祭りのあと
「やっとだよ」
頭上から聞こえたそれは、遠くの国の言語みたいだった。耳の中には確実に入っているのに、脳内で意味を為さずに音のまま浮遊している感じ。
目の前の鏡には私の頭のてっぺんから唇までが映っていて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。ふいに撮られた写真を見る以外で、自分の驚いた顔をまじまじと見ることもめったにないだろう。目がまん丸に開いていて、ひと言で言えばどこからどう見ても間抜け面だった。
顔のまわりはぼってりと質量のある白い布地でくるまれていて、首のまわりも同じ布がマフラーのように巻かれている。真っ白の中に浮かぶ自分の顔をしばらく見ていたら、白いパーカーを着た宇髄さんにうしろから抱きしめられている、という非現実的な現実を脳がやっと理解をして、全身が一気に熱くなった。
「あの……私、トイレに行かないと」
「ああ」
「本当に、宇髄さん変ですよ。飲みすぎです」
大好きな人に抱き締められている状況の第一声がこれはないだろうと、動揺しまくりながらも自分につっこむ。そして、この場の流れを即終了させかねない言葉を取り繕うこともできず、さらに色気のない言葉をつづけてしまった。
「別に酔ってるからじゃねぇよ」
何かを咎められて言い訳をする子供みたいな口調。身長が高すぎて鏡に映っていないが、この口調にぴったりな表情をしているのだろうか。片頬をふくらませていたり、口をとがらせていたり、眉根を寄せていたり? そんなのかわいすぎる。見たい、見たい。でも、今はそんな余裕はないし、このままふり返りでもしたら、さらに状況が一気に進んでしまうかもしれないという謎の勘が働いたので、ぐっと堪えた。
「話聞いて」
「聞きますから、腕、離してください」
巻きついている両腕を持ち上げようとするが、とんでもなく重いしビクともしない。身をよじって抜け出そうにも、がっちりロックされてしまっている。
「と、りあえず誰か来る前に離してください。見られたら大変なことになりますよ」
「そんなん別にいい。つーか、離したらお前逃げるだろ。絶対」
さすが。よく分かっていらっしゃる。
腕が離れた瞬間、一気に横をすり抜けて座敷まで走る気でいたのだ。いうまでもなく、嫌だからではない。こんなパニック状態ではまともに話を聞けそうにはないし、いつ誰が来るか分からなくて気が気ではないし、今にも口から内臓全部がとび出そうで耐えられる気がしなかった。
「離してください、逃げませんから」
「そォ?」
「本当です。約束します。絶対に逃げません」
「ん。分かった」
「ありがとうございます」
「やっぱ、やだ。離さねえ」
ぎゅーっという音が聞こえそうなほど、首元にまわされた腕の力が強まる。そして、頭上に重みを感じると同時に、私の頭の上に宇髄さんのあごがのる映像がなぜかスローモーションで鏡に映った。頭をフルスイングで殴られて、心臓を鷲づかみにされたような衝撃で頭がクラクラする。
「えっ、もう、もう……」
「モーモー言ってどうした」
「もう……、本当に今日どうしちゃったんですか」
ふるえた声が、語尾に向かって小さくなった。完全にキャパオーバーだ。
「分かんねえんだ?」
うなずくと、頭のすぐ上からふーっとため息が聞こえた。
「さっき、ポケットん中で俺の手をにぎり返しただろ。やっとお前がこっち向いた気がして、ド派手に嬉しかったんだよ」
「……」
「俺の勘ちがい?」
私の気持ちは指をとおしてしっかり伝わっていた。
ぽつりぽつりと語りかけるような声を聞いていて、恋愛経験の少ない私でもさすがに気づいた。信じられないけど、本当に信じられないけど、もしかしたら宇髄さんも私のことが好きなのかもしれない。
頭をぐしゃぐしゃなでられても、描いた絵を褒められても、宇髄さんから投げられるボールの意味など考えたことはなかった。宇髄さんのきらびやかな世界とは決して交わることはなくて、十把一絡げ、烏合の衆、有象無象のひとりが自分だと思っていたのだ。だって、相手は宇髄天元だ。ダメだった時の心構えや自分のなぐさめ方は知っているのに、うまくいく妄想はしたことはなかった。
でも、今日はちがった。
私の手をにぎるという行動を、ただのいたずらと思えなかったときから何かがちがっていたのかもしれない。色んな歯車がかっちり噛み合って、遠慮がちながらも回り出したように、はじめて自分の気持ちを分かってほしいと思った。触れたいと思ったし、私に触れてほしいと思った。そして、手をにぎって笑い合う未来を願った。人から見ればささやかすぎる願いかもしれないが、自分比で考えたら大進歩だ。宇髄さんがいうように、私は宇髄さんをはじめて真正面から見た気がした。
「嫌なら、こっから出ろよ」
腕がゆるんで、まわりに空間が生まれる。腕の中から飛び出して、座敷に走り帰るのも、トイレの個室に飛びこむことも十分にできる。
宇髄さんは選択の自由を与え、その選択を言葉ではなく目に見える形で示すように促した。背後にあるのれんの向こうからは、忙しなく歩いている店員の足音やオーダーを確認する声、どこかのテーブルの大爆笑なんかがとてもよく聞こえる。
この歯車は、今、私が、自分の意志で回さないと――。
「嫌じゃありません。出ません……、出たくない」
言い終わるか言い終わらないかでふり返って抱きついて、パーカーのボフッとした感触に顔を埋める。
香水のにおいを思いきり吸い込んで、これでもうただの先輩後輩には戻れないんだなとぼんやりと思った。
