おかとときの恋
乙羽は俺の手から零れた女だ。その手をしっかり掴んでいたかったのに、気づけば指の隙間から零れていた女。
忍時代も鬼殺隊時代も守りたかった命は山のようにあって、零した人間はこいつだけじゃない。そして、どの命に対しても後悔や弔意を感じなかったことは一度だってない。
必死に手を伸ばして、手繰り寄せて、救えるものなら救いたかった。もう少し早く来ていれば、もっと自分に力があれば、なんとかして気づいてやれていたら――そんな気持ちを心のど真ん中に杭として打ち込んで、大した才のない自分を鼓舞してずっと生きてきた。だが、乙羽に対してだけは後悔や弔意以外の気持ちも一緒にくっついている。これは誰にも話したことのない密か事だ。
乙羽と初めて話したあの日、十歳になるかならないかの俺は迫り来る死と闘っていた。時代に取り残され、忍という存在が過去の遺物となった焦りから、加速度的に苛烈さを増す訓練に明け暮れる毎日。なぶり殺しにするのが目的だと思えるほどの狂った訓練のあと、山に捨て置かれたときだった。
その日、うっそうとした森の至るところに潜んでいた大人たちが、俺に向けて一斉に攻撃を仕掛けてきた。毒が塗られていたのは、吹き矢か、含み針か、はたまた手裏剣か。避けきれなかった攻撃の物理的な痛みに加え、傷口から入った毒が容赦なく身体中の筋肉の自由を奪っていった。
単独任務が基本の忍は「何があろうと生きて帰ること」を任務の完遂としているから、危急の状態から里に戻れて及第点というわけだ。毒の耐性を高める狙いもあったのかもしれないが。
ぬかるみに横たえた身体が冷えていく。子どもながらにこのままだと確実に死ぬというのが直感的に分かった。虎視眈々と俺を押しつぶそうとする不安と闘っていると、目の前に白く丸い女の顔が現れた。
「……う……く、あ」
体内を巡る毒が瞬く間に舌や唇の自由を奪っていたが、ヒューヒューという荒い呼吸音の合間になんとか声を出した。今この瞬間に唯一縋れそうなこの女にまだ生きていることを伝えて、どうにかして生き長らえたかった。
これは、単に命を落とすのが怖かったんじゃない。宇髄家の長男である自分が訓練すらまともにこなせずに死んじまったあとの里の反応が怖かったし、一族の恥になるのが嫌だった。この頃の俺はあまりに幼くて、こんな常軌を逸した日々に疑問を感じることもできなかった。それどころか、人間らしさを失って無機質である周囲に順応できない自分が不出来で異質なんだ、という思いが体内に巣食っていた。とにかく必死だった。
「あ、生きてる」
俺のまぶたを指で開いてひっくり返し、口を開けて中を観察したかと思うと、これならまだ間に合うかなあ、と呟いた。どうにか助けて欲しくて声を出そうとするが、口がパクパク開くだけ。ついに、助けて、のたの字も出なくなった。
「大丈夫ですよ。ちょっと待ってくださいね」
穏やかににっこり笑った。その笑顔は作られたものではなくて、俺の不安を小さくする絶大な効果があった。死にかけの子どもを前にしても動じない上に、手慣れた様子で対処できるなんて、市井で普通に生きている子どもならあり得ないだろう。
女は上着の裏にあった印籠の中から、丸薬をいくつか取り出した。
「はい、口開けてください」
俺の顎を持って口を開けさせると、喉の奥に丸薬を押し込む。
「私ができるのはここまでです。あとは自分で頑張らないといけません」
苦しさで顔をしかめた俺に言い聞かせるように囁いた。
さっきよりも呼吸が満足にできないし、飲み下せない丸薬の異物感で喉奥が気持ち悪い。この辺り一帯は水気が全くなく、水の携帯も禁止されていた。流し込むこともできない。女の言うとおり自分自身でどうにかするしかなかった。
女はこの場を立ち去ることはなく、時おりこっちに視線を向けながら手際よく傷の手当をしはじめた。目を合うだけで心が落ちつくのは一体なぜだろう。理由は分からないが、おかげで少しだけ余裕が出てきた。
今しかない。これを逃したら俺は本当に終わる。
口の中に溜まった唾液が流れるよう、わずかでも動かせる場所があると信じて口内や喉を全力で動かした。どうにか喉が動いて、丸薬の異物感が消えた。女は何度か拍手をすると、満面の笑みで労うように俺の額を撫でた。
「よく頑張りましたね! きっともう大丈夫ですよ。宇髄様」
一気に惹きつけられた。包み込むような雰囲気で人間らしく笑い、救ってくれたその姿に。そして、俺に命があることに純粋に喜んでくれた。生まれて初めての経験だった。
「な……、は?」
「はい? ゆっくりで大丈夫ですよ」
