おかとときの恋

 目の前の急流に押し流されるように、出会いから別れまでの記憶が頭の中を通り過ぎていった。
 黄泉の国にさっさと旅立ってしまった想い人と再会し、身体を寄せ合って三途の川を眺めるなんて、俺らしいド派手な死後の過ごし方だ。色々な気持ちがない交ぜになって、あーあ、と大きく伸びをして笑った。

「なに笑ってるの?」
「いや、だってよォ、お前と三途の川を眺める日が来るなんてなあ。夢にも思ってなかったわ」
「お前に会いにここまで来た、とか派手なこと言わないのね」  
 くすくす笑う声が心を優しく撫でる。 
「しっかし、ここは地味に何もねえなあ。待ってるの大変だったろ」
「平気……。会いたかったから」
 へえ、と言うと白い頬が染まる。追い打ちをかけるように顔を覗きこんだが、勢いよく目をそらされてしまった。
「ここで何やってたんだ? 川眺めるとか?」
「聞きたい?」
「ああ」
 顔いっぱいに『待ってました!』の言葉を張りつけ、つい今しがた照れてそらしたはずの目を得意げにぎらぎら光らせている。百面相のように変わる表情からは生気を感じて、ますます死者になんて見えない。
「あの爺婆、脱衣婆だつえば懸衣翁けんねおうっていうんだけどね、川を渡らせようと追いかけてくるから逃げる毎日よ。もう、しつっこいの! それから河原の石を積んだり、空を見たり、あとは……、練習」
「なんの」
「水切りの」
「ほら! やっぱりやってたんじゃねえか」
 えへへ、と悪戯っぽく笑う乙羽を羽交い締めにすると、キャッキャと笑いながら脱け出ようと身をよじる。さらにその腕を首元にまわすと、動きが止まった。そのまま抱きすくめてしまえば、天元?、と呟いたきり大人しくなった。
「なあ、乙羽。聞いて」
「うん」
 やっと聞こえるほどの小さい声。
「長いこと待たせたな。俺もお前に会いたかったよ」
 身体をびくっとさせたかと思うと、俺の腕を握って、ぽろぽろ泣きはじめた。
 こんな川っ縁かわっぷちでひとりで待つ間、どんなに心細かっただろう。常世の理に抗って、いつ来るとも知れぬ俺を待つなんてどれだけ不安だっただろう。そして、どれだけ強く俺を想っていてくれたんだろう。
 そんな乙羽がいじらしくて、胸が押しつぶされそうなほど愛おしかった。

「私のお墓の前で言ってくれたでしょ。お前のことは絶対に忘れない、どんな形でもいつか絶対に会いに行くって」
「は? あれ聞こえてたのか?」  
「うん、盛り土のてっぺんに座って聞いてたよ。四十九日までは魂の行き先が決まらないからね」
「まじかよ……」
 あの日――乙羽が死んで、土に埋められている現実なんぞ信じたくなかった。
 土を掘り返して、冷たくて暗くて湿った場所から助けてやりたい衝動に駆られていた。絶望と怒りと悲しみと闘いながら、これから先も呼びかけられるはずだったその名を何度も呼び、頭の先から足の先まで詰まった恋情を吐露した。
 あれは本人への弔いというよりも、自身の救済だったように思う。伝えてやれなかったこと、伝えたかったこと。自分の中に抱えきれないそんな気持ちを、乙羽に語りかけるように身体の外に出していた。
「うれしくて、一語一句忘れずに覚えてるよ。あ、そうだ。ねえ、暗唱してあげようか?」
「いらねえっつの。ったく、目の前にいたんなら肩叩くとか、木揺らすとかして気づかせろや」
 俺の反応が面白いのか、今度はケラケラ笑い出した。泣いたり笑ったり忙しい奴だ。
「だから、ここで待ってるのなんかね、全然平気だったよ。絶対に会いに来てくれるって信じてたから」
「そうか」
 気持ちが込み上げるのにまかせて腕の力を強めると、苦しい、でもこのままがいい、と呟く声の甘さに心が蕩けた。 
 
「こんな老いぼれ爺じゃ、いまいち格好がつかねえな。ド派手な色男になった大人の姿で会いたかったわ……って、すげえな」
 言い終わるか終わらないかで、身体がさっそく変化しはじめた。中に空気を入れて膨らませているかのように、皺だらけの肌がぴんと張り、腕の筋肉がみるみる隆起していく。血管が表面に浮かぶこの腕には、夜ごと刀を振るって鬼を滅しているときの力強さが戻っていた。
 どれどれ、と腕の中で身体を反転させた乙羽は俺の顔を見てはにかんだ。
「どうよ。派手な男前だろ?」 
「うん、天元はずっと派手で素敵。お爺さんになった天元にもね、会ってみたかったのよ。ずうっと一緒にいたらこんな感じだったのかなって」
「……そういうことか」
 大人になった乙羽だって、さぞや派手ないい女になったに違いない。そして、ころころよく笑う愛らしい婆さんになっただろう。そう思ったが、あまりに酷で言えなかった。乙羽の時間は十二で止まっている。時計の針を突然止められて、どれだけ悔しかっただろうか。
 命ある俺たちが想い想われる時を過ごせたのはあまりに短く、あまりに子供だった。
 こんな奇跡みたいな時間をもてたことが、嬉しくて、哀しい。

「こっち向けよ」
 今すぐに顔が見たかった。向かい合うように足の間に座らせると、うつむく乙羽の丸い額がすぐ目の前にあった。
 なぜか分からないが、目を合わせて話をしたい、しなければならない――そんな思いで気が急いた。
 乙羽の顎下に手を当てて顔を上げると、薄茶色の目が揺れる。その中には俺がいて、ずいぶんと真剣な顔をしていた。きっと、俺の紅色の目の中には困った顔をした乙羽がいるはずだ。
「ずっと謝りたかった。何にもしてやれなくてごめん。守ってやれなくてごめん。一人で先に行かせて、悪かった」 
「ごめん、悪かったって……」
 みるみるうちに涙が満ちて、目の中にいる俺がぶ厚い水の膜に沈んで小さくなった。
「人生最後の数年、天元のおかげでどれだけ幸せだったか……。私との思い出に、しなくていい後悔とか、悲しみとかくっつけないでよ。一緒にいられて楽しかったって、それだけ思っててほしい」
 あの森の中で最後に会ったとき以来だ。笑顔ならいくらでも思い出せるこいつの怒った顔。
「……分かった。本当にそうだな。でも、あとひとつ謝らせて」
 乙羽が怪訝そうな顔で身構えた。謝るなと怒られたそばからこんなこと言ったら当然か。でも、どうしても伝えたいことがあった。
「生きている間に、一度も言葉にできなくて悪かった。初めて会ったときから、俺はお前が好きだったよ」 
 ありがとう、そう言って幸せそうに細めた目から涙が流れた。最後の謝罪は、無事受け取られたようだった。
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