おかとときの恋

「ここは、どこだ」
 気づいたら、真っ暗な山道を一人で歩いていた。
 草木は枯れ落ち、岩肌がむき出しになった光景はあまりに荒涼としていて、自ら捨てた故郷の山を思い出させた。歩けども歩けども先は見えず、薄っぺらい草履を履いただけの足では心許ない。数々の修羅場を経験してきた身ではあるが、途方もない心細さに襲われていた。

 ――天元さま……。
「雛鶴!」
 どこからともなく、俺の名を呼ぶ声。左前方から呼ばれた気がして走り寄るが、姿はない。朽ちる寸前の木の枝が一本、弱々しく揺れているばかり。
「おい、どこだっ、大丈夫か? 雛鶴!」
 ――天元さま、お戻りください!
「まきを!」
 今度は、右斜め上から威勢のいい声。急いで顔を上げるが、消し炭色の曇天が重々しく広がっているだけ。
「姿を見せろよ、まきを! 無事なのか」
 ――うっ、うっ……、嫌ですよお、天元さまぁ。
「須磨ッ!」
 泣きじゃくる声が、広い空全体から俺を目がけて落ちてきた。

「なあ! お前たち、どこにいるんだよ。頼む。姿を見せてくれ」
 何が起こっているのか皆目見当がつかない。
 呼ばれるたびに声がする方に向かうが、たどり着いたその場所に三人の姿はない。四方八方から自分を呼ぶ声に翻弄され、焦燥感に心が焼き切れそうだ。
 一体何があった。ここはどこだ。
 あいつらにもしものことがあったら、という恐怖が身体の隅々まで広がっていく。
 ――わああ……、天元さまあ。
 泣きくずれ、誰のものとも判別できなくなった声が前方の暗闇から飛び出してきた。でこぼことした岩だらけの山道を駆けのぼり、ぐねぐね曲がったけもの道を走って、走って、走った。
「おいっ! お前ェらどこにいるんだ! 本当にどうしたんだよ……」
 足の裏は痛いし、息が上がって仕方ない。忍から鬼殺隊になった俺にとっては山道を走るなんて造作もないことなのに、身体が鉛のように重い。上がって当然のところまで足は上がらないし、障害物を避けるとよろめいてしまう。
 違和感を感じて足元に目をやると、割れた着流しの裾から見える膝や脛に細かな皺がたくさん寄り、ぶよぶよした血管が盛り上がっていた。
 は? なんだこれは。これは、まるで――老人の脚だ。
 慌てて両手を見れば、手の甲には輪郭のぼやけた茶色い染みがいくつもあり、薄く柔らかな皮膚はくしゃくしゃに丸めた紙を広げたような皺が寄っていた。確かめるまでもなかったが、すっかり老人そのものになった手でさすった顔も、水分が足りない弛んだ皮膚で覆われている。
 ふざけんな。なんだよ、これ。どこもかしこも爺じゃねえか。
 血鬼術なのか悪い夢なのか。血鬼術だとしても、鬼がここまで完全に気配を消せるとは考えにくいし、夢にしたって地味で薄気味悪い。自分の置かれた状況は把握できていないが、そこにどんな理由があっても嫁たちの声を無視する選択肢はない。老いて自由が利かなくなった身体を引きずるようにして、必死に走りつづけた。