「な……ま、え……」
「お、と、は。乙羽です」
もっと話したい。
少しでいいから笑顔が見たい。
命を救われたあの日から、そんな思いを抱くようになっていた。けれども里の中での乙羽の家の序列はあまりに低く、さらには男と女の忍は求められるものが違う。顔を合わせることすら難しかった。
あの場所に行けばまた会えるのではないか。そんな思いが互いにあったんだろう。訓練の合間を縫って何度も足を運び、ひと月ほど経った頃にやっと会うことができた。
猶予はほんの一刻だ。このまま長居をして、里の奴に知られでもしたらどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。危険を冒してまでも会いたいと思っていたくせに、いざ顔を合わせれば照れくさくてなかなか言葉にならなかった。
「同じこと考えてたみたいですね。会えて嬉しいです」
そう言って照れ笑いを浮かべた乙羽に心を解され、俺も、と笑い返した。
それから俺たちは短い逢瀬を重ね、限りある時間の中でよく語り、よく笑った。
乙羽が俺の一つ下で、三つ上の姉と二人暮らしであることからはじまり、自身のことを素直に語り合った。口から出るのがクソみたいな身の上話であっても、それらを打ち明け合う互いを柔らかい布で包 むような時間だったと思う。
不思議だった。二度目に会ったとき、宇髄様と呼ぶのも敬語を使うのも止めてほしいと伝えるほど心を許せていた。余計な装飾を全部とっぱらって『宇髄天元』という人間として見てほしかったし、乙羽の前でだけはそうありたかった。
初めて俺の下の名を呼んだときの「ええ……えっと、じゃあ……天元?」と小首をかしげた赤い顔がどうしようもなく可愛くて、身体の内側が一瞬で熱くなった。
会えないまま季節が移り変わることもあったが、乙羽を思うと疲弊した心も傷ついた心も明かりが灯ったようにぬくもりを感じた。俗世間から離れて育って、ただのガキだった俺はこの気持ちがなんであるかを知らなかった。色恋なんて、人心掌握の手段でしかないと思っていたことも理由だろう。
顔を合わせるとなぜ胸が高鳴るのか。
どうして会いたいと思うのか。
眠りに落ちる前のほんの一瞬、まぶたの裏に浮かぶ姿で心が癒されるのはなぜなのか。
これが恋い慕う気持ちだと理解できたのは、最後に会った日だった。
忍時代も鬼殺隊時代も守りたかった命は山のようにあって、零した人間はこいつだけじゃない。そして、どの命に対しても後悔や弔意を感じなかったことは一度だってない。
必死に手を伸ばして、手繰り寄せて、救えるものなら救いたかった。もう少し早く来ていれば、もっと自分に力があれば、なんとかして気づいてやれていたら――そんな気持ちを心のど真ん中に杭として打ち込んで、大した才のない自分を鼓舞してずっと生きてきた。だが、乙羽に対してだけは後悔や弔意以外の気持ちも一緒にくっついている。これは誰にも話したことのない密か事だ。
乙羽と初めて話したあの日、十歳になるかならないかの俺は迫り来る死と闘っていた。時代に取り残され、忍という存在が過去の遺物となった焦りから、加速度的に苛烈さを増す訓練に明け暮れる毎日。なぶり殺しにするのが目的だと思えるほどの狂った訓練のあと、山に捨て置かれたときだった。
その日、うっそうとした森の至るところに潜んでいた大人たちが、俺に向けて一斉に攻撃を仕掛けてきた。毒が塗られていたのは、吹き矢か、含み針か、はたまた手裏剣か。避けきれなかった攻撃の物理的な痛みに加え、傷口から入った毒が容赦なく身体中の筋肉の自由を奪っていった。
単独任務が基本の忍は「何があろうと生きて帰ること」を任務の完遂としているから、危急の状態から里に戻れて及第点というわけだ。毒の耐性を高める狙いもあったのかもしれないが。
ぬかるみに横たえた身体が冷えていく。子どもながらにこのままだと確実に死ぬというのが直感的に分かった。虎視眈々と俺を押しつぶそうとする不安と闘っていると、目の前に白く丸い女の顔が現れた。
「……う……く、あ」
体内を巡る毒が瞬く間に舌や唇の自由を奪っていたが、ヒューヒューという荒い呼吸音の合間になんとか声を出した。今この瞬間に唯一縋れそうなこの女にまだ生きていることを伝えて、どうにかして生き長らえたかった。
これは、単に命を落とすのが怖かったんじゃない。宇髄家の長男である自分が訓練すらまともにこなせずに死んじまったあとの里の反応が怖かったし、一族の恥になるのが嫌だった。この頃の俺はあまりに幼くて、こんな常軌を逸した日々に疑問を感じることもできなかった。それどころか、人間らしさを失って無機質である周囲に順応できない自分が不出来で異質なんだ、という思いが体内に巣食っていた。とにかく必死だった。
