君のとなり
明日から十月。つい数日前まで残っていた夏の気配もずいぶん遠のいた。これで夢を叶えられる期限は高校卒業までの残り五か月だ。五か月を過ぎれば、この先どれだけお金を積んだって、どんなに努力したって絶対に実現できなくなってしまう。
私の夢。それは壮大なものではなく、とてもささやかな夢。けれども、一人では叶えられない。絶対に。勝率は二割あるかないか問ったところ。相当きびしい。
昼休みもあと三分となり、人があまり来ない廊下の端っこで意を決して口をひらいた。
「ね、お願い」
「またその話か。んな、こっぱずかしいことできるわけねえだろォ」
「一回だけでいいから。お願い。思い出にしたいの」
「しつけェ」
取りつく島もない。
必要不可欠かつ唯一のキーパーソンはぷいっと顔をそむけると、ふり返ることなく歩いていってしまった。
このやり取りだけを切り取れば、いかがわしいお願いをしているようだがまったく違う。彼氏である実弥に「手つなぎ登校がしたい」とお願いしているだけなのだから。
しかし、断られるのは今日で三回目。
友だちからは「彼氏、怖くない?」と聞かれるのは日常茶飯事だけど、この容赦ない反応が大好きだったりする。容赦がないというのは、うそがないということ。実弥から出てくるものは、言葉でも態度でも裏表のない本物。誤解を受けやすく、見ていてハラハラすることがあっても、そんなところが大好きなのだ。
ひとり残された廊下に立ち、脳内で思い描く。
――空気も太陽の光もさわやかな朝。わいわいがやがやと生徒たちが登校する通学路。
そこに、あの不死川実弥が彼女と手をつないで登校する姿があったならどうなるかな。きっとみんな二度見では足りなくて三度見はするだろう。もちろん真正面から直視をする強者はいないと思うけど。大注目されるのは確実で、硬派な実弥にはとてもハードルが高いのは分かるのだ。
でもね。
一緒にあれがしたいこれがしたいと願いを持つのは自分ばかりで、この人は私のことが好きなのだろうかと不安になる日もある。
付き合えたこと自体が奇跡、しかもその奇跡が三か月もつづいているのだから、それだけだって幸せなのにね。好きになればなるほど、どんどん欲深くなる。
最初なんて目が合っただけでうれしかった。あの目に自分が映ったというだけで、たまらなかった。私の名前を初めて呼んでくれたときに、あまりに挙動不審になってドン引きされた日が懐かしい。
いや、本当によく付き合うところまでたどりついたな?
五限目の開始を知らせる本鈴で我に返ると、走らないぎりぎりの速度で教室に戻った。
◇
「じゃあ、お母さん。いってきまーす」
「あら、今朝ははやいね。いってらっしゃい。気をつけてね」
いつもよりはやく家を出て、学校へと向かう足取りは軽い。
冬ほどぴりっとしていなくて、夏のむわっとした熱気がなくて、十月の朝は気持ちいい。冬服のブレザーに袖をとおしたのも、テンションが上がっている理由のひとつだ。
学校に着いたら、さりげなく隣のクラスに行って実弥の姿を目に焼きつけよう。今日もきっとシャツだけで、ブレザーは着ていないはず。ブレザー実弥は、空気がキンキンに冷える年末から二月までしか見られないSSRだ。
卒業までに一度でいいから手つなぎ登校できるかなあ。懲りない私は、そんなことを思っていた。
ダッダッダッダッ。
学校到着まであと数分の、最後の一本道。背後から聞こえる激しい足音。
振りかえると、まさかの実弥。しかもSSRバージョン。
「あれ、どうしたの?おはよう」
「……ハッ。おはようじゃねえよ。なんで今日に限ってこんなに早えんだよ、お前ェはよォ」
なにがなにやら分からない。どれくらい走ってきたのか、実弥の呼吸がかなり荒い。
「なんでって、なんで?」
いいから来い、と腕をつかまれて細い路地にひっぱり込まれる。みんなが使う一本道から離れ、遠回りになってしまう人気のない道だ。
突然立ち止まった実弥の手が、つかんでいた腕から移動して、無防備にだらんと脱力していた私の手をぎゅっと握った。
「なっ!」
路地にひびく、自分のすっとんきょうな声。
「うるっせェ。静かにしろ」
そして、私の手もろとも自分のブレザーのポケットにねじ込んだ。
