指先の記憶

 朝のやわらかな光の中、家路につく。
 子供の泣き声、どこかの夫婦のつっけんどんな会話、行商のおばあさんたちのかん高い笑い声。人々が一日をはじめようと動きはじめるころ、その生活を脅かす鬼と人知れず闘った私たちは一日の終わりを迎える。
 生と死のはざまで、刀を振るう日を積み重ねて三年目。袴姿に編み上げブーツの少女たちがまぶしく見える日だってある。
 でも、こんな私をほんのひととき普通の少女に戻してくれる神様がいた。

***

「いやあ、今日も俺は神だったわ。なあ?」
「はい。とっても神様でした」
「だろォ? お前はなかなか見込みがある奴だ」
 頭のうしろで両手を組んで、ふふん、と満足そうに笑う。
 こんな顔もするんだ。まるでガキ大将みたいだ。私はその姿や表情を急いで自分の心に焼きつける。
 
 宇髄さんの担当する任務に配置されて、こんなふうに他愛もない話をするまでは、恐れ多くて近づけなかった。視線を合わせることすら怖かったし、近づいてくる気配がすれば避けていた。
 ひとたび戦闘がはじまれば、見開いた赤い目をするどく吊り上げ、その口元は不敵に笑う。そして、剣士と忍が織り交ざった独特の方法で鬼と闘う姿も、この大きな身体で音もなく敏捷な身のこなしで鬼の頸を落としていく姿も、自分とは次元がまったく違う人にしか思えなかった。
 だから、事後処理に奔走する隠に指示を出し終えた宇髄さんがやおら近づいてきたときは、きっと怒られるのだろうと身を固くした。
 しかし、予想に反して「よォ、おつかれさん。よくやった」と頭をぐしゃぐしゃとなでられながら、にこりと笑いかけられて心底驚いた。
「こら、宇髄様が褒めてやってんだぞ。返事は?」
 その日の朝焼けは宇髄さんの目みたいに赤と紫が溶け合った色をしていて、赤紫の世界でいたずらっぽく笑う顔はあまりにやわらかかった。その笑顔にひたすら見惚れてしまって、さらに笑われた。
 ――たったこれだけでも、警戒が解けた無防備な心が恋に落ちるのには十分だった。


「かくれんぼするぞ」
「またぁ?」
「うるせえ! かぁくれんぼするひと、この指とまれっ」
 子供たちが、往来で元気にはしゃいでいる。その中でも年かさに見える男の子が、ひとさし指を立てて仲間を呼び寄せていた。なつかしい。なんの不安もないただの子供だったころは、私もああやって遊んだものだ。 
「こどものころの宇髄さんって、あの男の子みたいな感じですか」
 私の脳内では、人一倍大きな身体をした幼い宇髄さんが、口を大きく開けて、ぴんと立てたひとさし指に友達をいっぱい集めている姿を描いていた。
 そのころから知り合っていたかったな、なんて秘かに思いながら。
「いや、そもそも遊んだ記憶がねえな」
「どういうことですか」
 予想もしていなかった答えに、脳内でつくり上げた幼い宇髄さんの姿が揺らめいて薄くなっていく。
「忍っていう生業に余暇なんてもんはねえからな。生まれてこの方、生きるか死ぬかの毎日よ」
「そ、うなんですか」
「さっきのやつも、やったことねえし」
「……」
 よォ、ガキ共、ド派手に遊べよ、と子供たちに話しかける威勢のいい声を聞きながら、返す言葉が見つからない。いつも明るく笑うこの人は、一体何を抱えて、乗りこえてきたのだろう。

「あのっ、あれは、人を集めるときにやるんです。こうしてひとさし指を立てて、その遊びに入りたい人は、歌が終わるまでに指をにぎるんですよ」
 ひとさし指を立てた手を宇髄さんに向け、かくれんぼする人この指とまれ、と歌った。
 こうすれば幼いころの宇髄さんにこどもらしい時間が戻るわけでもないのに、こどもの時分の記憶を塗りかえられるわけでもないのに、使命感に近いものを感じながら、必死だった。
「……へえ、それで?」
「この指とまれ、はーやくしないと切れちゃうぞ」
「うわっ」
 大きな手が私のひとさし指をにぎる。高い位置にある赤紫の目にからかいの色はなく、騒いで手を離すほうが恥ずかしい気がした。
「つづきは?」
「……電気のたーま、切ーれる」 
 上ずった声でつづけると、宇髄さんが手をぎゅうっとにぎりなおした。 
 指一本から身体中に広がるときめき。
 手のひらのあたたかさと、中指にはめられた金属のひやりとしたつめたさ。
 いつかこの体温を感じたいとずっと願っていた。そのぬくもりを知ることができたのも、いつも少し先を歩く宇髄さんが、今日は歩幅を合わせて隣にいてくれるのもうれしかった。

「……ゆーび」
 これが最後の一小節。
 名残惜しいけれど、もうおしまい。またいつかこのあたたかさに触れられたらいいな。
 この恋はいつだって、大きな幸せの裏から、さびしさがすかさず顔を出す。 

「切った」
「切らない」
 
 重なる低い声。振り下ろした指は切ることができずに、にぎられたままだった。
「……えっ」
 焦りに駆られて、足を止め、手を何度もぶんぶんと振り下ろす。
「切ってやろうか」
 流れてくるいたずらな視線と、意味ありげに上がる口角に、たまらない気持ちになった。 
「いえ、もう少しこのまま……あの四つ辻まで」  
 宇髄さんはにっこり笑うと、分かれ道である四つ辻に向けて歩き出した。手をつないでいるみたいに、ひとさし指だけをにぎられた手を前後に揺らされながら、朝の町を歩く。残り五歩ほどの距離、いつまでも着かなければいいのに。 
 指一本では、もどかしい。
 でも、これ以上を与えられて欲深くなるばかりなら、きっと指一本がちょうどいい。

「じゃあ、お疲れさん」
「……宇髄さん」
「なんだよ」
「この歌、知ってたんじゃないですか」
「知識としてな。実際にやるのは、お前が最初で最後だ」
 四つ辻で向かい合うと、またな、とささやいて、大事なものを手放すみたいに私の指を解放した。そして、背を向けてそれぞれの家へと歩き出した。
 
 とびきり魅力的で厄介な神様ににぎられたひとさし指は、熱をもちどくんどくんと脈を打っていた。
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