おかとときの恋

「どう? こっちの世界は」
 乙羽は握った俺の手を前後にぶんぶんと振って上機嫌だ。俺たちがいるのが浅草や銀座だったなら、はしゃぐ孫に手を引かれて活動写真やらに連れて行く爺にしか見えないだろう。
「だだっ広いだけでなんにもねえけど存外悪くねえな。この川、あれだろ? 三途の川ってやつ」
「そう、そのとおり! 三途の川だよ。現世とあの世を隔てる境目なんだって。ねえ、気に入った? 気に入ったなら……ずっとここにいる?」
「そういうわけにもいかねえだろ。でもまあ、ちょっとゆっくりしていくかね」
「ふうん」
 声も足取りも飛び跳ねるように軽やかで、ひとつに束ねた黒髪が揺れるたびに艶々と光る。どっからどう見ても、生者だ。

「ねえ、水切りしようよ。昔、約束したじゃない」
 行けども行けどもつづく長い川。その川っぺりを歩く足をぴたりと止めて、ねだるような声を出す。
「水切りぃ? 見てみろ、こっちはよぼよぼの爺だぞ。んなもん一人でやれ」
 嫌だ。水切りなんぞしたくない。
 身体は思うように動かないし、弛んだ肌の上にはたくさんの染みや皺が散らばっている。俺ばっかり年を食ったこんな姿で、当時のままの姿の乙羽と一緒に楽しめるものか。
「爺さんになった天元もいいと思うけど。でも、嫌なら仕方ないか」
 何やらぶつぶつ言うと、川に向かって俺の手を引っ張りはじめた。さっきの老爺もそうだったがやけに力が強い。いくら俺が爺だからって体格差は歴然だ。こっちの世界のあらゆる原理がよく分からない。
「おい、乙羽」
 手を引っ張ることに夢中になっているのか、答えは返ってこない。激しく流れる川があっと言う間に目の前に迫り、足先が川に浸かりそうなところまで来てしまった。
「なあ、おい。危ねえだろって」
 とにかく行く手を塞ごうと繋いでない方の腕を伸ばすと、その腕からは染みや皺がきれいさっぱり消え失せていた。それどころか節くれ立った大人の腕でもない。白くて張りがあり、きれいな肌をした少年の腕そのものだった。
 驚き、黙った俺を見て、乙羽はふき出した。
「びっくりした?」
「信じらんねえ……。なんでもありかよ」
「なんでもできるわけじゃないけどね。死ぬのも悪くないでしょ」
 アハハ、と笑う声を聞きながら、自分の身なりを確認する。五指の第一関節までが覆われた濃紺の手甲と、顎のすぐ下には臙脂色の首巻。どうやら、故郷の里にいた頃の姿に戻っているらしかった。
「爺の次はガキか。頭おかしくなりそうだわ」
「ふふっ。ね、水切りしよ。お爺さんじゃないんだし、できるでしょ」
「仕方ねえ。やってやる」
 さっきよりも背丈の差が縮んだ乙羽と並び、適当に手にした石をそれぞれ川に投げた。乙羽は八回、俺は五回。その回数の分だけ、川面をパシャッと音を立てて跳ねて石は消えていった。
 負けたことが悔しくて、今度は入念に石を選んで丸く平べったい石を探し出した。しかし、今度は乙羽が十三回、俺が八回。初戦よりも差が開いてしまった。
「お前、俺のこと待ってたって言ったけどよ」
「うん」
 河原にしゃがみこみ、次戦に使う石を吟味している俺をすっかり余裕の表情で見ている。
「これの練習して待ってたんじゃねえだろうな」
「そんなわけないでしょ」
 おかしそうにクスクス笑い、灰色の平べったい石を握っている手を口に当てた。
 そして、手中にある石を頭上に放って握りなおし、素早く助走をして左足を踏みこむと、手を大きく振って投げた。
 きれいなもんだ、と思った。子供と大人の境界線にある身体が柔らかくしなり、長い黒髪がその動きに合わせて舞う。小さな手から離れた石は水面と並行して水の上を跳ね、川の中ほどに向かって進んでいく。一、二、三、と石が水面に当たるのに合わせ、水しぶきが規則的に上がった。
 負け戦のこっちとしては幸か不幸か、十五回より先は激しい川の流れのせいで測定できずに終わった。

「お前の圧勝だな」
「やったあ」
 両手を挙げて無邪気に喜ぶので、つられて笑ってしまった。だが、懐かしさの裏側にある感情が心の中に広がると、途端に息が苦しくなった。そんな心の機微など思いもよらないのだろう。砂利の上に座る俺の真横に走り寄り、さっさと腰を下ろす。そして、ぎこちなく肩に頭を乗せてきた。
「……やだあ、これ恥ずかしいね」
「自分でやったんじゃねえか」
 そっけない言葉が口をついて出た。無粋極まりない。
 こんな子供みたいな微かな触れ合いなのに、仕掛けてきた張本人の照れがこっちまで伝染したようにこそばゆくて、上手く返してやれなかった。
 そうだね、でもこうしたかったの、と呟く小さい声が健気で、身体の前や砂利の上で所在なげにしていた手を握った。こいつはきっとそれを望んでいるんだろうと思ったし、俺が触れたかったからだ。
 しばらく握られているだけだったその手で俺の手をしっかりと握り返すと、約束を叶えてくれてありがとう、と言った。身体の奥からきりきりとした疼痛が胸に走る。死んでたって胸は痛くなるもんなんだな、なんて思いながら、相変わらず大きな音を立てて流れる川を眺めた。

「水切り楽しかったね」
 二の腕につけた腕輪あたりからひょこっと顔を覗かせ、丸い目で俺を見つめている。
「まあな。勝ち逃げは絶対許さねえぞ」
「じゃあ約束。また勝負しよう」
 さっきまで丸かった目が三日月のように弧を描く。
 ああ、この笑顔だ。
 この笑顔が好きだった。
 この笑顔が救いだった。
 俺はまた爺の姿に変化させられながら思い出していた。明けても暮れても厳しい訓練を受けていた子ども時代、この笑顔の在りし日を。
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