前途洋洋
――ベキッ。
入学早々におこなわれた鉛筆デッサンの授業がはじまる直前、席に座ろうとした俺の左足の下で音がした。足を上げると、2Bのえんぴつが無惨な姿になっていた。
「あっ」
「えっ、あ」
悪い、と謝る俺に、いっぱい持ってきたので、と輪ゴムでまとめたえんぴつの束を見せて目の前の女は笑った。
これがユキとの出会いだった。
この日以降、授業はもちろんカフェテリアで顔を合わせたり、駅のホームで出くわすこともあった。会う回数が増えると好感度が増すっていう法則はなんて名前だったっけか。それが見事にはたらいて、会釈だけだったのが手を振るようになり、立ち話に変わり、待ち合わせて昼飯を食うようになり、授業後は一緒に過ごすようになった。
「ああ、いたいた。おつかれ。てか、お前まじで顔疲れすぎ」
「だって、課題の量多すぎない? バイトもあるしさあ」
「行くか」
「いいね、最高」
大学近くの町中華に直行して、二人掛けのテーブルで向かい合う。テーブルも床も油っぽくて、お世辞にもきれいとはいえない店だ。でも、俺たちはここのラーメンと餃子にドはまりしていた。
お待ちどおさま、の声と共にラーメンと餃子がテーブルに置かれた。ユキはおしぼりの入ったビニールをぎゅっとにぎって破裂させると、おいしそうだねえ、と笑う。
目の下にはクマ。ノーメイクの顔。絵の具で汚れるのを良しとした黒いパーカー。黒いゴムでひとつに束ねた髪。まさに、地味。まじで、地味。いつだって、地味。頭の先から爪の先まで気を配っていて、完璧主義に近い俺とは大違いだ。だからなのか、こういう店も一緒に楽しめるし、なんか知らないけど隣にいると気が抜けて心がほぐれる気がして、ユキと過ごす時間は増える一方だった。
「食べよっか」
顔をくしゃくしゃにして笑う顔が近づいて、何も返せなかった。ユキは返事がないことを気にする様子もなく、ずるずると音を立ててラーメンをすすっている。
割りばしを割りながら、突如としてあふれる感情にとまどう。心臓がうるさくて、のどごしがいいはずのラーメンがつかえて、水ばっかりがぶがぶ飲んだ。なんか話しかけられても生返事しかできないまま、これはまじのまじでやばいかも、と心の中でつぶやいた。
だって、もしかしたら……いや、どう考えても俺はこいつのことが好きっぽい。
今の今までまったく気づいていなかった。なんでいつでもユキの姿を探していたのか。少しの時間でも会いたかったのか。観測できる範囲で、誰よりも気を許されているのが自分であることが誇らしいのか。過去の恋愛と毛色が違いすぎて、こんな簡単なことに気づけなかった。
今までの恋愛は、まさに猛スピード。
はじめて顔を合わせた瞬間に惚れるか惚れられるかのイベントは終了していたし、付き合うまでもめちゃくちゃはやい。
目が合った瞬間に相手から目が離せなくなるような衝撃を受けたり、相手とくっつく前とくっついた後で世界の彩度が爆上がりしたみたいに変わったり、そんな刺激だらけのものが俺の知る恋愛だった。だから、何もないところから気持ちが芽生えるとか、ゆっくり知っていくことで好きになるとか、そんな世界線はつまらないとすら思っていたのに。
一気に燃え上がってきた今までとは比にならない。ゆっくり、じっくり、残さずまるごと好きになっていた。
***
気持ちを自覚してからも、俺は態度を変えなかった。だから、ユキも全然変わらない。
カップルが長くつづくには自然体でいられるかが重要らしいし、そんな姿を見せらせれている俺はかなり特別なのは間違いなくて、他の男の気配もない。焦る必要を感じなかった。
この先「なれ初め? そんなもん、気づいたらずっと一緒にいたんだよ」なんて誰かに語る日が来るんだと漠然と思っていた。
「おお、宇髄。ここにいたんだ」
俺はアイスコーヒー。ユキはアイスココア。カフェテリアでいつものように休憩している俺たちのところに、そんな声と共に誰かが近づいてきた。
