに向かう準備をしている。宇髄さんと一緒なら、こうしてベンチに座っているだけで心の底から幸せだ。道端に落ちている動かない石ころをふたりで一日ながめなさいと言われても楽しめる自信があるから、私にとってはコンビニデートなんて夢の国以上の楽園でしかない。
「ほら、行くぞ。うわっ」
せっかくかぶったフードが背中側に落ちて、呆気にとられた宇髄さんが固まっている。そうさせたのは他でもない私で、パーカーの胸元をつかんで、力いっぱい引き寄せてキスしたからだ。勢いあまってぶつかっただけのへたくそなキスで、ドキドキさせられるだけの色気も情緒もなかったと思うが、私は満足だった。
「本当にありがとうございます」
「……ああ」
「大好きです、てんげん」
私のその言葉が届くと、瞳に浮かんでいた困惑の色が消えて、丸く大きな瞳になった。そして、今まで目にしてきたどの笑顔よりも幸せそうに、本当に幸せそうに笑った。
淡い照明しかない夜の公園で見るその笑顔は、祭りの神という自称にふさわしく、夜の闇に咲いて、一瞬にして夜空を華やかに明るくする花火のようにきれいだった。
「派手でいいな。流石、俺の彼女だ」
好きな人が幸せそうに笑ってくれるだけで、自分もこんなに幸せだなんて。大きく広げられた腕に強く抱きしめられ、また泣きそうになったがどうにか堪える。このままでは、天元が言うように早々に涙が枯れ果ててしまいそうだ。
「あー、もう……。派手にやられたわ。帰したくねえな」
「……」
「はいはい、調子にのりました。コンビニ行こうぜ」
「私も、帰りたくないです」
「へ?」
驚き顔の天元と、自分の発言に照れる私。互いの顔を見て笑うと、まるで示し合わせたように手をつないで歩き出した。
「俺、真夏でもパーカー着るわ」
「なんでですか? 暑いじゃないですか」
「うん? だって、他のやつポッケねえもん」
つないだ手をポケットにしまいながら、そう言ってフフンと笑う天元を心の底から愛おしいと思った。
「何考えてんの」
「何の歌かなって考えてました」
「ふうん。じゃあ、これは?」
今までよりも少しボリュームが上がり、鼻歌曲名当てクイズが自然とはじまった。数曲に一回ペースで交ざる知らない歌は、どれも宇髄さん即興の歌だった。不正解を出すたびに「はずれ。これ、俺のオリジナル」と無邪気に笑う宇髄さんは信じられないくらいかわいかった。どうしてもその笑顔が見たくて、二曲だけわざと間違えてみたりもした。
まるで小学生のようなやり取りだが、世の中にこんなに楽しくて幸せなクイズが存在するだろうかと本気で思ってしまう。そして、つないだ手がしっかりとしまわれているポケットの中が自分の手の本当の居場所かもしれない、と思う程度にはお花畑状態だ。
着いたのは、人気のない小さな公園だった。ブランコとジャングルジムと砂場と、ベンチがふたつ。その他には何もない。これからのことを考えると、全身に一気に緊張感が走る。
「座って」
大人ひとり分くらいのスペースを空けてベンチに座ると、遠すぎるわ、と抱き寄せられた私の頭は宇髄さんの胸元あたりにポスッと音を立てて着地した。あまいにおいに再び包まれながら、この体勢、この近さで、思考がストップするのと同時に身体も硬直してしまった。
「なんつうか、どうしてもあのまま帰したくなくってさ」
かかえこむように抱き、頭をなでて囁いた。
お互いの気持ちを知った日の飲み会帰り、終電まで残り一時間ちょっとのシチュエーション。聞いているだけでも数多くの恋愛経験がある宇髄さんのこの言葉。ああ、これはそういうことだ。きっと、そういう系のお誘いだ。私を選んだのは、気まぐれと目新しさ。そんなところかもしれない。ここでうなずけば、華やかな武勇伝たちのすみっこに自分も加えられる。悪い予感が当たったのだと思った。
「あの、ごめんなさい」
「ん?」
「そういうのはちょっとむりっていうか、できないです」
「なんだよ、急に。どうした?」
