祭りのあと

 今のうちに、いい席を選ばなきゃ。
 茶色いテーブルが並ぶ座敷を見わたすと、すでに一杯飲んできたようなテンションの面々が二割ほどの席を埋めていた。三時間飲み放題付き二九八〇円という安さと大騒ぎを許してくれることが取り柄のこの居酒屋は、課題提出に追われて金欠がデフォルトの美大生にはもってこいだ。
「あれ、お前の好きなやつじゃね?」
 緑と赤のネイルが塗られた指先が背後からあらわれ、壁を指さした。
「うわっ」
「あれ、あれ」
 壁には『ホタルイカの沖漬け 三八〇円』『だし巻き卵 四八〇円』と書かれた黄色い短冊がびっしり貼られ、砂浜でビールジョッキを持ってポーズをとるグラビアアイドルの古いポスターが一枚だけ居心地悪そうにしていた。
「ど、どれですか」
 問いかけても、クククっという笑い声が聞こえるだけ。両肩に置かれた手にぐいぐいと誘導されるまま、壁を右側にした隅の席に座らせられた。
「はい、到着。俺の隣に座れるなんて幸せ者だな」
 こんな言葉が似合いすぎてまったく嫌味にならない。
 声の主の宇髄さんはあたり前のように左隣に座り、口ごもっている私を気にする様子はない。おお、こっちこっち、と友だちを迎え入れている横顔を盗み見たが、何を考えているのか読み取ることができなかった。

 なし崩し的にはじまった飲み会は歓声と奇声と大声が入り乱れ、近くの人の声が聞こえにくいほどうるさい。自分たちのテーブルも、誰と誰が付き合っているとか、前回の飲み会で酔いつぶれた人のエピソードとか、とりとめのない話で盛り上がる。私もみんなと同じように笑ったりしゃべってはいるが、神経は左半身に全集中していた。
「――っけ」
 ふいに話しかけてきた宇髄さんの声は、ギャハハとかやばーいという大声の嵐でよく聞こえない。
「なんですか? すいません、聞こえなくて」
「ったく、あいつらうるっせぇなあ」
 左腕がぶつかり、香水のあまいにおいが鼻をかすめる。そして、耳元がふわっとあたたかくなったと同時に、低く小さい声が聞こえた。
「……」 
「あれ? なあ、聞こえた?」
「聞、いてませんでした」
 結局、言いなおしてもらった言葉は聞き取れなかった。これは、周囲がうるさいからではない。いつもこっそり見つめていた顔がこんなにも近くにあって、耳がその機能を失っていたのだ。覗きこむような視線を見返すこともできなくて、ぽっかり空いた掘りごたつの暗い空間に目をやった。
「お前、いい度胸してんなあ。ま、いいや」
 ケラケラ笑うと、焼きすぎて水分を失った焼き鳥で口をもぐもぐさせながら、向かいに座る人たちと話しはじめた。『ま、いいや』という言葉どおり、話が流れたことなんか本当にどうでもいいみたいだ。何もなかったみたいに笑っている。でも、私はちがう。宇髄さんがくれる言葉は何ひとつ漏らしたくないのに、消してしまったことが悲しかった。

