ワンメーター・ラブストーリー

 梅雨明け前だというのに、夏のように暑い日だ。日が落ちかけてはいるもののまだまだ暑そうな窓の外を横目に、冷房のきいた館内で忙しなく働く。
 純文学、ファッション雑誌、名作漫画、図鑑――。生徒から返却された多種多様の本をワゴンに積んで、決められた場所に戻す。この作業だけでも、一日のうちの結構な時間を割いていた。
 なぜなら、ここ中高一貫校のキメツ学園の図書館は、敷地面積も蔵書数も学校施設のレベルを超えているからだ。これは理事長である産屋敷夫妻の持つネットワークの幅広さと教育熱心で生徒思いな気持ちの表れだろう。
 母校であるこの学園で学校司書として働いて、もうすぐ三ヶ月が経とうとしていた。

 古い専門書のコーナーを通りかかると、ななめに倒れている本が目に入った。この空白にあったのが何の本だったか思い出しながら並べなおす。  
 ここには図録と国内外の風景を集めた写真集が一冊ずつあったはず。どちらの本もサイズが大きいし、とても重い。その場で読んで返されるタイプの、図書館の外を知らない本たちだ。
 だから、貸出申請は今までなかったし、もしも誰かが借りたとしたら絶対に印象に残る。カウンター内のパソコンで確認したが、やっぱりさっきの本の貸出履歴はない。産屋敷家の財力とネットワークを駆使して集めた蔵書には貴重なものが数多くあり、無くなったらまた購入すればいいや、という訳にいかないのだ。
 ああ、またか、と思った。
 こんなことをするのは一人しかいない。カウンターの中で三十分ほどうだうだ悩んだが、意を決して犯人の元へと向かった。


 犯人のアジトは、図書館を出てすぐ隣の棟の三階。ちなみに、これで三回目の犯行。
 化学室、家庭科室、そんな教室が集まるこの棟は、生徒たちの教室とは別棟にあった。タン、タン、と自分の足音だけがひびく階段を昇り、三階に着いた。 
 アジトのドアの前に立ち、ふう、と息を吐く。余計なことは考えない。私は本を取り返しにきただけ。ドアの取っ手に手をかけてガラッと開けると、強い西日に照らされた逆光の中に大きなシルエットがあった。

「よォ、元気か」
 シルエットが、楽しげな声を発した。
「本を勝手に持ち出さないでくださいって言いましたよね」
「分かった、分かった。悪ィな」
 逆光に目が慣れて、その姿が鮮明になっていく。
 強い西日の原因は、遮るものが一切ないからだ。窓も壁も天井の一部も吹き飛び、部屋の中ほどまで大小の破片が散らばっていて、まるで事件でもあったかのような光景。何も知らない人が見たら、学校の美術室で爆破事件が起こったと勘違いして警察を呼んでしまうかもしれない。
 その部屋の窓ぎわで、まるで後光が差しているみたいに光る犯人が笑っていた。
「もう三回目です。宇髄先生」 
「まじか。気をつけるわ」 
 オレンジがかった光の中、全然悪いなんて思っていない様子で、口を横に広げるようにしてニッと笑う。この顔を見ていると今にもボロが出そうで、壁ぎわの小さな黒板の下に立てかけてある二冊の本を手に取ると、さっさとドアに向かった。
「ゆっくりしていけよ。美味いコーヒー入れてやろうか。それか、一緒に絵でも描くか? 前みたいに」
「もう戻らないと」
「あっそォ。じゃ、またな」
 ドアを後ろ手に閉めて廊下に出ると、本を取り返しにきただけとは思えないほど全身の疲労感がすごい。そして確信した。あの人は変わっていないし、絶対にからかわれている、と。