頭に置かれていた手をつかみ、胸元から身体を起こした。何が起きたかと目を丸くしてもきれいな顔を見ながら、おとぎ話から急にはじき出された気がして、悲しみがじわじわと心に広がっていく。ほらね、やっぱりそんな夢みたいなことあるわけなかった。どう見てもつり合ってないし、夢を見すぎた。
「そういう系は……むりです。子どもみたいなこと言ってごめんなさい」
「そういう系? なんだそれ」
「……」
「あっ、ちっげえよ! そういう意味じゃねえ」
くるくる変わる表情に目を奪われる。不思議そうな顔が、眉根を寄せて考える顔に変わり、何かを悟ったような顔を一瞬経由して、最後は大きく目を見開いたまま大きな声を出した。
「派手に勘違いすんな」
私の頬を両手で包んで自分の方に向けると、きれいな赤い目で真正面から見すえてきた。顔面の圧に耐えかねて、首に力を入れてうしろに逃げようとしてもびくともしない。
「あのまんま帰ったら、お前が悩むんじゃねえかって思ったんだよ。したら、案の定苦しそうな顔してるっていうし。酔いにまかせた行動じゃねえこととか、ちゃんと話したかったんだよ」
「……」
「まあ、俺がただ一緒にいたかったのがでけえけど」
頬を包む手が背中にまわって抱きすくめられると、顔のすぐ横で声が聞こえた。その小さな声に宿る真剣な響きが、耳から入って心臓を強く締めつけた。
「宇髄さん」
「うん?」
「宇髄さんは、私のことが好き、なんですか?」
「はあっ? この状況でなんだそれ。びっくりするわ」
ベリッと音がしそうな勢いで自分の身体から私を剥がすと、両肩を持ったまま怪訝そうに問いかけてきた。
「今まで全然そんな感じなかったので、本当に信じられなさすぎて……。それに」
「なんだよ」
「はっきり何か言われたわけでもないですし」
「……あー、そういうこと。そういや、ちゃんと言ってなかったか」
視線が揺らいだあと、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「お前が好きだよ、ほんと好き」
うあー恥じい、という声を発して、宇髄さんは片手で口元を覆った。
二十年生きてきて、うれし泣きをするほどうれしいことも、何度思い出しても笑えるほど楽しいこともあったけれど、今目の前で起きていることはその比ではない。派手を愛する宇髄さんのシンプルな言葉が心のど真ん中に一直線に届き、照れてまばたきが多くなった目からも愛情が流れこんでくるように思えて、本当の意味で気持ちを信じて受け止めることができた。
肩からあご下に移った手に顔を上げられ、うっすらと開いた宇髄さんの唇が頬に触れる。てっきり口にされると思っていたので、自動的に閉じていた目を開けると、にやりと笑った顔が目の前を占拠していた。
「お前も言ってくれていいんだぞ」
心の中では毎秒くらいの勢いで好きだと思っているけれど、すぐに答えられなかった。居酒屋のトイレ前でキスしたときもそうだったが、宇髄さんから放出されるとんでもない色気に気圧されてしまって、言葉が出てこなくなるのだ。特に、何でも見透かしているようなこの目が本当にいけない。
「……」
好きです、とか、私もです、とか、なんて言おうか迷いつづける口をふさがれた。重なった唇の端から端までを確かめるようになでられる感触も、あご先から耳の輪郭を確かめる手のあたたかさもただただ心地よく、幸福感で満ちていく。唇が離れてからも互いの吐息がかかる距離で目を見合わせていると、聞かなくてもわかるけどな、とつぶやいて再び重なった。
パーカーのフードを脱いだ首元にもたれ掛けるように引き寄せられ、私の頭はじんわりあたたかいスペースにおさまった。どちらからともなく手をつなぎ、すっぽり包んでくれる手の大きさも、かすかにシャンプーの匂いがするふわふわの髪も、私の脳や心をどろどろに溶かしていった。
「今、こうしているのが信じられないです」
「そんなん俺もだわ」
「え?」
