おかとときの恋

 最後に会ったのは、俺が十三になる年の初夏だ。木々の間から射す日の光はすでに熱を含んでいて、土いきれがひどい朝だった。蝉が鳴きわめく森の奥。生い茂った濃緑の間に乙羽がぽつんと立っていた。空振りが何度かつづいたせいで、会えたのは久しぶりだった。はやる気持ちが、俺の足を大きく速く動かした。
「乙羽!」
「天元! 今日も暑いねえ」
 目を細めてくしゃくしゃになる顔。高く澄んだ声。大きく振られる手。俺を認めた瞬間にこいつが見せる何もかもが好きだ。でも、今日は何かおかしい。表面的にはいつもと同じなのに、どこかが違う気がした。
 かすかな違和感の正体を知りたくて、会えない間に溜めこんでいた話をし続ける乙羽を見つめた。
「どうしたの? 暑さに当てられた?」
「……いや。そんなんじゃねえけど」
 うかがうように見上げる目と視線を合わせられなくて、適当に返事をした。
 こいつはいつの間にこんなに大人の女みたいになったんだ?
 まっすぐで棒のように細かった手足や身体には曲線が生まれ、忍び装束の深く開いた襟元から丸くふくらんだ乳が主張している。大人と遜色ないほど身体が急成長した自分と同様に、乙羽だって大人に近づいている――そんな至極あたり前の事実に戸惑いを感じていた。

「そろそろ俺行かねえと。次はいつ会えっかな」
「あ、ちょっと待って。今日は、天元にお願いがあるの」
 あれやこれやと他愛ない話をしていた乙羽の声音が、真剣みを帯びたものに変わる。
「お願い? なんだよ」
「ひと月後の今日、ここでまた会おう」
 修行も任務も流動的で、昼夜問わずで変則的。そんなことは重々分かっている乙羽が会う約束を口にしたのは、この三年で初めてだった。
「いいけどよ。急にどうした?」
「えっと……、特に理由はないんだ。その日はいつもより時間長くしてさ、楽しいこといっぱいしよう。私、お弁当つくるから山の上で一緒に食べよう。それで、水切りして、散歩して、それから――」
「おい、なんかあっただろ。大丈夫か?」
 口から出るのは、俺たちが経験したことのない楽しげなものばかりだ。しかし、その言葉を発する乙羽の様子が正反対だった。唇を震わせ、今にも泣き出しそうな顔ですがるような声を出す。
「なんでもないってば」
「そんなド下手な嘘で俺を騙せるわけねえだろ。時間もねえんだから、単刀直入に言え」
 乙羽は下を向いて、ふうっと息を吐いた。
 ただならぬ雰囲気に嫌な予感がする。
「こうして会うのは、次で終わりにしよう」
「は? なんで」
「なんでって、終わりにしないと駄目だからだよ」
 薄茶色の目が懇願するように俺を見る。
 木漏れ日がところどころを照らす薄暗い森の中。その状況下でもいつも光っていた目に輝きがない。薄い膜を何枚を重ねたように、ぼやっと曇って見えた。 
「早晩、話があると思うけど……決まったのよ、天元のお嫁さん」
「嫁……」

 この里では十五になった男は皆、三人の妻を娶る風習がある。家の序列やら相性を考慮して里長が選び、両家に利点がある婚姻を結ばせるのだ。これは家の繁栄のためであり、ひいては里の繁栄のためになるからだ。
 そんなことは十分に理解していたつもりだった。人を人とも思わない無機質な親に育てられた自分が、妻を娶る日がそう遠くない未来に来ることも。俺の嫁として選ばれるのが、宇髄家と同等か少し下の階層から選ばれることも。
 しかし、いざその現実を鼻先に突きつけられるとどうだ。
 所帯を持ったあと、こんな逢引きを何年、何十年とつづけられるわけがない。せまい里の中で、乙羽に日陰者としての道なんぞ絶対に歩ませたくない。ならば、きれいさっぱり諦められるか? 互いに、違う相手と所帯を持って、子を生して。その現実をあたり前のものとして享受できるか?  

「もちろん、その三人の中に私は入れなかったのよ。家柄が全然違うからあたり前だよねえ」
 考えあぐねて黙っている俺を一瞥し、白い顔がうつむいた。そして、ずっと子どものままでいたかったな、という小さな声と、カサカサと乾いた笑いが聞こえた。
 こんな笑い方をする奴じゃないのに。俺まで一緒に笑っちまうくらい、ころころと笑う奴なのに。
 考えるまでもない。答えはひとつだ。