「この前はありがとう。飲んでる?」
 冷えてしなしなになったフライドポテトを口に入れてふり返ると、同じ学年の山田くんが通路に座っていた。
「こっちこそありがとう。飲んでるよ」
 山田くんは人なつっこくて話し上手な子で、グループワークで一緒になってからはよく話すようになった。お世辞にも清潔とはいえない板敷きの通路に座ってにこにこ笑う顔を見ていると、つられて笑ってしまう。
「ねえ、あっちのテーブルに来ない?」
 彼が指さしたのは少し離れたテーブルだった。宇髄さんのとなりに座れたのはうれしかったけれど、緊張して喋れない上に、男女問わず入れ代わり立ち代わりやってきては大盛り上がりで入れるすき間はない。いつもみたいに離れた席から楽しそうな姿を盗み見していた方がよっぽどいいやと思った。
「うん、そうしよっかな」
 梅酒の水割りが入ったジョッキ、おしぼり、割りばしを持って立ち上がった。
「なぁに勝手に移動しようとしてんだよ」
 大根おろしが添えられただし巻き玉子、からあげ、ポテトサラダ、つくね串が仲良くのったお皿が行く手を阻むようにあらわれた。
「ほれ、祭りの神がよそってやったんだぞ。ありがたく食え」
「……」
 祭りの神を自称する人は、固まる私に向けてさらに皿を差し出して一歩も引かない構えだ。
「じゃあ、それ食べ終わったらおいでよ。待ってるから」
「えっ」
「天元さん、邪魔したお詫びにそれくださいよ」
「……お前、目ざとすぎるだろ」
 宇髄さんが手渡したのは飲み放題メニューにないはずの枡酒。戦利品を手にした山田くんは、グラスに口をつけながら自分のテーブルに帰ってしまった。
「いつまで突っ立ってんだ。座って食え」
「……いただきます」
「おう」
 私の頭にのせた手をバウンドさせ、満足げに口角を上げた。
 いい感じにしょう油がかかった大根おろしと一緒に、だし巻き卵を口に運ぶ。つめたいし、だしの味なんか全然しない。けれども、皿によそってくれた姿を想像すると、安い居酒屋の冷えた卵焼きが世界一おいしい食べ物に思えた。
 そこからは、祭りの神からもらった食べ物を口に規則的に運ぶことだけに集中した。大人っぽく整った外見とは反対に、小学生のような冗談でゲラゲラ大笑いする姿。ファンなんです、と代わる代わる出現する女の子の頭を「お前ら見る目あるわ」となでる大きな手。自分の顔を見て笑う人に向かって「何笑ってんだよ」と、口の端に焼き鳥のタレをつけて問いかける顔。目に入るもの、耳に入るもの。そのすべてにいちいち揺さぶられるたびに食べ物がのどにつかえた。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」
 左肩に感じる重み。そして、その重みが肩先にぎりぎりまですべるように移動して消えた。
 肩を包むように触れられた大きな手の重みとあたたかさは、今にも消えてしまいそうなほど儚い。向かいの席の人の話に適当に答えつつ、脳内は宇髄さんでいっぱいになってしまった。なんてことない行動のひとつ、他愛のない言葉のひとつに意味を見出して胸を高鳴らせても、最後は必ず「そんなことあるわけない」と打ち消す。好きになってからずっと、そんなことを繰り返してきた。
「天元さーん、ここ座ってくださいよお」
 あまくて高い声の出どころに目をやると、トイレから戻る途中の宇髄さんのパーカーの裾を女の子が引っ張っていた。よく見れば、輪切りレモンを重ねて冷凍したものが豪快にささったメガジョッキがテーブルにセットされていて、引きとめる準備も万端だ。宇髄さんが腰を下ろすと、その場が一気に色めき立った。
 天元さん、だって。下の名前で呼んでる。私だって呼んでみたいよ。
 心の中でひとりごち、ジョッキに口をつける。大量に入っていた氷がとけたせいで、はじめから薄かった梅酒の水割りが、梅酒のにおいと酸味を感じるだけの水になり果てていた。
「お前ら、俺のこと好きすぎな」
 なんだか、とっても満足そうだしうれしそうだ。
 ジョッキを高く持ち上げると「ド派手に行くぜ!」と大声を発して、口をつけると同時にのどをそらせた。空いている方の手のひらを天井に向け、煽るように上下にひらひらと動かすたびに歓声が大きくなる。他のテーブルの人たちも指をさして笑ったり、囃し立てている。いつでもどこでも人を惹きつけて、誰といても態度が変わらない。いるだけでその場を明るくする力がまぶしくて、苦しかった。
 限界までのどをそらせて飲み干すと、ドンッと大きな音を立ててメガジョッキをテーブルに置いた。手の甲で口元を拭って笑う宇髄さんに向かって、女の子たちは手をたたいて喜び、おしぼりを渡し、身振り手振りをしながら一斉に話しかけている。
 これ以上見ていられなくて左隣に目をやれば、主が不在になった平べったい座布団がひとつ。そして、食べ終わった串が並ぶお皿と、口のまわりについた焼き鳥のタレを拭いたおしぼり。宇髄さんがここにいた痕跡の数々を見ていたら無性にさみしくなった。そして、自分とはほど遠い人を好きになってしまったとつくづく実感する。
 やっぱりまた見たくなって、輪切りレモンをかじる宇髄さんをこっそり見つめた。
「戻るわ。あとは若いもんで楽しみな」
 ゆっくりと立ち上がると、ええ、なんでもう行っちゃうんですか、という声がすかさず引きとめる。
「なんでもォ。じゃあな」
 ひな鳥のように騒いでいた女の子たちだったが、去りぎわに頭をぽんぽんなでられると大人しくなった。そして、なでられた頭に手を置きながら顔を見合わせ、キャッキャッと喜んでいた。

 宇髄さんは戻ってくるなり豪快に腰を下ろし、ふうっとため息をついた。
 メガジョッキ一気すんなよ、あれ一リットルあんだぞ、お前は化け物か――。口々にからかわれると、あんなん余裕余裕、百杯いけるわ、と大口を開けて笑っている。戻ってきてうれしい気持ちが顔にあふれないように、うつむいて唇をかみしめた。
「どうしたよ」
 明らかに自分に向けられた声を無視するわけにもいかず、赤みがかった大きな瞳を見返す。
「いえ、なんでもないです」
「あ、あれか。俺がいなくって寂しかったんだろ」
「そんなこと」
 言葉が止まる。酔いのせいなのか、嫉妬心からなのか。なんでそんな選択をしたのか自分でも分からない。
「……さみしかった、です」
 気づいたときには、締め上げられたように細くなったのどから震えて上ずった声が出ていた。こんな態度、あとからあれは冗談でしたという言い訳なんて通用しないだろう。こんな小さな声は聞こえなかったかもしれないとも思ったが、きれいな赤い目がまるく見開かれていることで、声が無事に届いたことを悟った。
「あっそォ。待たせたな」
 少し酔った様子の宇髄さんの目の隅には艶めかしく朱がさしていて、あわてて目をそらした。
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