予想もしない言葉に驚いて首元のスペースから身を起こすと、いわゆるジト目と呼ばれる類の目でじっと見てから、ここから出るなとでもいうように元の場所に戻した。どこまでも居心地のいい最高のスペースに、宇髄さんも私を収めておきたいのかもしれない。
「今まで何しても手ごたえないっつうか、逃げられるっていうか。目すらろくに合わねえし。俺が何しても、信じねえで逃げんの分かってたから、時間かけて慎重にいくしかねえかあ、なんて地味なこと思ってたんだけど」
心当たりがありすぎる。宇髄さんが自分を認識しない状態で、盗み見たり、あれこれ観察するのが好きだった。だから、突然絡んでこられると、純粋によろこぶ気持ちより、うわーどうしようという気持ちが大きくて、安全地帯に逃げ込みたくなった。失いも叶いもしない場所で思うだけの恋は楽だったから。
でもなあ、と私の頭に頬をくっつける。
「俺がちがうテーブル行っただけで、あんな顔してるの見たら、もう我慢できねえって思ってさ」
「あんな顔って……」
「そりゃあもう、すっげえさみしそうな顔」
「えっ、気づいてたんですか? あの状況で?」
「まあな、さすが俺だろ。神だからな」
自信満々な言葉にぴったりの誇らしげな顔で、私に視線を落としている。宇髄さんが女の子たちに呼ばれて違うテーブルに行ってしまったとき、目の前で繰り広げられる盛り上がりとは対照的に、確かにここにいた痕跡がたくさん残る隣の席に目をやって、嫉妬心と寂しさが心に広がっていったことを思い出す。思い返してみればあれがトリガーとなって素直になれて、今のこの状況があるわけだけど。盛り上がりの中心人物として楽しんでいるように見えていた宇髄さんが、実は気にしてくれていたことも、一気飲み後の盛り上がりもそこそこに戻ってきてくれた理由も、どちらも想像すらしていなかったことで、うれしくてたまらかった。
「それに、うかうかしてたらお前が連れて行かれそうだったし」
「そんなことありましたっけ」
「めちゃくちゃあったわ。山田だよ。あいつ、自分のテーブルに来いとか誘ってただろうが」
きれいさっぱり忘れていたが、言われてみれば確かにそんなことがあった。
「ああ、ありましたね、そんなこと。山田くんは課題で一緒になってから話すようになっただけですよ」
「ふうん」
口先を尖らせて、とってもおもしろくなさそうな顔をしている。これは、まさか嫉妬? いや、宇髄さんがこんなことで嫉妬するとは思えない。それに、私が声をかけられるより、宇髄さんに向けられる好意の方が圧倒的に多いのだから、こちらが心配することは多々あっても心配されるようなことはない。自分で言っていて悲しくなるけれど、これは事実だ。
「山田くんとは会ったら話す程度で、なんにもないですから」
「あっそォ。なんかあってたまるかっての。もう、ちょっかい出してこねえだろ。俺らがそういう感じってこと、あいつも派手に目の当たりにして分かっただろうからな」
駅に向かう途中で宇髄さんがした一連の行動にはそんな狙いもあったんですか、と聞きたくなる顔をしている。
「びっくりしたか」
黙ってうなずくと、宇髄さんが顔をくしゃっとさせて笑う。
「なんだ、俺。余裕ねえな。地味でかっこわる」
「……そんなこと、ないですよ」
頬に手を伸ばして触れると、自嘲気味な笑顔が少し和らいだ。私と山田くんの間には本当に何もない。お互いに気があるなんてことも絶対にないし、宇髄さんだってそれを本気で疑っているわけではないんだろう。
自分の好きな人が他の異性と仲が良いのがなんか嫌、どうにもおもしろくない。誰かを好きになったことがある人なら一度は経験したことがあるだろうこのモヤモヤを宇髄さんが発動させたことを知って、手の届かないと思っていた人が身近に思えて愛おしかった。
『宇髄天元が誰かを好きになった姿を想像してください』というアンケートが仮にあったならば、「俺は神だ。祭りの神と付き合えてうれしいだろ」なんてことを自信たっぷりに言い放つ姿を回答にする人が多いだろう。それはきっとまちがいではないし、それがまたものすごく似合っているから違和感もない。