黙ったまま見上げると、目が合う前に顔をそむけられてしまった。でも、そんな態度とは裏腹に、ごつごつとした指がせまいポケットの中で絡み、大きな手がしっかり包んでくれている。
「ええ……どうしよう、夢みたい」
「声がでけェ」
「だって、ほんとに夢みたい……。うれしい、ありがとう」
「そこの角までだからなァ」
そこの角までは、どんなに多く見積もっても五分。ぎゅっと握り合った手を引かれて、学校へと歩きはじめる。
実弥の横顔は、彼女と手をつないでいるとは思えないほど強張って怖い。そして、耳も首も赤く染まって少し汗をかいているように見えた。
びっくりしちゃったな。
一度「やらない」と決めて、そう宣言したことを覆すのが、実弥にとってどんなに異例のことか。めったに着ないブレザーを、どんな気持ちで着てきてくれたんだろう。全然そんな素振りも見せなかったのに、いつの間に腹をくくってくれたんだろう。
妄想の中の自分は、手をつないだ実弥にぺちゃくちゃ話しかけていたけれど、現実は胸がいっぱいで何も言葉にならなかった。
でも、今どうしても言わなければならない。
ありがとうよりもっと伝えたいこと。
「実弥」
高い位置から、視線がちらりと私に落ちてくる。目じりだけ長いまつ毛が、鋭い目元をかわいらしくしているといつも思う。
「本当にありがとう」
「……」
「わたしは、実弥が、大好きです」
こんなに短い言葉を絞りだすように伝えると、大きな目のまん中にある黒目が揺れる。
「――そうかィ」
ぽつりとそれだけ言った口の端がかすかに上がったように見えた。
その目にあからさまな甘さを灯したりしない。まるで少女漫画から抜け出てきたような言葉を返してくれたりもしない。
でも、それでいい。それが、いい。
そんな実弥だから、私は好きになった。
「また手をつないで登校しようね」
「調子のんな」
「冗談だよ」
「気が向いたらなァ」
「……ありがとう」
どちらからともなく手を強く握りなおす。
この時間が少しでも長くつづくように、と願う私の靴音に、いつも風のように颯爽と歩く人のゆっくりとした靴音が重なった。
私の夢。それは壮大なものではなく、とてもささやかな夢。けれども、一人では叶えられない。絶対に。勝率は二割あるかないか問ったところ。相当きびしい。
昼休みもあと三分となり、人があまり来ない廊下の端っこで意を決して口をひらいた。
「ね、お願い」
「またその話か。んな、こっぱずかしいことできるわけねえだろォ」
「一回だけでいいから。お願い。思い出にしたいの」
「しつけェ」
取りつく島もない。
必要不可欠かつ唯一のキーパーソンはぷいっと顔をそむけると、ふり返ることなく歩いていってしまった。
このやり取りだけを切り取れば、いかがわしいお願いをしているようだがまったく違う。彼氏である実弥に「手つなぎ登校がしたい」とお願いしているだけなのだから。
しかし、断られるのは今日で三回目。
友だちからは「彼氏、怖くない?」と聞かれるのは日常茶飯事だけど、この容赦ない反応が大好きだったりする。容赦がないというのは、うそがないということ。実弥から出てくるものは、言葉でも態度でも裏表のない本物。誤解を受けやすく、見ていてハラハラすることがあっても、そんなところが大好きなのだ。
ひとり残された廊下に立ち、脳内で思い描く。
――空気も太陽の光もさわやかな朝。わいわいがやがやと生徒たちが登校する通学路。
そこに、あの不死川実弥が彼女と手をつないで登校する姿があったならどうなるかな。きっとみんな二度見では足りなくて三度見はするだろう。もちろん真正面から直視をする強者はいないと思うけど。大注目されるのは確実で、硬派な実弥にはとてもハードルが高いのは分かるのだ。
でもね。
一緒にあれがしたいこれがしたいと願いを持つのは自分ばかりで、この人は私のことが好きなのだろうかと不安になる日もある。
付き合えたこと自体が奇跡、しかもその奇跡が三か月もつづいているのだから、それだけだって幸せなのにね。好きになればなるほど、どんどん欲深くなる。
最初なんて目が合っただけでうれしかった。あの目に自分が映ったというだけで、たまらなかった。私の名前を初めて呼んでくれたときに、あまりに挙動不審になってドン引きされた日が懐かしい。
いや、本当によく付き合うところまでたどりついたな?
