祭りのあと

 いつまでも帰り支度を終えない酔っ払いたちが談笑する中、宇髄さんの視線にうながされるように歩き出した。
 背を向けきる直前、ゆるんだ口元や細められていた目が一瞬見えた。暗黙の了解ではじまったこの状況をすごく楽しんでいるみたいだ。一瞬の表情ひとつ取ってもかっこいいけれど、大胆で手慣れた様子に、うわさで聞いた過去の片鱗をどうしても感じてしまう。そんな片鱗なんか感じたくないのに、自分から探しに行ってしまう。

 目の前には真っ白い山のような大きな背中があって、私をどこかに連れて行こうとしている。
 通路に置かれたバッグをまたぎ、床に長く伸びた誰かのシャツを避け、人がひしめき合う座敷の通路を歩きながら周囲に目をやる。 
 会話に夢中な人が大半ではあるけれど、不思議そうにこちらを見る人もいるし、宇髄さんの動きと一緒に視線を動かす女の子もいる。体調不良の後輩の面倒をみるのを買って出たやさしい先輩と、飲み会終盤から吐き気が止まらない後輩という構図はありふれているが、相手が宇髄さんだと否が応でも目を惹く。どうにも落ちつかなくて、うつむき加減で歩いた。
 赤い顔でゲラゲラ笑う人たちはみんな、いつものように二次会になだれ込むはずだ。二次会会場は、この居酒屋から徒歩二分ほどの激安カラオケ店。今夜、宇髄さんが私をとなりに座らせなければ、宇髄さんがいなくてさみしかったと思い切って伝えなければ、にぎられた手を願いを込めてにぎり返さなければ、私は恋心を秘めたまま食べ放題のアイスを食べ、宇髄さんはカラオケの音や歌声をかき消す轟音でハーモニカを吹いただろう。ひとつでも歯車が欠けていたら、こうはならなかった。寝落ちするまでベッドの中でニヤニヤしながらする妄想だって、寝ているときに見る夢だって、ここまでの超絶展開をさせたことはなかった。
 これからはじまる『ド派手に大事な用』とやらに、不安と期待で胸がいっぱいだ。聞きたくない話がとび出す可能性もあるし、宇髄さんの数多の恋愛武勇伝のひとつとして終わる未来だって覚悟しないと。
 ――でも。「俺も」というあまい声も、気持ちが溶け出しているようなやわらかい顔も、確かめるように触れたくちびるもどうしたって信じたい。いい方に考えて、期待せずにはいられなかった。

 世界の境界線みたいな座敷の敷居を越えた瞬間、床ばかりを見て歩く私の前に大きな手が現れた。その右手はリレーのバトンを待つような形をしている。誰かに見られたらどうしようと躊躇していると、早くしろよと言わんばかりに五指が上下に動き、その誘うような仕草に合わせて爪先の赤や緑がちらちらと鮮やかに踊った。
 誘われるままにそっと触れると、あっという間に手を包まれた。つないだ手をぐいぐいと引っ張られ、細長い廊下を足早に歩く。今、何を考えて、どんな顔をしているんだろう。その思いが伝わったみたいに、宇髄さんはくるっと半身を振りかえって屈託のない笑みを見せた。
 ずるい。
 今、きれいに口角が上がって笑っているそのくちびる。どこかこどもっぽく笑って細くなったその目。手洗い場の前で、確かめるように重ねたくちびると、私の目を射抜くように見てきた目と本当に同じもの?
 店の出入り口に近づくと、厨房から出てきた女性店員とすれちがった。その瞬間、宇髄さんを見上げて見惚れるような表情を見せ、その流れでうしろにいた私とつないだ手に視線を移して驚いた顔をした。そして、ありがとうございましたあ、と無機質な声を放ってから客席の方に歩いて行った。
 宇髄さんと私がつり合ってないことは誰より自分が理解している。十分に理解しているつもりだったけれど、心がチクチク痛んだ。

 そんな心を抱えながらレジ前を通り抜け、くつ箱が立ち並ぶ場所に着いた。大学近くの激安居酒屋店ということもあって座席数の多さに比例してかなりの数がある。
 笑みを浮かべて向かい合い、そのまま手を引かれてボフッという感触に包まれる。本日三回目のボフッに驚きながらも、背中に腕をまわした。頭のてっぺんに感じるやわらかい感触がくちびるだと気づいて抱きしめ返すと、小さく笑った。
「ずっとこうしてたいわ」
 宇髄さんは、ぎゅっとしてから身体を離した。
 どうしよう、どうしよう。どうしたらいいんだろう。大好きすぎる。ずっとこうしていたいのは私もだ。愛おしい気持ちが体の奥からふつふつと湧き出てきた。
「くつ、はやく持って来いよ」
「はい」
 私のロッカーは決まっていて、空いていればいつもそこにしている。しかし、バックをごそごそ探るが、ロッカーを開ける木札がない。バックをひっくり返して捜索しても見つからない。座敷に忘れてきたのは確実だった。
「う、宇髄さん」
「どうした」
「札、忘れてきちゃいました……」
 くつを履き終え、仁王立ちをした宇髄さんに伝える。
「何やってんだよ。お前が戻るとややこしいことになりそうだから、俺が取ってくる。何番?」
「ごめんなさい。ての三十一です」
「――ての三十一、ね。分かった」
 宇髄さんがくつを脱ぎかけると、がやがやとした集団の声が聞こえ、サークルのメンバーがロッカーに集まりはじめた。せっかくひと芝居打って先に抜けたのが水の泡となり、追いつかれてしまったようだ。本当に何やってんだよ、と自分で自分にがっかりするやら怒りが湧くやら。宇髄さんがロッカー脇を無言でとおり抜け、座敷に戻ろうとしたときだった。
「これ、忘れてない?」
 鈴木さんの手には『て三十一』と書かれた木札。またしても助けてもらって、お礼を言って受け取ると、彼女はかわいい笑顔でこう言った。
「私たちも二次会行かないんだ。一緒に帰ろう」
「……はい、ぜひ」
 『ド派手に大事な用』の機会を、自らド派手にぶっ壊してしまったショックがすごい。もはや絶望に近い。今まで一回も札を忘れたことなんてないのに、なんで今日?
 恐る恐る目をやると、めちゃくちゃ分かりやすい仏頂面でたたずんで、こちらを見ている宇髄さんがいた。
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