おかとときの恋

 紙風船が割れるように、忘我の境地から目が覚めた。一体どれくらいこうしていたのか。気温も匂いもない。時間も季節も存在しない。ただ川が流れている。そんな空間に俺たちだけが存在している。
 足の間に座り、俺の首に抱きついたまま動かない丸い頭を撫でる。黒髪をすくい上げるように手にのせるが、指の間から滑り落ちて少しも留まってくれない。
 初めて好きになった女が目の前にいて、俺を全身全霊で想ってくれている。このままずっとふたりでいようと思えばいられるだろう。そうしていたい気持ちもあるし、離れがたい。だが、このままでいいんだろうか。乙羽も俺も。

「なあ、俺たち、このままここにいたらどうなるんだ」
「何も変わらない。ずっとこのまま。戻ることも進むこともない」
 それだけ言うと、ぎゅっと音がしそうなほど俺の首に強く巻きついた。
 どっちつかずの魂のまま、か。
 乙羽は、ここを現世とあの世を隔てる境目だと言った。三途の川があるってことは、地獄だってあるはずだ。犯した罪の贖罪ができるなら、奪ってしまった者たちへの弔いができるなら、俺は地獄に行きたい。誰が創ったかは知らないが、そんな場所が存在することをありがたいとすら思う。それなのに、この川を渡ってしまえば今度こそ乙羽を永遠に失うんじゃないか――胸を去来するその予感が、俺の気持ちを迷わせていた。

「……そうだ。ね、天元。一緒に行こうか」
 突然、耳のすぐそばで掠れた小さな声がした。子供っぽさの残るその声からは、感情が読み取れない。
 その声を皮切りに、またしても身体の自由を奪う力が働いているらしく、開いた口から声が出ない。
 俺の首に巻かれた腕も、首筋に埋まっている顔も、全幅の信頼の証みたいに体重を預けてくる身体も、その全部が川の向こうに行くことを望んでいるようには思えない。川を渡って先に進みたいという、俺の気持ちに合わせているだけに思えた。しかし、ちょっと止まってくれ、と語りかけることさえできない。
 足が勝手に動き、半歩先を歩き出した乙羽の白い手に導かれるまま水際に向かう。少し前まで、この河原で水切りをして笑っていたなんて信じられない。あの楽しい雰囲気が遠い過去のようだ。
 どうにかしてここで止めないと。この川を渡ったら、もう会えなくなるんじゃないのか。今度こそ永遠の別れになるんじゃないのか。止まれ。止まってくれ――。
 乙羽の片足が、バチャンッと水しぶきを上げて川に入ったときだった。

 ――戻ってきてください、天元様!

 突然、背後から生暖かい風が吹き、嫁の声がした。花畑の上を吹き渡ってきたせいか、花の匂いが一面に香る。
 反射的に振り返ろうとすると、だめっ、と叫んだ乙羽の声が生暖かい空間を切り裂くように響いた。
「なんっ……」
 周囲の空気ごと身体が固まったように動けないが、声はどうにか出せるようになっていた。
「天元、だめ、振り返らないで!」
「乙羽……」 
 ――天元様、行っちゃだめ!
「聞かないで!」
 背後からの突風と、目の前の乙羽から発する圧が、ぶつかりあうたびに空気が張りつめる。直感的に、俺が口を挟んだ瞬間に一気に引きずり込まれる気がして口をつぐんだ。
「聞いちゃだめ! 振り返っちゃ嫌……! だって……やっと会えたのに……ずっと待ってたのに」
 興奮状態の高い声がキンキンと響く。乙羽、と呼びかけようとした瞬間、強い力で川に向かって引っ張られ、前に倒れかけた身体が中途半端なところで止まった。
 
「だめだ……。こんなことやっぱりできない」
「落ちつけ、乙羽。俺の気持ちを汲んでくれてるんだろ? ここにいたいなら、もう少しいればいい。早まるな」 
「違う、ごめんなさい。ただ一緒にいたかっただけなの……だめだ、戻さなきゃ、向こうに」
 戻さなきゃ?
 俺はまだ完全に死んでないってことか?
 声をかけるが、振り向こうともしない。俺に話しているのか、自分に語りかけているのか、背を向けたままぶつぶつ何かを言っている。
「戻れるって現世にか? なら、お前も一緒に行こうぜ。俺の身体貸してやるから! 俺の中、入っていいから! こんなところにお前ひとり置いていけねえよ」
 すぐ目の前の丸い白い肩が震えているが、手を伸ばすことができない。
 自分でもめちゃくちゃなことを言っているのは分かっている。魂を連れ帰るのが、いいことだとも思っていない。でも、俺の身体の半分をこいつにやってもいいと心の底から思った。
「優しすぎるんだよ、天元は……。ねえ、勝ち逃げは許さないって言ったよね」 
「水切りか? ああ。絶対許さねえ、お前を必ず見つけて勝負する。どんな形でも必ず会いに行くから」