「おつかれ、ケンタ」
黒髪短髪に、こざっぱりした白いTシャツを着たケンタだった。こいつは他学部の奴だが、一般教養の講義で顔見知りになった。飾り気がなくてふつうにいい奴で、それ以来なんとなく話すようになって、たまに一緒に授業をさぼったり、代返を頼んだり、頼まれたりすることもあった。
次回の講義でつかう資料を貸してやって、会話をいくつかする。
なんとなく隣を見ると、ストローをくわえたままうつむいて、肩を小さくすぼめているユキの姿が目に入って、妙な胸騒ぎがした。一緒にいるときに俺の知り合いが乱入してくることもあったし、呼びかけられることも多々あったけど、こんな姿は見たことがなかった。
ユキを背中のうしろに隠すように座りなおして、俺たちの世界に異質なものが去るのを待った。
だけど、ずっと俺の背に隠すことなんてできるわけなくて、これ以降ケンタが加わって三人になる場面が発生するようになった。
三人でいるのは単純に楽しかったが、俺の心中は混とんとしていた。ユキの様子もおかしい気がするし、なんならケンタが声をかけてくる回数がどんどん増えていく気がする。胸騒ぎを通りこして、イラつくようにもなっていた。
「……お前、何そのかっこ」
「え、変?」
「いや、変ってわけじゃねえけど。めずらしいから」
ちょっとでも動くと汗をかくようになった夏の日。どうせ絵の具で汚れるから、とラフで動きやすい格好がデフォルトのユキがいつもとちがった。白っぽいロング丈のワンピースとサンダル。すそからわずかに見える足首がやけに白い。
「変じゃないなら良かった」
「今日、バイト前に冷やし中華食いに行くか」
「ごめん、今日は用があって」
くちびるを内側に巻きこんで、口の端をやわらかく上げる。そして、俺に背を向けた急ぎ足のワンピースが夏風でふくらんだ。
こめかみと背中に汗がつたう。不快なつめたい汗。なんてわかりやすい奴。わかりやすすぎて、なんてかわいい奴。俺はこれだけで、ユキの心に誰かがいることを悟った。
冬になるころには、ユキは見違えるようにきれいになっていた。絵の具の汚れにそなえた服なんか着ないし、目だってきらきらしている。ノーメイクの顔だって最後に見たのはいつだったっけレベル。
それに、変わったのは見た目だけじゃない。俺といるときは変わらずだったが、ケンタがいる間はまるで知らない女になった。目が合うだけで顔を赤らめるわ、横顔を切なげに見つめるわ。だだ洩れ具合は日を追うごとにひどくなっていって、自然体で超マイペースのお前はどこ行ったんだ、と聞きたくなるほどだ。
一年生の後期も残り二週間ほどになったとき、ついにそのときがきた。
「そういえば、言ってなかったけど」
授業が終わって人がまばらになった講堂で、ケンタが口をひらいた。
こうして話すのはひさしぶりだ。二人から発する甘ったるい雰囲気に交ぜられるのが嫌で、うそじゃない理由をいくつも用意して距離をとっていたせいだ。俺には見せない顔を、見たことのない行動を、あたり前みたいにさせられるこいつに腹の底が焼きつくような嫉妬はいまだ健在だった。
「ああ、当ててやろうか。ユキとくっついたんだろ」
「ユキから聞いた?」
「いや、見てりゃわかるって。おめでと」
「すげえな。ありがと」
「あ、やべ。俺、急ぐんだった」
最後まで顔に出さず、祝うひと言まで添えられた自分を褒めてやりたい。リュックをさっさと肩にかけて、まだ話したそうなケンタにしっかり笑いかけてから講堂を出た。
そう、俺すごいんだよ。気づくにきまってんじゃん。それどころか、ユキに変化が起きたことも、その変化の理由も、誰よりはやく気づいたのはきっと俺だろう。
誰よりも近い距離も、一度しゃべりはじめたら止まらない話も、くだらない冗談も、気を許したふにゃふにゃの笑顔も。自分に向けられてうれしかったものの源は、俺が望んだものじゃなかった。俺たちは互いにもつ気持ちのカテゴリーがまったく違っていたんだ。
三人は、二人と一人になった。