五限目の開始を知らせる本鈴で我に返ると、走らないぎりぎりの速度で教室に戻った。
◇
「じゃあ、お母さん。いってきまーす」
「あら、今朝ははやいね。いってらっしゃい。気をつけてね」
いつもよりはやく家を出て、学校へと向かう足取りは軽い。
冬ほどぴりっとしていなくて、夏のむわっとした熱気がなくて、十月の朝は気持ちいい。冬服のブレザーに袖をとおしたのも、テンションが上がっている理由のひとつだ。
学校に着いたら、さりげなく隣のクラスに行って実弥の姿を目に焼きつけよう。今日もきっとシャツだけで、ブレザーは着ていないはず。ブレザー実弥は、空気がキンキンに冷える年末から二月までしか見られないSSRだ。
卒業までに一度でいいから手つなぎ登校できるかなあ。懲りない私は、そんなことを思っていた。
ダッダッダッダッ。
学校到着まであと数分の、最後の一本道。背後から聞こえる激しい足音。
振りかえると、まさかの実弥。しかもSSRバージョン。
「あれ、どうしたの?おはよう」
「……ハッ。おはようじゃねえよ。なんで今日に限ってこんなに早えんだよ、お前ェはよォ」
なにがなにやら分からない。どれくらい走ってきたのか、実弥の呼吸がかなり荒い。
「なんでって、なんで?」
いいから来い、と腕をつかまれて細い路地にひっぱり込まれる。みんなが使う一本道から離れ、遠回りになってしまう人気のない道だ。
突然立ち止まった実弥の手が、つかんでいた腕から移動して、無防備にだらんと脱力していた私の手をぎゅっと握った。
「なっ!」
路地にひびく、自分のすっとんきょうな声。
「うるっせェ。静かにしろ」
そして、私の手もろとも自分のブレザーのポケットにねじ込んだ。
黙ったまま見上げると、目が合う前に顔をそむけられてしまった。でも、そんな態度とは裏腹に、ごつごつとした指がせまいポケットの中で絡み、大きな手がしっかり包んでくれている。
「ええ……どうしよう、夢みたい」
「声がでけェ」
「だって、ほんとに夢みたい……。うれしい、ありがとう」
「そこの角までだからなァ」
そこの角までは、どんなに多く見積もっても五分。ぎゅっと握り合った手を引かれて、学校へと歩きはじめる。
実弥の横顔は、彼女と手をつないでいるとは思えないほど強張って怖い。そして、耳も首も赤く染まって少し汗をかいているように見えた。
びっくりしちゃったな。
一度「やらない」と決めて、そう宣言したことを覆すのが、実弥にとってどんなに異例のことか。めったに着ないブレザーを、どんな気持ちで着てきてくれたんだろう。全然そんな素振りも見せなかったのに、いつの間に腹をくくってくれたんだろう。
妄想の中の自分は、手をつないだ実弥にぺちゃくちゃ話しかけていたけれど、現実は胸がいっぱいで何も言葉にならなかった。
でも、今どうしても言わなければならない。
ありがとうよりもっと伝えたいこと。
「実弥」
高い位置から、視線がちらりと私に落ちてくる。目じりだけ長いまつ毛が、鋭い目元をかわいらしくしているといつも思う。
「本当にありがとう」
「……」
「わたしは、実弥が、大好きです」
こんなに短い言葉を絞りだすように伝えると、大きな目のまん中にある黒目が揺れる。
「――そうかィ」
ぽつりとそれだけ言った口の端がかすかに上がったように見えた。
その目にあからさまな甘さを灯したりしない。まるで少女漫画から抜け出てきたような言葉を返してくれたりもしない。
でも、それでいい。それが、いい。
そんな実弥だから、私は好きになった。
「また手をつないで登校しようね」
「調子のんな」
「冗談だよ」
「気が向いたらなァ」
「……ありがとう」
どちらからともなく手を強く握りなおす。
この時間が少しでも長くつづくように、と願う私の靴音に、いつも風のように颯爽と歩く人のゆっくりとした靴音が重なった。
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