 
 どれくらい走っただろうか。
 真っ暗な山道をひたすら登りつづけ、峠を越えてもなお道は険しい。いつまで経っても太陽が昇らない上に、聞こえるのは自分の足音と物悲しい風の音に交じる姿なき嫁の泣き声だけ。どうしたって気が滅入って、一刻も早くここから離れたかった。
 ――天元……。
 女の声だ。
 嫁じゃない。あいつらは俺を呼び捨てにはしないし、声の調子からしてもっと若い。
 強烈な懐かしさを感じるこの声は誰だったか。声の記憶を引っ張り出そうとしても、自ら意思を持ったかのように脳の奥へと潜りこんでしまう。
 クソが。頭の中まで爺になってんじゃねえかよ。
 声がした方に急いで近づいていくと、真っ暗な山道が唐突に終わり、地上と高低差が無くなった一帯は目が眩むほどの明るさに満ちていた。
「ったく、本当になんなんだよ。うっとうしい」
 強烈な明るさに目が慣れるまで、何度も目をしばたたかせながら舌打ちをした。
 視界が開けると、目の前は一面花だらけ。言うなれば花の洪水だ。赤に黄色に白に紫。そんじょそこらに咲いている花から希少な花まで、子ども時代に古今東西の植物について膨大な知識を叩きこまれた俺でも知らない花ばかり。そして、咲き狂う花から漂う香りは暴力的なほど芳しかった。
 足が包み込まれるほど柔らかな土を踏み、見渡す限りの花畑を進んでいく。真っ青に晴れた空はひたすらに明るく、険しい山道とは比べ物にならないほど居心地がいい。それなのに妙な胸騒ぎがしていた。
「おーーーーーい、雛鶴、まきを、須磨! いるんだろォ?」
 ――おーーーーーい。雛鶴、まきを、須磨! いるんだろォ。
 声の限りに叫んだが、こだまとなって虚しく響いて消えてしまう。皺だらけの手で自分の両頬を思い切り叩いても、バチンという破裂音がして終わり。覚めないし、解けないし、戻らない。まさに八方塞がりだ。不本意ではあるが今の自分にできるのはこれだけだと諦めて、行き道も帰り道も分からないまま花と草を分け入って歩を進めた。

 
 突如として花畑が終わり、巨大な川と河原がいきなり目の前に現れた。その川は気が遠くなるほど幅が広く、向こう岸は遥か遠い。そして、大量の水が轟々と流れていた。
「今度は川かよ……。なんなんだ、もういいよ。しつっけえな。どうせこの川を越えたって今度は槍でも降ってくるんじゃねえの」
 心の底からうんざりして、大小さまざまな石がごろごろ転がる河川敷に腰を下ろした。
 水位も流速も、ひどい豪雨のあとのような川を見ながら思考を巡らせる。今、自分が置かれている状況。これは十中八九、鬼血術ではないだろう。爺の姿に変えられたことで耄碌もうろくして察知能力が落ちた可能性を差し引いても、相変わらず鬼の気配が全くしない。
 しかし、把握できた状況で自信があるのはここまで。一体何がどうしてこうなったのか、という肝心なところがどうしても分からなかった。

 あれ、あんな橋あったか?
 少し離れたところにある橋が目に入った。目に入ったというよりも、出現したという方が相応しい。赤い欄干が目を引く、どうやって作ったのか疑問に思うほど長い太鼓橋だ。こんなにでかい橋を見逃すはずもなし、明らかにおかしい。しかし、得体の知れない奇妙な現象の連続に食傷していたので、もはや驚く気にもなれなかった。
 大きな石をまたぎ、小石を蹴飛ばしながら歩いて、橋の目の前に立つ。
 こんなにド派手な橋は初めて見た。六尺五寸の俺が見上げるほどでかく、欄干は塗りたてのように生々しい朱色をしていて、馬鹿みたいに太い柱には同じく朱塗りの擬宝珠ぎぼしがついている。言いようもない気味の悪さを感じて、全身の毛が逆立った。いつだって俺は何より自分の直感を信じていて、こんなときは退避一択だ。だが、本能的にまずいとは分かっていても現状を打破するには橋を渡るしかない。前よりも途切れ途切れで頻度が激減しているものの、未だに女の泣き声が聞こえる。嫁が向こう岸で助けを求めているかもしれない。橋に足を掛けると、ギシッと木が軋む音がした。
 
