ただ、そこにあるしあわせ
「大丈夫だ。俺が派手に保証する。じゃあな」
顔全体でニッコニコ笑う男は、グローブみたいな手をひらひら振って、くるりと振り返るやいなやほとんど走るくらいの速さで去っていった。
どんどん小さくなる楽しげな背中を見ながら、俺は飲み屋街の道端にぼーっと立っていた。
たった一年で自分の知らない人間になっていたあいつは、今頃もうICカードをタッチして、地下鉄に飛び乗っているだろうか。鼻歌なんかもフンフン歌っていたりして。
――おい、宇髄。保証してくれるんだな? 俺はお前を信じるぞ。
呪文のように唱えながら、駅に向かってのろのろと歩き出した。
♢
「あー、俺そういうのもういいわ。パス」
夜になってもむし暑い八月の金曜夜。
大学卒業後、一年ぶりに会った宇髄は相変わらず派手な男だった。この格好で美術教師として働いているなんて、誰が信じるだろうか。
鳥軟骨のからあげをつまみに、ハイボールのジョッキを次々に空にしながら発した宇髄のひと言に俺はかなり驚いた。
「なんでだよ、行こうぜ」
食い下がる俺を一瞥して、行かねえっつうの、とばっさり断る。人差し指と中指には乾いた赤と黄色のペンキがついていて、きっと今も絵の具を派手にぶちまけるような絵を描いているのかもしれない。
「美大んときに行ってたクラブ、こっから近いじゃん。お前の好きなケツのでかい女もいるかもよ? てか、絶対いるって。俺、今日そのつもりだったし」
「しつけえって。勝手に決めんな」
「あ、教師だから万が一見られたらまずいとか?」
「いや? それは全然関係ない」
「じゃあ、なんで」
それは全然関係ないのかよ、と思いつつ、からあげを口に放りこむ宇髄の顔をじっと見る。こいつと行けば九割くらいの確立でイイ思いができるので、今日の俺の下着は女ウケのいい黒のボクサーだ。
「なんでって、彼女いるから」
「は? カノジョ?」
「そ。彼女」
そう繰り返す口元が、ほんの少しゆるんだのを見逃さなかった。たった一年前までは、薄っぺらくて、バカバカしくて、どこまでも刹那的な楽しい時間を一緒に過ごしていたこの男の口元が。
「彼女って……、そんなキャラじゃねえじゃん。それに絶対バレないっしょ」
「バレるかどうかじゃなくって、興味ねえってこと」
知り合って七年になるが、こんなことを言う男ではなかった。少なくとも一年前までは。「女は金とブランド物に寄ってくるカブトムシ」なんてことを平気で言っちゃう男だった。
原因不明の怒りと、さみしさと、焦りによる原因究明。そして、この男をここまで変えたそのカノジョとやらに単純に興味が沸いた。
「どんな女なんだよ。モデルとか? それとも画家?」
宇髄が、にいっと笑う。
「全然ふつうの会社員。年上で、背も尻もちっこいし、目立つの嫌いで、地味。絵も描かねえ」
「ふーん……。年上ね。なんでも包みこんで色々教えてくれそうだし、いいよなあ。憧れるわ」
「いいや。お前が想像しているのと真逆だな。あいつに年上の余裕なんか全然ねえよ」
「え?」
今度は、口元だけじゃなくて顔全体がゆるんだ。
「本人頑張ってるけど、甘えるのも甘えさせるのも下手だし、素直じゃねえから、こっちが気づいてやらねえと考え込んじまったりして大変だわ」
言葉だけ聞けば愚痴にも聞こえそうなワードがならぶが、おだやかな声も顔も俺の知らないものだ。悪友の見てはいけない姿を見ているような気になってきた。
「じゃあ、どこが好きなんだよ」
――おい、宇髄。一石を投じた俺の質問で気づけ。悪いことはいわない。こっちに戻って来い。さっきから出てくる特徴のどれもが、お前を百八十度変えるような女に思えない。世の中は広いんだ。まだまだ俺とともにふらふら漂っていてくれよ。俺たちなら、あと十年……いや、十五年は派手に遊べるぞ。
「どこがって聞かれても、俺にも分かんねえよ」
「……やっぱり! 話聞いてて、どこが好きなんだろって思ってさあ」
俺は大袈裟にうなずいて、大きな声を出した。
目立つ俺たちのまわりにはいなかっためずらしいタイプに、海千山千で好奇心旺盛な宇髄の気まぐれが反応しただけだ、とやっと合点がいった。
「分かんねえんだけどさ、目が離せねえっつーか、何してもかわいく見えるんだよ」
「え」
「今までみたいに適当なことやって、こいつがいなくなったら、とか考えるだけでむりだし」
「へ」
やめろ、やめろ。ジョッキの氷をカラカラさせながら、キャラに合わない照れた顔を俺に見せるな。
「まあ、愛してるんだろうな」
きっぱりそう言うと、本当に幸せそうに笑った。つり目がちの目がとろけて細くなっちゃうほどに。出会ったころから飛び抜けて見た目のいい奴だが、同性の俺からしても今日の宇髄が一番いい男だ。
地に足が着いた元悪友を前にして、陸の孤島にとり残された俺は、自分の望んでいた果てしない自由な生活が、少し、いやかなり色褪せたように思えた。
十一時前に店を出て、仕込んでいた黒いボクサーパンツが用無しになった俺は宇髄と向かい合う。
「なあ」
「うん?」
「俺も宇髄みたいに誰かを好きになれっかな」
愛してるんだろうな宣言を聞いてからハイボールや日本酒をがぶがぶ飲んだせいで、もつれた舌でそんなこっぱずかしい質問をしてしまった。
宇髄は目をまるくしたあとに、ぶはっと吹き出した。
「大丈夫だ。俺が派手に保証する。じゃあな」
――おい、宇髄。保証してくれるんだな? 俺はお前を信じるぞ。
呪文のように唱えながら、駅に向かってのろのろと歩き出す。
ひとりで歩く自分の顔が、道行くかわいい女の子が怖がって避けるくらい笑っているのが分かる。
なんだかもうバカみたいに気分がよくって、宇髄の十八番の歌を口ずさむ俺の声がギラギラとした夜の町にひびく。いつか絶対、宇髄に言ってやるんだ。派手に保証してくれてありがとなって。
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