「……ありがとう。その約束があれば、もう、充分」

 何か言いたかったのか。
 何も言えなかったのか。
 何か言うのを止めたのか。
 寸刻の間、何を思っていたのかは分からない。振り返った乙羽は、どこか吹っ切れた顔をしていた。
 そして俺の両手を引いて、自分の前に立たせた。
「なあ、やっぱり、俺と一緒に」
 頭を横に振って、白い喉をのけ反るようにして俺を見上げた。
「死者に口づけをしたら、あっちに戻れるんだよ」
「……なんだその色気づいた法則」
 でも、そういうものなんだもん、と答えて婀娜っぽい顔で俺を見つめてから、目を閉じた。半信半疑だが、その顔は真剣そのもので嘘をついているようには見えない。
 黒いまつ毛が縁どる目を閉じた顔は、幸せな眠りにつく直前のように穏やかだ。いつの間にか動かせるようになっていた手で頬に触れると、まぶたが小さく動く。
 思えば、口づけひとつ交わしたことがなかった。
 初めてが別れの切符になるなんて、そんなの悲しすぎるだろ。次に会えたときは、乙羽が困って笑っちまうほど派手にぶちかましてやる。

 黒いまつ毛が小刻みに揺れ、俺を待っている。顔を近づけるにつれ、揺れが速く大きくなるまつ毛に唇を押し当てると、乙羽の目が開いた。
「なに……?」
「しばらく会えねえんだから、俺のこと最後まで見て。お前のことも見せて」
「うん」
 目の奥を通って心の奥まで焼きつけるように、互いを見つめる。瞬きする時間だって惜しい。
 まつ毛の一本一本。茶色い目の中の濃淡。丸い曲線を描く額や頬。これら全てが、俺が口づけた瞬間に、きっと消えてしまう。
 あと少しだけ、もう少しだけ一緒にいたって罰は当たらないんじゃないか。その魂に刻みつけるように、もう一度、いやもう三度くらい気持ちを伝えるくらいの猶予はあるんじゃないか。別れを少しでも先送ろうと、際限なく湧いてくる言い訳を胸にしまった。
 これ以上、俺を待って常世の理を破ってほしくない。輪廻転生の輪にのって、あるべき形で巡り合いたい。
 これが俺の精いっぱいの愛情だ。 
 万感の思いを込めて唇を重ねた。乙羽の唇は驚くほど冷たかったが、水菓子のように瑞々しく柔らかかった。


 一体どうなってるんだ?
 意を決して口づけをしたのに、しばらく経ってもなんの変化もない。俺も乙羽も消える前兆すらない。不思議に思っていると、今まで真剣だった乙羽の目が悪戯っぽく細められた。
「最後までごめんね。口づけして欲しかったの」
 それだけ言うと、額の鉢金を掴んで、俺の背後めがけて思いきり投げた。
「……なっ!」
 鉢金の行方を追おうと振り返った瞬間、気がついた。少し前に、振り返らないで、と乙羽が何度も繰り返していた意味を。振り返るや否や、どこからともなく現れた黄金の光に俺の身体が包まれていく。現世に戻る発動条件は口づけなんかじゃなかった。生者が後ろを振り返ることだったんだ。
 悪戯好きのあいつらしい戯れだ。

 ――バッシャーンッ!

 大きな水音が轟いた。急いで川の方を見ると、にこにこ笑った乙羽が肩まで川に浸かって、大きく手を振っていた。あの森での短い逢瀬で、後から来た俺を認めて喜んでいたときとそっくりだ。
「天元っ、いつかまた絶対に会おうね! 約束だよ。だから、それまでめいっぱい派手に生きて」
 その笑顔は、初めて会ったときのように無邪気な温かさに満ちていた。
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