祭りのあと
表情管理の苦労も挙動不審だったこともうそみたい。憑きものが落ちたようにふっきれて、ポケットの中で秘密の逢瀬を楽しんだ。
宇髄さんの手のひらを指の腹や爪先でくすぐる余裕まで出てきて、大きな身体をビクっとさせることにも成功した。いつもはいたずらをする側にいる人の素直な反応がかわいくて、笑いをごまかすためにジョッキに口をつける。宇髄さんも自分で自分がおかしかったらしく、あぐらをかいたひざにひじをついて口元を隠して笑っている。
「天さん、ひとりで何笑ってんの」
「うっせえ、こっち見んな」
「こっわ。まじの輩じゃん。それで本当に教師になるつもりっすか」
「なるわ。輩じゃねえし」
追い払うように手をひらひらされ、一年生の男の子は自分のテーブルに戻っていった。去りぎわに、また飲もうな、と声をかけられてうれしそうに笑いながら。意外にも、俺様で声も身体も態度も大きい宇髄さんは後輩からのいじり需要が高い。見た目だけではなくて、こういうフランクな性格もずっと好きだった。
気が大きくなった私は、手をにぎりなおし、親指の下のふくらみを指で押したり、自分の二倍近くはありそうなごつい指の関節をつまんだり、宇髄さんの手のすべてを知りたくて触りつづけた。そうしている間、あたたかく大きな手はもう何かを仕掛けてくることはなく、おとなしく受け入れてくれていた。
さあ、次は何を仕掛けようかと意気ごんだ瞬間、指の股や手の甲を変則的なフェザータッチでなでられる特大級の反撃を受け、「ヒッ」という声が出てしまった。
驚きのあまりに肩をすくめて背筋を伸ばした私は、挙動不審な人物に逆戻りだ。
左を見れば、わんぱくな十歳児のように舌を小さく出してこちらを見ている顔が目に飛びこむ。無邪気で、どこか幼さを感じさせるその顔もどうしようもなく好きだと思う一方で、ふっくらとした舌の濡れた赤さが妙に鮮やかに映ってクラクラした。
本当に夢みたい。こんなこと誰が想像できた?
宇髄さんの右手も、パーカーのポケットの中の空間も今この世界で私だけのものだ。今までうれしいことがあってテンションが上がるたびに足首をつかんで引きずりおろしてきた自分の手も届かない、もっともっと上空まで舞い上がってしまった。
どんどんまわしてね、という呼びかけの声が聞こえ、透明のプラスチックの器に入ったアイスクリームが各テーブルに配られているのが目に入った。飲み会のデザートのアイスは、それがどんなにチープな見た目をしていても、石みたいに凍っていても、バニラの風味なんか少しもしないつめたいだけの物体でも、なぜかテンションが上がってしまう。
今日だって、そのアイスを心待ちにしているはずだったのに。アイスなんていらない。一生このテーブルに回ってこなければいい。だって、アイスが届いてしまったらこのポケットから出るしかなくなってしまう。お酒を飲むだけなら片手で事足りていたけれど、アイスはさすがに無理だ。手をつけないままドロドロに溶けさせたら、体調不良を疑われたり、いよいよ周囲に怪しまれてしまうだろう。
最初は逃亡を企てていたのに、そんな気持ちは今や一ミリも残っていなかった。それどころか、一秒でも長く触れていたい。そして、私に触れていてほしかった。
秘密の逢瀬の終了の期限が迫り、すっかり動きを止めていた私の手を包むと、宇髄さんは自分の手のひらを私の手のひらに隙間なくぴったりとくっつけ、ぎゅっとにぎった。呼応するように必死でにぎり返す。どっちの汗か分からないけれど、重なり合う部分がじっとりとしている。
宇髄さん、こんな触れ方されたら困ります。そんな風にぴったりと隙間なく触れられたら、たまらない気持ちになるんです。そんなふうに強くにぎられたら、隠していたものが爆発しそうになっちゃうんです。今、何を考えているんですか──?
