祭りのあと

 息をするのがやっとだ。
 何かにつかまっていないと心細くて、背中にまわした手でパーカーをぎゅっとつかんだ。しがみつくようにまわした両腕も宇髄さんの身体の厚みには足りないし、顔に触れる胸は大きく盛り上がっていて、包んでくれる腕も想像以上に太い。
 背を丸めるようにして真正面から抱きすくめる宇髄さんの腕の中で、一秒、また一秒と時間がすすむうちに緊張と動揺一辺倒だった気持ちが変化してきた。こんなふうにされるのはもちろんはじめてなのに、まるで自分の居場所に戻ってきたように心地いい。ずっとずっと、このままでいたい。自分で思っていた以上に宇髄さんのことが好きなんだと身体全体で実感すると、その気持ちが言葉となってあふれ出た。
「宇髄さん、好きです、大好きです」
 背を丸めていた宇髄さんがさらに身をかがめて、今まで以上に腕の力を強める。身動きなんかまったく取れないほど窮屈だ。
 自分の気持ちを口に出して届けると、せきを切ったようにもっと好きな気持ちがあふれてくるものなんだ、と目を閉じてじっとしていると、肩に置かれた手で身体が離された。顔を上げると、やわらかくほほえんだ視線とかち合った。
「俺も」
 ささやくような声。
 大きな身体をかがめているおかげで、鼻先が触れそうなほどの至近距離で見る顔は怖いくらいきれいで、とろけるようにやさしくて、私のことを本当に好きでいてくれているように思えた。非現実的すぎて信じられないけれど、そう思えた。

 ひそかにあたためていた気持ちが伝わったことを実感した途端に身体の力が抜けて、ガタッという音を立てて、背後の手洗い場にうしろ手をついた。
「あ、りがとうございます」
 その言葉が口から出てひと息もつかないうちに、抱き寄せられて、くちびるが降ってきた。
 突然のぷにっとしたやわらかさに驚いて倒れそうになった私を抱きかかえると、くちびるの形や感触を確かめるようにゆっくりとすべらせた。
 いつの間にか閉じていた目を開けると、目の前には長いまつ毛を伏せている宇髄さんがいた。尋常じゃない色気を放っていて、とんでもないとしかいいようがない。その顔を見た瞬間、さっきまでの落ちついた気持ちはあっという間に飛んでいってしまった。
 くるしい。息がうまくできない。漏れた吐息に気づいた宇髄さんが、くちびるを重ねたまま目を開けて視線を合わせたあと、いたずらっぽくほほえんだ。ほんの数センチの距離でそんな顔で見つめられ、限界点を一気にオーバーした私はひざから思いきりくずれ落ちた。
「ちょ、おい、大丈夫かよ」
「ああ、あの、大丈夫なんですけど、色々と大丈夫じゃないです」
 自分でも何を言っているか分からない。特にツッコミを入れることもなく、床にへたり込んだ私の前に座り、大きな手で背中をぽんぽんと叩いてくれている。
「派手に転んだなぁ。ひざからくずれ落ちる人間なんて、まんが以外ではじめて見たわ」
「いや、だって、もう何がなんだか」
「あー……、悪い。気づいたらしてた。驚かせて悪かったな」
 照れ笑いが混じったばつが悪そうな宇髄さんと、目を合わせて笑った。

 
「あっ! やっぱり具合悪いの? 大丈夫?」
 鈴木さんがドタドタと足音を立てて通路を走ってきた。まずい。怒涛の流れですっかり頭から抜けていたが、今は飲み会の最中だ。この場所にどれくらいいたのか見当つかなくて、焦りでいっぱいになった。
「あ、だい――」
「ああ、こいつがゲロ吐きたいのに吐けないって言うから。座らせて介抱してた」
 大丈夫です、ごめんなさい、と答えようとした私の言葉を遮って、宇髄さんがもっともらしく答える。
「やっぱりか。ずっと様子が変っていうか、調子悪そうだったもんね。なかなか戻ってこないから心配で」
 様子が変だったのは手をにぎられていたからで、こうしてへたり込んでいるのは、キスをされて限界を超えたからだ。でも、こんなこと絶対に言えない。言えるわけがない。心配してくれたやさしさに心が痛むが、宇髄さんのつくった設定にのるしか方法はなさそうだ。
「心配かけてごめんなさい。うまく吐けなくて……。やっと落ちついてきました」
「はやく声かければよかったね、ごめん。はい、これ」
 お水とおしぼりを差し出してくれるので、ますます申し訳なさでいっぱいになってしまう。
「面倒みてやって。俺、戻るわ」
「分かった。まかせて」
 これで、トイレからなかなか戻らなかったことを怪しまれることはないだろう。
 強引かつ鮮やかな振るまいをさすがだと思いつつ、今までもこんなことをしていたのかもしれないとか、私たちってなんなんだろうと考えていた。宇髄さんの華々しい恋愛武勇伝は色んな人から聞いたことがあるが、実際のところは知らない。特定の彼女の存在は見聞きしたことがない。だからこそ今まで夢を見ていられたところがあった。
 さっきまでの幸せいっぱいな気持ちと、突如として湧いてきた不安でごちゃごちゃになりながら、背中をさすったり、ペットボトルのふたを開けてくれたり、面倒をみてくれる鈴木さんに向けて、ゲロを吐きたくても吐けない女を熱演した。

 やさしい手に肩を支えられて座敷に戻ると、会費を集金する声やお釣りを求める声が飛び交い、飲み会はそろそろ終わりを迎えようとしていた。
 どんな顔で会えばいいのか決められないまま、座布団に腰を下ろす。「もう大丈夫か」とほほえむ宇髄さんは、やっぱりいつもと何にも変わりがなかった。
 テーブルの上のアイスは、かわいそうにすっかり溶けて白い液体に変わっていた。これが溶けきるまでの間に起きた出来事の重みも、私と宇髄さんとで全然違うのかもしれない。今の私にはポジティブ変換できるほどの材料も根拠もない。人を好きになると底知れないパワーが湧いてくることもあるが、ちょっとのことで心が大きく揺れ動いてしまうらしい。
 幹事が集金がてら二次会の出欠を聞きに来た。みんなが千円札で支払うものだから、お釣りに備えた十円玉が入った重そうな袋を持参する準備のよさだ。
「宇髄、今日もあれやって」
「今日はパス」
「なんでよ、来いよ。俺、あの歌うたうから爆音で頼むわ。なんか用あんの?」
「ド派手に大事な用があるからむり。明日、学校でな」
「学校でハーモニカ吹かれても意味ねえんだけど。あ、二次会来る?」
 幹事がお釣りをごそごそと取り出しながら二次会の出欠を尋ねてきたが、正直それどころじゃない。ハーモニカを持ち歩いているという意外なかわいさにも萌えてしまったけれど、それよりもド派手に大事な用というワードが耳にこびりついている。時刻は二十二時過ぎ。今、この時間からの大事な用ってなんなのだろう。
「あ、こいつも二次会行けねえから。さっきゲロ吐いてたんだよ」
 考えをめぐらせていて出欠を答えるのが遅くなった私の代わりに、親指でこちらを差した宇髄さんが言う。次は必ず参加しろよ、と言い残して幹事は次のテーブルに移っていった。
「お前、まだ調子悪そうだなあ」
「はあ、まあ、そうかもしれません」
「送って行ってやる」
 立ち上がり、にやっと笑った。
 うわ、まさか。そんな。『ド派手に大事な用』の相手は自分なのだと気づき、心臓がバクバクと音を立てる。最後まで怪しまれないように、吐き気がまだ治っていない女を演じながら立ち上がった。
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