 人はあまりに驚くと、死に瀕していなくても走馬灯が見られることを知ったのは、この学園の司書になって一ヶ月が経ったときだった。
 時間割でいえば、五限目の時間帯。カウンター内で仕事をしていると、ガラガラッとドアが開く音と、それにつづいてペッタペッタという室内履きの足音が聞こえてきた。
 こんな時間に誰か来るなんてめずらしいな、と思いながらも仕事に意識を戻した。生徒と教師からのニーズ、そして学園の教育方針にも気を配りながら、次回はどの本を発注して、どのように配置して、どう周知していくかが目下の悩みどころだった。
 集中したいのに、館内に響くペッタペッタがどうにも気になってしまう。音がする方を見ると、書架の前に白い小山のような物体が見えた。その物体はとても大きい人間の後ろ姿で、一番下の段を物色しているようだった。
 異様に大きいし、フードなんかかぶってるし、こんな時間に図書館に来るって不審者なのでは……という疑惑が一気に沸き上がる。
 作業の手を止め、物音を立てないように気をつけつつカウンター後方に移動。そして、恐る恐る観察する。得体の知れない人物は、本を手に取っては戻すという動作を何度かくり返していたが、お目当てが見つかったらしく何冊かを持って立ち上がった。
 ペッタペッタ、ペッタペッタ。
 不審者の姿がどんどん大きくなるにつれ、フードの中からガラスのようなものがキラリと光る。
 うっわ、やばい、こっちに来る。不審者対応マニュアルをもっとちゃんと読んでおくべきだった――。
  
「よォ、ひさしぶりだな」
 指の先まで緊張を行き渡らせてかたまる私を見て、ペッタペッタの発信源がにやっと笑う。
「え、うそ。な、んで」
「何でって。俺、ここのセンセーだもん」
「えっ、せんせえ?」
「そう。美術の宇髄センセー」 
 この人が、ここにいるなんて聞いてない。
 情報を処理しきれない脳内に、この学園に就職が決まったことを友だちに報告した日の思い出が、走馬灯のように駆け巡りはじめた。
 ――あの日、お祝いの言葉をひとしきり伝えてもらったあと、そのうちの一人が「そういえば、他にも卒業生が教員として働いてるんだってね」と言った。
 一瞬心臓がドキっとするが、すぐに思い直す。キメツ学園の卒業生は山のようにいるし、あの人は教員なんぞ目指すタイプではない。今頃キラキラとした世界でワハハと大声で笑いながら人生を謳歌しているはずだ。そう、ドバイとかバリ島とか。だから、ありえない。
「へえ、それって私の知っている人?」
 絶対にないと思ったが、質問せずにはいられなかった。
「絶対知ってるよ。ほら、いたじゃん。あのめちゃくちゃモテてたさあ」
 雲行きが怪しくなってきた。友人のパンケーキの上で、ホイップクリームがじわじわ溶けて流れていく。
「私の知ってる人でモテる人? 気になるなあ」
 アイスティーのストローをくわえた友人が、平静を装った質問を投下した私をじっと見ている。さあ、答えがくるぞ。身構えろ。きっと大丈夫。絶対に違うから。 
「あの人だよ。ほら、あの超美人の、胡蝶さん。胡蝶カナエさん!」
 この答えを聞いて「なんだ! カナエさんねえ!」なんてやけに大声を出して安心したというのに。カナエさんの姿は早々に見かけていて、相変わらず惚れ惚れするほど美しかったけれど、まさか宇髄さんまで教師になっているなんて。
   
 五限目が終わるチャイムの音で、臨場感満点の走馬灯から一気に現実に引き戻された。
「やべっ。行かねえと。これ借りてくわ」
「ちょっと、ちょっと待ってください! 貸出の手続きを!」
 カウンターの後方から小走りで追いかけようとするが、ペッタペッタの音が異常な速さで遠ざかっていく。相変わらず、笑っちゃうくらい足が速い。間の悪いことに自分しかいない時間帯で、図書館から出るわけにもいかなくて、追跡は諦めた。
 変わってない。この人は本当に変わってない。過去のことは宇髄さんにとっては蚊にさされたくらいの些末なことで、心の中でしこりになっていたのは自分だけだと悟った。
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