虹の彼方

 身体中が痛い。地面に這いつくばって、乱れた呼吸をととのえる。やっとの思いで終えた任務の代償は、いつもに増して大きかった。けれども、胸の隠しに入れた小さな一粒が鬼狩りとして生きる自分の矜持を貫く支えになっていた。 

      
「立てるか?」
 目の前に現れたのは、藍色の手甲をつけた大きな手。顔を上げると、赤紫色の目が覗うようにわたしを見ていた。
 逢いたいと願って、逢える方ではない。宇髄様が指揮を執る現場に配置されないかぎり、姿を見ることすらできない。お会いするのは二月ぶりだった。

 握った手のうち側の皮膚はとても硬かった。この手には遠く及ばないが、わたしの手のうち側の皮膚も何度も破れたおかげで、ぶ厚くて硬い。努力の跡と思えば誇らしいが、年若い女としては気恥ずかしかった。そんな複雑な気持ちを抱えたわたしの身体が、いとも簡単に引き上げられる。向かい合って立ってみれば、見上げるほど大きい筋骨隆々の体躯と、傷ひとつない美しい顔に改めて圧倒されてしまった。
「よくやった。ド派手に頑張ったじゃねえか」
 涼やかな目が三日月のように弧を描き、あたたかい手が労うようにわたしの頭の上をすべる。
「ありがとう、ございます」
 鬼を殲滅するという悲願の他に、命を賭して頑張る理由があるかと聞かれたならばこの瞬間だ。この瞬間が何度でも欲しくて今まで頑張ってきたし、これからだって頑張るだろう。宇髄様への気持ちをどうしても捨てられなくて、せめて隊士として誰よりも認められたい、という強い気持ちに突き動かされていた。

「あっ」
 夜通しつづいた戦闘のせいか、脱力したひざが折れる。右足首にも鋭い痛みがはしった。ぬかるみの中に逆戻り……と思った瞬間、逞しい腕に抱きとめられていた。
「大丈夫かよ」
 きっと石のように硬いのだろうと想像していた腕や胸は、予想外にやわらかく、包みこまれるように心地いい。
「大丈夫です。申し訳ございません」
 顔を伏せたまま、急いで身体を起こそうとしたが、足首の痛みで再びよろめく。さらに強く抱きとめられ、思わず顔を上げてしまった。
「……」
 しまった。見られてしまった。熱を持ち、きっと赤く染まっているこの顔を。三つの命を何より大事にしている人に、この気持ちを知られたくなかったのに。
 宇髄様の何か問いたげな視線に耐えかね、申し訳ございません、ともう一度言った。その声は、自分でも驚くほど小さかった。

「お、ド派手な虹だ。でっけえなぁ。手が届きそうだ」
 もやもやとした雰囲気を吹き飛ばすような、明るい声。赤く塗られた人差し指の先を見ると、雨上がりの空に虹が架かっていた。光と水滴で構成されているとは思えないほど、色鮮やかで大きい。
「きれいですね」
「雨に降られる前に急ぐか」
「こんなに晴れているのにですか?」
「虹はな、晴れと雨の合間に現れるんだ。朝虹は雨、夕虹は晴れってな」
「お詳しいですね……って、え」
「俺は元忍の宇髄天元様だぞ。空の機嫌だって、分かるんだよ。つかまっとけ。近くの藤の花の家に向かう」
 得意げに笑う宇髄様に横抱きにされ、耳もとで風を切る音を聞きながら、どこまでもずっと一緒にいられたらいいのに、と思う。
 頬を寄せて、背に腕をまわし、唇を寄せる――。そんなことが許される関係になれたなら、どれだけ幸せなのだろう。そう思いながら見つめていると、宇髄様が含み笑いをした。
「なんだよ、見惚れてんの」
「……いいえ」
 焦った末の見え透いたうそを咎めることなく、あっそォ、と笑った。


 目的地に到着する前に降りはじめた雨は、瞬く間に滝のようになっていった。わたしを雨粒から庇うためか、背を丸めた宇髄様との距離がより近づく。手の届かない人のやさしさが心からうれしいのに、手放しでよろこぶことなどできない。そのことが、とても苦しかった。

 こりゃあ無理だ、と顔を歪ませ、宇髄様は雑木林にぽつんと立つ薪小屋に入った。
「ああっ。派手に濡れたわ。大丈夫か」
 わたしを薪の上に座らせると、頭を振って水気を飛ばしている。水も滴るいい男、という言葉を体現しているような方だ。
「本当に申し訳ございません。あの、これを」
 濡れた頭や身体を拭きたい一心で、胸元からハンケチを取り出すと、きらきらと輝く粒が勢いよく飛び出して地面を転がった。
「あっ」
 慌てて地面に手をついて覆い隠したが、あとの祭り。宇髄様の目は、確実にそれを捕らえていた。
「お前、それ」
「すみません……。宇髄様の、鉢金の宝石です。はじめて任務でご一緒した日に、落ちていたのを拾って……お守りに……」
 そう。私は、一瞬で心を奪われた日に拾ったこの小さな宝石をよすがにしていた。恋しくなった日は、日の光を反射させて、自室の畳や蝶屋敷の布団に七色の虹を作りだし、どこかで鮮やかに煌めく人を想っていたのだ。

 隠してきた気持ちやお守りの存在を露呈させた衝撃で、へたり込んで動けない。
 宇髄様はゆっくりとしゃがむと、見透かすように、悟らせるように、目をのぞき込んできた。瞳の赤紫色は慈しみを湛えていて、底知れないほど深い。そして、震えてんのか、とつぶやいてわたしの頬を熱い親指でぬぐった。
「宇髄様。お願いです。この雨が止むまで……」
 たまらなくなって胸に頬を寄せると、濡れた隊服の布地の下からぬるい体温がじわりと伝わる。
「ああ。この時間、お前にくれてやる」 
 頭の上から降りそそぐ声が近づき、吐息が絡む。シャラシャラと宝石が揺れる音が耳をくすぐるたび、心も身体も蕩けていった。
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