破戎
今、俺の腕の中に入っているのは、ずっと欲しくてしょうがなかったものだ。
あたたかくて、やわらかくて、いい匂いがして、やさしくて、到底手が届かないと思っていたもの。『もの』なんて言ったら怒られるか。すぐ怒るからな。
そう、腕の中に入っているのは俺の大好きな『人』だ。
文化祭で浮かれきった校内にいる誰もが想像してないだろう。今、あの宇髄天元が好きな女を必死で抱き締めているなんて。しかも、その相手がひとまわりも上の美術教師だなんて。
事の発端は、文化祭最終日の今日。一緒にまわろう、と先生を誘ったことだった。
「先生、二人でまわろうよ。かき氷とか焼きそば食いに行こう。おごるし」
「何を言い出すかと思えば……。友達を誘いなさい」
「三時間、いや一時間だけでもいいから。俺、今年卒業だから最後なんだよ」
「だめ。教師と生徒が二人でまわるなんて、ありえない」
完膚なきまでの拒絶。先生が顔を横に振ると、やわらかそうな髪がふわふわ揺れた。
俺たちの間には見えない障壁が山のようにある。世間体とか、モラルとか、大人と子どもとか、そりゃあもう色々。俺という人間を見てほしいのに、それを邪魔する一切合切をふき飛ばすには一体どうすりゃいいんだろう。
この二年、見境なく色んなタイプの彼女をつくったりもしたけど、その理由はどうしようもなく地味だ。この不毛な片想いを忘れさせてくれる相手を探してただけ。悶々としてみじめな思いになるばっかりの恋愛から逃げたかっただけ。でも、結局はこの人を薄れさせることすらできなくて、こんなダサいアプローチをずっとつづけている。
「もう四時じゃない。文化祭終わっちゃうよ。今年最後なんでしょ」
「んなもんどうでもいい。俺、ここにいるわ」
先生がため息をついた。俺の誘いをよろこぶどころか、持て余しているのを隠そうともしない。
「何言ってんの。一生に一度の思い出だよ。楽しんでおいで」
「……」
楽しんでおいで、だって。ガキを諭すような言葉じゃねえか。
窓の外からは、ラストスパートをかける模擬店の呼び込みが聞こえる。先生を好きになるまで、カップルで文化祭をまわる奴らを見てもなんの感情も湧かなかったが、今はひたすらうらやましい。俺は好きな人と校外はおろか校内も自由に歩けやしないから。
「用事があるから行くね」
先生がまたため息をついて立ち上がった。そして、黙ったまま動かない俺を置いて、出口に向かって歩き出した。
「待って」
追いかけて、ドアの取っ手をつかむ腕を押さえた。そしたら、今まで我慢してたものがド派手に爆発しちゃって、うしろから抱えこむように抱き締めた。
「――ちょっと!」
「うん?」
「離して」
「やだ」
先生が腕の中から出ようともがいている。でも、その頑張っている上から押さえればなんてことない。むしろ身をよじってできたすき間に腕を這わせると、身体と身体が余計にくっついた。あったかくて、やわらかい身体の凹凸が、ぎりぎり残った理性を殺しにかかってくる。
「一緒にまわってくれなくていいからさ」
髪の間からはみ出ていた赤い耳に囁くと、先生の全身がびくっとなった。
「こっから出ないで俺といてよ」
腕の力を強めて、身体を押しつけるように抱き締める。くぐもった声が聞こえたけど、何を言ったのかはわざと聞き取らなかった。
「ねえ、やめて。宇髄くん。本当にだめ」
「先生は俺のこと嫌い? 完全にナシ?」
「そういう話じゃないの。本当に、やめて」
声ちっちゃ。いつも大きめの声でハキハキ喋る先生のこんな声ははじめてだ。
「こんなの誰かに見られたら、私も宇髄くんも今までどおりにいられなくなるのよ。わかるでしょ」
叱るには弱すぎる声とかぶって、ドアを一枚へだてた廊下から、最後まで楽しみ尽くそうと張りきる奴らの歓声や足音が聞こえる。
「そうだよな。そうすりゃ今までみたいに先生と生徒じゃいられなくなるよな」
「そう。そうだよ、だから」
腕の中の身体がどんどん熱を帯びて、上半身がふくらんだりしぼんだりする呼吸のペースがはやい。
「そしたらさ、ただの十七歳の男と二十九歳の女になるわけだ」
「ちょっと」
「いいな、それ」
「え」
今どんな顔してるんだろう。どうしても見たくて、腕をゆるめて先生を反転させた。胸元にある顔は、怒っているようにも泣きそうにも見える。赤く潤んだ目が俺をにらんでいる。
「高校最後の一生に一度の思い出なら、今からここでつくるから。先生と」
顔に張りついていた『教師』の仮面が割れて、俺たちの間にある障壁が消え失せたのがわかった。
唇が重なる寸前、どうしよう、と聞こえた気がしたけど、そのままふさいだ。
悪いな。ひどかろうが、間違っていようが、頭がおかしくなるくらいあんたが好きなんだ。
