境界線

 ぎしっ――。
 踏み台代わりの椅子が、音を立てた。
 軒先に手をのばすが、届かない。あと少しの距離が足りない。こういう些細なことですら、男手がないことに不便さを感じてしまう。
 女がひとりで生きていくのは本当に大変なこと。だから、これで間違いないのだ。心に他の誰かがいても。


「お嬢、何してんだ」 
 藤の花の家紋の家に休息を求めにきたとは思えない、快活な声。耳から入った声が胸に到達し、ちりちりっと痛みがはしる。
「音柱様。てるてる坊主を吊そうと思ったのですよ」
「届かねえだろ。貸してみ」
 出発前で忙しいにも関わらず、私の手からてるてる坊主を取ってしまった。そして、台も使わず、背伸びもせず、軒先に手をのばして、この辺でいいか、と聞いてきた。
「見た目も口調もすっかり年頃の娘らしくなったと思ってたが、お嬢はまだてるてる坊主なんて作ってんのか」
 椅子の上に立っているおかげで、音柱様の口角をきれいに上げて笑うお顔や、てるてる坊主を糸で吊るす指先を近くでながめていた。普段なら見られない高さに立ち、その紅くうつくしい目から見える世界を一緒に体感するよろこびを感じながら。

「明日は、私のお見合いなのですよ」
「見合い?」
 よほど驚いたのか、『あ』の形に開いたお口がすぐ目の前にあった。この口に触れてみたい、触れられたいと思うのは、本能なのだろうか。
「はい。ぜひに、と仰って下さる方がおられまして。雨が降ると髪も足元も乱れますから、せめて晴れてくれないかな、と。初対面なので、少しでもきれいな状態で会いたいですし」
「はぁぁ……。お嬢が見合いする年になったか。はじめて会ったとき、十歳やそこらのお嬢がねえ。俺も年をとるわけだ」

 はじめて会ったとき、音柱様はまだ柱就任前だった。それからはいつだって「よォ、世話になるわ」という声と共に、この家にいらっしゃるのを心待ちにしていた。ただの子供だった私は、家族に叱られながらもまわりをちょろちょろとして、何度も構っていただいた。
 だから、時間はかからなかった。うつくしく楽しいお兄さんが初恋の人に変わり、その初恋の人には最愛の奥様が三人いらっしゃることを知って、胸を痛めるのにも。
「じゃあ、この家からも出てっちまうのか。寂しくなるわ」
「えぇ」
 本当に落胆したような顔をされるので、笑ってごまかした。さみしさも、落胆も、拾わないようにしないと、心が一気に飲み込まれてしまうから。
「お嬢の見合いがいいもんになるように、こいつには頑張ってもらわねえとな」
 再び軒先に手をのばして作業を再開すると、あっという間に二体のてるてる坊主が軒先でゆらゆら揺れる。
「よしっ。俺が願いをこめたし、明日は絶対ド派手に晴れるぞ。お嬢! 幸せになれよ」
 幸せとは、なんだろうか。
 昔から知る子供の幸せを純粋に心から願うような、おだやかであたたかい笑顔を見ながら考える。音柱様の中で、私は女という枠にも入っていないのだろう。至極当たり前のことなのに、思いつづけた年月の分だけ、それがたまらなく悲しかったし、どうにもならないのが悔しかった。

「天元様」
「は」
 下のお名前をはじめて呼んだ私の声も震えていたが、音柱様も面を食らっていた。
 うすく開いたやわらかな唇を、人差し指で端から端までなぞってから、おなじ指で自分の唇の上を滑らせた。私の一挙手一投足を、ガラス玉のような紅い瞳が凝視している。
「私、もう子供じゃないんです」
「――お嬢」
「必ず幸せになります。音柱様も、どうか末永くお幸せに。そして、ご武運を」

 ――ぎしっ。
 音を立てて椅子から降りると、世界が元に戻った気がした。まっすぐに目を見て、思い切り笑うと、一度も振り返ることなくその場を立ち去った。
 寂しさや悲しみが突き抜けたせいなのか、自分が音柱様を想う女だということを一瞬でも出せたよろこびなのか、笑顔の意味は自分でも分からない。
 ただ、私に向けられた心からの笑顔を胸に、幸せというものを零さず手にできるよう、なにがなんでも強く生きていこうと思うのだった。
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