でも、今こうして目の前にいる実際の宇髄さんは、顔も声も言葉もよろこびを噛みしめるような雰囲気に満ちているし、する必要が全くない嫉妬までする一面もある、繊細で人間らしい姿だった。
知らない一面を見るたび、好きなんて二文字では言い表せないほどの気持ちが芽吹いて、ぐんぐん育つ。言葉が出なくなるほどの色気の暴力に負けて言えなかったけれど、さっき気持ちを聞かれた時に「好きです」と返せていたら、はじけるような笑顔でよろこんでくれたのかもしれない。
「あ、宇髄さんって呼び方、今この瞬間から禁止な」
私の指を伸ばしたりにぎったり手遊びをしながら、そんな提案をする。
「じゃあ……宇髄先輩?」
「却下」
「……宇髄、天元さん」
「それも却下。俺、自分の彼女にいちいちフルネームで呼ばれんのかよ。そんなん嫌だわ」
今、私のことを彼女って言った……! 身体の中にマグマが流しこまれたように熱くなってしまって、ますます呼べそうにない。
「天元……さん?」
「さん、もいらねえ。て、ん、げ、ん。それでいい。なあ、呼んで」
て、ん、げ、ん、という四文字に合わせ、大きくてうすいくちびるがゆっくり閉じたり開いたりする。リピートアフターミーとでもいいたげな様子で、私の顔をじっと見て呼ばれるのを待っている。
数時間前、後輩女子たちが天元さんと呼ぶのがうらやましくて自分も呼んでみたいと思ったけれど、本人から求められる形で呼ぶことできるようになるなんて。しかもこんなに早く、予想していたレベルよりはるか上の状況で。けれど、できない。好きな人の名前を呼ぼうとするだけで、なぜこんなにも照れてしまうのか。
「あーあ、お前に名前呼ばれたいわ」
ちょっと拗ねて甘えた口調。それでも呼べない私の手を取ると、顔の前に広げた。
「今からさあ、ここに文字書くから読めよ」
「は、い」
赤いネイルをが塗られたひとさし指が手の真ん中にトンっと触れたかと思うと、そのままスーッとすべって文字を形づくる。手のひらだけではなくて、触れられていない心もくすぐったい。片手で私の手を持って、もう片方の手で文字を書くせいでうしろから抱きかかえられる体勢になっていることに気づき、まともに返事ができないほどドキドキしていた。
「て」
「ん」
「げ」
「……ん」
「やった、最初の一回ゲット」
語尾に音符でもつきそうな調子で笑うと、私の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
下の名前を呼ばれたことくらいで、こんな顔をしてくれるの?
派手を司る神とやらを自称するこの人が、こんなに地味なことで笑うの?
こんなにすてきな人の相手が自分でいいの?
次から次に生まれる驚き。手のひらには、なぞられた指先の感触が残っている。ななめ上にあるにこにこ笑う顔を見上げていたら、涙があふれ出てきた。今夜の供給に次ぐ供給をどうにか受け止めつづけてきた心のキャパシティを超えてしまったらしい。しかも、頬をひとすじ流れるくらいで止めたいのに、軽くしゃくりあげてしまうくらいの涙に気持ちばかりが焦る
「ちょっ、急にどうした、何泣いてんだよ」
「いえ、あの、ちょっと……、ごめんなさい」
自分の身体にしなだれかかっていた私を向かい合わせにすると、涙の原因を見つけようとしているのか、眉尻が困ったように下がっている。
「ごめんなさい、なんか感極まっちゃって……。いつかまた手に触りたいと思ってたら叶っちゃうし、私のことを好きだと言ってくれるし、幸せそうに笑ってくれるし、もう、なんか、本当にもうどうしたら」
「なんだ、そんなことで泣いてんのか。手以外どこでも自由に触っていいよ」
「……」
冗談とも本気ともつかない調子でそんなことをいうので、ちょっとだけ涙が引っ込んだ私を見て苦笑いをした。
「なんだよ、触りたくねえのかよ。ま、いいわ。俺はお前をド派手に幸せにするって決めてるんだから、こんなことで泣いてたら涙が枯れ果てるぞ」
