マイヒーロー

「あの、私の確認ミスで、本当にすみません」
「それより説明しろ。現状どうなってる?」
 向き合って立ち、見下される形になった。いつも以上に圧がすごい。気圧されながらも自分が引き起こしたトラブルを夢中で説明をする私を、切れ長の大きな目が射るように見ていた。

「ん。そこまで理解できてんならいい。ちゃちゃっとド派手に解決してやるから、あとは心配すんな」
 宇髄さんが事もなげに言い切り、ニッと笑うと、チームに充満していた緊張が一気にほどけてメンバーにも笑顔が戻った。
 任せてもらえた仕事でミスをしたショックと申し訳なさに何度でも謝りたいけれど、じゃ、行くわ、と歩いていくうしろ姿に向かって頭を下げた。こんなときなのに、去り際に、ぽんっと肩に触れた手の感触をいつまでも追ってしまう自分が情けなかった。


 宇髄さんをひと言でいうなら、「別世界の人」だ。
 つくり物みたいにきれいな白い髪や赤い目、体格の並外れたよさも目を引くけれど、それだけではない。何にも媚びずに、誰に対しても変わらない。それなのに、相手がどんなタイプでも懐に入るのが抜群にうまい。マイナスの状況だって、明るくつき進んで、ひらりと簡単に乗り越えてしまう。
 そんな実績が認められた宇髄さんは、二十八歳にしてチームのリーダーになり、入社三年目の私はそのチームに入って半年が経つ。この半年で変わったこと。それは、尊敬があこがれに、あこがれが恋に変わったことだ。
 そう。私は恋をしている。
 でも、自分と宇髄さんのあいだには、透明なアクリル板が高くそびえていた。姿も見えるし、声も聞こえるし、笑いかけてももらえる。でも、これ以上、どうやって近づいたらいいのかがまったく分からない。
 だからせめて、部下として認められたくて、よろこぶ笑顔が見たくて、よくやったなって頭をなでてもらいたくて、そんな不純極まりない動機で必死に頑張ってきたのに、こんなミスをするなんて。泣きそうになったけれど、ぐっと堪えた。これは、いつだって絶対に暗い顔を見せない宇髄さんのまねだ。


     
 翌朝、二時間早く出社したフロアには人の姿はなく、心なしか空気が澄んでいるように感じた。
 少しでもリカバリーしたくてほとんど眠らないまま朝はやく出社したのに、起動したPCはこんな日にかぎってプログラムの更新がはじまってしまった。〇%、八%、十五%……なかなか終わらない更新にため息をついて、飲みものを買おうとリフレッシュルームに向かった。せっかくだし、宇髄さんがよく飲んでいる野菜ジュースを飲んで活力に変えようと決めた。
 しずかな空気を震わすように、ガタンッと音を立てて出てきたジュースを手にして、頬がゆるんだ。好きな人のお気に入りというだけで、全国津々浦々に流通しているこのジュースが特別なものに思えてしまう。いい年した大人だけど、恋する女はこんなことだってうれしい。

『ハックションッ」
 やる気満々で執務フロアに戻る途中、どこからかくしゃみが聞こえた。
 心臓がドクンと跳ねる。
 片想いをして半年。好きな人が発する音なら、大抵のものはおぼえている。まちがいない。絶対に宇髄さんだ。少し離れたフリースペースに目をやると、半個室のパーテーション上部の磨りガラスに白っぽい影が見えた。
 自然と小走りになって近づき、パーテーションの影からこっそりのぞくと、ひとつに結んだ白銀の髪と、シャツを腕まくりした太い腕。そして、大きな背中が見えた。
「うわっ、びっくりした」
 よっぽど集中していたのかすぐ横に立つまで気がつかず、身体をビクッとさせて大声を出した。
「おはようございます……」
「はよ」
 イヤホンを外してこちらに身体を向けながら、小さく笑う。
「こんなに朝はやく出社されるなんて、絶対に私のせい、ですよね」 
「まあ、押せ押せになってるのは確かだけどな。こんなん、どうってことねえよ。これからもお前の思うようにド派手にやれ。俺がついてるから」
「ありがとうございます……。宇髄さんは、本当にすごいです」
「そんなご大層なもんじゃねえよ。泥くさくやってるだけだわ」
 見てみろ、というように大きな手を広げて指し示したテーブルの上には、ノートPCの他に、書類がいくつも広げられていた。そして、電卓の隣には、飲み終えた野菜ジュースのパックがひとつと、飲みかけのパックがひとつ。
「本当はお前が出社するまでに片付けて、かっこつけたかったけどォ」
 眉を上げておどけたように笑う顔がまっすぐ自分を見て、頭頂部がまるっと覆われそうなほど大きな手が頭をなでる。
「……もうすでに、かっこいいです。誰よりも」
「は」
「ずっと、そう思って――」
 こんなことを言う場面じゃないとか、気まずくなるから今すぐ取りつくろわなきゃとか、いくつもの考えが頭をかすめるのに、言葉が口をついて出る。
 顔が燃えるように熱をもつ。のどが狭まってうまくしゃべれない。今、その顔にどんな色が浮かんでいるのかわからなくて怖い。

 ギッ、というイスの音がしたかと思うと、次の瞬間には、腰にまわされた腕の中にいた。
「お前に余裕できてからと思ったけど、もう無理」
「えっ」
「わかんねえの?」
「……」
「いや、わかれよ」
 混乱する頭。楽しげに細められる赤紫色の瞳から目が離せない。何か言わなきゃと思って開きかけた口に、やわらかく湿った感触と、ほんのり甘い野菜ジュースの味。
 ひらり。
 朝の誰もいないオフィス。別世界にいたはずの人が、アクリル板を軽々と乗りこえて私の元にきたのが分かった。

「大丈夫か?……って、俺のせいか」
 脳も心も追いつかずに固まる私を見て、いたずらっぽく笑っている。
「これが片づいたら、二人でド派手に打ち上げしような」
「……はい」
「そんで、このつづきしような」
「え」
 クックッと幸せそうに笑う人の、あたたかい腕の中。これからは、姿が見えて、声が聞こえて、笑いかけてもらえるだけじゃない。こうして触れ合うことができるんだ。
「どした?」
 鼻先が触れそうな距離で尋ねられ、心臓がいくつあっても足りないかもしれない、と本気で心配になるのだった。
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