前途洋洋

「聞いてくれてありがとう」
「別になんもしてねえけど。ケンタとまたなんかあったらいつでも聞くから」
 半分に切られたグレープフルーツを絞ると、艶々とした粒がはじけて柑橘系の匂いが立ち上る。しぼる労力に見合わない量の果汁をジョッキに流し入れて手渡せば、さっきまでしょげていた顔がすっかり笑顔になった。
「天元と話すと、ほんとに気持ちが楽になるよ。なんでも笑って受け入れてくれるし、なんでもわかってくれるし」
 枝豆を口に入れたユキの言葉に肯定も否定もせず笑いかける。
 的確、ね。器がデカくて、酸いも甘いも知リ尽くしたように見える俺がどんだけ地味かなんて、お前は知らないもんな。友だちなんていう不本意なポジションを最大限に利用してるんだよ。お前が好きなこと、嫌いなこと、思考の癖、スケジュール、ケンタとの付き合いの温度感。こっちは、素直に話してくるそれらを踏まえて行動してるんだ。

 俺の気持ちにも狙いにも気づかないユキは、リップが落ちるのも気にせずジョッキに口をつけた。そして、白い首をのけ反らせてうまそうに酒を飲んでいる。その首に唇を這わせられる日が必ず来る。いつか、きっと。
「あ、あれ頼もうかな」
「ジャスミンハイ?」
「なんでわかるの?」
「神だからな」
「神さまが選んだこのお店、派手においしいね」
「だろ? 飯も酒も派手にうまい」
 さっさと店員呼び出しのベルを押した俺に、酔って舌っ足らずになった口調で礼を言う。自分で気づいてんのかね。へらへら笑うその口から、俺の口癖が出たこと。こんなことがうれしくて、次から次に生まれる笑いをかみ殺した。
「天元のさあ」
 ゆっくりした口調に合わせるみたいに、ジョッキの中のマドラーをゆっくり回している。赤らんだ顔はやけに生々しくて、のどがゴクッと鳴った。
「彼女になる子はしあわせだね」
 とろけるような上目づかいでほほ笑まれ、口に入れようとしていたまぐろの刺身がしょうゆが箸からダイブして、真っ白なパーカーに茶色が飛び散った。
「大丈夫? 落ちないんじゃない、それ」
「……別に、問題ない」
 そのしあわせな立場にお前は目もくれなかったじゃん。どんな気持ちでそんなこと言うんだよ。そうは思いつつも、あいまいに笑ってごまかした。

「いつも本当にありがとね」
「ああ。じゃあ、また学校で」
 終電より何本も前の電車が、ユキを乗せて走っていく。
 男と付き合うのがはじめてでよくわからず、言いたいことが言えないとかいろいろ悩みがあるらしい。だから、いち早く気がついて話を聞いた。その悩みの原因のほとんどは、ケンタを好きだからこそ生じるものだ。でも、そんなこと絶対に教えてやらない。核心には触れずに話を聞いて、最後にはすっきりした笑顔で「みんなのアニキみたいな、最高の友だちがいてうれしい」とか残酷な言葉を吐かれて終わる。
 離れられない。叶えられない。でも、ぶち壊すつもりもない。機会を見誤らないようにしてんのか、万が一を考えて恐れているだけなのか自分でもわからなくなる。不健全で不毛なこの気持ち、最後はどこに行きつくんだか。
 
 忘れられるかもという期待ではじめただけの無味無臭の恋をいくつか終えた俺に、千載一遇のチャンスが訪れた。二人をそれぞれ単体で見かけることが増えて、ユキの顔はどう見ても暗い。絶対にそうだ。二人はうまくいってない。
「ユキ」
「……天元」
「まぁた、なんかあったろ」
 つむじのあたりに手を置くと、その頭が小さく上下に動いた。残り一コマだった授業を終えた後、連れ立って居酒屋に向かった。

 キウイサワーを一気に半分以上飲んでから、ユキはぽつぽつと語りはじめた。
 男女問わず仲のいい奴が多いケンタは、女とも距離が近い。ずっと見て見ぬふりをしてきたが、ケンタが女から告られたのを知って、ついに爆発したのだという。一度ぶちまけたら止められなかったんだよね、と感情をおさえたせいで圧が増した声で言った。
「そんなん俺だって嫌だわ」
 ぎくしゃくした経緯をひととおり聞き終えた俺の言葉にユキの目に光が宿る。
「ほんとに? 天元も嫉妬なんてするんだ」
「するわ。まあ、もっとうまく立ち回るけどな」
「さすが」
 こういうのは得意だ。肯定してさんざん励ました後で、少し不安を煽るようなことを親切ごかして言い含めるんだ。そうすれば、不安に揺れ動く心を労せずしてこっちに引き寄せられる。癒しや肯定の快感を欲して、俺から離れられなくなればいい。