頭上から聞こえたそれは、遠くの国の言語みたいだった。耳の中には確実に入っているのに、脳内で意味を為さずに音のまま浮遊している感じ。
目の前の鏡には私の頭のてっぺんから唇までが映っていて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。ふいに撮られた写真を見る以外で、自分の驚いた顔をまじまじと見ることもめったにないだろう。目がまん丸に開いていて、ひと言で言えばどこからどう見ても間抜け面だった。
顔のまわりはぼってりと質量のある白い布地でくるまれていて、首のまわりも同じ布がマフラーのように巻かれている。真っ白の中に浮かぶ自分の顔をしばらく見ていたら、白いパーカーを着た宇髄さんにうしろから抱きしめられている、という非現実的な現実を脳がやっと理解をして、全身が一気に熱くなった。
「あの……私、トイレに行かないと」
「ああ」
「本当に、宇髄さん変ですよ。飲みすぎです」
大好きな人に抱き締められている状況の第一声がこれはないだろうと、動揺しまくりながらも自分につっこむ。そして、この場の流れを即終了させかねない言葉を取り繕うこともできず、さらに色気のない言葉をつづけてしまった。
「別に酔ってるからじゃねぇよ」
何かを咎められて言い訳をする子供みたいな口調。身長が高すぎて鏡に映っていないが、この口調にぴったりな表情をしているのだろうか。片頬をふくらませていたり、口をとがらせていたり、眉根を寄せていたり? そんなのかわいすぎる。見たい、見たい。でも、今はそんな余裕はないし、このままふり返りでもしたら、さらに状況が一気に進んでしまうかもしれないという謎の勘が働いたので、ぐっと堪えた。
「話聞いて」
「聞きますから、腕、離してください」
巻きついている両腕を持ち上げようとするが、とんでもなく重いしビクともしない。身をよじって抜け出そうにも、がっちりロックされてしまっている。
「と、りあえず誰か来る前に離してください。見られたら大変なことになりますよ」
「そんなん別にいい。つーか、離したらお前逃げるだろ。絶対」
さすが。よく分かっていらっしゃる。
腕が離れた瞬間、一気に横をすり抜けて座敷まで走る気でいたのだ。いうまでもなく、嫌だからではない。こんなパニック状態ではまともに話を聞けそうにはないし、いつ誰が来るか分からなくて気が気ではないし、今にも口から内臓全部がとび出そうで耐えられる気がしなかった。
「離してください、逃げませんから」
「そォ?」
「本当です。約束します。絶対に逃げません」
「ん。分かった」
「ありがとうございます」
「やっぱ、やだ。離さねえ」
ぎゅーっという音が聞こえそうなほど、首元にまわされた腕の力が強まる。そして、頭上に重みを感じると同時に、私の頭の上に宇髄さんのあごがのる映像がなぜかスローモーションで鏡に映った。頭をフルスイングで殴られて、心臓を鷲づかみにされたような衝撃で頭がクラクラする。
「えっ、もう、もう……」
「モーモー言ってどうした」
「もう……、本当に今日どうしちゃったんですか」
ふるえた声が、語尾に向かって小さくなった。完全にキャパオーバーだ。
「分かんねえんだ?」
うなずくと、頭のすぐ上からふーっとため息が聞こえた。
「さっき、ポケットん中で俺の手をにぎり返しただろ。やっとお前がこっち向いた気がして、ド派手に嬉しかったんだよ」
「……」
「俺の勘ちがい?」
私の気持ちは指をとおしてしっかり伝わっていた。
ぽつりぽつりと語りかけるような声を聞いていて、恋愛経験の少ない私でもさすがに気づいた。信じられないけど、本当に信じられないけど、もしかしたら宇髄さんも私のことが好きなのかもしれない。
頭をぐしゃぐしゃなでられても、描いた絵を褒められても、宇髄さんから投げられるボールの意味など考えたことはなかった。宇髄さんのきらびやかな世界とは決して交わることはなくて、十把一絡げ、烏合の衆、有象無象のひとりが自分だと思っていたのだ。だって、相手は宇髄天元だ。ダメだった時の心構えや自分のなぐさめ方は知っているのに、うまくいく妄想はしたことはなかった。
でも、今日はちがった。
私の手をにぎるという行動を、ただのいたずらと思えなかったときから何かがちがっていたのかもしれない。色んな歯車がかっちり噛み合って、遠慮がちながらも回り出したように、はじめて自分の気持ちを分かってほしいと思った。触れたいと思ったし、私に触れてほしいと思った。そして、手をにぎって笑い合う未来を願った。人から見ればささやかすぎる願いかもしれないが、自分比で考えたら大進歩だ。宇髄さんがいうように、私は宇髄さんをはじめて真正面から見た気がした。
「嫌なら、こっから出ろよ」
腕がゆるんで、まわりに空間が生まれる。腕の中から飛び出して、座敷に走り帰るのも、トイレの個室に飛びこむことも十分にできる。
宇髄さんは選択の自由を与え、その選択を言葉ではなく目に見える形で示すように促した。背後にあるのれんの向こうからは、忙しなく歩いている店員の足音やオーダーを確認する声、どこかのテーブルの大爆笑なんかがとてもよく聞こえる。
この歯車は、今、私が、自分の意志で回さないと――。
「嫌じゃありません。出ません……、出たくない」
言い終わるか言い終わらないかでふり返って抱きついて、パーカーのボフッとした感触に顔を埋める。
香水のにおいを思いきり吸い込んで、これでもうただの先輩後輩には戻れないんだなとぼんやりと思った。