心の中で再び問いかけるが、回答はもちろんない。
アイス届いたよ、と音を立ててアイスが置かれると同時にポケットから手を出した。最後の最後、絡んだお互いのひとさし指の爪の先まで触れるようにして別れた。
久々に外界の空気に触れた左手はスースーと涼しくて、これが普通なのに、心もとない気持ちと違和感でいっぱいになる。そして、宇髄さんの手が私の手を連れ戻そうと追ってこないのは当然のことなのに、さみしかった。
目の前のアイスはどうやったらこんなに硬くなるのか不思議なほど凍っている。宇髄さんもスプーンをぐさぐさ突き立てながら「これ、いつ食えんのよ。一生凍ってそう」と笑っている。
陽のオーラを振りまく明るさ。よくとおる大声。いつもと何にも変わらない。いつもと変わらなさ過ぎてすべてが幻覚だったのではと思うけれど、左手に残る湿り気だけが現実だと教えてくれていた。
アイスはしばらく溶けそうにないし、頭も冷やしたい。トイレでも行くかと立ち上がっても、うしろを歩いても、赤い視線がこちらに向くことはない。ぬくもりの記憶と湿り気が消えるのを少しでも遅らせたくて、こぶしをにぎった。
うす暗い通路の突き当たりを左に曲がると、『お手洗い』と書かれた汚いのれんが現れた。なるべく触れないようにしてくぐると、細く短い廊下の突き当りの壁には小さな鏡がはめ込まれ、古めかしい手洗い場があった。そして、手洗い場を挟むようにして、左に女子トイレがひとつ、右に男子トイレがひとつ。手洗い場に手をついて、身体の奥底から湧き出るようなため息をついた。
鏡の向こうには潤んだ目で顔を上気させた女がじっとこちらを見ていて、どこからどう見ても自分なのに知らない女のようだ。
恋愛経験が少ないくせに、えらい人を好きになっちゃったな。いや、恋愛経験が少ないからあんな高嶺の花の最高峰みたいな人を好きになっちゃったのかと苦笑いをする。
もしも今日のこと全部が、気まぐれやいたずら心が引き起こした意味のない一件だったとしても、一気飲みをしたレモンサワーの酔いに任せた行動だったとしても。もう、それならそれでいい。今までならショックを受けて殻にこもっていたれけど、今はちがう。こんなに大きく育った気持ちが簡単にはなくせそうにないのが自分でも分かるのだ。例え、宝くじの一等が連続で十回当選するレベルの可能性だったとしても、あたたかいあの手に触れて笑い合える未来を夢見たい。まあ、また落ち込む日も来るかもしれないけれど。
腹をくくったら、鏡の中の顔が引き締まって、目に力がもどった。よしよし、よく持ちなおした。えらいぞ私。
ギシッと床が軋む音と同時に、トイレに入ろうと左に向きかけた身体が背後からやわらかいものに包まれた。何が起きたか分からなすぎて目だけを動かすと、顔の前にはしっかりと厚みのある白い布と、緑と赤のネイルが塗られたゴツゴツとした大きな手。そして、鼻をくすぐるあまくて色っぽいにおい。まちがいない。宇髄さんだ。驚いて声が出ない。
「やっとだよ」
すぐうしろから聞こえる低く小さな声。聞き慣れた、よくとおる大きな声でも、からかうような声でもない。こんな声は聞いたことがない。
言葉を発することも、腕から抜け出すこともできない私を抱きしめる腕の力が強まると、ふんわりとしていた香水のにおいも一層強まった。情報処理機能が停止した頭で、自分を包むあたたかさを受け止めることしかできなかった。
宇髄さんの手のひらを指の腹や爪先でくすぐる余裕まで出てきて、大きな身体をビクっとさせることにも成功した。いつもはいたずらをする側にいる人の素直な反応がかわいくて、笑いをごまかすためにジョッキに口をつける。宇髄さんも自分で自分がおかしかったらしく、あぐらをかいたひざにひじをついて口元を隠して笑っている。
「天さん、ひとりで何笑ってんの」
「うっせえ、こっち見んな」
「こっわ。まじの輩じゃん。それで本当に教師になるつもりっすか」
「なるわ。輩じゃねえし」
追い払うように手をひらひらされ、一年生の男の子は自分のテーブルに戻っていった。去りぎわに、また飲もうな、と声をかけられてうれしそうに笑いながら。意外にも、俺様で声も身体も態度も大きい宇髄さんは後輩からのいじり需要が高い。見た目だけではなくて、こういうフランクな性格もずっと好きだった。
気が大きくなった私は、手をにぎりなおし、親指の下のふくらみを指で押したり、自分の二倍近くはありそうなごつい指の関節をつまんだり、宇髄さんの手のすべてを知りたくて触りつづけた。そうしている間、あたたかく大きな手はもう何かを仕掛けてくることはなく、おとなしく受け入れてくれていた。
さあ、次は何を仕掛けようかと意気ごんだ瞬間、指の股や手の甲を変則的なフェザータッチでなでられる特大級の反撃を受け、「ヒッ」という声が出てしまった。
驚きのあまりに肩をすくめて背筋を伸ばした私は、挙動不審な人物に逆戻りだ。
左を見れば、わんぱくな十歳児のように舌を小さく出してこちらを見ている顔が目に飛びこむ。無邪気で、どこか幼さを感じさせるその顔もどうしようもなく好きだと思う一方で、ふっくらとした舌の濡れた赤さが妙に鮮やかに映ってクラクラした。
本当に夢みたい。こんなこと誰が想像できた?