涙の原因を理解した宇髄さんの表情は、しょうがねえな、という口調とはちがってとろけるようだ。きっとこれから先、私には予想つかない方法で、予想もつかない大きさの気持ちを届けてくれる気がした。
のどを鳴らすように笑いながら、パーカーの袖に手をしまって私の目元に近づけてきた。涙でぐしゃぐしゃな目元はマスカラやアイシャドウでひどいことになっているはずで、そんなことをしたら真っ白のパーカーの袖が汚れてしまう。
「あっ、パーカー汚れちゃいますよ。付いたら落ちないですから」
「別にいい。いい思い出になるんじゃね」
「……夢かな、しあわせすぎる」
「こら、もう泣くなって。夢じゃねえよ。俺を信じて、ずっとド派手に愛されとけ」
笑いながら、汚れるのもお構いなしに私の目元をぬぐうパーカーの袖には、ブラウンのマスカラと赤系のアイシャドウがにじんで付いてしまっていた。それを見ていたら涙がさらに込み上げてきて、赤茶色をした喜びの証がぼやけて見えなくなった。
「よっし。アイスでも食うか」
ひとしきり感情を放出して落ちついた私に、上機嫌丸出しの宇髄さんからうれしい提案があった。
「食べたいです! アイス好きなんですよね」
「知ってる。いつもうれしそうに食ってるのに、今日食えなかったもんな」
「……はい」
あれ? 宇髄さんは私がアイス好きなことも、食べそこねたことも知ってるみたいだ。今日の飲み会で祭りの神が盛りつけてくれた食べ物を見たときにも思った、この感じ。あのお皿には私の好物ばかりがのっていた。こいつ美味そうに食うなあ、なんて密かに観察されていたのかもしれない。
「終電まであと三十分くらいか。初デートにしちゃあ、かなり地味だがコンビニ行こうぜ」
フードをかぶり、ひとっ子ひとり訪れないこの公園から少し離れたコンビニに向かう準備をしている。宇髄さんと一緒なら、こうしてベンチに座っているだけで心の底から幸せだ。道端に落ちている動かない石ころをふたりで一日ながめなさいと言われても楽しめる自信があるから、私にとってはコンビニデートなんて夢の国以上の楽園でしかない。
「ほら、行くぞ。うわっ」
せっかくかぶったフードが背中側に落ちて、呆気にとられた宇髄さんが固まっている。そうさせたのは他でもない私で、パーカーの胸元をつかんで、力いっぱい引き寄せてキスしたからだ。勢いあまってぶつかっただけのへたくそなキスで、ドキドキさせられるだけの色気も情緒もなかったと思うが、私は満足だった。
「本当にありがとうございます」
「……ああ」
「大好きです、てんげん」
私のその言葉が届くと、瞳に浮かんでいた困惑の色が消えて、丸く大きな瞳になった。そして、今まで目にしてきたどの笑顔よりも幸せそうに、本当に幸せそうに笑った。
淡い照明しかない夜の公園で見るその笑顔は、祭りの神という自称にふさわしく、夜の闇に咲いて、一瞬にして夜空を華やかに明るくする花火のようにきれいだった。
「派手でいいな。流石、俺の彼女だ」
好きな人が幸せそうに笑ってくれるだけで、自分もこんなに幸せだなんて。大きく広げられた腕に強く抱きしめられ、また泣きそうになったがどうにか堪える。このままでは、天元が言うように早々に涙が枯れ果ててしまいそうだ。
「あー、もう……。派手にやられたわ。帰したくねえな」
「……」
「はいはい、調子にのりました。コンビニ行こうぜ」
「私も、帰りたくないです」
「へ?」
驚き顔の天元と、自分の発言に照れる私。互いの顔を見て笑うと、まるで示し合わせたように手をつないで歩き出した。
「俺、真夏でもパーカー着るわ」
「なんでですか? 暑いじゃないですか」
「うん? だって、他のやつポッケねえもん」
つないだ手をポケットにしまいながら、そう言ってフフンと笑う天元を心の底から愛おしいと思った。
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