「お前にこの橋を渡る権利はない」
「おっと」
 一瞬のつむじ風の後、足元からしわがれた声が聞こえた。
 飛び退くと、俺の腰あたりほどしかない小さな老爺と老婆が立ちはだかっていた。さっきまでは絶対にいなかったはずなのに、なんの前兆もなく現れた。
 檜皮色の着物を着た老爺と、黄土色の着物を着た老婆。鬼じゃないのは確定だが生気が感じられない。ただ、こんな得体の知れない奴らでも、久しぶりに人の形をしたものと出会えたことがほんの少しだけ嬉しかった。
「権利はないって何様だよ。渡らせろ。嫁たちが待ってんだから」
 二人を避けて通り過ぎようとすると、老爺が自分の杖の持ち手を俺の着流しの帯に引っ掛けた。
「何すんだよっ!」
 まじかよ……。信じられねえ。
 いかにも非力そうな老爺の持つ小枝のように細い杖は、身体を強く揺すっても、手で掴んで引き離そうとしても帯から外れない。
「素行の悪い奴じゃ」
「ほんにそうじゃ。この期に及んでもなお罪を重ねそうだわ」
 この期に及んでも? 老婆の一言が気にかかった。
「この期に及んでもってどういう意味だ」
 さっきまで皺だらけの口でペチャクチャと人の悪口を言っていたくせに、問うた途端に揃ってだんまりを決めこんだ。
「なんで急に黙るんだよ。答えろっつうの」
「やかましい」
「ほんにやかましいのぉ。お前が渡るのはあっちじゃ」
 枯れ木のような指で老爺が指さしたのは、茶色く濁った水がひときわ激しく流れる箇所だった。穏やかな流れならまだしも、あんな激流では泳いでも歩いても渡れそうにない。
「あんなとこ渡れるか。せめてこっちだろ」
 ここから少し離れた、水面が穏やかな場所に向けて顎をしゃくった。対岸近辺には豆粒ほどの大きさの人間の姿があり、今まさに渡り終えようとしている。あの程度であればどうにか渡れそうだ。
「だめじゃ」
「は?」
「甚だ図々しい。お前はあっちだと言ったろう」
 今度は老婆がさっきの激流を指さした。どうしても俺にあの場所を渡らせたいらしい。小さくて枯れ木のように細っこいが、異様な圧があった。
「あのなあ。いいか? あんなとこ渡ったらいくら俺でも死んじまうよ。そしたら、お前さんたちも夢見が悪いだろうよ。な?」
「この男は存外察しが悪い」
「ほんにそうじゃ。でかい図体で偉そうにしているだけに間抜けじゃ」
 人がせっかく愛想笑いをして下手に出たというのに、二人は顔を見合わせてため息をついた。
「はあっ?」
「お前が死ぬわけなかろう」
「そうじゃ。お前は、もう死なぬ」
 凶事の予感が全身を貫く。
「おい。今、なんつった」
 またも俺の問いは捨て置かれ、老爺と老婆がゆがめるように笑う口元から黄色い歯が覗く。そして、何がそんなにおかしいのかふがふがと声を出して嗤いはじめた。つくづく気味が悪い奴らだ。
 強い胸騒ぎで老爺の襟元をひねり上げると、俺の皺だらけの手首の上に、風に吹かれた花弁が舞い落ちるように白い手が乗った。
「止しなよ」
 年の頃は十二、三。真っ黒な髪に、抜けるように白い肌をした女が、呆然としたまま身じろぎもしない俺を見て笑う。
「……嘘、だろ」
「あら、喜んでくれないの? 嘘でもまことでもどっちでもいいじゃない」
「こんなの絶対ありえねえ」
「さすがの天元もそんな驚いた顔するのね。爺婆ならもういないよ」
 気づけば橋の上には女と俺だけになっていて、老爺の襟元を掴んでいたはずの手は虚空を握っていた。

 そういうことか。胸騒ぎの理由がやっと分かった。
 なぜ姿なき嫁たちが泣きつづけるのか。なぜ血鬼術とも夢ともつかない不可思議な現象が頻発したのか。普通に考えたって分からないはずだ。しかし、これが理由ならば全ての点と点がつながってきれいな一本線になる。
「なあ、信じらんねえけど、そういうことなんだろ」
「そういうことってなあに?」
 わざと勿体つけるようにして、悪戯っぽく俺の目をじっと見る。
「あの時のまんまの姿でお前がいるってことは、俺は……」
「爺婆はああ言ったけど、やっぱり察しがいいね」
「死んだんだな」
「そう! 待ってたよお、天元」
 女は――乙羽は、花が一気に綻ぶように笑った。
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