宇髄さんの右手も、パーカーのポケットの中の空間も今この世界で私だけのものだ。今までうれしいことがあってテンションが上がるたびに足首をつかんで引きずりおろしてきた自分の手も届かない、もっともっと上空まで舞い上がってしまった。
どんどんまわしてね、という呼びかけの声が聞こえ、透明のプラスチックの器に入ったアイスクリームが各テーブルに配られているのが目に入った。飲み会のデザートのアイスは、それがどんなにチープな見た目をしていても、石みたいに凍っていても、バニラの風味なんか少しもしないつめたいだけの物体でも、なぜかテンションが上がってしまう。
今日だって、そのアイスを心待ちにしているはずだったのに。アイスなんていらない。一生このテーブルに回ってこなければいい。だって、アイスが届いてしまったらこのポケットから出るしかなくなってしまう。お酒を飲むだけなら片手で事足りていたけれど、アイスはさすがに無理だ。手をつけないままドロドロに溶けさせたら、体調不良を疑われたり、いよいよ周囲に怪しまれてしまうだろう。
最初は逃亡を企てていたのに、そんな気持ちは今や一ミリも残っていなかった。それどころか、一秒でも長く触れていたい。そして、私に触れていてほしかった。
秘密の逢瀬の終了の期限が迫り、すっかり動きを止めていた私の手を包むと、宇髄さんは自分の手のひらを私の手のひらに隙間なくぴったりとくっつけ、ぎゅっとにぎった。呼応するように必死でにぎり返す。どっちの汗か分からないけれど、重なり合う部分がじっとりとしている。
宇髄さん、こんな触れ方されたら困ります。そんな風にぴったりと隙間なく触れられたら、たまらない気持ちになるんです。そんなふうに強くにぎられたら、隠していたものが爆発しそうになっちゃうんです。今、何を考えているんですか──?
心の中で再び問いかけるが、回答はもちろんない。
アイス届いたよ、と音を立ててアイスが置かれると同時にポケットから手を出した。最後の最後、絡んだお互いのひとさし指の爪の先まで触れるようにして別れた。
久々に外界の空気に触れた左手はスースーと涼しくて、これが普通なのに、心もとない気持ちと違和感でいっぱいになる。そして、宇髄さんの手が私の手を連れ戻そうと追ってこないのは当然のことなのに、さみしかった。
目の前のアイスはどうやったらこんなに硬くなるのか不思議なほど凍っている。宇髄さんもスプーンをぐさぐさ突き立てながら「これ、いつ食えんのよ。一生凍ってそう」と笑っている。
陽のオーラを振りまく明るさ。よくとおる大声。いつもと何にも変わらない。いつもと変わらなさ過ぎてすべてが幻覚だったのではと思うけれど、左手に残る湿り気だけが現実だと教えてくれていた。
アイスはしばらく溶けそうにないし、頭も冷やしたい。トイレでも行くかと立ち上がっても、うしろを歩いても、赤い視線がこちらに向くことはない。ぬくもりの記憶と湿り気が消えるのを少しでも遅らせたくて、こぶしをにぎった。
うす暗い通路の突き当たりを左に曲がると、『お手洗い』と書かれた汚いのれんが現れた。なるべく触れないようにしてくぐると、細く短い廊下の突き当りの壁には小さな鏡がはめ込まれ、古めかしい手洗い場があった。そして、手洗い場を挟むようにして、左に女子トイレがひとつ、右に男子トイレがひとつ。手洗い場に手をついて、身体の奥底から湧き出るようなため息をついた。
鏡の向こうには潤んだ目で顔を上気させた女がじっとこちらを見ていて、どこからどう見ても自分なのに知らない女のようだ。
恋愛経験が少ないくせに、えらい人を好きになっちゃったな。いや、恋愛経験が少ないからあんな高嶺の花の最高峰みたいな人を好きになっちゃったのかと苦笑いをする。
もしも今日のこと全部が、気まぐれやいたずら心が引き起こした意味のない一件だったとしても、一気飲みをしたレモンサワーの酔いに任せた行動だったとしても。もう、それならそれでいい。今までならショックを受けて殻にこもっていたれけど、今はちがう。こんなに大きく育った気持ちが簡単にはなくせそうにないのが自分でも分かるのだ。例え、宝くじの一等が連続で十回当選するレベルの可能性だったとしても、あたたかいあの手に触れて笑い合える未来を夢見たい。まあ、また落ち込む日も来るかもしれないけれど。
腹をくくったら、鏡の中の顔が引き締まって、目に力がもどった。よしよし、よく持ちなおした。えらいぞ私。
ギシッと床が軋む音と同時に、トイレに入ろうと左に向きかけた身体が背後からやわらかいものに包まれた。何が起きたか分からなすぎて目だけを動かすと、顔の前にはしっかりと厚みのある白い布と、緑と赤のネイルが塗られたゴツゴツとした大きな手。そして、鼻をくすぐるあまくて色っぽいにおい。まちがいない。宇髄さんだ。驚いて声が出ない。
「やっとだよ」
すぐうしろから聞こえる低く小さな声。聞き慣れた、よくとおる大きな声でも、からかうような声でもない。こんな声は聞いたことがない。
言葉を発することも、腕から抜け出すこともできない私を抱きしめる腕の力が強まると、ふんわりとしていた香水のにおいも一層強まった。情報処理機能が停止した頭で、自分を包むあたたかさを受け止めることしかできなかった。