あたたかくて、やわらかくて、いい匂いがして、やさしくて、到底手が届かないと思っていたもの。『もの』なんて言ったら怒られるか。すぐ怒るからな。
そう、腕の中に入っているのは俺の大好きな『人』だ。
文化祭で浮かれきった校内にいる誰もが想像してないだろう。今、あの宇髄天元が好きな女を必死で抱き締めているなんて。しかも、その相手がひとまわりも上の美術教師だなんて。
事の発端は、文化祭最終日の今日。一緒にまわろう、と先生を誘ったことだった。
「先生、二人でまわろうよ。かき氷とか焼きそば食いに行こう。おごるし」
「何を言い出すかと思えば……。友達を誘いなさい」
「三時間、いや一時間だけでもいいから。俺、今年卒業だから最後なんだよ」
「だめ。教師と生徒が二人でまわるなんて、ありえない」
完膚なきまでの拒絶。先生が顔を横に振ると、やわらかそうな髪がふわふわ揺れた。
俺たちの間には見えない障壁が山のようにある。世間体とか、モラルとか、大人と子どもとか、そりゃあもう色々。俺という人間を見てほしいのに、それを邪魔する一切合切をふき飛ばすには一体どうすりゃいいんだろう。
この二年、見境なく色んなタイプの彼女をつくったりもしたけど、その理由はどうしようもなく地味だ。この不毛な片想いを忘れさせてくれる相手を探してただけ。悶々としてみじめな思いになるばっかりの恋愛から逃げたかっただけ。でも、結局はこの人を薄れさせることすらできなくて、こんなダサいアプローチをずっとつづけている。
「もう四時じゃない。文化祭終わっちゃうよ。今年最後なんでしょ」
「んなもんどうでもいい。俺、ここにいるわ」
先生がため息をついた。俺の誘いをよろこぶどころか、持て余しているのを隠そうともしない。
「何言ってんの。一生に一度の思い出だよ。楽しんでおいで」
「……」
楽しんでおいで、だって。ガキを諭すような言葉じゃねえか。
窓の外からは、ラストスパートをかける模擬店の呼び込みが聞こえる。先生を好きになるまで、カップルで文化祭をまわる奴らを見てもなんの感情も湧かなかったが、今はひたすらうらやましい。俺は好きな人と校外はおろか校内も自由に歩けやしないから。
「用事があるから行くね」
先生がまたため息をついて立ち上がった。そして、黙ったまま動かない俺を置いて、出口に向かって歩き出した。
「待って」
追いかけて、ドアの取っ手をつかむ腕を押さえた。そしたら、今まで我慢してたものがド派手に爆発しちゃって、うしろから抱えこむように抱き締めた。
「――ちょっと!」
「うん?」
「離して」
「やだ」
先生が腕の中から出ようともがいている。でも、その頑張っている上から押さえればなんてことない。むしろ身をよじってできたすき間に腕を這わせると、身体と身体が余計にくっついた。あったかくて、やわらかい身体の凹凸が、ぎりぎり残った理性を殺しにかかってくる。
「一緒にまわってくれなくていいからさ」
髪の間からはみ出ていた赤い耳に囁くと、先生の全身がびくっとなった。
「こっから出ないで俺といてよ」
腕の力を強めて、身体を押しつけるように抱き締める。くぐもった声が聞こえたけど、何を言ったのかはわざと聞き取らなかった。
「ねえ、やめて。宇髄くん。本当にだめ」
「先生は俺のこと嫌い? 完全にナシ?」
「そういう話じゃないの。本当に、やめて」
声ちっちゃ。いつも大きめの声でハキハキ喋る先生のこんな声ははじめてだ。
「こんなの誰かに見られたら、私も宇髄くんも今までどおりにいられなくなるのよ。わかるでしょ」
叱るには弱すぎる声とかぶって、ドアを一枚へだてた廊下から、最後まで楽しみ尽くそうと張りきる奴らの歓声や足音が聞こえる。
「そうだよな。そうすりゃ今までみたいに先生と生徒じゃいられなくなるよな」
「そう。そうだよ、だから」
腕の中の身体がどんどん熱を帯びて、上半身がふくらんだりしぼんだりする呼吸のペースがはやい。
「そしたらさ、ただの十七歳の男と二十九歳の女になるわけだ」
「ちょっと」
「いいな、それ」
「え」
今どんな顔してるんだろう。どうしても見たくて、腕をゆるめて先生を反転させた。胸元にある顔は、怒っているようにも泣きそうにも見える。赤く潤んだ目が俺をにらんでいる。
「高校最後の一生に一度の思い出なら、今からここでつくるから。先生と」
顔に張りついていた『教師』の仮面が割れて、俺たちの間にある障壁が消え失せたのがわかった。
唇が重なる寸前、どうしよう、と聞こえた気がしたけど、そのままふさいだ。
悪いな。ひどかろうが、間違っていようが、頭がおかしくなるくらいあんたが好きなんだ。
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