「あ、生きてる」
俺のまぶたを指で開いてひっくり返し、口を開けて中を観察したかと思うと、これならまだ間に合うかなあ、と呟いた。どうにか助けて欲しくて声を出そうとするが、口がパクパク開くだけ。ついに、助けて、のたの字も出なくなった。
「大丈夫ですよ。ちょっと待ってくださいね」
穏やかににっこり笑った。その笑顔は作られたものではなくて、俺の不安を小さくする絶大な効果があった。死にかけの子どもを前にしても動じない上に、手慣れた様子で対処できるなんて、市井で普通に生きている子どもならあり得ないだろう。
女は上着の裏にあった印籠の中から、丸薬をいくつか取り出した。
「はい、口開けてください」
俺の顎を持って口を開けさせると、喉の奥に丸薬を押し込む。
「私ができるのはここまでです。あとは自分で頑張らないといけません」
苦しさで顔をしかめた俺に言い聞かせるように囁いた。
さっきよりも呼吸が満足にできないし、飲み下せない丸薬の異物感で喉奥が気持ち悪い。この辺り一帯は水気が全くなく、水の携帯も禁止されていた。流し込むこともできない。女の言うとおり自分自身でどうにかするしかなかった。
女はこの場を立ち去ることはなく、時おりこっちに視線を向けながら手際よく傷の手当をしはじめた。目を合うだけで心が落ちつくのは一体なぜだろう。理由は分からないが、おかげで少しだけ余裕が出てきた。
今しかない。これを逃したら俺は本当に終わる。
口の中に溜まった唾液が流れるよう、わずかでも動かせる場所があると信じて口内や喉を全力で動かした。どうにか喉が動いて、丸薬の異物感が消えた。女は何度か拍手をすると、満面の笑みで労うように俺の額を撫でた。
「よく頑張りましたね! きっともう大丈夫ですよ。宇髄様」
一気に惹きつけられた。包み込むような雰囲気で人間らしく笑い、救ってくれたその姿に。そして、俺に命があることに純粋に喜んでくれた。生まれて初めての経験だった。
「な……、は?」
「はい? ゆっくりで大丈夫ですよ」
「な……ま、え……」
「お、と、は。乙羽です」
もっと話したい。
少しでいいから笑顔が見たい。
命を救われたあの日から、そんな思いを抱くようになっていた。けれども里の中での乙羽の家の序列はあまりに低く、さらには男と女の忍は求められるものが違う。顔を合わせることすら難しかった。
あの場所に行けばまた会えるのではないか。そんな思いが互いにあったんだろう。訓練の合間を縫って何度も足を運び、ひと月ほど経った頃にやっと会うことができた。
猶予はほんの一刻だ。このまま長居をして、里の奴に知られでもしたらどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。危険を冒してまでも会いたいと思っていたくせに、いざ顔を合わせれば照れくさくてなかなか言葉にならなかった。
「同じこと考えてたみたいですね。会えて嬉しいです」
そう言って照れ笑いを浮かべた乙羽に心を解され、俺も、と笑い返した。
それから俺たちは短い逢瀬を重ね、限りある時間の中でよく語り、よく笑った。
乙羽が俺の一つ下で、三つ上の姉と二人暮らしであることからはじまり、自身のことを素直に語り合った。口から出るのがクソみたいな身の上話であっても、それらを打ち明け合う互いを柔らかい布で
不思議だった。二度目に会ったとき、宇髄様と呼ぶのも敬語を使うのも止めてほしいと伝えるほど心を許せていた。余計な装飾を全部とっぱらって『宇髄天元』という人間として見てほしかったし、乙羽の前でだけはそうありたかった。
初めて俺の下の名を呼んだときの「ええ……えっと、じゃあ……天元?」と小首をかしげた赤い顔がどうしようもなく可愛くて、身体の内側が一瞬で熱くなった。
会えないまま季節が移り変わることもあったが、乙羽を思うと疲弊した心も傷ついた心も明かりが灯ったようにぬくもりを感じた。俗世間から離れて育って、ただのガキだった俺はこの気持ちがなんであるかを知らなかった。色恋なんて、人心掌握の手段でしかないと思っていたことも理由だろう。
顔を合わせるとなぜ胸が高鳴るのか。
どうして会いたいと思うのか。
眠りに落ちる前のほんの一瞬、まぶたの裏に浮かぶ姿で心が癒されるのはなぜなのか。
これが恋い慕う気持ちだと理解できたのは、最後に会った日だった。