「どうしよう」
 十本のほそい指が顔のすべてを覆う。
「なんであんなこと言っちゃったんだろう。既読のまま返事もこないし、もう許してくれないかも」
 俺に話しているのか、ひとり言なのか。うわずった声がふるえる。
 これで終わる? もう許してもらえない?
 そっか、そっか。そんなに終わりの気配が濃厚なわけね。ずっとこの日が来るのを待ってたわ。
「ユキ」
 顔からはがした指を、包むようににぎる。ずっと、この手に触れたかった。つなぐことはおろか触れるのもはじめての手は、涙で湿っている。
 ずっと思ってたよ。好きだ、というひと言を先に言えていたのが俺だったらどうなってたのかって。こんなに近くでずっと見てきたんだ。もう後悔したくない。
「なあ、ユキ。俺――」
「終わっちゃうの嫌だな、ケンタのこと……すごい好きなのに」
「俺じゃだめか」と言おうとしたのか「俺んとこ来れば」と言おうとしたのか、一気にふっ飛んでわからなくなった。
 マスカラの黒い繊維がまじった涙がぼたぼた落ちるたび、思い知る。ユキがどれだけあいつを好きなのか。なだめすかしてやさしくするばかりの俺が何をしようと、心なんて奪えないってことも。

 尻ポケットから取り出した携帯をいじると、なにしてるの、とユキが不安げな声を出す。
「あ、ケンタ? お前、今どこいんの」
 つないだ手に力をこめて、絡めた指に熱をこめて、ケンタの言葉や声音から気持ちを探る。 
「今すぐ駅まで来い。……知ってる、聞いた。うん、いいから来い。ユキが待ってる」
「……」
「すぐ来るってよ。いくぞ」

 駅へと向かう道の途中で歩行者用信号の青が点滅して、俺の足を止める。緊張でいっぱいの顔をうつむき加減にしているユキも同じように止まる。車の影も形もないが、おとなしく待つことにした。
「ユキ」
 懇願するような視線に射抜かれる。
 携帯を通して聞いた声の調子からして、ケンタもユキを想っているのがわかった。駅まで送って二人を会わせれば、こいつらは元に戻れる。これらを今すぐ伝えてやろう。いつもの調子で明るく自信満々に。これは、今俺にしかできないことだ。
 誰にとってもそれが一番いいことだと重々わかっているのに、
「信号が変わるまででいいから、こうしてて。頼む」
 思いきり抱き寄せて、やわらかい髪に鼻をうずめていた。腕の中にある身体は、硬直したまま抱きしめ返してくることはない。だから、さらに抱きしめた。
 自分でもド派手な大ばか者だと思う。今さらこんな中途半端なことをして、一体何になる。メリットなんかひとつもない。積み上げてきた信頼も、頼りになる二人の友だちとして積み重ねてきた時間もまがい物に変えるだけだ。
 でも――。恋が泡みたいに消えようとしている今、ひとつだけ叶うなら、ずっと押しこめていた俺の気持ちを知ってほしかった。最後だけでも俺の恋に日の目を見せてやりたいという衝動に突き動かされた。
 逃げ道を探すようにユキが身をよじる。よろこびの色など微塵もない、ごめんね、という小声にうながされるように解放した。
「……もう、ここで大丈夫。いっぱい助けてくれてありがとう。あと、私、ごめん。気づけてなくて」
「いや、こっちこそごめん。じゃあ、気をつけてな。お前らは絶対大丈夫だから、安心して行ってこい」
 ふたたび青が点滅しはじめた信号に急かされ、ユキは走っていった。好きな奴が待つ場所へと。
 ちゃんとした言葉にもできない最悪な形だったが、俺の気持ちはちゃんと伝わったらしい。夜の空気にまぎれて消えた最後の抵抗は、こんな粗末な終わりをむかえた。そのことに、虚無とよくわからない高揚を感じていた。
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