入学早々におこなわれた鉛筆デッサンの授業がはじまる直前、席に座ろうとした俺の左足の下で音がした。足を上げると、2Bのえんぴつが無惨な姿になっていた。
「あっ」
「えっ、あ」
悪い、と謝る俺に、いっぱい持ってきたので、と輪ゴムでまとめたえんぴつの束を見せて目の前の女は笑った。
これがユキとの出会いだった。
この日以降、授業はもちろんカフェテリアで顔を合わせたり、駅のホームで出くわすこともあった。会う回数が増えると好感度が増すっていう法則はなんて名前だったっけか。それが見事にはたらいて、会釈だけだったのが手を振るようになり、立ち話に変わり、待ち合わせて昼飯を食うようになり、授業後は一緒に過ごすようになった。
「ああ、いたいた。おつかれ。てか、お前まじで顔疲れすぎ」
「だって、課題の量多すぎない? バイトもあるしさあ」
「行くか」
「いいね、最高」
大学近くの町中華に直行して、二人掛けのテーブルで向かい合う。テーブルも床も油っぽくて、お世辞にもきれいとはいえない店だ。でも、俺たちはここのラーメンと餃子にドはまりしていた。
お待ちどおさま、の声と共にラーメンと餃子がテーブルに置かれた。ユキはおしぼりの入ったビニールをぎゅっとにぎって破裂させると、おいしそうだねえ、と笑う。
目の下にはクマ。ノーメイクの顔。絵の具で汚れるのを良しとした黒いパーカー。黒いゴムでひとつに束ねた髪。まさに、地味。まじで、地味。いつだって、地味。頭の先から爪の先まで気を配っていて、完璧主義に近い俺とは大違いだ。だからなのか、こういう店も一緒に楽しめるし、なんか知らないけど隣にいると気が抜けて心がほぐれる気がして、ユキと過ごす時間は増える一方だった。
「食べよっか」
顔をくしゃくしゃにして笑う顔が近づいて、何も返せなかった。ユキは返事がないことを気にする様子もなく、ずるずると音を立ててラーメンをすすっている。
割りばしを割りながら、突如としてあふれる感情にとまどう。心臓がうるさくて、のどごしがいいはずのラーメンがつかえて、水ばっかりがぶがぶ飲んだ。なんか話しかけられても生返事しかできないまま、これはまじのまじでやばいかも、と心の中でつぶやいた。
だって、もしかしたら……いや、どう考えても俺はこいつのことが好きっぽい。
今の今までまったく気づいていなかった。なんでいつでもユキの姿を探していたのか。少しの時間でも会いたかったのか。観測できる範囲で、誰よりも気を許されているのが自分であることが誇らしいのか。過去の恋愛と毛色が違いすぎて、こんな簡単なことに気づけなかった。
今までの恋愛は、まさに猛スピード。
はじめて顔を合わせた瞬間に惚れるか惚れられるかのイベントは終了していたし、付き合うまでもめちゃくちゃはやい。
目が合った瞬間に相手から目が離せなくなるような衝撃を受けたり、相手とくっつく前とくっついた後で世界の彩度が爆上がりしたみたいに変わったり、そんな刺激だらけのものが俺の知る恋愛だった。だから、何もないところから気持ちが芽生えるとか、ゆっくり知っていくことで好きになるとか、そんな世界線はつまらないとすら思っていたのに。
一気に燃え上がってきた今までとは比にならない。ゆっくり、じっくり、残さずまるごと好きになっていた。
***
気持ちを自覚してからも、俺は態度を変えなかった。だから、ユキも全然変わらない。
カップルが長くつづくには自然体でいられるかが重要らしいし、そんな姿を見せらせれている俺はかなり特別なのは間違いなくて、他の男の気配もない。焦る必要を感じなかった。
この先「なれ初め? そんなもん、気づいたらずっと一緒にいたんだよ」なんて誰かに語る日が来るんだと漠然と思っていた。
「おお、宇髄。ここにいたんだ」
俺はアイスコーヒー。ユキはアイスココア。カフェテリアでいつものように休憩している俺たちのところに、そんな声と共に誰かが近づいてきた。
「おつかれ、ケンタ」