「ならば、その日はお前のやりたいこと全部叶えてやる。ありったけ言いな」
「……ありがとう。思い出して笑っちゃうくらい、楽しい思い出つくろうね」
 さっきまで確かに泣く寸前だったはずの顔が穏やかに笑った。目にいっぱい溜まっていた涙も、上ずって震えていた声も消え失せている。
 でも、これは俺が好きな笑顔じゃない。
 忍は自身の感情を自在に操るように訓練される。この笑顔はその賜物だ。
 本当の感情は隠したって消えてくれないことも、隠して積み重なった気持ちが人をどれだけ苦しめるかも痛いほど知っている。だからこそ、俺の前でだけはそんな思いをして欲しくなかった。
「でもな、俺はお前との時間を終わらせる気なんてさらさらねえから」
「え?」
 見事に作り上げていた笑顔が歪んだ。
「道が絶対あるはずだ。うるせえ大人どもには、跡継ぎを多く残したいから乙羽も迎えることにしたって説明してやる」
「……そんなの、無理に決まってる」
 眉根を寄せ、強く抗議をするかのような顔と声。
 穏やかで、無邪気で、朗らか。そんな乙羽が見せる初めての姿だった。
「無理じゃねえ!」
 身体をびくっとさせ、見開いた目で俺をじっと見る。
「三人には腹割って話して、四人全員が俺と一緒になって良かったって笑っていられるようにするから。だから、俺のことを勝手に思い出に変えようとすんな」
 俺がひと息に喋り終える頃には、乙羽の顔はぐしゃぐしゃになっていた。むごい訓練を終えた後や、悲しい生い立ちについて語るときですら泣かなかったのに、その目から涙が零れる。制御できない感情と、止められない涙に自分で戸惑っているようだった。

 頭を撫でながら強く抱き寄せると、俺の胸にしなだれかかり、のどの奥から絞りだすような泣き声を上げた。温かくて、驚くほど柔らかい身体。赤く染まった耳や嗚咽に震える肩も愛おしくて、どう考えたってこいつを失うなんて絶対に無理だと思った。 
 そして、はっきりと自覚した。俺は乙羽を好いている。
 人心のいろはを学ぶために読まされた指南書に色恋について書かれていたが、あんなもんは当てにならない文字の羅列。ただの紙屑同然だ。
 人を好きになるというのは、実際に体験してみればとんでもないことだった。心が、身体が、自分のものじゃなくなっていく感覚。そして、未知の喜怒哀楽が次々に顔を出し、思ってもみない強さで揺さぶられてしまう。理屈なんか通用しない。全てが思案の外だ。
 俺が人間らしさを失わずにいられたのは、乙羽が俺を丸ごと認め、好いてくれたおかげだ。
 こいつに出会えて、本当に良かった。
 

 しかし、約束の日、乙羽は現れなかった。どれだけ待っても、木々の合間や岩の陰からあの笑顔が現れることはなかった。
 それ以降、何度もこの場を訪れたが会えずじまいだった。夏が終わり、秋が来ても音沙汰はないまま。絶対に何かあったに違いない。強い胸騒ぎと焦燥感に襲われ、人目を忍んで里の外れにある乙羽の家に向かった。
 古い小さな家の格子窓から覗くと、がらんとした部屋の中でひとりの若い女が眠っている。面差しはよく似ているが乙羽ではない。きっと姉だろう。
 姉から視線を滑らせて部屋を見回し、ある一点に至ったとき、心臓がドクンと音を立てて跳ねた。
 嘘だ。嫌だ。何かの間違いに決まってる。
 部屋の隅に置かれた木の台の上に、白っぽい木彫りの仏像と茶碗に盛られた飯が供えられていた。
 俺は全てを悟った。 
 この里では人が命を落とすなんざ日常茶飯事。ろうそくの灯を吹き消すみたいに簡単に命が消える。そして、それが女であればさらに確率は上がる。だから、どこの家もいちいち葬式を出したりしないし、あそこの家の誰々が死んだなんて噂になることすらない。俺の兄弟が夭折したときも、取るに足らないこととして誰も気に留めなかった。
 死がそこら中に転がっている環境で育ってきたというのに、乙羽の命が消えるなんて露ほども考えていなかった。いつ、なぜ死んだのかを知ることすらできない。
 好きだった笑顔を守れなかった。
 願いを叶えられなかった。
 俺は、何もしてやれなかった。
 
 窓越しに仏像に向かって手を合わせ、何かに導かれるように家の裏手へと向かう。
 土を盛って作られた山の真ん中に、白くて四角い真新しい生木が差さっていた。名前も何も書かれていないが、墓標の代わりなのだろう。
 好きな女が――あいつが、この下にいる。
 土を掘り返して、抱きしめてやりたい衝動が身体中を駆けめぐるのに、指ひとつ動かない。全身の血が冷え、空と地面がゆっくり位置を交換するように視界が回る。温度も重量も失って、宙に浮いているのか、地中に沈んでいるのか、自分の身体の所在が分からない。
 湿った冷たさで意識が戻る。気づけば、折れた膝がじっとりとした湿り気を含んだ土にめり込んでいた。
  
 あの日、俺をこの世に繋ぎ止めてくれた張本人がこんなに早くこの世から消えるなんて、なんの冗談だよ。死んじまったら何もしてやれない。俺はこの手でお前を幸せにしたかった。戻ってこい。戻ってきてくれ……頼むから。
 跪いて手を合わせ、まるで乙羽が目の前にいるかのように、気持ちをぶつけ、思いの丈を語りつづけた。
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