黒髪短髪に、こざっぱりした白いTシャツを着たケンタだった。こいつは他学部の奴だが、一般教養の講義で顔見知りになった。飾り気がなくてふつうにいい奴で、それ以来なんとなく話すようになって、たまに一緒に授業をさぼったり、代返を頼んだり、頼まれたりすることもあった。
次回の講義でつかう資料を貸してやって、会話をいくつかする。
なんとなく隣を見ると、ストローをくわえたままうつむいて、肩を小さくすぼめているユキの姿が目に入って、妙な胸騒ぎがした。一緒にいるときに俺の知り合いが乱入してくることもあったし、呼びかけられることも多々あったけど、こんな姿は見たことがなかった。
ユキを背中のうしろに隠すように座りなおして、俺たちの世界に異質なものが去るのを待った。
だけど、ずっと俺の背に隠すことなんてできるわけなくて、これ以降ケンタが加わって三人になる場面が発生するようになった。
三人でいるのは単純に楽しかったが、俺の心中は混とんとしていた。ユキの様子もおかしい気がするし、なんならケンタが声をかけてくる回数がどんどん増えていく気がする。胸騒ぎを通りこして、イラつくようにもなっていた。
「……お前、何そのかっこ」
「え、変?」
「いや、変ってわけじゃねえけど。めずらしいから」
ちょっとでも動くと汗をかくようになった夏の日。どうせ絵の具で汚れるから、とラフで動きやすい格好がデフォルトのユキがいつもとちがった。白っぽいロング丈のワンピースとサンダル。すそからわずかに見える足首がやけに白い。
「変じゃないなら良かった」
「今日、バイト前に冷やし中華食いに行くか」
「ごめん、今日は用があって」
くちびるを内側に巻きこんで、口の端をやわらかく上げる。そして、俺に背を向けた急ぎ足のワンピースが夏風でふくらんだ。
こめかみと背中に汗がつたう。不快なつめたい汗。なんてわかりやすい奴。わかりやすすぎて、なんてかわいい奴。俺はこれだけで、ユキの心に誰かがいることを悟った。
冬になるころには、ユキは見違えるようにきれいになっていた。絵の具の汚れにそなえた服なんか着ないし、目だってきらきらしている。ノーメイクの顔だって最後に見たのはいつだったっけレベル。
それに、変わったのは見た目だけじゃない。俺といるときは変わらずだったが、ケンタがいる間はまるで知らない女になった。目が合うだけで顔を赤らめるわ、横顔を切なげに見つめるわ。だだ洩れ具合は日を追うごとにひどくなっていって、自然体で超マイペースのお前はどこ行ったんだ、と聞きたくなるほどだ。
一年生の後期も残り二週間ほどになったとき、ついにそのときがきた。
「そういえば、言ってなかったけど」
授業が終わって人がまばらになった講堂で、ケンタが口をひらいた。
こうして話すのはひさしぶりだ。二人から発する甘ったるい雰囲気に交ぜられるのが嫌で、うそじゃない理由をいくつも用意して距離をとっていたせいだ。俺には見せない顔を、見たことのない行動を、あたり前みたいにさせられるこいつに腹の底が焼きつくような嫉妬はいまだ健在だった。
「ああ、当ててやろうか。ユキとくっついたんだろ」
「ユキから聞いた?」
「いや、見てりゃわかるって。おめでと」
「すげえな。ありがと」
「あ、やべ。俺、急ぐんだった」
最後まで顔に出さず、祝うひと言まで添えられた自分を褒めてやりたい。リュックをさっさと肩にかけて、まだ話したそうなケンタにしっかり笑いかけてから講堂を出た。
そう、俺すごいんだよ。気づくにきまってんじゃん。それどころか、ユキに変化が起きたことも、その変化の理由も、誰よりはやく気づいたのはきっと俺だろう。
誰よりも近い距離も、一度しゃべりはじめたら止まらない話も、くだらない冗談も、気を許したふにゃふにゃの笑顔も。自分に向けられてうれしかったものの源は、俺が望んだものじゃなかった。俺たちは互いにもつ気持ちのカテゴリーがまったく違っていたんだ。
三人は、二人と一人になった。